平成21年佐賀県伊万里市山代町城現地調査記録

平成21年前期文型コア科目「歴史の認識」

 

調査協力者 黒川正機 様

記録者 森下志織 小林俊雅 山崎貴大

IMG_0311  目次

@    調査日行動記録

A    調査協力者紹介

B    会話記録

C    補足事項

D    まとめ

 

 

@    調査日行動記録

 

調査日平成216月27日

 

8:00  バスが九大伊都キャンパスを出発。

8:15  バスが九大学研都市駅に到着。人数確認があり、降車場

所を聞かれ、霧寄神社と答える。

9:25  10分間のトイレ休憩を取る。

10:15 調査地付近に着いたため、バスから降りる。先生から「景色のいいところだね」といわれる。降りた場所は黒川さんの家の隣だった。

10:20 11時過ぎに訪問する予定だったので、黒川さんに電話を入れて確認し、承諾を受け、家に上がらせてもらう。

10:30 挨拶も終わり、もう一度趣旨説明をした上で聞き取りを始める。

11:30 お昼が近いのでいったん休憩するも、黒川さんが思い出した様子でさらに30

ほどお話をしてもらう。

12:00 昼食を食べる場所は決まっていないことを知り、ご親切に部屋を使わせてもらう。

13:15 まだ聞いていないことを中心に午後もお話を聞かせていただく。

15:00 予定よりも長くなりすぎたので、お礼を述べて家を後にし、霧寄神社へ向かう。霧寄神

      社の説明までもしてもらう。

 

 この後バスの待ち時間までに歩き回るも、犬にほえられ、部落の人とも挨拶するだけに終り、

 新たな情報は得られなかった。

17:00 バスが到着し、乗車。

18:00 10分間トイレ休憩を取る。

19:00 九大学研都市駅に到着し、その後九大伊都キャンパスに到着。解散

 

 

A調査協力者紹介

 

 黒川正機…昭和14年生まれ年齢は70歳。農家を経営中。

 

 

B会話記録

 

森:この辺の風景は昔からですか。

 黒:今ブロック積みになってるけど、昔は石で棚田。この辺も昔棚田だったけど、今もう山になった

   んですね。   

森:ほとんどが放棄されたということですか。

 

黒:そう。昔ここで植林してた。

 森:植林はさかんだったんですか。

 黒:いや、そうでもなかった。今材木は採算取れんけんですね。山をある程度にみんなで植林してるんです

   ね。

 

黒:私が小学校5,6年の時、炭鉱があったんだね。

 森:そうですね。この辺、地面の下は空洞になってるんですか。

黒:はい、みんな地下は空洞ですね。えっと、傾いた家もあったんで、ものすごいお金を掛けたらしい。 

   水が空洞に染み込んで、ここらへんはほとんど水不足地帯になった。

 そういって地図上をさす黒川さん。

黒:そこに炭鉱の坑口があった。昔小さい炭鉱がいっぱいあったけど、そこで本格的に採掘をやってた。

   今は使われなくなって、水でいっぱいになったらしい。そこからポンプで水を汲み上げて、農業用水に

   使っている。昔炭鉱の近くに何十軒の長屋があって、炭鉱の方がそこに住んでいた。

   地元の農家から炭鉱で働く方もいたが、ほとんど長崎からの出稼ぎの方だった。

 

 黒:切寄という地名は竜造寺の頃からあった。そこで戦があって、何人もの武将が討ち死にした。

 森:峰と切寄はその頃の戦場の跡ということらしいですね。

 黒:毎年124日切寄神社で祭りをするんですよ。大体秋祭り、感謝祭のようなもので、その時12人分                                                    の膾、枝で作った箸を並べて、そのとき亡くなった12人の武将を祭った。 

 森:神社はその頃できたんですか。

 黒:それはよくわからない。

 

黒:猪とかアライグマとかいっぱいいるから、被害が大変だ。檻と罠をかけてとっていた。なかな

  か捕りきらんでね。

 

そのとき、黒川さんは「ご供さん」という料理の名を口にした。昔猪の肉を入れた炊き飯、猪飯だ。ところが、ここ十年ほど猪はいっぱいいないから、もち米を粉にして練って、炭火で焼くと、猪の肉のかわりに使っている。

 

