歴史の認識〜歩き、み、ふれる歴史学〜

現地調査レポート

 

調査場所:佐賀県伊万里市山代町久原一区

調査日:7月11日(土)雨ときどきくもり

調査委員:荻野裕矢 

     橋慶太 

取材協力:金子禎輔さん 中尾さん 宮地滋さん 川内さん 川久保好喜さん

 

≪しこ名リスト≫

字名

通称

字名

通称

波佐間

ふらん(布蘭)

矢ノ宗

こうだ(高田)

小波瀬

たんさき(炭崎)

 

のんさき

波佐間

たにごう(谷郷)

 

むかえ

下場

さんげんちゃや(三軒茶屋)

 

のんぼい

橋ノ本

みのひろ(巳ノ広)

 

よこみち

山ノ神

なきはら

 

ぶんねん

新田尾

あげた

 

たけんもと

 

ひーらぎ山

おさき

筒ノ原

禅門辻(ぜんもんつじ)

 

こばる

石宗

へーのうしろ

 

川道

大井手

やいもん山

 

いはばる

 

 

いおき

深沼

やなぎんひら

 

はんのそん

 

こまつばら

堀田

 

やくったに

 

たかやま

久原川内

みゆうといし(夫婦石)

 

はんたに

 

 

 

さんたやま

 

 

花房

まつばら

 

 

水ノ手

よねやま

 

 

 

じゅうかん

 

 

飯盛

ななまがり

 

 

 

もうりゃーごう

*名前の由来は特になく、日常会話で訛ったものがそのまま通称となったものがほとんどらしい。

 

≪調査当日の行動記録≫                                                   

午前10時過ぎ、伊万里駅でバスを降りた。金子さんから電話をいただき、車で送ってもらえることとなっていたのでそのまま伊万里駅に待機。     

待つこと5分が過ぎたころ僕たちの前に1台の車が止まった。中からポロシャツに短パンという格好をしたファンキーなおじいさんが出てきた。金子さんからは約20分かかると告げられていたので、予定より早く着かれたのだなと思い、中から出てきたファンキーなおじいさんにあいさつしようとしたところ、あろうことか彼は僕たちの前を素通りして店の中に入って行った。そうである。彼は金子さんではなかったのである。そのことに気付いたとき、僕たちは少々脱力した。そのようなドッキリもあったが、それから数分後、無事に金子さんと合流。中尾さんも来てくださり、そのまま中尾さんの車で送っていただいた。  

車の中では、周囲の地理の話や中尾さんのお孫さんの話(なんとお孫さんは九大大学院生だったのである!)をした。

 

 

 

いざ、本番開始!?

新鮮な村の風景を楽しんでいるうちに、久原一区の事務所に到着した。すぐそこには小川が流れており、となりにはちょっとした山がそびえているという、なんとも趣深い、心癒される場所に事務所はあった。「もうインタビューなんか忘れてこのまま自然を満喫したいなぁ」と現実逃避しかけたが、なんとか我を取り戻し、仕事にかかった。

 

 

≪瀬や鼻の話≫

まず海の方から話を進められた。ここは山代町久原と言い山代は小島を基準として北緯33°19’東経129°48’付近に位置している。昭和初期までは旧国道沿いに海岸線があった。戦後に埋め立てとかあるいは工場進出とかでもうほとんどない。小島付近にあったというカモゼ(瀬)はもうない。石をとってしまったらしい。その沖の方に夫婦石という石がある。干潮のときにしか見ることはできない。その先にウー瀬がある。さきほど述べた小島は、昔は離島だったらしいが今は埋め立てで陸地となっている。ここには前方後円墳がある。

小島の下に弁財天というほこらの島があったが、工場進出の埋め立てで最寄りの陸地に移動した。そこから北へ少し進んだところに種ヶ島があり現在も残っている。ここでは大正から昭和にかけてイルカが獲れたという。イルカの獲り方は回遊する群れを近郷近在の漁業者が共同で網を張り、海岸近くまで追い込んでから獲る方法をとっていたという。イルカが100頭以上獲れた日はこの種ヶ島に記念碑を建てていた。そこからまた少し北へ進んだところに台ノ鼻がある。ここには、明治から昭和にかけて砲台があった。

