久原2区を歩く
2009年6月27日
・調査者
印南里香
大島千明
松本吏子
・1日の流れ
10:30〜12:00 現地(久原二区会館)着、お話をうかがう
12:00〜13:00 昼食をごちそうになる
13:00〜14:30 現地を車で案内していただく
14:30〜15:00 公民館に行き、他のグループと接触
15:00〜16:40 お話をうかがう、現地を出る
・砂岩
実際に外に出て現地を説明していただいたときに、何度か目にしたのが「砂岩」だ。文字通り、砂でできた岩で、色は黄土色に近い(写真参照)。かつては堤防の一部として活躍していたという。現在は、川の両脇を固めている砂岩を見ることができるが、家を支えることができるくらいに、今でも頑丈なままである。
・埋立地
はじめに海図などを用いて鼻や指について教えていただき、その後は車で実際に久原二区を案内していただいた。外にでて説明を受けると、埋立地の多さを実感した。最初にお話をうかがっていた久原二区の会館は埋め立て地ではないものの、そこから大きな道路に出ると見える海側の建物は、ほとんど埋め立て地に建っているものだそうだ。国道のすぐそばを流れる川があったのだが、それは実は昔海水であったそうで、つまり、そこより海側はすべて埋立地だという。埋立地には工場が並んでいた。ちなみに旧国道も通ったのだが、それはどうみても国道とは言い難いような、車1台がやっと通れる幅の道路であった。
・埋立地の工場
最近では、およそ100億円をかけて、埋立地にIC工場を作る計画が進行している。このIC工場とは、部品の洗浄を行うことが目的で、純水で洗浄するための設備が作られている。この施設は九州初であるそうだ。下の写真は建設中のIC工場。遠くに見えるのがそれである。海の上に浮かんでいるように見える。
・指
指とは、塩水と真水を、堰をして区別する水門のことである。こうした水門を用いて、水をためたり、田んぼに塩水を入れないようにしたりしていた。久原二区の地域には、木通川(いびがわ)のあたりに小波瀬川指が存在する。
漁業
・木の船 1〜2トン 6〜7m
・大きな網を使う船 5トン ←共同で漁を行う
・昭和50年5月29日 山代町の漁業権放棄
理由:伊万里湾開発のため
数人残ったが、保証金をもらってハタスの漁業組合に入り、述べ縄漁業をした。その他の人々は、名倉造船所、合板企業などに就職した。
埋め立てる際に、貝類・魚類などを放流した。←殺すと産廃になるため。
漁業者は、大漁と家内安全を願って信仰する恵比須神を建立し、中には恒例の、10日恵比須祭りに、漁業者の各家を持ち廻りながら、祀られていた恵比須神も存在している。漁業を営んでいた数戸の家には、今も昔から伝わる恵比須神が祀られていて、その中には石造りのものや、陶器造りも恵比須神等がある。これらの恵比須神は各々の家によって異なり、中には現在でも金箔が残っているものもある。また、恵比須神のほかに、稲荷神碑を設立し、漁業者との関連を示す漁師の名が刻してある。
昭和29年伊万里市誕生と共に漁業組合も伊万里、山代、黒川の各漁業組合が合併した。その組合の名称は「伊万里湾漁業協同組合」とし、事務所は対岸の築港に設置。
漁業者に必要な造船所は、楠久津と波瀬にあり、伝馬船、日本型の和船、中型網漁船、後年にはエンジン付きの動力船、荷物運搬の団平船等が盛んに造られた。
西松浦郡誌に記載されている漁業者は、波多津村に148戸728人121艘、西山代村は154戸561人148艘、黒川村は42戸67人42艘、伊万里は11戸11人、牧島に19人と各漁港の漁業者数が確認されている。
個人の一本釣りから網漁の共同作業、昭和年代に入ると、動力船「電気着火機」から種々のエンジンの進歩で、時代と互いに革新を遂げ、技術の向上と労力的には、昔と比べると相当楽になり、後継者の育成、漁法の改良、組合員同志意志疎通等が図られて、お互いの連体意識が見いだせる。
〈漁法〉
1.
