木須西地区調査レポート
川野雄祐
熊抱広之
竹田津敏史
まずは調査に協力していただいた方を紹介しておきたいと思う。
副島 強 (そえじま つよし) さん
生年月日 昭和13年 9月30日 70歳
木須町に在住
一日の行動記録
10時頃、バスを下車後副島さん宅へと向かう
11時頃、副島さん宅へ到着、その後公民館へ移動
11時から2時半頃まで近くの公民館でお話を伺う
2時半頃から4時半頃まで副島さんの車で現地を見て回る
○木須西周辺の地名
多々浦
清水浦
木須新田
木須搦
戸浮島
戸の須搦
耕地土搦
松島搦
川久保塩田
○瀬戸町周辺の地名
嬉野新田
白浜塩田
上浜
海面
新浜
瀬戸浜塩田
川副塩田
四の角
五の角
岩野搦
私たちが調査した木須西周辺や瀬戸町周辺では、搦(からみ)という字がよく使われている。搦とは、「縄が木にカラみつく」という意味である。昔の干拓堤防を築く方法として、堤防にする場所に丸太杭を打ち込み、その杭に木の枝や竹などを絡み付け、満潮の時に潮といっしょに運ばれてくる土砂を、その場所に堆積させる方法があり、その自然の力によって、杭周辺の地盤が満潮位近くまで高くなったところを付き固めて、それから上へは人力で堤防を高くしていた。
このようなことから、多くの干拓地を「○○からみ」と命名するようになった。
また、昔佐賀藩は塩が不足しており国策として塩を生産するため塩田をつくった。ゆえに○○塩田という地名が多い。いまでは塩田はすべて田となっているそうだ。
○ 村の変遷
松島村、木須村、瀬戸村、脇田村
↓
牧島村
↓
牧島村は伊万里町と合併
↓
13個の市町村合併で伊万里市
○ 塩田について
・ 佐賀藩は塩不足で塩田を開くように命令。各地から技術者を呼んで塩田をどんどん 作っていった。
・ 塩田などのために干拓をしたら、リュウジン宮をつくり人柱までやった。
・ 塩をたくのに薪が必要なので山の神も信仰していた。
・ 田畑は雨が降らないとやっていけないので雨乞いをしていたが、塩田は雨が降ったら困るので、その間でいろいろあった。
・ 塩田廃止例が出てすべて水田にかえられた。
○ 伊万里について
・ 伊万里は焼き物を運ぶ船の基地として栄えた。その船は全国に焼き物を売ってまわった。しかし、船が通っていた川の川底が流れてきた土砂で浅くなったり川幅が狭くなったりで船が通れなくなり、衰退していった。
・ 伊万里には倭冦の基地があった。
ここからは、副島さんとの聞き取り調査についてルポライト風にまとめてみようと思う。(『』は我々、「」は副島さんの話である)
昔の農業の方法について訊ねてみた。
『昔の農業のしかたについて教えてください』
副島さん;「全くの人力だったね。中には田んぼの中に牛をいれるな、と言う人もいて手作業だけのところもあった。しかし、牛を使うとやっぱり早かった。また、牛を一年養って肥らせて売ると金にもなったしね。でも、牛を育てるのは大変だし、それが農業が機械化していく原因かもね」
『今とは違うんですね』
副島さん;「昔は助け合ってやっていた、全くの人力だったから。隣の田植えが済んでいなかったら助けていた。今はそんなのが全然ないね。子どもの頃も苗なんかを運ばされていたから。」
その後、現在の農業の大変さや飛んでやってくる水鳥のことについてなどを教えてもらい、そして田んぼの形に話は移った。
『何故この田んぼはななめになっているのですか?』
副島さん;「これは川に合わせて作ったからこうなっているんだよ。昔は機械で整備をやっていなかったから。実際、今はななめの田んぼは仕事がしにくい、機械を使うことができないからね。」
副島さんの話を聞くと現在の農業は機械化がかなり進んでおり機械なしではとても効率が悪いという印象を受けた。その後米の取れる量について聞いてみた
『今と昔とを比べて取れるお米の量は変わりましたか?』
副島さん;「昔は60Lで4000円だったよ、初任給が大体3900円のときにさ。そして昔は1反が8俵で、今は一反で9俵とれるね、これは品種の違いや肥料のせいだよ」
その後、化学肥料や今行われている減肥料法、そして昔行われていた温湯消毒法などを話して貰った。次に食べ物の話がでたので村で食べていた食べ物について訊ねてみた。
『この辺の村で食べていた料理などについて教えてください。』
