川南地区

 

調査者

田代智史

中村貞雄

前田明徳

 

2009年6月27日(土)、佐賀県伊万里市浦ノ崎の公民館で、川南の区長である松永勝美さんに川南地区の歴史について、お話を伺った。(松永さんは昭和14年生まれ)この調査では、川南地区の名前の由来や、産業などについて聞いた。

 

以下に、松永さんに伺った話の内容を記す。

 

産業について

川南造船地区ではどのようなものを作っていたのですか?

「工業用のソーダだった」

「あとは、鋳物工場。衝撃にやわいやつがあるたいね、鉄の薬缶とか錆が来るから。今あの岩手当たりの釜石あたり行ったら鋳物の薬缶とか何とか売りよるやろ。そがんとを作るとの鋳型を砂で作ると。その中に鉄を流し込んで、そいで、ひとつの製品ば作りよったたいね。」

 

「そして、川南の造船所は普通の船舶を、運搬船とか、それから軍艦とか。それから、われわれの記憶の新しいところでいえば、人間魚雷。そういうとをつくっとるね。そうやけんが極端な言い方をすれば、機密工場でそこに裏の先って駅があるけんども、そこには目隠しして工場の中が見えんように、そういう策もしてあったね。それは私たちも細かながら覚えとった。」

 

「そうけんが、地形的にはそう変わっちゃおらんとよ。ただ、川南のところはね、今陸になっとうところはね、向山炭鉱で戦争中に石炭を掘って、ぼたはどこに捨てるかっていうてから、もうよか、うみんなか捨てろっていうてからやっぱ昔の軍人さんたちが言うて。今そこにコンクリで断崖のたっとるっちゃね。今問題になりよると。景観が悪いから崩せとか何とかね。そいけん、ある一部は世界遺跡として残そうやとか計画されとるが、極端な言い方をすれば、ここがね、地番がないわけですよ。もともとこういう風なあれやったわけやけれども、石炭のぼたを、許可なく埋めとるわけね。そやけん、地番が発生しとらんわけ。それまた運輸局かなんかに申請して、埋めたところの地番を何番地の何番ですよっていうのをしとけばよかったとばってんが。いま、ここを崩して、人の地上権が優先するって言うことで、建物が個人のとになっとるわけ。で、なかなか個人の人がこれ目当てであそこ崩さん、かねだせって、そいけん、崩してよかって。もうずーっと何年ももめよるわけ。そいでいま軟化されて、断崖を崩して、緑地公園を使用じゃないかって、伊万里市は計画しとる。これが執行地って言うてから、地番のない土地なんですよ。そして、川南には病院があったわけ。造船所の病院。いまは社会保険裏ノ崎病院となっとるけれども、それは昔は川南造船所の病院やったから、川工病院って言ってから。」

 

「浦ノ崎駅どこある?あ?ああ、こうこう、ここ。浦ノ崎上書いちゃる。」

 

これがさっきの?

 

「そうそう。」

 

これもらっていいですか?

 

「あ、ちょっと待って。ほい。」

 

ありがとうございます。

 

「これでも、あの、川南の、造船所の跡やなぁっちゅうのは分かるね?」

 

ああ。

 

「そいけんが、ここの、ここの中には、浦ノ崎、川南、向山ってありますよね?

その中に川南の人間もおった。そいから、浦ノ崎のそのままの人もおった。向山の人もおったっていうような言おった。独特の、こう、あの、川南の、社宅で、川南の人間ばっかおるっていうあれやないか、そいで、今、向山さんがそこにおるけれども、

あのー、川南の、まぁ、川南の豊作ってのが、あのー、こん造船所を興した。その本社っちゅうのは長崎の香焼島、川南造船所よ。香焼島、それが本社。そいでここに、あの、造船所を川南豊作さんってゆうのが作ったってね。そいぎ、うん、あんたもちょっとあれしてよ。

そいでやっぱ造船業するには、石炭とか、コークスとかなんとかソーダ工場とか、ガラス工場があったからやっぱ石炭ば掘って、コークスにしてせにゃいかんっちゅうことで、だいたいげんけんばこうしちょったら川南と、そりゃいろいろ、あの、向山炭鉱も、あのいろいろ会社の名前変わったけども、川南造船所と向山炭鉱っちゅうのは、オレぁ、オレがみたところじゃぁ親戚関係。」

 

「いや、あれはですね、昭和13年に川南造船所が向山炭鉱を買い取った。」

 

「うん。」

 

「川南豊作…」

 

「あ?」

 

「川南豊作は?」

 

今、聞いてる…

 

「いや、まだ。」

 

「知ってますか。」

 