黒:そしてですね、昔竹で作った、米とか籾とかを入れるかごがあった。中身は18升だった。どこの家で

 も使われてた。いまはトタンで作られ物がほとんど。

 

森:ここの地名は「城」ですが、昔お城があったのですか。

 黒:特に城があったと聞かんだね。

 地図上をさして

黒:ここに馬洗川があって、その南のほうに手洗川がある。

 

地図上の別のところをさして、

黒:ここの腹干場はなくなった方を並べたところじゃなかろうか。子供の頃、山の中で肝試しをやってた。  怪談話はあまりなかったけど。       

 

近くで祭る神様は稲荷様、金比羅様とかたくさんいるから、祭るための田んぼがある。そこでとれる米でお供えして、余った分をお金に換えて、神社のお祭りに使っていたらしい。

 

   ここでは、毎年神事として「浮立」という舞いが伝えられている。

 黒:四十年以上、五十年位前まで、正式の浮立が行われてた。その後、急速に無くなった。わたしたちは

   浮立と鉦と太鼓だけでも残そうと、浮立をやろうと考えてる。七月に入ったら、練習をやろうかと仲間

   たちにいうて。

 

地元の人が炭鉱の人と男女間の本格的な付き合いがなかったそうだ。商売などで経済的な繋がりはあった。

 

黒:地元の人が炭鉱の人と結婚したとかそういう話はほとんど聞かんだもんね。炭鉱の坑口ができたのは

  昭和20年頃。あちこちで小さなたぬきぼりもあった。23人でちょこちょこ石炭を掘っていた。浅い

  ところ の石炭はあまり品質が良くなくて、本格的な採掘は坑口のほうでやってた。石炭をとれるよう

  になってから、燃料の主体も石炭にかわった。昔はみんな薪を使ってたけどね。

 

黒:ここらへんでは牛をつかって材木を斜面から運んでたね。

 当時牛は貴重な働き手だったのだ。

 黒:一家に少なくとも一頭はあった、二頭以上を持つ家もあった。

  山から材木を下ろす時につかうのは力が強い去勢してない牡牛。普通はおとなしい牝の牛。

 

 石炭を運搬するためのケーブルが海岸のほうまで作られたらしい。石炭を大きい竹カゴに入れて運んだがそ

 れ以前は馬車だった。時々カゴがひっくりかえて、みんなで石炭を拾いにいったことがあるらしい。

 

黒:炭坑のお陰で町に活気が出てきた。炭鉱で大きな事故もよくあった。落盤でかなりの被害が出た。何年

  か一度にたくさんの人が亡くなった。炭鉱の収入はかなり良かったんで、通常の二倍くらいはあったね。

   海岸付近をさして

黒:ここに劇場もあった。それに売春宿などの遊び所もあった。あと法律ができて、売春宿がなくなったで

  すね。ここの風景が一気に変わったのは、海岸を埋め立てた頃だった。炭鉱のほったボタ(土砂)で埋

  め立てた。

 

海岸に造船所が来て、市の財政も良くなったらしい。 

 

一息いれた後、タバコをふかしながら話す黒川さん。場はだんだんと和やかなものになっていく。

森:医者は昔どうされてたんですか?

黒:医者はそこの西田病院(地図参照)が近いね。これは昔からある。

森:昔からというと、病気にかかると皆さん山を下りてここにいかれてたんですか。

黒:そうですね。まあ、西田病院とこの辺にも小さいのはあったし、医者には困らんかったですね。

山:風邪をひいたときになにか(きまって)食べるものはあったんですか?民間療法とか…

黒:民間療法はあった。昔は色々あったけどぼくはわからんね(苦笑)。まあ、薬草はそれぞれの家庭に干してあったけどね。あのー、根があったばってん。ゲンノショウコとかドクダミとか。そんぐらいしか知らんですねー。

森:昔の薬は苦くて飲むのが大変だったですってね。

笑ってうなずく黒川さん。

森:このへんの地図だと水田の他に果樹園が多いんですけど、さきほどの話だとみかんとか…

黒:もうー、みかんなんてね、(収穫量は)一時の十分の一。

森:あーそうですか。ということは昔は今の十倍はあったんですね。

黒:もうこの辺の森の高さまでみんなみかん畑。やっぱだんだんみかんも食べんようになったですね。

森:なんだかもったないですよね。あんまりみかん食べなくなったんですか?

