牧島漁港佐賀県伊万里市瀬戸町

著者: 立井 孝則

調査員:立井 孝則(芸術工学部工業設計学科)インタビュアー

坂本 一生(医学部歯学科)書記

 

お話を伺った方(区長):満江 洋介

 

バスを降りて辺りを見回すと、平坦な土地に青々とした田が帯状に続き、過去に埋め立てによって作られたものだとわかった。

満江さんのお宅に向かう途中、長屋のような板作りの建物が見えたが、人の気配はせず、また湾口にも漁港らしい活気はなく、少し拍子抜けしてしまった。

実は調査員2人で食事を取ってから向かうつもりだったのだが、行く途中にそれらしきところが見当たらず、失礼ながら予定の時間を前倒ししてお話を伺った。

 

満江 洋介さんは1947年に瀬戸町で生まれ、当時の様子をよくご存知で、かつて伊万里市議会議員でいらしたこともある方である。

 

中へ通していただいてから早速、瀬戸町周辺の地図を開いて、記入の欠落している箇所がないかどうか見ていただいた。

調査前に一番気になっていた、瀬戸町北東部の全く記入されていない箇所は、黒川町という地域で、国による調査は平成23年度に控えており、まだ正確な字界や字名などは判明していないとのことだった。なお、新たに判明した地名は以下のとおりである。

 


地名調査に関しては以上である。続けて、地名の由来や地域の変遷などを中心に、満江さんから伺うことにした。

 

・牧島地区について

400年前から鍋島藩より移住がすすめられた。当初、牧島地区はかつて本土の一部と2つの島(西部の大島、北部の釘島)に分かれていたが、塩田を作るにあたって干拓が進められ、また昭和に入ってから稲作へ転換するための埋め立て(現在の本瀬戸近辺から西に向かって順次)により、現在の形になった。

地区の沿岸部は塩作りに適した地形(リアス式海岸)であったため、九州における塩の一大生産地であった。

ちなみに、満江さんの先祖は塩製造の技術を持った一族で、黒田藩(現在の福岡県)の本家から鍋島藩の要請により牧島地区へと渡った分家とのこと。

(移住に際して鍋島藩は塩作りの技術を持っていなかった。)

 

前述の2つの小島について、まず大島について述べる。

かつては鍋島藩の軍馬を育成する牧場があり、鍋島藩の殿様が兎狩りをしたり、また朝鮮出兵の際に水の補給をしたことが記録に残っている。

なお、島に2箇所城山(じょうやま)”という地名があるが、いづれについても由来は不明とのこと。

また、島が本土と地続きになった後のことになるが、高射砲跡の地名が二つあるが、このうち南西部にあるほうは、高射砲部隊の兵舎があったという。

また、北部の釘島については、かつては(伊万里湾)を管理する侍の居所であったと言う。

加えて釘島は鍋島藩ではなく、湾をはさんで西側の子城藩の領土だった。

地区名の由来は部落名がそのまま正式名称になったことによる。

 

・瀬戸町について

まず、地区の成り立ちについて、元は瀬戸町の東にある木須(きす)の一部として捉えられていたらしい。当時の資料にも、『瀬戸十三軒は木須の内』(ここでの瀬戸とは現在の本瀬戸かと思われる)という記述が見られる。

鍋島藩から移住が始まってからは、塩の製造のための集落ができた。今の本瀬戸、つまりかつての瀬戸町周辺では塩の製造に使われた塩釜が点在しており、現在でも3箇所でその痕跡が見られるという。

現在の瀬戸町の地形は、明治四十年に、本土と島に挟まれた海峡の干拓が完了したことにより形作られた。

 

・牧島漁港について

牧島漁港という名称は、昭和8〜昭和40頃までの約30年間、漁港として稼動していたことからつけられている。なお、現在は漁業は全く行われていない。昭和八年ごろ、畳瀬(たたみぜ)という場所を埋め立ててできた。

そして昭和十年になって、底引き網の技術を教わるために阿波藩(現在の徳島・香川県周辺)から複数の船団が瀬戸町へと移住し、漁港としての本格的な稼動が始まった。

なお、最盛期の人口は、畳瀬だけで500人以上(同時に陸上にいる人のみの数であるので、実際はこの2倍以上が陸上生活拠点としていたと考えられる。)で、そのうち8割以上が阿波藩出身であったという。

ちなみに、満江さんのお宅に向かう途中に見かけた住居らしきところは、当時漁師とその家族が陸上で過ごした船員長屋であるとのこと。

戦時中も国家指定の漁港として終戦まで稼動し、九州の食糧事情を担った。

しかし終戦後、漁港としての需要が減るにつれ人口が減少し、昭和三十五年に阿波からの移住者は姿を消した。さらに追い討ちをかけるように昭和四十八年、伊万里湾に北東から流れ込む海流を遮る箇所に、埋め立てによる工業団地ができたため、湾周辺の磯は深刻な水質汚染を被り、漁港としての機能は完全に停止した。

