前期文系コア科目「歴史の認識」現地調査レポート・佐賀県 肥前町寺浦
九州大学 農学部2年 案浦 拓也
岡田 元弘
(聞き取り相手)藤本薫さん 昭和21年生まれ
藤田安雄さん 昭和12年生まれ
「書を棄てて野に出でよ。」の言葉に表されるように、この現地調査は激動の変化を遂げた集落の過去の姿を記録することを目標に、師を現地の名士とし、「野に出でて」自分の目と耳と感触といった五感のすべてでその記録を作る。自分の足で集落をめぐり、話を聞き、目に光景を焼き付ける。この一連の作業の中で、半世紀前の、しかも自分と同じような年頃の人間が経験したことを、感じたことを自分の今と照らし合わせて、歴史の認識を深める。
今回私たち2人が訪れたのは佐賀県肥前町寺浦という、海と山に囲まれた棚田の美しい集落であった。この肥前町寺浦は道々の勾配が激しく、途中の道ではまだ舗装も全くされていない場所もあった。この舗装のされていない道には山カニが走り、イモリが田の中で息を潜め、季節は初夏だというのにウグイスが鳴いていた。途中立ち寄った旅館でも館内をカニが歩くなど、自然と人が共存する場所とはまさにここのことだと思ったほどだ。自然に溢れた、ゆっくり時間の流れる集落であったが、先にも書いたように棚田の設備はしっかりしており、それだけでこの集落に何かしらの変化をにおわせていた。
九州大学伊都キャンパスからバスで二時間半かけて目的地へ向かった。バスを降車後、急勾配の道を道なりに進むと、集落の嘱託員である藤本薫さんが途中まで迎えに来てくださった。棚田にみとれていて遅くなった私たちを心配して、わざわざ迎えにきてくださったのだ。今回の現地調査に関しては地元の嘱託員の方に話を聞くことになっていたが、藤本さんの紹介で集落のことに詳しい藤田さんに話を聞くことができた。藤田さんは集落の集会場のすぐ上の所に住んでおり、藤本さんが呼びに行くとゆっくりとした足取りで集会所にいらした。以下にその内容を記録する。
・寺浦という地名について
昔、この肥前町寺浦の地方には和尚が住んでいた。当時和尚というものは結婚してはならないという決まりがあり、この集落には独り者の和尚ばかりが住んでいた。そして寺があったこの地方はいつからか「寺浦」と呼ばれるようになった。文化庁の調べによると、最初の部落は三件しかなかった。
・しこ名に関して
「特にないねぇ」とのことで、こちらは拍子ぬけしてしまった。(しこ名は今回の調査で重要視されていたため)別段特殊な呼び名もなく、「大串新田ぐらいかなぁ、寺浦から川を挟んだ」とのことだった。
・大串新田に関して
この干拓地ができたのは明治30年のことで、毎年鶴が飛来する。鶴は鹿児島県出水市からの帰りに寄るそうだ。鶴が飛来する時期には多数のカメラマンがこの集落を訪れるという。
・集落の変化に関して
明治3年に伊万里県として成立して、そのあとにいろいろ変化してきた。のちに東西と南北で佐賀県と長崎県に分かれ、寺浦は佐賀県に含まれた。昭和13〜20年に大規模な耕地整理が行われ、当時整備ができなかった場所に関しても区画整備された。
・農業に関して
寺浦は本来北向きの集落なので農業に適した土地であるとは言えない。そのため昔は漁村であった。今はレジャーで釣りを楽しむ人がほとんどで、漁業を生業としている人は3〜10人程度であるという。その後農業が始まるが、昭和13年からの区画整理以前は30世帯の家で合わせて8丁の農地しかなかったため、生活は非常に苦しいものだった。本格的に機械を導入した農業は昭和36年以降だという。機械を導入する前は、世帯同士でお互い助け合って農業をおこなっていた。この助け合いのことを地元の言葉で「ゆい」というらしい。また機械化の前は、各世帯に2頭の水牛(貴重な労働力)がいた。機械が導入された後、佐賀県の多くの農家が同じ機械を導入したため、棚田ばかりで農地が少ない寺浦の農家はあまり儲けがでなかったそうだ。
・集落に電気が来た日
有浦町に初めて発電所ができる。この発電所は総発電量50kWの小規模な発電施設だった。ここから電気を引き、昭和10年ごろからポツポツと電気が各家庭に届くようになった。しかしながら今とは異なり、電柱を立てて電気を導入するのにお金がかかった。また総発電量が少ないため、贅沢な家でも1件あたり10W以上は使用してはいけなかった。
・生活を支えていたもの
地産地消の考えから、おもな主食は家で作ったお米であった。またお米を使用して酒を作ったりしていた。このお米や酒は消費するだけではなく、物々交換にも利用されていた。海を挟んで向かい側に「大鶴炭鉱」という炭鉱があり、そこでお米や酒を物々交換したり売ったりしていたそうだ。この大鶴炭鉱に行くにあたって、陸路と海路があり船を持つ家庭は海を突っ切って、船のない家庭はひと山越えて炭鉱へ通った。大鶴炭鉱は戦後に物凄く繁栄したそうだが、今は閉山しており、そういった物々交換などはもう過去の話となっている。