黒:はい。やっぱ食べんかったですね。もう収穫なんかも大変やったですよ。

森:柑橘系なんか虫がついて大変ですもんねー。

黒:もう、(季節も)遅うまでなってですね。一月にもなって収穫して雪が降って、大変やった。この辺は傾斜地やけんが、みかん運ぶのもですね。家までもってくるのもたいへんやったですもんね。

森:そういえば、牛とかは飼われてたんですか?

黒:何年ごろまでやったかねー、(昭和)二十、三十四、五年まではほとんど牛やったですね。それからは、耕耘機とかテーラーとか、機械類が入ってきたですね。

森:機械だと全然効率が違いますもんね。

黒:その頃、機械を使うために道路も発達してね。

森:この(黒川邸前の)コンクリートの道なんかは?

黒:それはもう最近

森:じゃあ最初は道を固めて…

黒:軽トラックなんかが通るくらいの道なんかは30年ぐらいから共同で作ったですもんね。それでじょじょに広げて舗装して…

黒川さんはおもいだしたように地図を眺めて

黒:みかん畑とかもねー、住民で考えていかんとねー。

森:そういえば住民の数というのは?

黒:ここは50戸です。この部落はですね。

森:昔は(世帯数は)どれくらいだったんでしょうか?

黒:昔は、六十五戸ぐらいでしたかね、農家は。炭坑夫の方だけはわからんです。その頃、小学校、中学校の一学年で三百人ぐらいおった。

森:あー、やっぱり子供の数は多かったんですね。

黒:中学校はね。今は五十人もおるっちゃろうかねー。

森:あーそんなに少なくなったんですか。逆に今の僕らからみたら“え!そんなにたくさんおったん!?”って感じですからね。

山:さっき自転車を押してる子供を見かけたんですけど。

黒:あー、この部落の小学校なんか五,六人もおるやろうかねー。

森:そういえばこの辺は塩田っていうんでしょうか? 塩作りが盛んだと聞きました。こちらの方でできた炭を燃やして、その火力で海水を煮立てて作るそうですが。

黒:塩作りはもっと海岸の方にあったとですよ。場所は知らんけど。あっ、炭焼きは私が小さい頃まであったとですよ。木炭ね。昔は炭窯もたくさんあって焼いてたですね。

森:この辺の炭窯の跡はご存知ですか?

黒川さんは笑いながら

黒:ははっ、どこやったかな。

そういって地図上をさがす。

黒:もう竃の形がある訳じゃなかですもんね。周囲の土台とかが残ってるだけですもんね。どこで見たかなー。何個でもあったらしかったばってんですもんねー。

しばらく地図上で指を滑らせたのち、一点を示した。

黒:大吉(地図参照)で見た。あと柳の辻で見たかもしれん。とにかくもう(部落)全体にあちこち。竃はそこで一年か二年焼いて、また、材木のあるところに移って、かなりあちこちにあるとですもんね。

森:そういえばこの辺には干ばつはあったんでしょうか?やはり山の湧き水のお陰でそのへんは…

黒:炭坑ができる前は干ばつっていうのは聞かんかったですね。もちろん私も子供やったばってん。小学校まではあまり水不足っていうのもあんまり感じなかったですもんね。まあ小さかったけん、わからんかったかもばってんが。

黒:ああ、それからこの部落は珍しかばってんですね、共有田、部落田ていうのがあるとですよ。一町ぐらい。

森:一町というと…

黒:一万平方メートルくらい。水田ていうのはね、普通、団体では持たんとですよ。

森:普通は持たないんですか?

黒:持たれんというか、法律的に(持てない)

森:あっ、法律的にですか。

黒:今はですね、農業団体とかが持てる特例があるばってんが、昔から個人の事業所有する形でないと持てん。

森:個人の管理であれば法律による介入はないってことですね。

黒:はい。農地解放のときも部落の人たちが名前(名義か)を借りてですね。名前は個人のものだけど、あくまでもこれは団体のものだよという約束のもとにですね。今でもあるとですよ、一町二反くらい。伊万里市の歴史関係(の人たちの間)でもめずらしかーちゅて。でも実際今持て余しとるんです。(笑)

森:あっ、そうなんですか。放棄されてる面積があるってことですか?

