文系コア レポート

「歴史の認識」

場所 佐賀県伊万里市福田

 

 

 

 橋村 京介

 藤 真二郎

 

 

 

 

 

 

話を伺った方 松尾正さん

 

今回、佐賀県の伊万里市黒田町福田に関する調査を行った。

 

この村では、農業が基本的に主で、漁業のほうは自分たちが食する程度しかしていなかったそうだ。

この村では、小さな山がたくさんあって水田に水が引きにくいので、干拓を続けて水田を広げた。

江戸の初期に前新田の干拓があった。それまでは、この佐賀県伊万里市黒田町福田には田んぼが不足していて、十分な食糧が得られていなかった。その後、鰐口新田の干拓が小さな湾を閉め切って江戸中期から後期にかけて行われた。それによって、この地域の食糧はある程度みたせるようになった。そこでは龍神様をまつっている。龍神様については、祭りに深く関わっているので後ほど詳しく説明する。明治19年に、鰐口新田に続く形で海浜公園辺りの土地を干拓している。この水田は地主の所有であったために、昔の人々は小作農(田畑など農地の所有者である地主から農地を借りて耕作し、小作料を支払って農業を行っている農家のこと)をして生計を立てていた。その時の庄屋(集落の中で年貢諸役や行政てきな業務を村請する下請けなどを中心に、村を事実上管理していた役職)の屋敷は、今はもう無人屋敷となっている。この水田の大きさは、約11丁であったが、実際は泥や海水が侵入してきて使い物にならなかったので、6丁くらいしか水田として使うことはできなかった。そのうちの3丁を小作で使っていたそうだ。残りの3丁は、海水の浸入を防ぐために、葦を生やしていたらしい。(丁とは面積の単位。1町は10反で3600歩、太閤検地以後は30000歩と定められた。一丁は約99・18アール)。

 

終戦の2〜3年ほど前に塩田を作るために、国が地主から水田を買い取った。しかし、その後すぐに終戦となってしまったためにあまり使われることはなく、はらいさげとなってしまった。お話を伺った松尾さんも20歳くらいの時に開墾に参加している。そのころは耕運機などなかったので、全てが人の手で行われたため、4〜5年程作業に費やした。その時、塩田をつくるための埋め立ての人でとして、朝鮮から人々を100人ほど村につれてきた。その朝鮮の人達は木の柱に藁を編んだだけの屋根に床はすのこの様な、雨風をしのげる程度のひどいところに住まわされたというが、この村の人々は一緒に食べ物を食べたりしたりと彼らとの交流はうまくいっていたということである。終戦後は朝鮮の人々による解放のお祝いの行進があったという。このときもこの村の人々は朝鮮の人々と仲が良かったので、危険なことはされなかったそうだ。現在、福田に朝鮮の人々(の子孫)はほとんどいない。終戦後は、米は宝物のような存在であった。田んぼは国によってその数や取れ高は厳しく調べられていたらしいが、山の奥の方には国の目を逃れた隠し田を持つ農家もあったそうだ。その為、この隠し田は納税の対象から回避することができたので、取れた米は闇市場にもっていかれて非常に高い値で売られていたという。

昭和10年頃には農業のほかに、近くの炭坑で働いたりもしていた。昭和12年ごろに大日照りがあったらしく、田んぼに水を引くことができなかったために米が不作だったが、炭坑のおかげで乗り切ることができたそうだ。昭和42年にも干ばつがあったが上新田(村の田んぼで上のほうに位置した田んぼ)は溜め池を使ってもちこたえた。この村では川から水田に水を引くことが難しいので、このため池から水田に水を引いていたそうだが、水はとても貴重であったそうなので、どの水田から先に水をひくか、優先順位を決めて水の争いを防いでいたそうだ。このため池は、山の上のほうにあったことから村の人々から、親しみをこめて「上のため池」と呼ばれていたそうだ。

また、昔は耕運機等がなかったため昭和30〜35年くらいまで牛がいないと畑を耕せず仕事にならなかった。その為、この周辺では当時は牛をかっっている農家がほとんどだったという。その後、耕運機をつかうようになる。その時の耕運機代は牛を売って得たらしい。その後14〜15年後にトラクターが使われるようになった。この村では昔は米のほかに、みかんを作る農家もあったそうだが、昭和37〜38年にピークを迎えた後は衰退していき、現在はみかんを作っている農家はほとんどないらしい。

 