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・農業の現状と課題について
寺浦地域で作られたお米は自分たちでたべる分と、出荷し販売する分があるというわけだがこの出荷用のコメは農協を通じて出荷しているということだ。日本のコメは50%がコシヒカリという田植、収穫の時期が早い品種を採用しているそうだが、現状では「コシヒカリ余り」が起きているということだ。せっかく農家の方々が手間暇かけて育てたお米があまっているという問題があるそうだ。これには藤田さんも「考えにゃいかんばい。」と日本の農政に対する不満を強い口調でおっしゃられた。それと同時に僕ら若い世代にこの現状を変えてほしいという思いがひしひしと伝わってきた。
また現在では農協が大変になったそうだ。なぜかというと、たいていの人は農協を通じてコメの販売を行うわけだけれども、中には農協を介さず、個人でコメの販売をしている人がいるということだ。現在は格差社会といわれ、人々の所得にはものすごい格差が生まれているという日本社会だが、農家の人たちにもこのような格差は存在するのだろうかと質問してみたが、その答えはやはり格差が存在し大きくなっているということであった。これは個人間の格差だけではなく、都市部の農家とそれ以外の農家との格差も存在しているようだ。昔はこのような格差が存在しなかったということなので、農家の人々を非常に苦しめているようだ。まず農業はゼロから米を作れるわけではない。そのためには肥料や、田植えの機械や、コンバインといった農業機械が必要となるためやはりかなりの資本が必要である。さらに農家では昔は「ゆい」という先ほどのべた、農家ごとに農作業を手伝ってもらい、その人に今度は手伝ってやるというお互いに助け合い、支えあって農業が成り立っていたのだが、現在では寺浦地域は一人7000円で雇い農業を手伝ってもらうそうだ。
これが都市部になると6000円になるということだ。つまりここでもう差が生まれているというわけだ。このように人を雇い農業をするという背景には、寺浦地域の過疎化、後継者不足という問題もある。これは日本の農村の多くの地域にも言えることだと思う。この寺浦地域では昔は270~280人が住み農業をしていたということだが、現在は人口では約半分になっているそうだ。さらには若い世代が少ないため後継者も少なく、若い人は唐津など都市部に働きに行っているということだ。専業農家も少なくなり4、5世帯しかないということだ。その専業農家には後継者がいるということだ。後継者のいない田圃はどうなるのであろうか?と質問してみると、将来的には数少ない専業農家の田んぼに吸収されてしまうのだろうと僕たちは予想していたのだが、その答えは少し違った。平野などでは一人で何町もの土地でコメ作りができるわけだが、寺浦地域は平野ではなく棚田である。だから少ない人数で効率よく作れないため、専業農家に吸収という形はとらず、原生林に戻ってしまうのではないかということをおっしゃった。ということは、長年にわたり培ってきた農業の伝統や技術が途切れてしまうということである。この話のとき藤田さん、藤本さんは笑いながら話してはいたものの少し悲しそうな表情をしていたことがとても印象に残っている。
寺浦地域の農業と水について
農業をする農家にとって「水」というものは切っても切り離せないものであり、水が存在しなければ稲をはじめ作物は育てることはできない。またそれが故に地域間や個人間でその水の所有をめぐり争いがおこってきたわけであるが、寺浦地域ではこのような問題があったであろうかと思い質問してみた。
寺浦地域はこのような海に近い場所にあるわけだけれども、昔は「佐賀のチベット」とこの周辺の地域は10年に1度ほど干ばつがあったそうだ。だからそれによって天候にかなり左右された農業がおこなわれていたようである。
近くのため池から水を引いているということである。そのため池は田代溜池、大畑溜池というところから引いているということだ。この寺浦地域はそのため池から水を安定的に引くことができたために、水の所有を求めた争いは特になかったということである。藤田さんによる話だと「東北地方ではかなり水取争いがあったんだ。」ということであった。川の場合は、水位の関係で、下流の農家は上流に比べて水位が下がってしまって水が確保できず争いが多発したそうだ。それに比べてこの寺浦地域は棚田だから、上から水が順番に落ちてくるから農家によって差ができないために、争う必要もなかったようだ。つまり農家の水争いは、水の確保の不平等さから起きてきたのである。
農業の肥料について