黒:耕作を呼びかけてもやっぱりね。部落田はまだ個人に管理してもらいよりますから、まだ放置はされて

  なかばってんですね。共有地が一町二反ぐらあるですもんね。あと、さっき言った祭り田ですね。 

  それはですね。一、二、三…四箇所ある。これは小さい面積ですもんね。

  300平米か400平米ですもんね。それらも一種の共有田ですから。

森:いまは先ほどのお話どおり、神社に近いところから当番制で(お供えする米を)作っていると。

黒:それは部落の共有田とはまた別ばってんですね。前はですね部落民総出で(お供え用の米を)作りよったですよ。

森:どれくらい前のことですか?それは。

黒:十年、十五年ぐらい前まではそうしてましたね。だんだんもう、出る人が少ななってですね。今はもう入札で4つに分けてやってもらいよるです。部落田っていうのは珍しかとです。祭り田っていったらどこにでもありますもんね。

森:共有田をもった理由っていうのはあるんですか?

黒:やっぱり、部落の運営資金ちゅうんですか、なんか工事をするとかなんとかっていうときのためにもっとって、できるだけ米作って貯金してたと思うんですけど。まあ、一つの村としての収入源ですね。今はもう(管理が)大変です(笑)。一枚の広い面積なら手頃なんですけど、このへん傾斜がきつくて補修工事してるんですけど、一枚一枚の面積は狭いですから。やっぱり手間がかかりますね。

森:加えて棚田ですからね。

黒:それから農業用水の水の管理ですね。それも大変です。(笑)

森:水路張り巡らせるっていうのもなかなか骨がいりますもんね。

黒:はい、山ん中にも水路を作って。その、腰差からここまでですね、2キロぐらいあるんですよ。これなんかもうほとんど水平に作ってあってですねー、昔の人は偉いねーって思ってですね。

森:昔の人は優れた土木技術をもっていたんですね。

黒:この管理もですね。水役さんっていうのが部落に2人おってですね。それも今なかなかやり手がおらんでですね。年間の報酬も決まっとりますけどなかなか(割が合わなくて)…。いま農業用水をくみ上げてるポンプにも管理者が必要なんですけどこれもやり手がおらんです。飲料水もこの辺は市の水道がきてなくてですね。

森:あっ水道がきてないんですか。ということは井戸水を?

黒:簡易水道は部落でもっとっとですけど、これも管理がたいへんです(笑)。

森:このへんは古井戸とかあるんですか。

黒:あるですけどほとんど水が出ないです。

森:見かけた古井戸があれば位置を教えていただきたいんですけど。

黒:いろいろあるかもしれんが一箇所だけはしっとるばってんです。このへんですね。これも浅いですもんね。

そういって地図をさす

森:子供が落ちたりとかそういうことはなかったんでしょうか?

黒:(子供はなかったけど)大人が落ちたとです。でも浅かったですし石積みの井戸だったんで。

森:あがって来れたんですね。

黒:いまは古井戸はあんまり見らん。昔は各家庭にあったですもんね。今はもう全然出んですけんもんね。

森:このへんは山水なんで水質はよかったんでしょうね。

黒:そうですね、少しアルカリがあるけども、この辺の水飲んでからもう市の水道水なんか飲まれんですねー。それでも、最近、水源地のほうにイノシシが来てですね。あれは汚いですもんねー。それで塩素を多めに入れてもらってですね。塩素をたくさんいれてもらうとすぐ電話がかかってきてですね、“水が美味くないっ!”って。

森:イノシシが増えたってことは山の環境がかわったんでしょうか。

黒:うーん、ここ五年急にですもんね。

森:漁師さんはいらっしゃらないんですか?

黒:おらん。昔はおったかもしれんが。

 

 

     昼食・休憩後…

森:この辺にさっきのゴコウ?御供サン?以外に何かこう郷土料理みたいなものはありますか?

黒:郷土料理ねー。

森:よく食べられるもの、なじみのあった食べ物があったら教えてください。

黒:この辺―特に郷土―おふくろっていうのは…なんだったかなー(しばらく考えていらっしゃった)豆腐とこんにゃくはあのー私が子供のときまでは自家製がほとんどやった、味噌も醤油もね。

森:自家製ですか?そういうのは基本的に自給できたってことですか?