「今からうん、今から、うん、おい、資料をもっと、こう、オレが持っとっとをやれや。あんたこれ持っときな。これは、あんま関係ない。そいから、川南のいろいろの事件とかなんとかもあとから説明するけどもね。

そいけんが、あのー地形的にはね、ここは、川南としてはとか、ここは部落ですよってのは、私はあんまりはっきり分からんと。もう浦宿の人間も、百姓さんあたりも浦ノ崎におる。そいで、浦ノ崎の中に川南造船所に出よるあのー工員さんもおる。向山の人もおる。まぁ向山の人はだいたいこう、上の方に。今ちょっとこう説明してらっしゃるけどね。」

 

「こんですね、字名やら書いてあったんですよ。じゃけん、昔の字名がですね。

そしたらやっぱり浦ノ崎っていうのはこれ、これしかなかったとですよ。これだけしか。」

 

「あん、あれやろ?」

 

「そうです。そうです。ここしかなかったとが、本当の昔の浦ノ崎ですけど、

あとこのへんは新興住宅地ですもんね。」

 

「うん。」

 

「ここ、昔の新興住宅地。」

 

「これ佐代川やろ?」

 

「そうです、そうです。ここへんも新興住宅地ですよ。」

 

「ここにあるのはね、川南の、あのー川南の造船所の工員の、川端町っつってから川端町住宅っていうとこばってんね。これぁ担当のあれや、あのー納屋やね。そいから、このへんにあったのがだいたい川南の造船所の職員さんとか工員さんのあれね。そいから、こんだぁ川南の、いまもって川南の人間ばいって言う人もおるけんが、ここへんもちょっと川南の人がおるね。そいから、ここ、ここが川南の職員さんとか工員さんのおった住宅ね。うん。主にね。」

 

ここは炭鉱でした?

 

「うん。ここ。このへんは炭鉱。」

 

「向山炭鉱で働いていた人もここにおらしたってのあったですよね?」

 

「こう、ここらへんにあった。」

 

「あったとですよね。」

 

「うん。映画館とこらへんに。今ここにあぁほら、部落で言えば山手町っていってから、」

 

「ああ、ここ山手町?山手町ね。」

 

「うん。そいけんが、川南にいく人はここよ。」

 

「結局、昔は立岩と、まぁ立岩っていう土地と、東郡っていう土地と西群っていう土地とがあってあとはずっと炭鉱ができたりして川南ができたり向山ができたりしたっていう、はい。この立岩が昭和17年にこの立岩区から浦ノ崎区ってのが独立したわけ。ここ人が増えたけんね。ここずっと。

ほいで、この立岩から分離して浦ノ崎ができた。新しくね。地区ってのがね。部落ね。

部落っていっても、あんたたち部落っていったら、ほら、あの、差別の部落を考えよるやろ?でもこのへん部落っていったら地区。その地区を考えるっていうわけやね。あのー立岩部落っていうのは地区のこと。うん。で、それで分かれてる。」

 

炭鉱の(ぼた山)をここで捨てるんですね?

 

「そうそう。あんたたちは川南やろ?」

 

はい。

 

「川南の造船所がそれを利用して作った。石炭をね。じゃけん川南の豊作さんをしっかり勉強した方が。」

 

「うん。」

 

「ですね。」

 

「うん。」

 

川南ってのはもともと土地名とか?

 

「いや、土地やない。地名。“かわみなみ”っていう地名。

いや、地名やない。人の名前。」

 

「川南豊作さんっていう。ゆうたろ?川南豊作っていうのがあのー長崎で、香焼島で、

川南豊作さんっていうのが川南造船所、香焼造船所っちゅうのを始めて、作った人。」

 

「買い取った。松尾造船ってのを買い取った。」

 

もともと松尾?

 

「うん。香焼にあった松尾造船っちゅうのを買い取ったっちゅうのは、自分ら缶詰工場を興して、金、成金になったもんやからそこで松尾造船所を買うたわけ。それでこっちのほうには缶詰工場があったけんが、いいとこば場所があると、ということで、ここに川南造船所を作った。

結局、かなり先見の目があった。やろ?海は深いし、石炭は、材料になる石炭はあるし、ちょっと待ってね。あとでこの人戦後破壊防止法第一号で捕まるけどね。」

 

そうなんですか。

 

「そいぎー、こういうところにソーダ工場とか、あのー鋳物工場とかあったごつあるね。」

 

これ地図でいったらどこですか?