副島さん;「そうだな……。もうそういうのは作らなくなってきたなぁ。特に正月の餅とかはつかなくなってきたね。昔はくんちがあったらくんちの料理を作ったりしていたんだけど……。家でもぼたもちとか作らなくなったな。」
副島さんの話によると今では餅米自体作らなくなってきているらしい。餅米の農法の話が出たところで次にこう聞いてみた。
『先ほど牛を農業に使ったとおしゃっていましたが、馬は飼っていなかったんですか?』
副島さん;「いるところもあったよ、でも牛や馬は一年中餌をやらないといけないから大変だね。昔はばくりゅうという牛や馬を売る仲介する人なんかがいたよ。どの家にも牛はいたね。」
『馬も農業に使っていましたか?』
副島さん;「使っていたよ。馬は足が速いから牛が1反耕す間に馬は2反耕せるんだよ。昔は荷車を引かせてたりもしたね、馬は力もあるから。駄馬とかいってね。」
そのあと、伊万里の堤防の話があり、その次に農業の兼業化について聞かせてもらった。そして広大な田をもつその土地で気になったことを聞いてみた
『昔は田では稲しか作らなかったのですか?』
副島さん;「昔は米と麦の両方作っていたね。でも、国際競争に負けて麦は作らなくなったんだよ。」
『今も麦は作っていますか?』
副島さん;「今は大豆の裏に麦とかを作ってるよ。少なくとも米だけでは無理だね。」
『米が足りなくなったりして、米に麦を混ぜたりはしましたか?』
副島さん;「混ぜたことはあるけどそんなに評判は良くなかったね。」
いくら広大な田があるとはいえすべてが米というわけではないようだ。そして話は昔使っていた燃料に移っていった。
『この辺に薪を採ったりする山はありましたか?』
副島さん;「この辺は百姓ばかりで、昔はその辺の山に採りにいったよ。山にはたくさん雪が降っていたが採るために体を動かしていたから不思議と寒くはなかったね。まあ、そのうち燃料がガスに取って代わるようになって誰も山に入らなくなったけどね。」
『どの山に採りに行っていたのですか?』
副島さん;「そうだな、この辺は田んぼばっかりだからどこも大体40分くらいかけて採りにいってたよ」
『個人で山を持っていた人はいましたか?』
副島さん;「そうだね、大概どの山にも地主がいたね」
山や薪について伺ったところで戦時中について訊ねてみた。すると農村ならではの影響を受けていた
『戦時中に村が受けた影響について聞かせてください』
副島さん;「食料不足だったから米を強制的に持って行かれたよ。増産、増産と言われ続けたよ。その反動で戦後は食料がいっきになくなったよ。栄養失調なんかにもなったりした、そのせいで小学校のころは脱脂粉乳とかを飲まされたね。あと衛生のためにDDTとかも頭からかけられたよ。」
『さっき強制的に米を持って行かれたとおっしゃいましたが……。』
副島さん;「強制的に持って行かれたよ。『あんたのところは何反持っているからどれだけ出せー』とかいわれたね。2階とかに隠していても家の中を徹底的に調べられて探し出されて持っていかれたね。今年は不作だからと言っても関係なしだった。」
『自分たちの食べる分も無くなったんですね』
副島さん;「やっぱり末端のものが一番きつかったね……。」
その後、田んぼの善し悪しが話題に上がった
『いい田んぼと悪い田んぼでは何が違ったのでしょうか?やはり土ですか?』
副島さん;「いや、それは完全に個人による差だったよ。手入れをしっかりする人の田はいいものが育ったし、手をかけない人のは駄目だったね。」
話をする中でホタルの話が出た。
『ホタルの話が出ましたが、昔と比べて田んぼの生き物に変化はありましたか?』
副島さん;「昔、除草剤のせいでドジョウやナマズフナやヒルがいっぺんに死んでしまったね。今は魚とかもまた増えてきているけど」
その後誰かが放したジャンボタニシなどの話を聞き、今度は村全体の話になっていった。その中で副島さんは、
副島さん;「何代も続いている家がだんだん無くなってきている。夜逃げとかなんだりと色々あったんだけどね。商店街もシャッターが目立ってきて、町に活気が無くなってきている。」
と、話していた。かつて活気があった農村も時代の流れとともに段々と姿をかえてきているようだ。
そして、話は村の水資源へ