農業には肥料も非常に重要な要素であるが、この肥料は今と昔ではどれほど変化してきたのだろうかと質問してみた。
まず昔の肥料は主に牛肥を使っていたということである。昔の農家は一家に二頭は牛を飼っていたそうなので牛肥を使っていたそうだ。またそれだけで足りないので、草を切って肥料ともしていたということである。
そして最近の肥料は主に化学肥料であるということである。(これは寺浦地域に限ったことではないけれども…..。)この肥料は石灰、化石(過リン酸)、カリ(塩酸カリ)からなっていて、農家ごとに配合することによって、肥料としているとのことであったまたこの肥料の変化は農業の収量の観点からも劇的に変わってきたということである。化学肥料が出てくる前は、150~180キロの収量であったそうだが、化学肥料が出てきたことによって、その収量は470~480キロに激増したそうだ、これは二倍以上の収量をもたらしたのである。しかしその収量が増えたことによってコメ余りが出てきたということである。いっぱい作れたのに出来すぎて余ってしまうというのは何とも辛い話である。これは農家の人にはなかなかどうすることもできないことであって、藤田さん、藤本さんからも、この日本の農政を僕たちに今後変えてくれという思いと期待がが、とても伝わってきたのである。
佐賀の生活
佐賀の生活は藤田さんの話によると、黒、白、黄色で佐賀の生活は成り立っているということであった。これはどういうことかというと、黒とは炭鉱のことである。先ほど述べたように大鶴炭鉱に代表されるような炭鉱があったということだ。次に白だがこれは米のことで、今も変わらず稲作が生活の大きな部分を占めていたということだ。最後に黄色であるが、これはミカンのことを示していてこの三つによって生活が成り立っていたということであった。これが時間の移り変わりで現在は、黒は海苔に変わってしまい、白は依然として米ではあるがはてなマークがつくということだ、そして黄色に限っては黄色のみかんから赤のイチゴへと変わってしまったということである。
佐賀の炭鉱は大鶴炭鉱など多くの炭鉱が栄えて2万人ぐらいがいたそうである。しかしその炭鉱も、日本の各地でみられるようにやはり昭和30年前後に閉山となってしまったそうだ。かつては栄えていた大鶴炭鉱が閉山となってしまったため、炭鉱にいろんなものを売って、生活をしていたこの村の人々も非常に大変であったようだ。そのような背景もあり寺浦地域に限らず、佐賀県の肥前町の人口は昔は3万人ほどいたそうだが、現在では9000人ほどしかおらず、過疎化が進んでいると考えられる。
・町の祭りや伝統について
全国のいたるところで、いろいろな由来、伝統を持ったお祭りがあるけれども寺浦地域にはそういった今も続くお祭りというものは存在するのか質問してみた。
昔、この地域には名前のとおり寺があったそうなので、その寺にちなんだお祭りが存在するのではないかと予想していたけれども、寺のまわりにあまり人が住んでなかったためにそういったお祭りは存在してはいないようだ。村の行事としては現在も残っているのは、春夏秋冬で伝染病を避けるために宮司さんを呼んで、祈祷を行うといったお宮祭りがあるそうだ。この行事は年に3~4回行っているということである。次にある村の行事としては、秋(10月)に農産物の豊作を祈ったお祭りというか行事があるということである。これは農業で生活をしている地域独自の行事であり、自分が住んでいる町でもこのようなお祭りがある。現在では区長の藤本さんによって、この行事とともに、区民の運動会も一緒にしているそうだ。そして正月過ぎて7日には正月の供え物などを焼く「おにびたき」がおこなわれているということだ。このおにびたきは大宰府をはじめ全国各地で行われている行事であるようだ。このように大きな祭りというものはないようだけれども、農家の人々特有の行事が昔から今へと伝統として残っているということだ。
・昔の遊びについて
この町の人々も農業だけしていたわけではなく、その息抜きなどでいろんな遊びがあっただろう。昔は今みたいにテレビなど普及しておらず、今と全く違う遊びがあるはずである。そこで聞いてみると、この地域では昔の遊びとしては狂言を見るということをしていたそうだ。村に狂言役者の一座がやってきて行う狂言を村のみんなで見ていたということである。さらにほかの遊びとしては、浪花節を聞いていたそうだ。これはどこか一つの集落に集まってみんなで聞いていたということである。いまの人々はなかなかこういったことをしてはいないけれども、寺浦地域の人々は米作りの傍らこういったものを見たり聞いたりして一息ついていたようだ。そして戦後になり映画館など大勢の人々を集めることができる施設ができてきたそうだ。