 

「うーん、これはね、橋の…」

 

「もう少しこっちの地図は?」

 

あります。

 

「あの、緑地にするっていう写真をやったろ?」

 

「そっちにあったはずよ。色刷りの。そうそれ。これがこっちの方に繋がってくるたいね。」

 

「こうなっとっと。」

 

「これが今ある建物たい。」

 

「この建物がこれ。埋めたあとがあるとよ。石垣やから。今はもう水没しちょるばってんが。」

 

「で、これ、こっちがね、今の工場たいね、ガラス工場。でここにソーダ工場。

最初はそういうの作っちょったけど戦争が激しくなって、今のガラス工場は軍需工場に変わったって。で、軍需工場に変わってこっちで部品を作り、これで船を組立たわけ。ソーダ工場の方で。そいは輸送船ね。」

 

輸送船?

 

「そうそう。」

 

「川南造船所っちゅうのを、あんたたちは調べにきたと?」

 

いや、川南。授業自体は地名の授業で。

 

「そうやろ。」

 

地名の由来とかを調べる過程で、村の昔の様子を…

 

「川南の地名の名前は人の名前。」

 

いままでのでいいんですよね?

 

「うん。川南造船所の川南さん。」

 

「そいげんね、僕はね、帰ってからばいね、見たら、ああ川南豊作さんの生い立ちからこれに要約して書いてあるけんが。僕が飯のときにやいてきてポンてやるけん、あとは川南のことを調べてください。」

 

ありがとうございます。

 

「豊作さんのことも書いてある?」

 

「書いてあると思うよ。あればほら、川南豊作の嫁子が、東条英機の…」

 

「これはですね、眉つばー」

 

「合わんとや?」

 

「はい、合わんとです。眉つばです。はい。ここだけちょっと怪しかとですよ。」

 

「うーん。んにゃ、東条英機の娘やなかて。それはオレも分かっとっちゃ。」

 

そんな説があるんですか?

 

「だいたい80%以上違うやろ。」

 

「うん。これはなんか作りごとばいね。」

 

「三無事件。」

 

「三無(さんゆう)事件て分かる?さんむ事件。」

 

分からないです。

 

「破壊防止法。」

 

さっき言ってた?捕まったって言ってた?

 

「クーデター。国を滅ぼす。」

 

「結局あんたね、結局三無事件の三無ってのは、核武装で戦争をなくす。宇宙兵器ってかいてあるね。宇宙兵器で戦争をなくす、と。

で、公共事業を広げて、失業者をなくす、と。それからー、」

 

「これもやろうかね。そいから地形的にうんぬんゆうのはもう、分離されとらん。川南と浦ノ崎と向山炭鉱っちゅうのは。だいたいこの一画で、向山炭鉱もあった、川南炭鉱もあった。」

 

「今言いよることと、まったく一緒や。官庁の人員削減をして、民営化して。そんで公共事業ゆうのと。ミサイル、宇宙兵器で戦争をね。」

 

「これは三無うんぬんはこっちに書いてあるよ。」

 

「結局ね、川南造船所で作っとったのが、本当は違うとも言われよるけど、

本当は一番最初に買った香焼の松尾造船所、あとの川南造船所で作った船が、有名な富山。南極観測船ね。」

 

南極観測船?

 

「ボロチャベスクゆう船でソレンに頼まれて造りよった。で、戦争が激しくなって結局ソレンに渡さんで日本のね、一回ね朝鮮かどっかに買い取られてね、その後輸送船かな。

そいで途中でね魚雷ばぶつかってね、沈没するか、ってなったけんが、結局その魚雷が爆発せんでね、生き延びたっていうね、ものすごい運のいい船っちゅうことで。

そいで最終的には、観測船になった。そん変わり、やっぱりこの船はねグラグラグラグラしてね、かなりきびしかったらしい。」

 

観測っていうのは戦争の後?

 

「うん。昭和31年って書いてある。結局これは戦争で使った輸送船やったけど、

戦後これを改造して、南極観測船に造り変えた。で、これも川南造船所でできた船。」

 

川南の漁業について教えてください。

 

松永さん:「漁業権を、まあなんちゅうかな、漁業権は、私達は要りませんと。それから金もらっとらっしゃるけね。(川南の地域の人は)漁業権をもっとった、元々はね。で、造船所ができて、やっぱ油が出る、魚介類あたりも育たんじゃろうということで、それでもう漁業もできんじゃろうということで、漁業権を放棄させたわけ。漁業者ってのは10何軒おらしたとよ。やけん、立派な港があるとですよ?こうって行ったら港ずうっとあると。

だけんまあ、この部落には、今とこ漁業者は、おらん。」

 

漁業を捨てて工業中心でいこうということだったんですか?