一本釣り
明治初期から大正、昭和初期頃までは、現状と異なり、櫓と帆を頼りに大変苦労をして漁業に従事し、生計を営んでいたと推察するが、伊万里湾は自然に恵まれた良い漁場であり、漁種類も多く専業者は申すまでもなく、一般の住民らも海辺に出て釣りを楽しみ、また家庭の食卓の一助として親しんだ。以後は、動力船の発達で沖合漁場を目指し活発化し、漁種としては、主に鯛、鱸(ススキ)、ボラ等が多く、漁場は、伊万里湾や沖合の長崎県の二島、平戸沖合い、五島近海までで、特に楠久津の一本釣り鯛の塩漬けは有名であった。
2.
網漁業
昭和12〜13年頃より和船から逐次動力船となり、久原、波瀬等も次第に網漁業に変かり、任網、船曳網、底曳網、吾智網等で季節によって異なっていた。櫓と帆の時代を経て動力船となり、湾内から外海に漁場を求めて操業が出来る時代が到来したのである。
3.
任網
明治時代より冬場の漁業としてボラ、コノシロを漁獲し、船曳網は海老、雑魚を漁獲、春夏には鰯曳船(別名改良網)は、伊万里湾に回遊する片口鰯を漁獲して、これを加工し乾燥させ熬り子として関西方面に出荷し有名であった。
特に波瀬の任網は当時としては規模が大きく、一統の片船に10人から13人が乗り、両船で計20人以上の漁師が従事していた。鰯の群れを追うため、波瀬では、呼称「辻」という場所に漁業経験豊かな老人が、高い場所から海の色(魚群)を見つけ、待機している船に旗を振りながら誘導。一統の船は魚群を真中に集め、調整をしながら平均に網を入れ鰯の群れを逃がさぬように、辻見非人の指示に従いながら鰯を捕獲する。
4.
シラス網(別名改良網)、巾着網(別名揚繰網)
1月から3月までの季節に、伊万里湾を回遊する片口鰯の漁場である。改良網を使っての共同作業による漁法で鰯を加工して煮干(イリコ)にする。この改良網は昭和18年頃まで続き、2艘1組〔一統〕で任網同様、漁師の人達が片船に10数名以上乗り込み、意気を合わせて鰯の群れに網を入れ捕獲する。この網はお互いの船同志が平均に網を張り巡らさないと魚群は網の隙間から逃げ出す。ここが船頭の意気の入れ具合で、網を曳く時も同時に曳き込まないと調子が悪い。網を入れるのは1日の中で、朝夕の汐時を見計らい、1日に4回から5回の操業を行う。
5.
延縄漁
一本釣りは近海が多く、延縄漁業は伊万里湾内でも行うが、魚種の型が小さく大漁は望めなかった。延縄は普通のもので、釣り針の間隔は7尋(ひろ)(1尋…1.8メートル)を100本から120本くらいセットして瀬の付近に延べる。
魚種によっては餌が異なり、普通は海老を使用し、大型の魚の場合はイカを使用していた。延縄の漁場は生月、大島沖等が普通であり、波瀬の漁業者の中には、対馬近海まで遠出していた者もあった。延縄漁に出掛けると、数日間から1週間くらいは帰れず、時期に依って餌を選び、延縄の型も替えての操業であり、これは長年の経験から工夫されたものである。
6.
打瀬網、ナマコ、その他の漁業
波瀬では内海での操業が多いし、この類に相当する。時期によって異なり、昼間、夜間の操業があり、例えば海老漕ぎは、夕方から出漁して魚市場のセリに間に合う様、朝方まで何回となく網を打ち、また、引き揚げる。ナマコ網も同様であるが、これは特に時期が吹冬場の短期間であった。
字内にある一般的な呼称
1.
家屋を指した呼称
ながいこう(流れ江。流れ川の側)
ひだらんさき(干潟の崎)
ゆびんくち(井樋の場所、樋門)
さかや(酒の販売店)
たかいしがき(石垣を高く築いて宅地としたもの)
とーふや(豆腐を造っていた家)
ちゃや(休憩所でお茶やお菓子、饅頭等を造っていた)
どば(土場。埋立地)
2.