 この村ではわかりやすいように、村の水田に、村の人たちにより呼び名がつけられている。

昔、唐津藩に献上するための米を蓄える倉庫があった場所にある水田は、「ごう蔵」と呼ばれている。海見岬のところにある水田には「ぐんざき」(海見岬がなまったものと思われる。)、「たてばた」、干拓して作ったためにぬかるみやすい水田は、「ふったった(ふか田)」という通称がつけられている。こういうぬかるみやすい田んぼは、田植えなどの作業はやりにくいというが、干ばつになった時には、田んぼの水分が蒸発しにくく、便利であったという。

集落にも通称が付いているらしく、ここの集落は坂の平らなとこにあるので、この辺りの人々からは「坂平(さかひら)」と呼ばれているらしい。

村の家にも通称がつけられているらしく、「にしご」、「川上」、「川下」、「まつば」

、「うらまる」、「むかい」、「やまぐち」等があるらしい。

 

この村では、水田を干拓した際に祭った龍神様(*)を祀る御祭や昔この村にいた庄屋がこの村を去った時から行っている祇園祭(祇園神(スサノオ・牛頭天王)を祀る神社に奉納される祭礼である。)。村の赤ん坊が夜泣きをしないように観音様(仏教の 菩薩の一尊 弥勒菩薩)を村で祀っているので、その御祭。また、「他じまの春篭り」「田じまの秋篭り」と村の人々から呼ばれる御祭など、年に9回ほど行われている。

 

 

(*)龍神様について

この村では龍神様をまつっているが、果たして龍神様とはどういったものなのか。日本の古い伝説のなかで、雨乞いをしていたら瑞雲と稲妻とともに龍神様が現れて雨をもたらせていただいと伝説のようなことがあり、そのことからわが国では祭りのなかで龍神様を祭る神社が多くある。この福田もそうなのである。

日本の神様の中でも神様の呼称はいろいろあり、明神様、大神様、弁財天様等があり、これは階位を表すもので、龍神様も神様のひとつである。また龍神という言葉がそのまま使われていなくても龍神を表す場合もあり、その逆もあるのである。龍神と呼称されながら、へび神だったり龍陀神であったりする。そして、龍神は神の世界でも最高位の称号を示すものであり、この世界の中であらゆる問題を解決できる力をお持ちである神様のことであるという。

龍神は神様の中でも位の高い神であることは確かだが、龍神のさらに上にすべての神仏を統合している神々様を天上王神様と呼んでいるそうだ。天上王神様とは、天主天帝様を中心とした、雲上々原(神の行政機関のようなもの)に御参集なされる神々様の呼称らしく、各神界、神族の長を主に天上王神様という呼称でお呼びになっている。天上王神様は、といわけ優れた全知全能の力をもっているので、龍神およびすべての神仏を擁護されている。

また龍神様を見たというものによると、その姿は全宇宙に愛のみ光を与えるため、万物のすべてのお姿を含めた姿であるという。たとえて言うならば、眩いばかりに光る太い髯を持った雷光のようなお姿であり、目は慈しみ深く、深遠な宇宙の神秘な輝きに満ちたものである。
角は生命の力を現し、髯は長寿のしるしであり、左右に伸びた口ひげは万物実相の方位を示すものと見ることができるという。されにその巨なる手足は天と地を現している。また、手に持つ如意宝珠はすべてのものが備わっているという象徴であり、すべてを包みこむ愛の力のしるしなのである。

しかし、龍神様の本当のお姿は、私たち人間とほぼおなじお姿をなされている。そのお姿の時は太陽神として崇拝され、天空を駆けるときなどに龍体のお姿の時には、龍神として崇拝されてきたのだという。
万物を育み、慈しみの心でこの大宇宙を守護いただき、生命の源となっている存在が、龍神であり太陽神であるという。即ち龍神と太陽神は表裏一体の同一神なのである。

龍神様のお姿は、なかなか拝することはできないものである。目に見えぬから神(神霊)であるわけだが、神様より祝福という意味合いでごくまれにそのお姿を拝させていただく方もある。
それは、心のきれいな人やご先祖様の関係などによる良き御守護神様の御守護にあずかっている人、また信仰をする上で、神が見ているから頑張って生きてゆきなさいという意味あいのものである。
目に見えぬ龍神様のお姿を龍神総宮社の大護摩焚きなどでは、炎とともに龍神様のお姿がよく撮影されている。これは、写真を撮る人の波長の関係もあるそうなのだが、現代のカメラのシャッター速度が早くなった点もあるそうだ。早い波長の神霊の動きをとらえやすくなった点もあげられる。

 

 

また、この村では、昭和37〜38年頃まで冬に炭焼きも行っていたらしい。

そこで得た炭は燃料にしようしていたそうだ。その後は燃料がプロパンに移り変わったため、現在は炭焼きは行っていないそうだ。

この村では、山は個人の所有なので、炭焼きは自由にやっていた。


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