 

松永さん:「いや、名村造船って言うのができたから、そこで漁業をしても、廃液とか、それから、修理に来た時に塗装あたりを剥離したりなんたりしてから、くずが出るやなかですか。そやけ、結局もうこれじゃあ漁業はできんじゃろうということで、私達はもう漁業権は捨てますと。けんが、その代わりに、お金をくださいということでね。」

 

それは国からですか。

 

松永さん:「うん、まあもちろん国やろうね。国、県あたりが。」

 

漁業をやめたのはいつごろですか。

 

んーっと、原田さーん。名村造船が出来たのはいつごろやったですかね。記憶になかですか。

 

(名村造船の伊万里工場が出来たのは1974年のようです)

 

 

戦後の食糧、物資の状況などについて教えて下さい。

 

「はい、次。食料のこと?あのねえ、食糧はね、戦争中には、兵隊さん優遇やったよね。優遇。そいで、またあの、炭坑。炭坑あたりも、従事する人は、戦争のために、兵隊さんに石炭あたりを出さないかんということで、炭坑の人は割合、優遇されとった。

例えば、こどもの服とか、なんとかっていうのは炭坑に働く人には優遇しとかんと、石炭ば掘ってくれんばいということで、極端な言い方すれば、我々がみた目線では、炭坑のこども――私達同級生ぐらいたいね、“あーよか洋服もきて、よか靴も踏んで(=履いて)、よか生活しよんなあ”っちゅう感銘があった。炭坑の人はね、せいぜい麦ごはんに、白ごはん。弁当ね。今んごと給食なかけんめいめい弁当もってきよったけんね。

われわれはなんかっていったら、めし、半分ぐらいに、かぼちゃ、それから、大根、麦飯、それからこうりゃん。今こうりゃん知らんじゃろなあ。こうりゃんてのは赤い実の、ひえのごたああいで、赤飯食いようごとあった。そういうとで弁当持って行きよった。そして、そん中には、弁当もなーんも持ってききらん人間もおった。

そして物資そのものが、私は終戦後1年目に入学したけども、消しゴムが無かった。そやけんが、川南(かわなみ)造船所のところに、晩方、今のごとカッターとかなんとか無か、小刀。小刀ばもっていって、私も悪やったけん、ベルトコンベア知っとるやろ。石炭ばこう運びよった。傷入れて、ベルトコンベアば切ってさ、そいでこんぐらいと友達に配ってやったりなんかしたよ。ほいでもう、一回鉛筆で書いて、それを手で消したりなんかして書きよったね。

それから、靴あたりも、1クラスに、一月に一足ずつ、くじ引きやった。くじ引き。

そんころはね、人間はね、私達の学生時代は、まあ昭和んーっと、21年か。私の生年月日聞いたね?21年に小学1年のときに、生徒数が、6年生まで入れて、1200人。

1年生から6年生まで97人しかおらん。おんなじ地区の学校で。いかに、過疎になったか、ちゅうことね。

終戦後ってのはとにかく、食いもんが無い、物資が無い。

鉛筆あたりも、極端な言い方すれば、このくらい(2〜3cm)まで使いよったね。このくらいんとばね、そいで、竹を山ん中に切りに行って、ちょうど鉛筆と竹の合致する、1つの線でこう、竹の中に‥。

はいあとなんか、他に。」

 

犬を食べたことはありますか。

 

「あ!?犬?私個人は、食べました。あーこらあね、犬、それからー、猪、狐、狸。こらあ、今のおじいちゃんたちは(食べとった)。極端な言い方すれば、今のアオダイショウ?今、台湾あたり行ったらご馳走よね。アオダイショウあたりはね。ヘビ。

せいぜいね、こっち向きで食べよったっちゅうのがね、鶏の肉。牛とかなんとかやなくて。

あんたたちは今スーパーなんか行ったら卵とバナナが一番安かったよね。今安いよね。昔は、バナナと卵が一番高かったと。例えば、病人に親戚の人が入院しとる、友達が入院しとる。お袋がね、うちもニワトリ飼いよったけど、卵産んだけんが食べられるばいねと思ったら、食べたらいかんぞーって。こら何とかさんの入院しとらすけんが、10個ばかり溜まってから見舞いに持ってくとやけんが食ぶんなって言われた。

 

バナナも、今はあんた、ひと房こう付いとっとが、350円も出せば、腹いっぱいなるごと、安かやんね。昔は、バナナは、高かった。バナナは栄養もある。消化もよか。ちゅうことで、病院の見舞い客さんには、バナナと、卵が一番よか時代やった。今、逆転してしまっとう。」

 

さっき炭坑の人は裕福だったと言っていましたが、どのくらい違ったのですか。

 