土地名を指した呼称
字 大波瀬
しげさき
岩の下
はぜやま(観音堂敷地)
字 打越
はんごいわ
やしきんまえ(屋敷前)
どうのうえ(堂ノ上)
字 伊勢越
ひいやけだ(日焼田)
ううたに(大谷)
やまぐち(山口)
字 御手水
はぜんたに(波瀬谷)
字 脇の谷
たいたい
うどんもと
うまんこう
ちゃのきばやし(茶の大林)
字 小波瀬
むかいやま(向山)
おばがつくら(姥がつくら)
字 浜鴫
だいのはな(台ノ鼻)
辻(辻)
たんがしま(種子島)
いろいろなお話を伺っている中で、陸軍軍部の置かれていた『ち先』の話を伺うことができた。
「昭和68年に陸軍のち先がつくられたんよ。それは絶対に一般の人間に見せてはいかんかったから、その側を電車で通る時には電車の窓に板をつけてね、外が絶対に見えんようにしとったんですよ。その時は電車が真っ暗になってね。」
といった話が聞けた。その他にも陸軍ち先が来たことによる、当時の住民の苦労した話も聞けた。
「お米をね、持っていかないかんかったんよ。しかも急なことだから町中から米をかき集めて、陸軍のところに持って行ったんです。それが大変やったね。」
やはり当時は軍の力が非常に強かったようだ。そのほかにも、学校でのテストの話も伺えた。
「六段か、七段ぐらいのバッグ飛びがあったね。あれは実際試験であるとよ。できんかったらぺけの付くんよ。今でいう跳び箱ね。学科試験のほかにそげんともあるとよ。学科試験のできても、飛べんかったら、『こん人は体力のなか』ってことでぺけのつくんよ。」
もう一人の方の話ではこんなことを伺えた。
「われわれの時代では、学校は先生からたたかれて、押さえつけられて、勉強は、じゃから好かんじゃったね。ガキ大将で、やっぱ近所じゃおったもんね。1年生から6年生、それから、今の中学…2年。これ、高等科っていいよったんよね高等1年と高等2年て。いまの、ガキ大将で、そん人たちがいいことも悪いことも教えてくれた。それでグループで遊びよったね。今の子供は家に引きこもってゲームとかしよるんやろ?それがなかったから。今のおもちゃじゃなくて、全部自分で作ってさ、竹トンボとか、のう、コマとか。それから山に遊びに、海に遊びに行ったり、魚釣りに行ったり…」
「実践教育よね。もうデータとか関係なかけん。全部実践。」
「物を買って、今は学校でも物を買って、そしてそれを教材にしたりしよる。教材は我々の場合、作って教材やった。」
「俺たちが子供の時、ナイフをいつもポケットに。」
「必ず入れとったよ。」
「遊び道具の七つ道具たい。」
「今は持たせたらいかん、持っちゃいかんけどね。」
「必ず肥後の守ていうてね、ナイフの折りたたむやつ。学校にも持って行きよったよ。」
「2年生になるとね、10人が10人持っとったね。」
「今は鉛筆そぎしきらんやろ?」
「昔はこうやって鉛筆そぎよったからね。」
「学校にはね、鉛筆削りがあった。俺が高等2年ぐらいの時出てきたよ。学校だけ特別。あとは全部自分で小刀で削って。」
「ナイフって小刀のことね。折りたたみ式やった。刃渡り10センチもあったかな。そして鞘のごと…」
「刃物を持ってもね、今のごと人を傷つけるとか一切なかったね。今の子供なんかけがしたらすぐに病院じゃから。」
「やけんこう、自分でしよって怪我したりなんだりしてね。手ぇ切ったり。」
「ま、時代が時代じゃから仕方がないけど。」
地名のことに関してこんなことが聞けた。
「私たちはここがこんな風に呼ばれているとしかあんたたちに言えんのよ。あくまでも私たちは字は知らんのよ。だから『シゲサキ』と聞いてもどんな字かは知らないんよ。」
「昔から言われていたからね。だから『シゲサキ』と聞いて、たぶん名前を聞いて『この字じゃろう』て。ほとんどが当て字。」
やはり地名というものは口伝で伝えられているものばかりで正しい漢字などは分かっていないようだ。
こんな話も伺えた。
「地図にあざ名のない地名がこの辺にはあるっちゃんね。」
「そうそうそうそう。」
「ここの『フラン』て呼ぶのが。」