←現在の台ノ鼻

さらに北へ進むと追埼という地があり現在その付近を埋め立て中。その埋め立て中の海の中に、弁財天出シという瀬がある。

 

 

≪伊万里の漁業の話≫

大正から昭和初期にかけては共同で操業する、延縄が主体だった。そのころ、和船型の櫓こぎ船が多く、主な漁は1月〜3月までシラス網(別名:改良網)、4月以降は個人で小島〜七つ島(現在の多村造船所)、川南(浦ノ崎造船所)付近で吾知網、手操網曳、夏は数隻の船で小島の沖の瀬〜追埼の沖の瀬で一本釣りをしていたという。伊万里には定置網はないらしい。その後、動力船の発達

により沖合漁業が活発化した。                     また、伊万里で獲れる魚と言えば、川久保さんいわく、「なんっっでも獲るるぞ!」。文献によると、主にタイ、ススキとボラなどが多い。

昭和50年ごろ、企業進出により漁師は漁業権を放棄。だから現在、久原の漁師は波多江の副漁業組合として10人ほどしか活動していない。賑やかな漁村の姿は現在消えてしまった。

 

 

≪軍港としての伊万里湾≫

明治6年(1873)明治政府は九州に海軍要塞基地である鎮守府設置に動いた。その基地候補は、佐世保、平戸、伊万里の三港だったそうだ。そして伊万里湾調査のために軍艦が久原地区小島近海に訪れた。その時、軍の決定事項は水道(水路)決定、投錨地決定、伊万里湾名称変更(それまでは松浦湾であった)であった。その際、伊万里湾内を北から金福地先、浦ノ崎地先、久原地先、伊万里地先というように呼んだ。結局、鎮守府設置には佐世保が選ばれたのだが伊万里は軍事的に重要な港であったという。

以下はその時の軍の決定事項。

 

水路 日比水道(佐賀県肥前町、長崎県鷹島、福島)

   青島水道(長崎県青島〜鷹島)

   津崎水道(長崎県御厨町(現)松浦市)

以上の三水道より以南の海面を伊万里湾とする。

   錨地は小島沖とする。

 

 

 

≪和寇の原点、松浦党の話≫

松浦党は肥前を拠点にし、海外へ赴き貿易を行って強奪を繰り返していた。そのため、中国などからは海賊とみなされるようになり和寇と呼ばれるようになった。また元寇時には飯盛城を拠点とする山代氏らとともに元軍と戦った。  

ここ山代という地は佐賀県鍋島藩の支藩小城藩の飛び地だったらしい。最近、飯盛山(城山)にある山代氏の拠点である飯盛城の跡にそのことを記す看板ができたそうだ。

 

 

≪農業の話≫

またその飯盛山(城山)には『田代のつつみ』というできた当時は県内で2番目に大きいため池があり、そのつつみがこの付近の棚田を潤おしていたそうだ。現在でも飲み水などに使用されているらしい。                 

昔は牛馬農耕をしていて、その中で、春田起し(一番起)はクイヘー犂(赤坂、あくさこ)を使っての起耕で難しい業だったという。その後、両犂(日本号、ひのもと)が現れて仕事が楽になったらしい。塊返し(二番起)をし、三番起は水を溜める前の段階。犂は片犂といって豊年号(瀬戸犂)で左に回り込むだけのものであり、水を溜める段階で馬鍬を使い、『カジキ』といって野原から草を刈り取り田に広げ、また犂で犂きこみ、その後馬鍬でならし、植え付けた。そして田のクル切り(畦の草刈り)をし、いよいよ田植えに入る。昔は、手植えで苗とりからはじめ、植え付けは一人平均三畝(三アール)くらいであったそうだ。人手不足を補うために親戚一家の手を借り、共同(イイスル)で田植えも食事も一緒という形で行っていた。収穫は朝早く起き、鎌を研ぐことから始まり、一人2〜3丁持ってでかけた。家族が一列に並んで一人6株刈り取って進み、夜暗くなるまで働いたらしい。『朝は朝星、夜は夜星、昼は梅干し』と言われるほど忙しかったそうだ。

 

 

≪久原のお祭り≫

久原の大念仏…にぎやかなものではなく、本当に素朴なおどりだそうだ。元々

       は雨乞いであり、今でも続いている。

 