「単刀直入にゆうなら、給料。これ。

これはね、炭坑の坑外で働く人と、坑内で働く人っていうのはね、おそらく3倍から5倍やったと思う。例えば、坑外で1000円もらいよる人は、坑内に入ったら5000円くらいもらいよった。

なぜかっつったら、今はトンネル作るとには鉄のこうした枠をしてさ、トンネル工事っつったっちゃあんまりこう稽古のあって、俺ぁ仕事しかいかんばいちゅうのおらんやろ?昔はね、松の木んごたっとを、5mおきぐらいにこうして、落盤せんようなかっこうでね、坑内に入りよったったいね。入って事故あったら一巻の終わりよね。

そいで今のごと、労災がないわ、そらあ、立派な三井とか三菱とか、住友 あたりの炭坑あたりはそういう制度をしとったかも分からんばってんが、この辺の炭坑は、おそらくかけとらんやったろうと思う。そやけん、私達も落盤のあって、死んで出てこらしたっていって、雨戸?雨戸に担がれて、今はこうして(担架とか)あるけども、そんころは無かたい。“おーい人間の死んだってぞー、雨戸はずして来−い”っつって、雨戸もっていって、雨戸の上に人間が死体が乗って運ばれていきよったったいね。

坑内に行ける人は、炭坑の一般労働者よね。一般労働者であっても、高給をもらうわけ。炭坑とかなんとかは配給物資が多かったと。例えば栄養失調のごた人が、炭坑ん中にはいっておられたらいかんけんが、炭坑に従事する人には、めしもいっぱい食わせて、石炭ば出してもらわばいかんけんちゅうて、割合優遇されとった、その時代。

われわれは分かるもん、子ども時代に。うん。そういうこってね、やっぱ炭坑に従事するところの、親、子、われわれが見てみりゃ優遇されとったなーって思ったね。うん。

こんどは、坑内にもなんも入らん人、今で言う上役さんたいね、こうちょうさんとか、業務課長さんとか、坑内課長さんとか、お偉方が。そういう人あたりは炭住(炭坑住宅)でも、普通じゃ2DKのところを、4DKか。家族も八人ぐらいあっても住まえる…

やっぱ炭住そのものはね、人間がおおかったっちゃんね。2DKですし詰めんごとして寝てある住宅いっぱいあった。住居に対しては、まあ上役さんと坑員さんとの差ってのが激しかったけど、食いもんそのものは炭坑の人はよかったね。それは私が実感しとるけん言える。で昔はもう配給制度であって、腹いっぱいっちゅうのもなかったと思うっちゃんね。

 

百姓さんはなんかといったら、百姓さんは田んぼがつくっけんが、百姓さんはいっちょん不自由せんでよかったろうもんて、あんたたちは思うかも分からんばってんね。結局そんころは軍隊の力が強かったけんが、百姓さんなら米ば作れと。そいでお国のためじゃあて。

おう供出ばせろって。兵隊さんに食わせろって。そやけ百姓さんはね、蔵に隠しよらしたとよ、自分たちのを。ほいで、今はもう肥料とかなんとかもよかけんが、まあ、いったん米ば作っても、いい米ができるやなかですか。昔は化学薬品なんか無かけんが、田んぼによっちゃあ、同じ稲穂の実でも、あんまり実のひゃあっとらん、稲ができるわけよ。そういうとは、百姓さんが自分たちで食べよらしたわけよ。いい米はみんな、もう、憲兵さんたちが、倉庫とか何とか見て“お前達は確保しとらんかー”っちゅうて、回って来よらしたもん。私そう知っとるもん。私も出は田舎やけん。そやけんがもう、百姓さんも割合、がつがつの生活しとんね。野菜あたりは恵まれとったと思う。ばってん米あたいは百姓さんやけんがちゅうてよか飯ば食うとらん。やっぱ私どもと同じでかぼちゃ飯とか、大根飯とか、そういうとば、いっぱい、食べよったね。」

 

「この辺で向山炭鉱は下田原とかなんとかって言ってからあるけどね。私たちがね、ここは通称よね、ここは川端町って言うよね。うん。川南区の部落の。この辺を、あのー川端町って言うばい。

それからー、浦宿の駅はどこ?佐代川がこれやろ。駅この辺じゃな。この辺をね、佐代姫って言う。佐代姫神社ってあったろ?神社がなかった?んでこの辺の部落をね、私達は通例、佐代姫って言う。そいからこんだこっちちょっとずれたとこを、佐代ノ丘って言う。そいけんが、佐代姫って言う呼び名。あの辺は佐代姫ばいって。で、この辺ぐらいを佐代ノ丘って。