「大きな集落ばってんか、『フラン』ていう字名はなかとさ。」
「ここだろ。それから『コウダ』てのがなかと。」
「『コウダ』は一区にいっちょなかや?」
「それは言うばってんか、ここらでは『コウダ』はなか。」
「『コウダ』の地名は、あらぁ、コウダなんとかさんとかいう侍…」
「タカダなんとかさん。」
この近辺にもやはり人の姓から名付けられた地名や、地図に存在しない字も実在しているとのこと。
「『フラン』ちゅうのは『アザズ』のなかには『ハザマ』っていうところがあって…」
「『ハザマ』はねぇ、地図に載っとる。」
「字にある。」
「前に流れてる川が『ハザマ』っていうんよ。」
「『アザズ』のなかに、ここが『フラン』ていうんよ。」
「墓地のむこうが、そう『タンサキ』。」
「『タンサキ』というのか『スミサキ』というのかは知らんけど。」
「俺は炭鉱の先という意味やと思っとったけど。」
「炭の崎と書くからの。」
「炭崎というのは炭鉱があったからその崎なのか、ショタンバのあったけん、炭の崎じゃろかという…」
「ショタンバというのは明治の終わりごろに…」
「あれじゃろ、ショタンバは書いとらんもんな。」
「ここら一帯はかつて炭鉱やったんよ。」
「で、その炭鉱の持ち主が今の麻生首相の、おじいさん。」
「麻生タキチさんていう、じいさん。」
「だから『タンサキ』の地名の解釈は炭の崎じゃろうと。」
「炭鉱には間違いなかとよ。」
「その、『タンサキ』というのの今の字は、本当の字は『コガ』ていうんよ。」
「地図の中に台の鼻ってあったよね。えーと、こいか。ホウエイネンカンのなかではここは番所があったんよ。昔の関所。こっからここまで行くときは札をもって、許可の札をもっていくけど、ここからここまでこう行くときはちゃんと見せんと通れんかった。昔の関所ね。クス関所、クス番所。(クス=楠親)」
「あと、フナヤっていう船の屋。役所。そこにはですね、佐賀藩と小城藩の舟屋が両方ある。」
「それはね、もともと小城藩の軍港の跡。今言う軍港。」
「江戸時代に長崎に一年交代やったろ?佐賀藩と福岡藩で。そんときにここから出て行きよんさった。そこにはだいたい小城藩から100名、佐賀藩はわかりません。そのくらいの人が行っとんしゃるですね。そいから、次に今度は台の鼻のね。そこにはですね、トミハゼ番所。ここには20名。それからウラノサキ。ウラノサキには60名。で、はじめと二番目は明治2年にバツになってる。ウラノサキ番所は明治8年にバツになってる。というのも、佐賀の越冬新兵。明治10年には西郷隆盛の起こした戦いがあって、その前にはこの辺では越冬新兵があって。明治7年から越冬新兵が盛んになって、明治8年にはここは長崎の土地になっとります。明治16年まで。国が取り上げらしたとですよ。佐賀の乱をおこしたから。で、長崎県の管轄になって、その時にずぅっと調べてあるとですよ。お寺から御宮から全部。」
「長崎県から佐賀県になったたぁ、いつや?」
「明治16年。」
埋め立てが行われていたという話を伺ったので、昔の海に比べて、現在はいなくなってしまった生物はいたのかどうかを尋ねた。
「そういうのはね、塩生植物とか貝類とか魚類は全部死んでしまうから、全部移動させました。魚も生きたまま、海のものは放流。殺すとあれは産業廃棄物になるからね。そういうものは全部ちゃんと処置をしとります。」
やはり田舎に住む方々は自然のことを考え行動を起こしている。いろんなことまで考えた上で、自然と折り合いをつけながら生きていることが感じられた。
昼食の後、現地を案内してもらい、伺った話の中にあった場所を見せていただいた。
「ここからはずぅっと番所。ここら一帯が全部番所の跡。で、今度は海側が台の鼻。海図の中に台の鼻って地名のあったろ?」
先ほど話に合った台の鼻を見せていただいた。
それから、先程の話では伺っていない新しい地名も聞かせていただいた。
「あなたたちの担当はここまでなんだけど、もうひとつ。あそこが『チョース岩』。海図の中にあったやろ?あそこ。こっちに3つあるけど。あれも昔からのもの。それから『オロザキ』。たぶん『弁財天(ベンダイテン)』で載っとらん?」