 浮立…早い話でいえば、『むかしの大名行列』であるとか。さおなどの

       荷物をかついで行列をつくる。大きな太鼓や鐘をもって、そし

       て小学生の女の子が「むらし」というつづみのようなたいこや、

       善太鼓をたたき、保育園・幼稚園生が、ぞうりやちょうちんを

       もち、そして大人がさおをもって笛と太鼓と鐘にあわせておど

       るのである。浮立は山代町久原のいちばん大きな秋祭りなんだ

       そうだ。

 

 そのほかにも、それぞれの小さな集落では「天神さんのお祭り」や「祇園さんのお祭り」が今も行われている。子どもが主体となって行われるもので、「じぞう祭り」や「弘法太子祭り」、「お稲荷さんの祭り」というのも各部落にあるそうだ。「お稲荷さんの祭り」については、川久保さんが小学生のころ、6年生がリーダーとなって子どもたちがお祭りの運営を全部していたそうだ。それから、1月14日に「正月のもぐらうち」というのがあって、竹の先にわらを巻いたやつで地面をたたいてまわるそうだ。

 また、弁財天では昔、打ち上げ花火をしていたそうで、それは伊万里ではとても有名なものだったらしい。戦後、川久保さんたちが青年の時代までは、花火は全部自分たちで材料を買ってつくっていたらしい。8月17日の「弁財天祭り」といって、これも伊万里では有名な花火祭りだったそうだ。

 

[花火大会の歴史]

 花火はのろしから始まり、主に全国に広がったのは江戸時代の頃からで、当地区は明治末期ごろと推定される。というのも、大正初期の長老は、子どもの頃からすでに花火大会はあったと聞かされていたらしい。花火の材料と調合方法を記した文書にしたがい、花火づくりが伝統として引き継がれていたが、昭和26年以降に紛失している。

 仕掛け花火は地上や舟に木わくを組み、竹を使って物体の骨組みをつくり、色火剤を紙筒か竹につめたものであった。導火線を用いて点火し、一瞬のうちに形を表す輪転花火ねずみ花火などが使われた。

仕掛け花火の場所は、弁天社の東方の岸壁付近で、通称「ジャーモン」(台物)、港に浮かぶ「軍艦花火」と種ヶ島を往復する「ネズミ花火」など壮大な骨組みの、仕掛け用の台座が造られていた。

 花火の材料はすりばちで摺られる。危険を伴うため、火薬工場から監督に来て注意を払っていた。火薬を竹につめるのに、日本型の傘の〈柄〉が必要で、西の谷(西分・東分地区など)に使い捨てる古い傘を調達に1日かけて頂いてくる。こうして一応の花火作りが終わる。花火大会は、祭りの日の夕方から、多くの見物人が波瀬の港を埋め尽くすほどのにぎわいであった。

 花火大会は第二次世界大戦に入ると中止された。戦後復活したが、上記の調合法の紛失と、危険物取締法のために唐津の木塚花火に依頼することになった。また、花火大会の開催にあたり資金問題が浮上し、区民の負担と久原の商店など外部からの寄付によってなんとか開催することができたが、数年しか続かなかった。現在は伊万里旧町内で年一回と伊万里市消防署がおこなっている。

 2001年には伊万里湾大橋において、21世紀のはじまりを示す記念として2001発の花火が打ち上げられ、大変な人出でにぎわった。

 

 

≪終わってみての感想≫

久原に実際に行ってみて、久原は昔の面影がところどころに見えるとてもいいところだと思った。それだけに現在埋め立てが進んでいることが残念だと感じた。                                 

また、話をしていただいた久原の方々はとても陽気でいい方ばかりで話を聞いていておもしろかったし、興味深い話ばかりをしていただいた。お昼ごはんもおいしいかつ丼をいただいてほんとうに感謝したい。          

昼食後は宮地さんに昔の久原の面影が残る場所へ連れて行っていただき、やはり聞いただけよりも実際に見ることができた方がより印象が強く残り、久原を実感することができた。この調査に行くことができて、とてもよかったと思う。

最後にこの調査に協力してくださったみなさんに感謝したい。

久原のみなさん、ありがとうございました。


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