前田しおり

飯野美里

 

 

 

伊万里市波多津町馬蛤潟(話者:柴田チヅコ<昭和2> 原田奈生美<昭和12>)

 

 

 

私たちは、去る7月11日に伊万里市波多津町馬蛤潟に行ってきた。区長さんである渡辺義孝さん宅にお邪魔することになっていたが、お手紙の返信を頂けなかった。とりあえず伺ってみた。しかし留守であったため、今回はあきらめ、近くのお宅で地理や歴史等に詳しそうな方にしらみ潰しにきいて回ってみることにした。何軒かは留守のお宅があったが、お忙しそうなお宅や法事を行っているお宅があったりとなかなかお話を伺うことができなかった。また昔のことをよく知っているお年寄りの方がすでに多数亡くなっていることもあって、さらに大変であった。しかし、最終的には、今回偶然そこで出会った近所にお住まいの方々にお話しをきかせて頂いた。はじめに玄関をお掃除中の柴田チヅコさんに、次に原田奈生美さんにお話をきかせていただいた。はじめ、お掃除中であると言っていたが、地図を広げると、昔のことを思い出しながら、少しずつ話して下さった。

 

 

 

 

 

 

<馬蛤潟の成り立ち>

 

 

 お二人によると、波多津とは、波が多い津ということで名付けられた。馬蛤潟は元々海だったが、300年ほど前に埋めたてられて現在の集落になっていて、その際シオドメの神様を祭る、竜宮神社にお祈りをしたそうだ。また、馬蛤潟の地名の由来は、馬の蹄の形に似た蛤が以前はたくさんとれたことからそうつけられている。去年は300年祭が行われている。(ここは農業地区であるが、全部で28戸しかないため、人手不足を解消するために、漁業地区から8人の人手を要請した。漁業地区とは浦のこと)

 

 

 

 

<田植え>

 

 

ここの地区の田植えは今では、機械が主流である。その理由は兼業農家が多くなったせいや、農業就業年齢が上がっているせいかと言っていた。

かつては手で植えていた。この地区ではいわゆる一大イベントのようになっていて、地区の農戸(農家のこと)全体で集まって植えていた。紐の両端をピンと引っ張って、一列に並ぶ。そして、紐のしるしのついているところに沿って植えていく。だいたい一列に10人ほど並ぶ。(田んぼの大きさにもよるが) そうすることによって、まっすぐ苗を植えることができる。賄い(まかない)を作る人と田植えを実際にする人とに分かれていた。実際のところ、女が賄いを作っていたので、原田さんは賄いに駆り出されていたらしい。賄いは町内中の各家庭で競うように出していて、活気に満ちていたという。賄いは、朝ご飯、10時のおやつ、お昼ごはん、3時のおやつ、夕飯を出していた。その負担がとても多いので、田植えは3日で終わらすことにしていた。またそのため、浦区から漁師が田植えに協力に来ていた。田植えでは、昔牛が使われていた。田んぼにひかれている水は松浦川の支流からひかれている?また、戦後の農地解放により、小さい田が広くなったとも言っていた。

 

 

 

<農業>

 

 

昔は林業も少しやっていたそうだが、ほとんど生業とはいかない程度だったので、田植えに頼るところが大きかった。山の作業としては山の手入れをする程度であったそうだ。

米作りだけでなく、現在とは違い自給自足であって、お店で買ったりはしなかったため、野菜もつくっていた。おやつはどんなものだったのですか?と聞いたところ、今のような甘いものはなぁんもなかったとよとおっしゃっていた。原田さんによると、主食もおやつもさつまいもであったという。大きな地図ではよくわからなかったが、海は近くないので、漁業には全く関与していない地区であることがわかった。漁業に関しては、また違う地区である、浦などの地区にまかせて、魚介類等はそこまで買いに行っていたらしい。また、農戸のなかで、毎年の当番を決めて、ヒモン番をしていたらしい

ヒモン番とは、海と川の境目にあって川の水量を調節しているヒモンの様子を見にいく当番のことである。

 

 

 

 

<医療>

 

 