「『弁財天出し』っていう瀬のあるね。瀬ぇからずぅっと下さんいったら『追埼』ってあるやろ?岬のね。」
「『オロザキ』の方は町ん人たちがおそらく便宜しよらす。」
「あれが『センバガダケ』っちゅう。あれが『センバガダケ』っちゅうとですけど、千を束ねて燃やしたっちゅう話です。」
現地の探索を終え、再び集会所に戻ってきた。その後、川久保さんたちが子供の時の食糧事情についても話していただけた。
「イルカは知っとるよね?イルカは見たことあろうけん知っとるやろうけども。」
「イルカは知っとろうもん。水族館におるやつ。さっき渡した本ば見てください。イルカっちゅうのは大体寒い時期にくるとですよね。で、鰯を追いながらずぅっと来るとですけど、伊万里湾には、説明のあった『タカジマ』、そいから平戸の方に『アオシマ』てありますから、その合い中を通って、伊万里湾に入ってくる。これはもうものすごい数で来っとですけど、今はもう捕獲禁止ですけど、昔はそれを捕獲して、私たちの腹に入りよった訳ね。食べよった訳よ。その捕獲法というのは、こっちの方が詳しかから。私の方はその後の、『これだけ来ましたよ、あとどれだけの獲高、誰々の人たちが代表になっとりますよ』ちゅうのだけがこの本に載っとる訳ですよ。も一度開いてください。54ページね。で、ずぅーっとイルカが伊万里湾の方に入ってきますから、誰かの知らせて『来たーッ!』ちゅうて各漁協にね、ずーっと伝わってその漁師さん達が船を出して、どんどんどんどん一か所に追いつめる訳。そいで網を張ってそこから逃げられんようにして、そして最終的にはどんどんどんどん岸の方に追い込んでいく訳ですが、イルカの特徴として、この、脇の下をこちょこちょっとこちょぐると、あのー、海岸の方に行くとか、そういう風な特徴があって、私たちはそんな風に言われたけど、実際にはどうか知らんよ。聞いとるだけ。そいから、音には弱い。おそらく人間もそうやなかかな?」
「人間もやっぱこそばいもんね。」
「で、大体その先の種ヶ島(たねがしま)に、タンガシマっていうところのてっぺんには『イルカが来ましたよ』って印の石が3本立っとるんですね。で、もっと別んところにもあるとですが、その内訳が54ページの中に、何年何月の何日にきて、そして、いくら獲れたか。で、網はどれだけで、代表者は誰か、なんとかなんとか、ってずっと名前の書いてある。で、海岸に上がって何人かで漁師さんたちが捕まえて、こう、あげてくわけやろ?あげてきたらすぐ腹をこう、鎌、大きな鎌で腹をダーッっとかき切る。そして内臓を出してしまうとですよ。その場で。ですから、その辺でイルカを捕獲しよるところは真っ赤な海になっていくわけですよ。血でね。あげたらすぐ。あげながらもう、切られてしまう。」
「鳴きよったねぇ。ギューって。私が小学校4,5年生の時、来たっちゃん。ハゼ島かどうかは知らんばってか。」
「赤ちゃんもおるわけよね。」
「こう砂浜にあげて、イルカの上に乗って、大きな薙刀のような包丁でこうやってザクゥゥて、鳴きよった。」
「私ん家にはあるとよ。その図面のあるとばってね。ちょっと今日のレジュメの中にはなかけん。柄のこうあって、大きい鎌でこう、ギューっと腹を切るとです。結局早く血を出さんと、あの、肉は役に立たんよね。ですから血を出してしまう。」
「ここが海とすると、こっちからどんどんどんどん追いつめて、追いつめて追いつめて、ここで網を張ってこっから逃げられんようにする訳ね。で、ここには船がいっぱいおるわけですよ。ほいで中にはもう飛び込んでイルカを捕まえる人もいた。そしてどんどんどんどん、こう岸の方に押しながら岸にあげて、ずらーっと並べて。もう、あがったらすぐ腹断ち切って。そいでそれを売るわけですが、何万円て書いてあろ?そんときの…1万2000円とか書いてあるやろ?あと、250から300本て書いてあるやろ?その頭数よね。長さはねぇ、長さはどげんやろか。弐間超えたかな?」