そいからねぇ向こうの国道から入ってくる所、この辺をね、御船町。この辺。あの国道からこう入ってくる所あったろ?あんた達国道から来たとかな?」

 

たぶん。

 

「それからねー、えーっと、内園って書いてあるとこなかね?あ、ここあった。

これを暁町。これ建ちは内園、内園何番地ってなっとうばってんが、この内園っていう所を暁町って言う。」

 

由来とか分かりますか?なんで暁町って言うか。

 

「なんでっていうのはないねー。呼び方。

そいからねー山の手町っての。こん川南のね住宅のあった所を川南の区で管理しよるわけ。

そいげんここ、ここを山の手町。この辺ばい。ここ家が建っとんね?このブロック私の区に入るとですよ。私の区は点々とあると。昔からあの、川南の住宅があった所を私が管轄しちょ。そいけんがここがね、山の手町。山、それから平仮名の、町。」

 

何かお祭りはありましたか?

 

「浮流祭りって太鼓をたたいたり、踊ったり、笛を吹いたり。福岡は山笠とかあるが、またそれとはぜんぜん違うね。太鼓をたたきながら、面をかぶって、踊ったり。鐘を3つか4つか多きほうから持って、女の子が木琴のごとあるようなので叩いたり、笛吹いたり。そういうお祭り。」

 

「それはどこであっていたんですか。」

 

「もうそれはこの近郷。旧道があるったいね。この国道の向こうに旧道がある。それは県道市道併用してあるけど。その道を部落民が(歩く)。浮立祭り。それと佐代姫神社の祭り。佐代姫って言うのはね、どこにでもあるっちゃんね。どこが佐代姫さんの(夫が)出兵に行くって言いよっとをわがも行くってことして流されて、たどり着いたところがお宮を作って奉ったかなんかしとるけれども。これが点々とあるっちゃんね。やけんもうぜんぜんわからん。そやけん、佐代姫さんて奉っとうともあるね。」

 

「そしてここには海軍領って言うのがあったよね、川南の中に。海軍さんがそがん何百人て戦争するごとその何百人の海軍さんじゃなかばってんが、まあ、船が関係しとるけんが船の監督さんと何とか。戦争するとこやなか。ここは武器を作るところ、船を造るとこ。そう極端にはおらんかったけど、海軍領っていって、そうね、(人口が)多いよ。ようあの乾パンとかコンペイ糖とか。そがんとをね、海軍さんとこに遊び行ったらくれよったけんね。多いよ。おれの知っとう範囲じゃ50人くらいおった。そやけん、戦争するところやなかったっちゃんね。軍事工場や。」

 

「そしてね、昔は女郎屋があってね、パチンコ屋も3件あったよ。それからね、旅館があったよ。パチンコも昔はバネでね。そして商品に変えよった。今は金やろ?昔は商品やった。タバコとか、お菓子とか。それから映画館が2件あった。それが、川南とも向山ともつかんばってんが、この部落に映画館が2つあった。そがん街だった。」

 

この辺は軍事工場だったのですか?

 

「うん。そりゃあ人間多かったもん。今はもう荒れ果ててしもうたばってんいたるところにもう長屋のね二階建てのね、人間を収容する住宅が結構たっとった。そりゃあ賑やかやった。おそらく伊万里で一番賑やかやったっちゃなか?」

 

若い人は多かったですか?

 

「若い人は多かったですよ。」

 

結婚してない人たちが集まって遊ぶところ?

 

「いやあ、集まって遊ぶところやなかったね。やっぱり、一所懸命働いて、そしてその息抜きで、そういうことをする、ということ。その、原宿あたりに、職も持たん人間がぶらぶらして、遊ぶような街じゃなかった。みんな勤労意欲があってさ、その中で、やすらぎとして、そういうことがあった。」

 

「そやけえ、裏ノ崎部落と、向山部落と、川南部落とあるけど、それは一体したところの街やった。川南の人間だけですよ、向山の人間だけのおったところですよ、じゃない。」

 

それじゃあ、(地図に)丸をつけたところ(川南造船の社宅のあるところ)が、川南地区ということではないのですか?

 

「うん、たとえば今はここは山の手町となっとうけど、ここにはまだ、川南の職員さんの住宅がの残っとうとですよ。だけん、この辺は川南の人のおらしたところ。」

 

「そしてここは川端町っていうけども、今はもう、家全然なかですよ。もう藪になってしもうとう。ばってん、ここにも長屋の4棟か5棟があったそうですよ。そこには、川南造船に従事しよる職人さん、工員さんがおった。」

 

夜這いは盛んでしたか?経験や共同風呂はありましたか?