『昔の水は井戸や川から取っていたのですか?』
副島さん;「もともと家や村があるところは大体湧き水が湧くところ。ちょっと下ったところに水場があったりしてね。ここ(公民館)も昔は鉱山で、そこに見える運動場にはそれだけでは使い切れないほどの湧き水があったんだよ。」
『田んぼにもそこから水を引いていたのですか?』
副島さん;「いや、もともと田んぼを作る所ではため池を作ってそこから引くから、そこから引いているわけじゃないんだよ」
また副島さんはこのような興味深いことも言っていた。
副島さん;「東北の人がこのため池を見るといつも不思議がる、なぜ九州の人間はこんなため池を作るのかって。向こうでは雪解け水を利用するからため池を作らなくてもいいんだよ。」
気になったことを訊いてみた。
『ため池はどうやって作ったのですか?』
副島さん;「水が集まりやすい所にため池を作っているんだよ。例えばこの名切ため池とか下井手ため池とかね。」
ここで約4時間にも及ぶ聞き取り調査を終え、その後副島さんの車で実際にその土地を回ってみることにした。
≪感想≫ 川野雄祐
調査にいく前は調査に協力してくれる副島さんという方がどんな人なのかわからず、
とても不安だった。しかし、バスを降りて副島さん宅を探していると、約束の時間の1時間前に、「道はちゃんとわかるか?」と心配の電話をくださり、家は暑いからとクーラーのつく公民館に場所をかえてくださった。急なことだったので調べる時間がなかったにもかかわらず、たくさん調べものもしてくださっていたみたいだった。とても親切な方だったので、最初の不安もすっかりなくなり、調査もスムーズにできたと思う。調査に関係のないこともいろいろと話をしてくれた。その話の中で、印象に残ったのはやはり農業の後継者の問題だ。愚痴のようにずっと国や県の制度がしっかりしていないから誰も農業をしたがらないとおっしゃっていた。その他の話では、子供が作文で「お父さんみたいに生活保護をもらって生きていく」というようなことを書いていたというような信じられない話もきけた。親が子供にちゃんと生活の術を教えていかなければならないのにそんなことではだめな世の中になっていくなとかなり残念な気持ちになった。
いろんな話を通して、今の高齢者の考えや農業をしている人の悩みやつらさがかなりわかったような気がする。私の祖父母も農業をやっているので、実家にかえたときに話をしてみたいと思う。今回のような経験ができて本当によかったと思う。今後もこのような機会があったらどんどん参加していきたいと思う。
≪感想≫ 熊抱広之 今回、歴史の認識という講義で実際に外へ出かけ、現地の方から直接お話を伺うことによって教室で椅子に座っているだけでは知ることがなかったであろうたくさんのことを知ることができた。地名のことだけではなく、昔や今の農業についても多くのことを知り、また話をうかがった副島さんの意見や、価値観の変遷なども知ることができた。副島さんには急なお願いにもかかわらず地図や資料などを使って事前に調べていてくださっていたらしく、わかりやすく説明してもらった。さらに車に乗せてもらい現地を見せてもらった。今回の調査で実際に現地を見て回り、話を聞くというフィールドワークの大切さがわかった。このことを忘れずに次に生かしていきたいと思う。
≪感想≫ 竹田津敏史 今回の聞き取り調査はとても興味深いものだった。副島さんの話を聞くうちに僕の知らないその地域独特の共同体について知ることができた。それは自分の知っている世界とはまた違ったものであり非常に多くのことを知ることができた。特に印象に残った事は、昔の地名や生活を調べるという今回の調査の意図から少し逸れるかもしれないが、副島さんが熱心に語ってくださった昔とは現在の大きく変わった農業についてである。僕が知らない現在を生きる農家の方々の苦労などを副島さんを通して感じることができた。副島さんの僕たちに訴えかけてくる言葉にはそこに心がありありのままの現在の農村の姿があった。このような生の声を聞ける経験は机の上に鉛筆とノートを用意し、教授の話を聞くだけでは決して得ることはなかったと思う。今回の現地調査は非常に貴重なものだった。これからもこのような経験ができる機会があったら積極的に関わっていきたいと思う。