昔から怪我をしたときには、すぐに治療を施してもらえる場所があった。昔は病院とよんでいたが、今は医院と呼んでいる。歩いて行けるところにあるらしい。歩いて20分〜25分かかる。近道したいときは波多津小のグランドを突っ切って進むと早いといっていた。結構時間がかかるため不便にしていたのではないかと考えていたが、そんなことはなかったらしい。薬の買い置きのことについても聞いた。薬の買い置きは常に置いてあると言っていた。薬売りもこの前来た事があったらしい。富山から来ていた。富山!?遠いところからと反応したら、富山は薬売りの発祥の地やけんねぇと言っていた。そこから、あまり薬売りが来ないことをしった。あまり利用はしていないみたいだった。

 

 

 

 

<若者と餅つき>

 

 

昔は子供や若者が地区にたくさんいたので、餅つきを多くの家庭がしていた。餅つきは杵と石臼でおこなっていた。重い杵を長い時間振るっているのは、とても骨が折れる仕事であるため、若者や子供の少なくなった現在はほとんど行われていない。しかし、正月やお盆などの行事のあるときには遠くに住んでいる娘・息子夫婦とともに孫たちが帰ってくるので、そのときに杵と石臼を出して餅つきをすることがあるらしい。このとき、実際杵を振るうのは、若い人であって、お年寄りの方はあまり振るわない。しかし、現在すべての工程を杵と石臼で行うのは非常に重労働であるため、はじめに餅つき機である程度餅の形にしておいて、餅を杵と石臼で仕上げをするという。こうすることで、杵と石臼ならではの粘り気や味わい深さがでるということらしい。

 

 

 

<竜宮祭り(竜神祭り)(ひげいもまつり)

 

 

馬蛤潟以前海だった。柴田さんの話によると、200年ほど前に埋め立てられたそうだ。原田さんは去年300年祭があったとおっしゃった。その干拓工事には、千人ほどの百姓や土工が作業に参加した。その苦労に感謝し、旧正月の元旦に今でも毎年祭りが開かれている。地元の人からは「ひげいもまつり」と呼ばれている。ごくうさま(白飯)に里芋を乗せてその上からお酒をかけたものをお供えすることが由来だそうだ。また、「じゅうごさま」という人もいるが、それは聞き間違いから生まれたんじゃないかとおしゃっていた。

 

 

 

<祇園祭>

 

 

 以前は毎年七月十五日がお祭りでしたが、最近は村の外に勤めに行く人が増えたため日曜日にしようということで、今年は七月十二日に行われるということだった。ただし、十五日を過ぎてから行うのは神様に失礼だという理由で、十五日よりも前の日曜日にするのが決まりとなっているらしい。この日は田嶋神社から神輿が竜宮さまのところまで御くだりになり馬蛤潟堤塘で神事が行われる。神輿は、昔は人の手で運ばれ、周りにはアイスキャンディーなどの出店もあり、町外からも参拝客が訪れるほどのにぎわいを見せていたが、最近は人も少なくなり若者がいないため、神輿は車で運ばれていて出店はなく、参拝客も少数となり淋しくなっているそうだ。竜宮さまは海の神様だから主に漁業の街、浦の人が関与している。私たちが馬蛤潟を訪ねたのは祇園祭の前日だったため、田嶋神社を見に行くと神輿の準備をしている人が二人ほどいた。田嶋神社は今無人寺となっていた。

 

 

 

<田嶋神社>

 

 

田嶋神社の本殿は市内に現存する社殿建築物のうちで最も古く、伊万里市重要文化財に指定されている。建築史、地域史の研究において重要な建築物である。

 

<山の作業>

 

 

周りの山で作業することはあるのですかとお尋ねすると、山に入ることはもうほとんどなくなり荒れてしまっているが、趣味で山菜を採りに行く方もいらっしゃるそうだ。原田さんは行かないんですかと聞くと、わざわざ行かなくても道を歩いていると普通にあるし人から譲ってもらえるからね、とおっしゃった。ただし山の中にある墓に行くために盆道を作る作業はするらしい。昔は山の手入れもしていたが、台風で全滅した(おそらく何か手入れしていた物があったのだろう)。ほりこたつに使用するために炭焼も行われていた。

 

 

 

 

<結婚>

 

 

 馬蛤潟は二十八戸で成り立っているが、同じ名字がたくさんあった。特に柴田、井出が多かった。昔は二、三軒先の相手と結婚するのが普通で、馬蛤潟の中に親戚がいるのはあたりまえのようだった。原田さんは同じ町内の漁業の町から嫁いできたとおっしゃった。