 

「共同風呂はあったね。盆踊りとか祭りの終わったあとにあったよ。夜這いって言うのは、昔の人にすれば、あんまり恥ずかしいもんでもなかったわけ。たとえば、私に年頃の娘がおったとして、そこの家の人は雨戸を少し開けとったわけ。うちの娘にも誰か夜這いに入ってくれんかなあって待ちよるごとでもあったわけ。たとえば、今、女学生でセックスの経験のある人とない人とではどっちが優越感がある?経験のある人が優越感感じとっちゃなか?女性としては。今はよく統計取るやんね。そりゃあ昔は処女の人がよかったかもしれんけど、夜這いって言うのは、そういう関係でうちに娘がおるばってん、いっちょん寄り付かんばいって所の人かもわかるけんね。そやけん、夜這い子っていうのは結構おるとですよ。そやけん、生まれてからでも構わん、あれと一緒になれって。」

 

それは結婚につながるようなことですか?

 

「うん、結婚につながるような相手。そりゃあね、今は恋愛うんぬんかんぬんって言っていろいろするやんね。昔は手も握られんやった。私どもも女と一緒に学校から帰って来ようとかいうことも、朝の朝礼とかで言ってから小学生時代にしよったやんね。そうやって名指しで言われよった。そやけん、帰る時も絶対男は男、女は女同士帰りよった。」

 

「このへんはねえ、夜這いはねえおそらく、昭和30年くらいまでしかなかったと思う。それからはないねえ。今は完全にない。」

 

集団で行くっていうのはあったんですか?

 

「そりゃあ一人のおなごに3人も4人も行ったらあれやけどまあ、2人くらいは行ったやろうね。やけん、家の人は雨戸ばわざと開けとったとばい。男の子が入ってくるとばまっとったとよ。そやけん、うちの娘にはいっちょん夜這いの来んばいとか昔はいっつも言いよらすった。昔は結婚を親同士で決めよった。」

 

許嫁みたいなものですか?

 

「そう、許嫁。そうやって一緒になった人がかなりの数おる。もう今はそういうこと無かろうばってん、昔はそういうことやったっていうのを、私も聞いとう。また、事実、そういう人もおった。」

 

ご飯と麦の割合はどのくらいでしたか?

 

「これは大体半々。中には米3麦7の人もおった」

 

自給自足はありましたか?

 

「これは百姓さんでいえば野菜やろ、漁師さんでいえば魚やね。やけん、この辺は割合物々交換が多かったちゃなか?例えば、漁師さんが魚をとって、田舎に持っていって、金のやり取りをせんで、魚をやって、野菜を持って帰るって。これは自給自足とは違うよね。物々交換してさ。」

 

魚は食べていましたか。

 

「魚は多かったねえ、この辺は。漁師のいっぱいおらすったけん。また、もちろん釣りにも行きよった。ナマコとか取りきらんくらい取りよった。ワタリガニとかも来よったね。海の潮が満ちて、引いて、そのあとに長靴でその辺の石けっとばしたら、一口たことか一口ナマコとか拾いきらんくらいおったね。今はおらん。昔はおやじに酒の肴取ってこんかって、5円握らされてよろこんで行きよった。そんで、食いきれんでもったいなかけんこんなに取ってくんなっていうくらい取って来よった。」

 

それは造船所ができる前のことですか?

 

「いやあ、そのころは今みたいに化学物質がどうのってそう重要視しとらん時やなかった?今やったら化学薬品やらで食べんなってなるばってん、昔はそがんこと考えて魚とか食べんとか思う人はほぼおらんかったちゃなか?おれば食べる、あれば食べる。そげな時代。そやなかったら餓死しとう。昔は、だいたいこの辺で、一反から5俵くらいしか取れよらんかった。ところが今は品種改良とか肥料の改良とかで10俵くらいとれる。倍取れる。」

 

「昔の肥料ってなん使いよったと思う。牛の糞とか、今で言うたい肥ね。それから、人糞。今は水洗便所うんぬんかんぬんで流しっぱなしで使う人はおらんけども、昔は水洗でも何でもなかったけん、ダンボー紙にためて、それば田んぼに振ったり、畑に振ったりしよったわけよね。今はそがんとを使う人はおりゃあせん。農協に至っては肥料うんぬんかんぬんて言って高か金出して。そりゃあよか米ば作らないかんけんが使いよるけどね。そりゃあ、時代変わったよ。堆肥。それが随一の肥料やったろうね。」

 

干ばつはありましたか?

 

「干ばつはあったですよお。干ばつのあって、米の今までの半分も取れんやったとか結構あるっちゃなか?」

 

雨乞いはありましたか?

