現地調査レポート 2009711日実地  

                                           光安健都

                       和野紗央里

 

·            調査地域

      佐賀県伊万里市黒川町干潟

·            協力していただいた方

      兼武秀行さん(昭和30年 54才)

 

調査報告

A.)干潟の歴史

・古代

 大化の改新後は、肥前の国、松浦郡波多郷に属していた。その後943年(天歴3年)に、渡辺綱の曽孫である源久(みなものとのひさし)が岸岳山の賊を滅ぼした功で、松浦郡の領主となり、御厨に城を築き上げ城主となった。この者が松浦党の祖である。

 またこの辺りははっきりしないのだが、1112年には、波多一族の石志家より佐源太夫が黒川牧ノ城に移ったという。ここから、佐源太夫は黒川姓を名乗り黒河郷と松浦南郷を領した。また、牧の城は海辺の城だったために、海辺(うば)が城と呼ばれ、それが転じて姥が城となったとも言われる。

 源久の子源持(みなもとのたもつ)は、1150年(久安6年)に岸岳城を築き、上松浦の領主となって波多姓を名乗り、17代続く波多城城主の初代となった。

・中世

 初代城主の波多源次郎持は、1159年(平治元年)の保元の乱にて戦死した。その後城主の代は移り変わり、17代城主波多三河守親は秀吉の怒りに触れ筑波の国に流される。そして、1594年(文禄3年)に岸岳城は滅ぼされることとなった。

 黒河については、初代の頃からこのときまでほとんど記録が残っておらず、何が起こったのかはよくわかっていない。ただ、黒河家は代々佐源太夫を襲名したようで、松浦党の中でも主だった一族の一つだったようである。そして、黒河家も、岸岳城の壊滅と運命をともにすることとなった。

 当時の資料が少ないのは、ひとえに江戸幕府による岸岳残党の詮索が厳しく、人々が焼き捨ててしまったからではないだろうか。その証拠に、松浦党に属した人々の慰霊碑は、討伐からかなりの時が過ぎた後に作られているのだ。

・干潟

 干潟の歴史はこの頃からはっきりとしてくる。もともとはあのあたりも松浦党の一拠点だったのだが、寺沢志摩守の松浦党討伐によって他の拠点と同じく滅ぼされた。それからも寺沢志摩守による岸岳残党への弾圧は厳しかったのだが、後年岸岳末裔の祟りや世間の悪評に気づき、鎮撫のために岸岳にゆかりのある者を庄屋に任命した。兼武、保利家のものがそれにあたる。特に兼武家は、もとは波多姓を名乗っていたものの、それを憚り名の兼武を家名としていた。若宮神社の記録によれば、初めて干潟に住みついた人は、永禄の頃、保利義太佐衛門という浪人だったという。

 その後、現在でも保利、兼武姓の人が干潟には多く住んでいる。

 また干潟には「イロハ石」という弘法大師の筆跡を残したと言われる大岩がある。しかし、実際には大正頃に大師を崇拝した人が、筆跡をまねてつくったものであるらしい。

 

B.)地名について

·            地図の地名表記の誤り

 若原→岩原

 大久保→天久保

 粟→栗山

    授産社木弱→授産社搦

·            地図の地名の空欄部

 干潟の下;イボイシ(疣石)

 兼武義郎さん宅;ヒガシ(東)

 波多健さん宅;ナカ(中)

 大西稔さん宅;ニシ(西)

 住宅地図29のC−2下辺り;タツタリイワ(たつたり岩)

 “骨蓬岳”の文字の右上あたり;ウマイリガワ(馬入り川)

 小字の“干潟”の文字の下あたり;カミノマチ(かみのまち)

 住宅地図29のD−2辺り;カキノキクボ(柿の木久保)

 住宅地図29のA-3上の斜線部;ムコウツツミ

·            地名の由来、特徴等@(小字)

 リュウガミネ(竜カ峰):小高いところ。(山ではない)

 アカバエ(赤栄)

 イボイシ(疣石);赤土。疣のような石が多いため(小石が堆積してできた)