「4,5メートルぐらいやなか?」
「水族館におるしこよりも太かったろ?」
「ネズミイルカとか口のまるぅくしたのとかね、あの、品種のちょっと、書いとっとけどね。覚えとらん。」
「むかしゃね、今は今とったらいかんじゃろ、捕鯨だとかなんとか、グリーンピースとやらの…あの…なんとかいうののおるじゃろ?今獲っていけんけども。昔はタンパク源やったけんね。もうこの付近のあれはね。これはもう日本中獲りよらした訳ですよ。だからクジラとイルカとかはね、うん。クジラの肉と変わらんけどね、やっぱイルカの肉はね、たぶる(食べる)と臭かった。臭いのあった。一番おいしかとの腸(はらわた)。クジラの腸を、売ってあるじゃろ?全くあれを小さくしたやつ。はらわたで一番おいしかったのが『マメワタ』いうてね、あったけど、あれは本当においしかったけんど。」
ここでいつごろまで食べていたのか質問をすると
「それはねぇ、大正10年から昭和…」
「終戦ごろまでじゃったろ?」
「昭和…25年まで。それまでやったけど、その間何度か来とって、大体この記念碑っちゅうのは、300本以上上がると立たるる。捕獲せんと碑の立たんわけですよ。ですから途中で何回か来とるけども、それは捕獲した本数が少ないっちゅうことです。ね?」
「金がかかるったい。ね。そん時は金の出るぐらいしたとよ。で、そこに書いてある通りね。それは…いつやったかな滋さん。ユウトクユナイ神社は。」
「昭和…2年。2年にですね、2月15日にクビシマの南側、て書いてあぁですが、まちっこっちの岸。こっちの岸にはクビシマっていう…そこのところで獲れたのが、一本をね、稲荷さん知っとる?カシマの。有徳院神社知っとる?」
残念ながら知らなかったので、首を横に振った私たち。
「そんな、九州で一番有名な場所やぞ。福岡出身ならそんくらい知っとかな。題材ふ天満宮は知っとるやろ?(笑)」
知識のない私たちで申し訳ありませんでした、川久保さん。もっと勉強してからお話をうかがいに行けばよかったです。
ここで、「イルカがたくさんいると知ってからみんなで捕獲しに行ったんですか?」と尋ねた。
「そうそう。共同でね。漁師たちで共同で。」
「そいからクジラの…滋しゃん、とっとったとは話さんば。」
「えーとですね…どこにあっとかな…昔ですね。長崎県の方にクジラの獲れたとですよ。ちょっと瀬のあってね。瀬の上のところに。クジラを獲ってちゃんと捕獲しとらしたとをね。それを佐賀藩の人が夜中に行って、正月の、正月の元旦に夜中に行ってかっぱらってきとらすわけですよ。クジラ自体を。そいであの、ここに書いとらんとかな…」
資料を探している間にこんな会話もあった。
「この辺にね、昔から『よごうてもつとかとば』って言葉のあるとよ。…わからんじゃろ?(笑)」
方言を知らなかったので首を横に振った。
その言葉を聞いたおじいさんの二人も笑っている。
「『よがんでも、曲がってても太かとがよかろ』ていう意味よ。」
ようやく資料が見つかり、先程の話の続きが聞けた。
「あの…佐賀藩と平戸藩というのは完全に、もう、別れた藩で、佐賀は先ほど説明の中にあった、弁財天出しのところからちょっといったところに佐賀県と長崎県の、あの、領海のあるわけよね。領海の境が。それを超えたらもう長崎よ。長崎県ですから、そこのところに夜中に行って、クジラをこの辺の人みんな、漁師さんがかっぱらってきて、かっぱらってこらした訳ですよ。そいて、頭だけ、頭とかずっとですね、後からばれたとですが、あの、お酒を持って行って、今なら窃盗罪ですけど、昔はそういうことはありませんので、お酒で済んだと。お酒持って行って断るだけで、『どうもすんませんでした』いうて話の済んだ、ちゅうことです。」
この話は、昔だからこそのおおらかさを、最もよく笑わした出来事であると思う。クジラを奪われても、酒だけで許してしまえる心の広さ。今の私たちには持ち合わせることのできていないものの一つだと思う。このように私たちが失ってしまったものは、いったいどれだけ大きなものだったのだろうか。