 

「雨乞いはあったろうねえ。田舎とかは特にもう、雨の降らんけん雨乞いするよう、って。御宮参るったい。それで雨の降るごといっちょおお願いしますってお参りしてからちくわくらいで酒飲んで。それが一種の楽しみやったっちゃなか?」

 

用水路には何がいましたか?

 

「そうねえ、田圃にはめだか、どじょう、それからタニシ。今と変わらんねえ。ばってん今めだかの卵が大変ぞ。化学肥料ば使うけん、卵が死んでしまって。まあ、カエルとかなんとかはね、結構おる。」

 

暴れる牛はどう対処していましたか。

 

「金玉ば取りよった。」

 

それで大人しくなるんですか。

 

「うん。そらそうたい。男でもおんなじやんね。金玉取ったら女と同じ。」

 

昔(終戦前後)の船の値段は分かりますか。

 

「船の値段は分からん。うん。

やっぱー、そのころは造船所も少なかったけんが、悪う言やあ独占企業的なあれやったけんが、かなり高かったと思うよ。今はほら、造船所がいっぱいあるけんが、一円でも安かところに頼まないかんっていうのがあるばってんが、そのころはもう、独占企業やけんが、“あーいくら掛かりますよー”っていうたら、もうそれであれしよったけんが。」

 

昔のお金の価値はどうでしたか。

 

「そうねー、私ん時代の時にはねー、…

伊万里くんちってあるもんね。伊万里は、三大喧嘩祭りっちゅうて、トンテントンっちゅうてから、神輿あたり、こないだあの人間が死んで、こんだ中止になったけどね。ただ練り歩くだけってなったばってんが。

そのころ昭和30年代にね、小遣い銭がね、50円ぐらいで行きよった。

今50円こどもにやったっちゃあ、あれよね。今のこどもやったら5000円ぐらい言うよね。

今、小遣い銭ちゅうて、中学生高校生やったら、もう1万円ぐらいもらうとやなか?高校生やったら。部活とかなんとかしようとは、よーう、どっかにハンバーガーに寄ったり、駅でジュース飲んだり、なんかしよるばい、よう。

そうねえ、汽車賃が10円やった。こっから伊万里までね。往復20円。そいで、うどんが10円くらいやった。そやけんが50円から100円ぐらいもらって行きよったっちゃなか?」

   

※補足

○川南豊作氏について

 

川南豊作氏は明治35年、富山県東砺波郡井口村に生まれた。農家の三男。富山水産講習所を卒業し、大正8年、大阪の東洋製罐に入社する。その後、実質的な責任者として同社の戸畑製罐工場を立ち上がらせた後、昭和6年29歳で独立する。朝鮮、長崎県平戸などで、イワシのトマト煮缶詰の製造を初めた。佐賀県浦ノ崎で、ソーダ、ガラス製造も開始した。昭和11年には、長崎港香焼島の松尾造船所を周囲の土地ごと買収、川南工業を設立し造船業に参入し、太平洋戦争時には戦時標準船を大量建造した。

戦後、川南氏は公職追放の身となった。一方、労働争議、経営内紛が重なり、昭和34年、経営から手を引いた。

 

     三無事件

 

川南造船所は閉鎖後、1961年7月に地元の要望を受け、川南工業伊万里工業所として再出発している。同社の川南豊作元社長は1000人の地元雇用を狙っていた。

だが、同年12月、川南元社長が首謀した軍事クーデター、「三無事件」が発覚。旧軍将校らと共謀し、「共産革命を阻止し無失業、無税金、無戦争の三無主義による国家革新」を掲げ、国会襲撃を企てたが、未遂に終わった。

検察当局は、関係者12人を破壊活動防止法で起訴、裁判の結果、破防法が施工以来始めて適用され8人に有罪判決がおろされた。川南元社長の判決は、一審が懲役2年、控訴したが二審は棄却、最高裁への上告は、本人死亡で公訴棄却となった。

 

○松永さんに聞いたしこ名

山の手町、暁町、川端町、佐代ノ丘、佐代姫、御船町

 

まとめ

松永さんは、私たちの質問に対して丁寧に答えてくれた。松永さんのほかにも、公民館には浦ノ崎、川南に詳しい方達がいらっしゃって、この周辺の地区全体についても教えていただいた。川南の人たちの使っていたしこ名がいくつかあったのだが、川南が造船所から来ている名前で、その歴史が意外と新しいことに気がついた。このような歴史の調査は貴重な経験だったと思う。協力してくれた松永さんや、公民館までいらっしゃってお話をしていただいた方に感謝したい。

中央左側に見えるのが川南造船所跡地である

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川南造船所跡地

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佐代姫神社

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