 イワワラ(岩原);石がごろごろしていることから。

 コッポウダケ(骨蓬岳);熊の権現の魂が祀られている。“蓬”は“よもぎ”。

 アミノトウ(網ノ頭);地形的に一番出っ張っているところ。

 ナカノサコ(中ノ坂);読んだままの意。

 シオヤコウゲツ(塩屋光月)

 アマクボ(天久保);窪地。

 ワニグチ(鰐口);“鰐”は鮫を指す。かつてここは入り江で、鮫が入ってきたことから。

 福田;入り江が入ってきていた。

 ジュサンジャカラミ(授産社搦)

·            地名の由来、特徴等A(小字以外)

 ヒガシ(東);兼武義郎さん宅

 ナカ(中);波多健さん宅

 ニシ(西);大西稔さん宅

・東、中、西は個人の家を指す。

    タツタリイワ(たつたり岩)

    ウマイリガワ(馬入川);牛馬をそこで洗ったことから。

    カミノマチ;申田彦を祀ってある。

    カキノキクボ(柿の木久保)

    えいのしり

    おつげこ

    むこうつつみ

これらの名称は日常的にもあまり使われず、小字で言うことが多いらしい。

 

 “干潟”と書いて“ヒカタ”と読むのが正式。“ヒガタ”は“ヒカタ”が訛ったものである。

 “あのね、ヒガタじゃない。ヒカタっていう。Wordでいれたらさ、ヒカタで出るさ。濁音は使わん。皆ヒガタて言うやろ?あれ、訛っとるだけ。”

“地名そのものにね、いわれがあるとさ。30度の角度、調べた?”“これはね、吉野ヶ里にもそれがある。” “これ昔から世界中でわかっとる。”“エジプトのね、アブシンベル神殿。年に1度だけ一番奥まで日が入る。それが30度の角度。”“それがね、松浦党の拠点なってる。ヒナタゴウ(日南郷)。”“日が昇るところ。それが元々ヒカタ。日が昇る方向。”

 “日方”の後、“日頑”→“干方”となり、最終的に現在使われている“干潟”となった。“干方”という文字は天保5年6月には“申田彦を祀っている”という資料に使われていた。“日方”、“日頑”の“日”は先にも述べたように太陽の意味である。また、“干方”、“干潟”の“干”は“干す”、つまり太陽の意味であり、漢字は異なるが同じ意味を表していることがわかる。“日方”から“日頑”になったのは、耳で聞いたままに漢字を当てはめたからではないか、とおっしゃっていた。また、干潟とは潮の引いたところを言う。

 

 地図からもわかるが、地滑りの跡がある。

      1693(元禄6) 地滑りが起こる

      1809(文化6) 埋め立てをし、ウラガタ(浦潟)となる。光月新田、浦

                           潟新田を作る。

      1893(明治26) 再び地滑りが起こる。

 地滑りによって、かつてあった入り江はなくなってしまった。

 

 

次に干潟以外の地域について述べる。

     トビタロウイワ(飛太郎岩);タロウ(馬の名前)と共にここに飛び

                   込んだことから。

     ウラブン(浦分);浦=海の意。

 

 

 話をしてくださった兼武さんは黒川小学校、黒川中学校に通っておられた。現在 と統合(昭和61年)して、県道塩屋大曲線沿いにあり、黒川中学校は波多津中学校と統合され、 中学校となっている。

 黒川中学校の前を流れているタテカワ(立川)。元々この辺りは入り江であったが、ヨコドイ(横土居)を塞き止めて干拓し、人工的に作られた。横土居〜ドイガシラ(土井頭)までの工事は慶長10年に終了したとされている。この頃、黒川中学校付近で甕棺や黒曜石が出土した。

     塩田;今は跡がない。兼武さんが子供の頃は、まだ塩田の跡があったらしい。宅地

        の道は塩田期のもので、唐津藩が埋め立てた。

 