黒:豆腐とこんにゃくもね、今こんにゃくもほとんど生えとらんもんね。

森:あーそうですね。こんにゃく畑っていうのはもう見ないですね。

 

森:それらは自給できていたってことで、逆に外から買ってくる食物っていうのは何があったんでしょう?

黒:やっぱり魚。ナルイシ(鳴石)って言ってね、そっちのほうに部落のある(地図を指し示してくださった)、

  あそこが魚屋さん、漁港やったけんね、売りにきておられた。

森:保存技術は今みたいに冷凍はなかったですから、生ものはあげてきてすぐ(に食べていたんですか)?

黒:すぐは食べれんやったけんね、やっぱり塩漬けとか、拵え取って酢の物にしたりして…

森:この辺の海ではどんなものが食べられていたんですか?魚は?

黒:(苦笑)何を食べたかいねー、せいぜいイワシぐらいやったかなー。昔は波瀬でね、イルカを捕っていた、舟の網で囲んでねー、何十頭って海岸に打ち上げさせてね、木刀で叩いて、食いよらしたもんねー。いまはイルカを食べよる人はおらんばってんが。今イルカをそんなことしよりんた、保護団体からやられるやろうね(笑)このころは貴重なタンパク源やったけんね。

 

黒:ほとんど自給しよっとやったもんねー。どこの家でも味噌、醤油はもういっぱい作ってね、貯蔵して、お茶なんかもそうたいねー。

  ほとんど麦ごはんやったもんねー。

森:麦と一緒に…大体どれぐらいの割合で混ぜてたんですか?麦だけですか?

黒:いやっ麦だけってのはなかった、半々ぐらいやなかったんかなー、まあ終戦後っていうのは芋飯があったけんね。芋を食って、そういうのはどこでも終戦後はね。

 

森:コメの貯蔵っていうのはどういうふうにしてたんですか、例えばネズミ(対策)とかいろいろ。

黒:コメはね、うちの場合、直径1mぐらい、高さが背丈ぐらい、トタンの円筒型の筒が家庭に2つずつ、それに入れてね、ネズミも入らんたいねトタンやけん。上にこれぐらいのふたがあってね、そこに入れて、下からずっと。

森:サイロみたいなものですか?

黒:そうそう。その前はねほとんど米俵に入れて、木でね、畳2枚分ぐらいの大きさの部屋を板壁して、出入り口は板をこう、1枚ずつ上から入れて、扉にするわけ。そこん中に入れてね、新聞紙で目張りして、貯蔵した。

森:それは昔からやっていたんですか?トタンなんてのは最近ですか?

黒:そうそう、それの後ね。戦時中ぐらいから。それ以前は板とかで目張りをしていた。

そのころは稲の収穫なんかも足踏みの回転式の脱穀機があったけんね、ほとんどは足踏みの回転式でね。

森:手間が違いますもんね、あるのとないのとでは。

黒:うん、ぜんぜん違う。選別なんかもトウミっていうてね、回して風を送ってね。ほんときつかったもんね。

森:結構重労働ですもんね。

黒:体はみんな元気やったけんね、ヒフクっていうてね、わらで編んだのにこう、広げて、干して、で夕方温かいうちにたたんで。

森:洗濯も小川で?あっ井戸水だったんですか?

黒:うん。洗濯は川の水もあったしね。

森:洗濯に使われるぐらいきれいだったんですね。

黒:はい。

 

山:この近くは宗教寺というか、お坊さんはいらっしゃるんですか?

黒:うーん、この辺はねこの部落には50戸ぐらいあるね、宗派は3つぐらいあるね。おんなじ宗派でも別のお寺になってますもんね、やけんこの辺は浄土真宗がおおか。浄土真宗もお寺2つぐらいに別れとうもんね。曹洞宗、真言宗。浄土真宗がおおか。

森:黒川さんの家庭はどこの宗派に属してるんですか?

黒:お寺?浄土真宗この辺は鳴石にあって、里にも津にもあるよ。(この後地図でお寺の位置を確認)田尻家の大地主と関係のあるお寺があるたいね。

森:田尻家とゆかりのある?