 

・風俗、文化について

まず、宗教および信仰の文化について述べる。

昭和に入るまで、つまり、牧島地区が塩作りにより栄えていた頃、中心として祀られていた氏神は、

福岡県志賀島の志賀海神社とご神体を同じくし、本瀬戸の志賀神社に祀られている。

そして昭和に入り、前述のように阿波藩から船団が移住してからは氏神も変わり、高知の金刀比羅(ことひら)宮由来の金刀比羅神社が畳瀬に造られた。

風俗文化についてであるが、明治以前(塩田時代)と昭和(漁港時代)で大きな違いが見られる。

まず、明治以前においては当時の風俗に関する資料が残されておらず、祭事や生活などについて細かく知ることができないと言う。

これは昭和二十二年〜二十三年に瀬戸町を襲った水害により、過去400年間のことを記した資料を紛失したことも大きな要因のひとつであるが、満江さんによれば、当時塩作りは最先端技術で重要な戦略物資であったため、技術の漏洩を防ぐためにあえて記録を残さなかった可能性もある、ということであった。

なお、瀬戸町での方言はいわゆる鍋島言葉であるが、これは隣接する唐津藩(当時唐津は天領 つまり天皇家の領地であった)への情報の漏洩を防ぐために伝えられたものであると考えられる。

瀬戸町が漁港として栄えた時代は、特に阿波藩からの文化がそのまま伝えられたと言う。

特に顕著な例として、盆には阿波踊りが踊られたことが挙げられる。

また、一部ワラビやゼンマイを食べる文化もあったというが、これも阿波の人たちから伝えられたとのこと。(飢饉を経験したことがなく、、山菜を採ったり保存食を作る必要がなかったため。)

 

・近代の文化について

戦前(昭和十年)には既に電気、水道が通っていた。

第二次世界大戦中も出征志願した例は極めて少なく、知っている限りでは靖国の母などはいないとのこと。他にも色々と戦争について伺ったのだが、どうやら大戦中もほとんど生活に影響はなかったということだった。

当時の風俗についても伺ってみた。

意外なことに、漁港があった時代においても地区には歓楽街などの類はなく、映画館があるのみであったという。なお、漁港らしく店舗の営業は深夜から朝方までが中心だったようで、そのため伊万里の中心部からわざわざ深夜の語らいのために瀬戸町まで来ていた者もいた。

また、地区には共同風呂も昭和三十二年頃まであった。

青年団(青年クラブ)が共同生活を営んだ青年宿は集落ごとにあった。現在はその多くが公民館となっている。青年団では集落単位での付き合いを通して出会いの場としていた。これを通して結婚相手を見つけることが多かった。

なお、地区の若者は青年団か消防団のどちらかに所属することを義務としていた。

青年団はいわば自警団のような存在で、地区に火事や泥棒などの非常事態が発生したり、集落で人手が必要な時に出動していた。

とはいっても若者らしく、青年団では人間関係や酒の飲み方を教えたりもしたが、ときには集落の畑からスイカ泥棒を働くこともあった。しかし、青年団のそうした行為はたいてい許されていた。

 

・食生活

少なくとも資料に残ってるものとしては、これと言って特色のある郷土料理や特産物は存在しない。

ちなみに満江さん自身も、食べ物に困ったことは全くなかったとおっしゃった。

 

調査を通しての感想

お話を伺ってまず驚いたのは、今は陸続きのこの地形がかつては本土と2つの島に分かれていたと言うことであった。明治に各地で大きな干拓や開拓が行われたことは知っていたが、実際に見ると感慨深いものがあった。

また、かつて塩の生産地であった頃のお話は、当時の最先端技術である塩作りとそれに関連する各藩の思惑などが垣間見え、また満江さんの一族が深くかかわっていたと言うこともあり、臨場感たっぷりにお話を聞くことができた。

そしてもっとも驚いたのは、この瀬戸町でかつて、私の出身である阿波藩の漁師が暮らしていたと言うことである。阿波踊りなども当時の文化として伝えられたそうで、現在も残っていたらととても悔しくなった。なお、退出した後、金刀比羅神社に向かおうとしたのだが天候不順のためかなわなかったことが悔やまれる。

また当時の食糧事情に関しても、非常に豊かで歴史を通して食べ物に困ったと言う話は聞かない、というのが印象的だった。

なお、調査に関連したこと以外にも、地域の振興に関する興味深いお話をたくさんしていただいた。

特に天神地区のショッピングモールと連携して、残飯を堆肥として利用するお話などはとても興味深いものだったが、レポートの趣旨と反してしまうため、まことに失礼ながら、ここでは省略させていただく。

 

 

 


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