また上の写真にもあるがこの寺浦地域には寺浦温泉という宿泊施設もあった。時間が余ったため僕たちも訪れて温泉で汗を流したわけであるが、中に入ってみるとお客さんもたくさんいてにぎやかであった。この温泉は大自然に囲まれていて、片側は山があり、棚田があり、もう片側には海があり、温泉の中から広い海が見える奇麗なところであった。この寺浦温泉は地元の人々がくるというよりも、ほかの地域から、観光などでやってくる人たちが訪れるという印象を受けた。
・昔の家族構成について
藤田さん、藤本さんに昔の家族構成というものはどうであるかをたずねてみると、昔の家族は平均で7~8人兄弟であったそうだ。中には10人兄弟という大家族もあったようだ。10人家族なんて今では考えられない。今現在の兄弟というのは1~2人くらいで、三人いれば多いほうである。自分の周りにも一人っ子の人も結構いる。日本の出生率は二人以下で一人に近い数字なので、この昔の8人兄弟なんてことは今の日本ではなかなか考えられない。
また家族構成も今と昔は大きな違いが存在するのだけれども、そのほかにも結婚の考え方や行い方というのも今とは違いがあるようだ。今日の結婚というものは、互い出会い、恋人になり恋愛結婚ということや、お見合いによって知り合いそれから結婚するなどといった結婚が一般的であるが、昔は互いに知った間柄の人と結婚することが多かったみたいだ。その間には仲人がやはり存在して、今の仲人とは少し役割が違うみたいだけれど、「あっちのをもらえ」なんていって紹介し結婚するということが多かったようだ。実際に藤田さんも何人も仲人をしたみたいである。そして結婚になるわけだけれども、今みたいに会社の同僚や友達などを呼んで披露宴したり、結婚式したりではなく親戚一同や、部落の人々みんな読んで結婚の儀をおこなっていたということであった。また結婚の儀として昔は「かまぶたかぶせ」ということを行っていたということであった。これはどういうことなのかよくわからなかったので調べてみたのだが、嫁が婚家に着いて門口の敷居を越えるときに、土間の上がり口に立った男 が、はいってくる嫁の頭上に平釜のふたをかざして祝言を唱える。というようなことをして結婚を祝うということだ。このときに祝いとともに嫁いでくる嫁への教訓などを織り交ぜていた、というような特徴をもった行事であるということであった。この行事も昔はどこでも行っていたみたいであるが現在ではその姿を見ることはほとんどないということだ。このかまぶたかぶせは地方の文化財ともなっているようだ。
・今の農政に対する藤本さん、藤田さんの意見
今回のインタビューを通して一番の印象に残ったというか、心に響いたのは最後に質問した「今の農政などに対する意見はありませんか?」と聞いた時の答えであった。その質問の時に藤田さんは言葉強げにこういったのである。「戦後60年で日本の農政は間違ってしまった。日本は日本人が主食として食べてきたお米を捨てるようになった。60年でじわじわ変わってきたことやから、自民党になろうが民主党になろうがどっちみち60年後にはもとに戻らん」ということであった。米を買うものとして当たり前に思っている都市の人々はこのようなことを感じながらお米を買うことはないのではないだろうか。日本の食を支えている農家を支える体制ができていないのは非常に大きな問題ではないだろうか。さらに藤田さんは「農政は農家のことをもっと考えないかん」とおっしゃった。電気代やガソリン代は高くなる一方であるのに対してこれまで述べたように、米を作りすぎてコメ余りができることによって、だんだんコメは安くなっている。こういった現状であれば資本のかかる農業をやっていけなくなるということであった。
・最後に
今回の歴史の認識の授業の一環のこの寺浦地域のインタビューは農学部である僕たち二人にとっては、非常に実りの大きいインタビューであった。やはり農業の政策などを考えていくにおいて、実際に農業をおこなっている農家の人々のことや、意見を考慮せずにしてはいけないし今回のインタビューで実際の現場の人の話が聞けたということは非常によかったと思う。藤田さん、藤本さんがインタビュー中に終始僕らに訴えかけていたのは、やはり現状をどうにかして僕ら若い世代に変えてほしいということであった。農家の人々はできることは非常に限られているし、僕ら若い世代が考え、変えていかなくては今後もっと日本の農業が悪くなってしまう。それとともにいっぱい勉強して頑張りなさいというような九州大学の学生に対する大きな期待もあった。
最後にこのインタビューに協力してくださった藤本薫さんにはお話を聞かせてくださるとともに途中まで迎えにきてくれ、インタビューの場所の提供や藤田さんを紹介していただき、藤田安雄さんには本当に貴重なお話をわざわざ聞かせていただき感謝の意をここに記します。
(写真左・藤本薫さん 写真右・藤田安雄さん)