黒:うん、この辺にゆかりのあるのがあるね。結構お寺があるね。

 

黒:県知事さんの名前の地名。道路を作ってくださった方。30年前ぐらい。父親が県会議員だった。戦後初の選挙のとき。黒川町のほうが由緒ある家庭。黒川太郎左衛門という武将がいた。

 

森:向かいのマツシマ?コウシャホウ跡(地図参照)ってのは何かあったんですか?

黒:ずっとこっちのほうにね海軍工場というか軍艦を作るとこが川浪造船所っていってね、戦時中、船とか兵器とかを守るためにコウシャホウの陣地の船があったんやろうね。そっちのほうにもあったけんね。米軍機もずっと飛びよったもんね、警報なると学校も行かんで帰ってきよったもんね、登校しようときは。学校行った時は近くの山に避難せんべんたい。大変やったよう。

森:防空壕は?

黒:山ん中にあった。この辺は各家庭にあった。うちは裏にあった。もう無くなってしまった

森:この辺は空襲の被害にあったことはあったんでしょうか?

黒:銃撃はされた。爆弾とかは見たことがない。B29のチラシ、ビラがあった。拾ったことがある。

森:それはどんな内容だったか覚えていますか?

黒:覚えてないねー、怒られよったけん。もう終戦の時に小学校1年生やったけんね、もう覚えとらん。空襲警報で帰るとは楽しみにしとった。怖かった。

 

 

森:戦時中に戦争教育はあったんですか?

黒:小学校1年生だったので覚えていないですね。

森:先輩のこととかは聞いてませんか?

黒:集団登校のときはやかましかったですね、二宮金次郎、あの銅像の横に奉安殿といって天皇陛下の肖像画なんかがあった。あれなんかを参るときは厳しかった。

森:こういうところでもそういう風なのはあったんですね。

黒:学校におるときの空襲警報は怖かったですね。

 

森:昔は葬式って言うのは今みたいにそれぞれの属する寺のほうにお任せしていたんですか?

黒:そうですね。土葬がですね35,6年前までやなかったんじゃないですかね。

森:土葬っていうのは禁止されたんですか?

黒:禁止されたからではなくて、自然となったですね。火葬場がそのころにできたとやないかですかね。土葬はですね、そのころが私も一番若かったけんね。いわゆる穴を掘らんといかんで。高さこれくらいですかね、座ったような形で入れてですね、そしてみんなで神輿のような感じに入れてね、4人とか8人で担いで、その時通るような道はなかったけんね、山道をきつかったよ。放り投げるわけにはいかんしね。

森:それが霊柩車の代わりだったんですね

黒:そうですね。きつか道やけど途中で休むとこも無かとでしょ、若いから体力なんかはあっても肩なんかが結局鍛えてないからですね、痛かったですね。放り出すわけにもいかんですし。もうあの穴掘りはほんとに疲れたよ。上にいっぱいおってもさびしかったもんね。棺桶って言うんですけど神輿みたいなのはまだ残っとうかもわからんね。なかなかそんなのは燃やすわけにもいかんしね。観音様のお堂の裏に残っとるかもね。

森:それは使いまわしだったんですか?

黒:そうですな。いまもあんときの名残でですね、小さなカサってのがあるんですよね。亡くなった時、紙を張りなおしてですね、色紙なんかを。竹につけてですね、葬式のたんびに五色だから5本ですね、お坊さんから引導文を書いてもらってね、親戚の方に渡す準備をしてから、この辺の地域ではまだ亡くなった時は最優先で仕事を休んで、朝から晩まで、半日あれば済むとばってんですね、食べて、酒飲んで、送り出しちゃるんよ。このごろは斎場でするのが多なってですね、もう霊柩車のところまで持ってくのが関の山ですね。五色の旗とカサだけはするとですね。地元での葬儀はなくなったですね。

 

黒:だんだんこの地区の田んぼ、畑は荒れていくとやないかね。補助金制度もらいようけんが部落に迷惑をかけんごと毎年一生懸命しようばってん。補助金制度なんかがなくなったら、やっぱり部落に迷惑かけることもなかけん、だんだんだんだん田畑も荒れていくんやなかろうかな。補助金をもらって水路とか道路とかの修繕するとばってん。

森:後に継ぐ者がなくなったらいずれは…

黒:もう無くなってくと思うんですね。

 