C.)産業について

 ・農業

   昭和20年代〜30年代にかけて、荒れ地を開拓して果樹園を作った。みかんの栽培が盛

  ん。斜面に木を植え、段々畑を作った。みかんの産地であり、商人がわざわざ買い付けに

  来るほどで、前世代まではみかんの栽培だけで生計を立てることができた。みかんの栽培

  と並行して田んぼも耕しており、米も自給できる程度には作られていた。みかんの栽培が

  盛んになったのは、潮風が良かったからであり、その証拠に、他の地域でもみかんの栽培

  を始めたが干潟ほどうまくいかなかったことが挙げられる。昭和40年代後半、みかんの価

  格が暴落したため減反政策が行われた。それが原因で半分以上もの畑が荒れ地となってし

  まったが、一切の補償も出なかった。現在ではみかんの栽培だけで生計を立てることはで

  きない。

   干潟では、自主的に率先して、他の地域に先駆けて交換分合を行った。

   肥料については、天然肥料と共に、化学肥料も用いられていた。

   田んぼを耕すときのために、また、肥料(牛糞)を得るために役牛を飼っていた。

   副業として、炭焼きを行っていた。

   現在は、一般的に輸入品が増えてきているが、それは干潟も例外ではない。

 

・工業

   名村造船所は昭和48年10月に稼働した。

   七ツ島工業団地は埋めて全て更地にした、県所有の土地である。県は土地を貸し出して

  おり、工場(鉄工所などといった造船所関連のものが多い)などが立っている。この地は

  まだ発展途中である。しかしこの地区の人口は特別増えておらず、名村団地や他の地域(長

  崎県など)から働きに来る人が多いようである。

 

・畜産業

   昭和30年代半ばまでは役牛しかいなかったが、機械が導入され、畜産業が始まった。

  現在では伊万里牛が有名で、福田の牛舎や畜産団地で飼育されている。

 

D.)生活について

 ・食生活

 ほとんど自給で生活していたそうだ。お米に、野菜に、鶏の卵に魚。野菜は基本的に自家製で旬のものだけを食べていた。魚は川でとったり、瀬戸町から毎日来る魚屋から買ったりしていた。新鮮なものしか食べることはなく、切り身なんてあり得なかったそうだ。また、雨が降った後は池でうなぎをとり、罠を自作して鳥をおかずにしていた。また、牛肉などが滅多に手に入らない一方で、鯨肉はよく食べたという。伊万里には当時世界最大の鯨肉精肉業者があったほど、鯨がよくとれた。

 そういった生活の変化は東京オリンピック(昭和39年)を境目に起こった。食事を買えるようになるとともに、埋め立てや工場の進出などが進んだ結果、かつてのような自給的食生活はできなくなってしまった。しかし今でも兼武さんは、切り身の魚は買わないと言っておられた。

 

・遊び生活

 基本的に外で遊ぶばかりだった。山や海が学校みたいなものだったという。山では通学途中に季節の食(あけび、山芋、山桃)をとったり、海ではタツノオトシゴを捕まえたりもした。小刀(肥後の守)が一番の遊び道具で、お小遣いをためると一番に買いにいったという。自分できちんと研いで、鉈やノコも使って木を切ったりして、そこからまた木の遊び道具を作ったりした。

 中学の頃からは部活が忙しくなったりしたのだが、兼武さんは部活を放り出して外で遊んでいたそうだ。テニスラケットで魚を捕ったりして、当時は鯨の腱でできていたラケットをふやふやにしていたという。

 

・その他生活

 やはり生活は昭和40年頃を節目に大きく変わったそうだ。テレビが入ったのもこの頃で、学校の講堂には一つテレビがあったそうな。バスは戦前から木炭バスが通っていたが、戦後はもっと広い場所を網羅するようになった。と同時に、マイカーも急速に増えだした。プールの当たりには海水浴場があって、貸しボートもあったりした。最近(ここ十年)になって急にイノシシが増えだして、苦労しているらしい。電気柵や捕まえて殺す、といった対策もとっているが、あまり決定的な効果は得られていない。

 

 

以上が現地調査の報告である。

 

 

行動記録、感想等

8:30頃 九大学研都市駅でバスに乗り込む。

10:30~ 現地到着。干潟公民館へ向かう。お話を伺う。

12:00~13:00頃 美味しく昼食をいただく。

13:00~ 再びお話を伺う。終始和やかな雰囲気。

15:40~ 近くの海水浴場へ連れて行っていただく。

16:25~16:45頃 帰りのバスをバス停にて待つ。雨のため兼武さんのお言葉に甘えて車中で待たせていただく。

18:30頃 九大学研都市駅に着く。家に帰る。

 