 

 

 

 

<生活>

 

 

 今は稼ぎに行く人もいるが昔は自給自足で生活していた。今でもご近所付き合いが盛んで、馬蛤潟にある28戸のうち23戸が農戸であるため、大体の食材が自給自足でまかなえるらしい。馬蛤潟は農村であるため、魚は漁業の町()から譲ってもらっているとおっしゃっていた。浦の人とのつながりは強いようで、三日間ほどのイベントとして行われていた田植えの行事の際にも浦区からお手伝いに来てもらっていたらしい。

 

 

 

<戦争の影響>

 

 

 馬蛤潟には戦争中に一度だけ焼夷弾が落とされたことがある。原田さんはまだ小学校に通っていたころだったが、やぎの白さが目立つから見えないところに隠していた事が印象的で覚えているとおっしゃっていた。戦後の食糧難は、農村だったためにあまり影響はなかったが、人から食べ物を譲り受けにくくなったそうだ。おやつとかはなかったんですか、と聞くと常に芋がふかしてあって、主食でありおやつ代わりにもなっていたらしい。また、戦後の農地解放によって田んぼの大きさが広くなった。以前は農作業に馬を使っていたが、最近は機械を使うから人手はいらないけどお金がかかるねぇ、とおっしゃった。

 

 

 

 

<村の様子>

 

 

 道の様子は変わってない。しかし、最近は町外から嫁いでくる人が増えたため、馬蛤潟の伝統を残していくために月一回の寄合で若い人にお願いしたらしい。講師の方を呼んで公民館で歴史を教えてもらっていたが(波多津塾)、今では参加者が少なくなってしまった。

 

 

 

 

 

 

<学校>

 

 

 波多津中学校は黒川町の青嶺中学校と併合したため、なくなってしまったそうだ。小学生と一緒に田植えをするイベントもある。

 

 

 

 

 

<さまざまな地名の由来>

 

 

はたつ(波多津)・・・・・波が多い津だから

 

ひやあくばな(焼灰)・・・焼くと灰になることから

 

まつのもと(松本)・・・・昔松の木があったから

 

みたけ(獄岳)・・・・・・山から石(砂利)を採掘して山がはげてしまい、険しくなったから

 

 

 

 

<馬蛤潟の歴史>

 

 

馬蛤潟新田開拓者である土井公の墓は唐津にある。馬蛤潟は今伊万里市になっているが、昔は唐津藩だったため今でも伊万里市の行事にはあまり関与しないで、唐津の意識が強い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 感想

今回はじめに取材のアポがとれていなかったり、初めての作業であったこともあって、かなり緊張もしていたし、不安もあった。地図を片手にいろいろなお宅にお邪魔していったが、お忙しいようでなかなかちゃんとお話がきけなくて、取材の後半のほうには、もう半分ほど落胆していた。しかし、最後のお宅でさまざまなお話がうかがえて、ほっとした。また、全く違う環境で、このような機会がない限り触れ合うことがないであろう方々とお話ができるのは、とてもたのしいことだと感じた。もっと時間があればたくさんお話を伺いたいと思った。また、おもしろいお話を伺えそうなお年寄りの方々が多数亡くなっているのが、とても残念だと感じ、同時に、今までの尊い歴史や昔の生活のことについて後世に伝えることの大切さや難しさを痛感した。

このように今回は伊万里市波多津町馬蛤潟の調査をしたが、今度は、自分の地域の調査、もっとせばめて、自分の家のことについても調べ、文献として残したい、残すべきだと感じた。

 

渡辺さんと連絡がつかなかったので最初はどうなる事かと思ったが、馬蛤潟の方たちはみんな親切で急な訪問を歓迎してくれた。ただ、どなたかこのあたりの歴史や地名に詳しい方はいませんかと聞くと、多くの方が「お年寄りはみんなおらんごとなってしまったけんねぇ・・・」とおっしゃった。やはり世代が変わっていくと共に歴史や伝統も忘れられてしまうのかとおもうと残念だ。この調査の結果が馬蛤潟の伝統を守るのに少しでも役に立てばうれしいと思う。

馬蛤潟の方には本当にお世話になったので、いつまでも元気に過ごしてほしい気持ちでいっぱいだ。

 


戻る