C 補足事項

l           黒川さんの宅は築百年、改築を重ねて今に至る。

l           この辺りの家はなぜか部屋の壁に刀を飾ってあった。だけど刀鍛冶はいなかった。

l           主食は米と麦を半々で混ぜていた。終戦後は定番の芋飯。

l           7月のはじめ頃、各家庭でタノミジョウという豊作祈願のためのお供え物をつくった。米の粉を挽いて練って、粘土細工のように米俵や稲穂や牛の形のものをつくって廊下や縁側にお供えしていた。子供たちにとっては楽しみだった。

l           祭りの際、黒川さんは小学校上学年、中学校の頃に鶏を絞めるようにいわれていたらしい。雄鳥で絞めるのはたいへんだった。

l           この辺りでは夜這いはなかったが、海辺の近くには遊郭、劇場があって先輩たちが遊びにいっていたらしい。

l           水不足のところや炭鉱に貯水槽を建設中、ため池はすでに4つあるが山の上は水がたまりにくい。水は大切であるが貯水槽の建設は部落にとって負担になった。

l           部落同士の争いはなかった。漁師村との関係は良好。

l           昭和40年ぐらいに伊万里と山代町が合併。当時、山代町は人口も多く、経済は炭鉱もあり豊かだった。

 

l           伊万里の町に押されないように付近から1人は県会議員を出していこうとする取り組み。行政区画は昭和30年代は流動的、40年代ごろに安定してきた。

l           国道は20年代に完成。

l           黒川さん自身、鉄道は使ったことがなく、車ばっかり。伊万里大橋の完成で便利になった。

l           山火事は小さいものがあった。地名は鎌倉以来ずっと変わっていない。

l           山道のお地蔵さんに杖があった、上りの時だけ使い、下るときはおいていくので杖がたまっていった。

l           つつじの名所竹古場、県立公園になった。

l           農協の牧場は売却され、個人の酪農になった。

l           部落の地区の作業に働きに行く人が減る。仕事は2日あり、行かないときは1日につき5000円を部落に払わないといけない。仕事がきつく、割に合わないため参加者が少ない。

l           部落には役が多い。水役、ポンプ役、区長など。水路の掃除は横が崖なので危ない。

l           鉱窪(コウクボ)は炭鉱のあった時に落盤の起きた場所。地盤沈下し、地上に穴が開いた。被害者はいなかった。

l           水路に名前があれば便利だが、名前は付いていない。場所を示し合わせるときは大雑把に目印で判断。柳辻の上のほうとか大桜の上のほうとか。水路の仕事はいやいやだが必ず参加していた。今では参加者が少ない。

l           地元でやる結婚式は少なくなった。昔は家庭でしたり、公民館でやったり。なるべく地元でやろうという動きもあった。

l           結婚式の時に、何が何でもこの家から出ていったらいかん、頑張らないかん、辛抱せないかんという歌があった。カマンフタカブセ、タンスナガモチという歌。

l           共同田植えは土地の多少にかかわらずあっていた。働き手は総出で行った。いまは忙しくなった。若い女の人たちは炊き出しなどが大変だった。人の土地を手助けはしていないが、他の人に任せたりはしている。

 

Dまとめ

 今回は地名調査といいつつ、有用な情報はあまり得られませんでした。理由としては、我々が黒川さん一人に頼りすぎ、部落の他の方に話を聞くことができなかったこと、話を聞かせていただいた黒川さんが部落の中で比較的若い世代であり、地名に関してはあまりご存じなかったことがあげられます。しかしながら、今ではもう失われた部落のいくつかの風景、そこに生きる人々の営みなど我々の世代ではもはや目にすることのできない多くの貴重な話を聞かせていただきました。苦笑いを浮かべながら、部落の運営は大変だとおっしゃっていた黒川さんですが、我々に語るその言葉の端々に、自分の故郷に対する深い愛情がにじみ出ているのを感じました。城の豊かな田園風景が今も頭の中に残っていますが、そのような景色が失われていくのだと思うと、今回のような現地調査のもつ意義や大切さが、理屈ではなく直感的に理解できます。どのように小さな場所であっても、人がいれば歴史は作られます。その一端を掘り起こすことのできた今回の経験は我々の人生の大きな糧となってくれました。


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