(光安健都)

 今回の現地調査は、確かな収穫があっただけでなく、私にとって非常に楽しいイベントとなった。

 当日は、事前の指導の上で準備に準備を重ねたとはいえ、やはり初めての経験だったので、私は不安と緊張で一杯だった。そんな心情に呼応するような曇り空が、不安にいっそう拍車をかけたのだが、どれもこれもが杞憂となる。

 まず、軽トラで迎えに来てくださった兼武稔さん。フレンドリーな稔さんのおかげで、かなり緊張は緩和できた。加えて、案内された公民館は(山だからだろう)とても快適で、自然と調査に気持ちが入っていけた。

 いざ調査に入ると、話役は兼武秀行さんに交代となったのだが、秀行さんは事前に調べごとをしてくださっていたらしく、とても調査がスムーズに進んだ。

 

 その土地に長年住む人に聞くからこそ、確かな根拠を元に正確な情報を得られうる。ネットや、本にさえ載っていない情報を手に入れられるという意味で、現地調査には確たる意味があると実感した。

 

 調査は終始和やかな雰囲気で、昼過ぎぐらいに終えることができた。調査に協力してくださった方々は、とても貴重な情報を提供してくださっただけでなく、昼食までご馳走してくださった。本当に、感謝してもしきれない思いである。

 

 「歴史が好きだ」とおっしゃると同時に「誰も町史を読んでいない」と嘆かれていた秀行さんの姿は印象的だった。私も実家に帰ったら、どこかにあるはずの町史をめくってみようと思う。

 

(和野紗央里)

 現地調査は、率直に言っておもしろかった。当日の朝はあいにくの雨であったし、実際に聞き取り調査を始めるまでは不安な気持ちでいっぱいだった。しかし、事前に連絡を取らせていただいていた兼武稔さん、お話をしてくださった兼武秀行さんが温かく、そして快く私たちを向かえてくださったおかげで、楽しむことができたのだった。

 秀行さんよりも年長の方もいらっしゃったが、秀行さんが黒川町干潟で一番の物知りらしかった。稔さんが“(秀行さんは)いっぱい知っとるけえ、何でも聞いてよかばいね。”とおっしゃったほどである。秀行さんのお話の中で、“干潟”の読み方について、“ひかた”か“ひがた”か、で少し言い争いのような感じになったのが印象的である。

 真剣に干潟の歴史を伝えようとするそのお姿は、私たちも学ぶところがあるのではないだろうか。

 

 昼食はお弁当とお茶を出してくださり、稔さん、秀行さんと公民館に来ていらしたお二方と一緒に、ありがたくいただいた。一時間ほどお話をしながらゆっくりと食事をした後、秀行さんに午前中に聞ききれなかったお話を伺うことにした。午後からは、午前中に感じていた緊張感がほとんどなくなり、リラックスし、また楽しみながらお話を伺うことができたように思う。

 お話を聞き終わったとき、まだ帰りのバスまで50分ほどあった。秀行さんにそれを告げると、近くの海水浴場に行くか、と言われ、小雨が降ってきていたが車で海に連れて行っていただいた。私は干潟のような自然の多い場所にはほとんど行ったことがなかったので大変感動した。

 帰りのバスの時間になったので、来たときに降りたバス停まで車で送っていただいた。また、雨が本格的に降り出したので、秀行さんのお言葉に甘えて、車の中でバスを待たせていただいた。しばらくするとバスが来た。私は感謝の気持ちを胸にバスに乗り込んだ。行く前までの不安が嘘のように、充実した時間を過ごすことが出来た喜びを感じた。

 

 行って実際にお話を伺うまでは、干潟にこんな歴史があるなんて、思ってもみなかった。 “歴史”というとつい教科書に載ってあるような歴史を想像し、当然自分が住んでいる地域にも歴史があるはずなのに、それについては全くといって良いほど考えたことがなかった。しかし、今その姿勢を改めよう。身近な地域の歴史を知ることは、私たちの知的好奇心を満たすだけではなく、その土地だからこそ生まれた先人たちの知恵をも学び取ることもできるのだから。


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