<歩き、み、ふれる歴史学>

 

 

 

 

佐賀県唐津市肥前町田野

現地調査レポート

 

 

 

調査日:2009年711()

 

 

調査員:林剛平 倉垣大河 末松佑介

 

 

 

 

 

 

 

 

我々は、7月11日、佐賀県唐津市肥前町田野の今昔について調査するべく、学研都市駅に集合した。

バスに乗車したのは午前8:40頃、そこから途中一回の休憩をはさんで、約2時間30分程かけて現地付近に到着した。

途中の休憩では、伊万里市の美しい景色を背に、一時の休息を得た。

 

ここに、調査地の基本的なデータを示す。

 

1.                     地域の概要

この地域は、過疎化がかなり進んでおり、休日にもかかわらず人気は非常に少ない。そして、家屋の造りが昔ながらのものが多く、土間があったり、蔵があったりと、日本古来の家構えを彷彿させる。そして、田野には小学校までしかない(田野小学校)。小学校のサイトによると、田野の主な産業は漁業であり、海辺には埋立地も多い。そして一番の目玉であるが、田野には天然記念物である「赤穂(あこう)」の自生北限である。そのほか「渡しゃくの鼻」と呼ばれる、804年に弘法大師(空海)が遣唐使として船出をした場所だといわれているところなどがある。肥前町自体では、総人口9309人(2004年)と、それほど大規模な町でもなく、自然豊かな農村である。棚田が非常に多い。

2.しこ名について

  我々は、田野周辺の、田野にゆかりのある地名について、「しこ名」を十分に理解していただいたうえで尋ねたが、宮崎氏はしこ名などについてはあまり詳しくないらしく、「そんなもんは知らんねぇ。」との回答が多かった。

 

以下に、地図に記載されている地名の読みを、宮崎氏に教えていただいたので記す。

 

l                     平山・・・ヒラヤマ(?)

l                     本田・・・ホンダ(?)

l                     山添・・・ヤマゾエ

l                     春ノ多・・・ハルノタ(?)

l                     百田・・・モモタ

l                     番所・・・バンドコロ

l                     広田・・・ヒロタ

l                     立山・・・タテヤマ

l                     唐ノ浦・・・トウノウラ

l                     岸高・・・キシダカ

l                     磯道・・・イソミチ

l                     下口・・・シモグチ

l                     神出・・・(不明)

l                     戸尺・・・トジャク

l                     木谷・・・コダニ

l                     山崎・・・ヤマザキ

l                     二反頭・・・ニタンガシラ

l                     新田・・・シンデン

l                     小甲二峯・・・ココウジボウ

l                     馬踏・・・(不明)

l                     小浦谷・・・コウラダニ

l                     崎ノ田・・・サキノタ

l                     周防谷・・・スオウダニ

l                     水ノ根・・・ミズノネ

l                     鵜ノ瀬・・・ウノセ

l                     麦地場・・・(不明)

l                     大甲二峯・・・オオコウジボウ

l                     阿漕・・・アコギ

l                     清水ノ元・・・(不明)

l                     神土井・・・(不明)

l                     宮録田・・・(不明)

l                     浦頭・・・ウラガシラ

l                     矢櫃川・・・ヤヒツガワ・・・→ヤベツゴ

l                     栄松・・・サカエマツ

l                     内園・・・ウチゾノ

l                     厳谷・・・イワオダニ

l                     前田・・・マエダ

l                     鎧田・・・ヨロイダ

l                     古薗・・・フルゾノ

l                     中川原・・・ナカガワバル

l                     西ノ谷・・・ニシノタニ

l                     土井ノ浦・・・ドイノウラ

l                     高串潟・・・タカクシガタ

l                     ワラビザキ

l                     ウスギ

l                     田尻山・・・タジリヤマ

l                     土井ノ裏・・・ドイノウラ

l                     蛭ヶ浦・・・(不明)

l                     日焼原・・・ヒヤケバル・・・→ヒヤケダ

l                     西川内・・・ニシカワチ

l                     老ヶ浦・・・(不明)

l                     西久海・・・ニシクカイ

l                     扇瀬・・・(不明)

 

(不明)とかかれているものは、宮崎氏が知らないものや、思い出せなかったものである。なお、webや文献で調べたところによると、

 

神出・・・(不明)

馬踏・・・(不明)

麦地場・・・ムギジバ

清水ノ元・・・(不明)

神土井・・・(不明)

宮録田・・・(不明)

蛭ヶ浦・・・ヒルガウラ

老ヶ浦・・・(不明)

扇瀬・・・(不明)

 

ではないかと推測される。

 

 

3.

田野周辺でバスを下車した我々は、あらかじめ準備しておいた住宅地図を便りに宮崎氏宅を目指した。途中道に迷ったため、近くにあった民家を訪ね、宮崎氏宅までの道のりを教えていただいた。そして、我々が宮崎氏宅に到着したのは、午前11:30過ぎであった。

 

我々は、挨拶をすませ、事前に送っておいた地図と、我々が持参した着色済みの地図、あらかじめ調査地について調べたときに用いた資料などをもとに、宮崎氏に質問を開始した。以下、会話の様子をルポルタージュ形式で記す。

 

調査員(以下、調)「今日はこの地域の昔の様子、暮らしをお伺いに        来ました。これが田野周辺の5000分の1の地図です。地域と周辺の地名(しこ名)が書かれてあります。ここに書かれた地名、小字やしこ名を見てください。まず最初に、これらの読み方を教えてください。間違っている部分や、ここには書かれていないが、みなさんが使っていた通称などがございましたら、それも教えてください。」

 

ここで、宮崎氏に教えていただいたことを地図に記入した(2.を参

)。

我々は、質問を開始した。

(以下、宮崎氏の名前は「宮」で記し、敬称略)

 

調「田んぼへの水はどこから引いていましたか?川ですか、それと

も池ですか?」

宮「池とちゃうかな。」

調「池なんですねぇ。何という池でしたか?」

宮「あー、ハットマキダメ。」

調「ハットマキダメですか!どういう漢字で書くんですか?」

宮「八十巻溜だよ。それと…山の湧き水を使うこともあったねぇ。」

調「へぇ!それは50年前も同じでしたか?」

宮「あー、同じやったと思うけどねぇ。」

調「昔も今も変わらないんですね!水は潤沢でしたか?」

宮「あー潤沢だよ。」

調「その水のために、水争いなんて起こらなかったんですか?」

宮「ないよ。」

調「では水をきちんと分けるシステムがあったんですね!水を分ける上で何か特別なルールなどはありましたか?」

宮「あー、田に水を引くために加入せないかん。」

調「えっと、どのようなものに加入するんですか?」

宮「あー、水を引く組合みたいなのに加入せないけん。」

調「あ、なるほど!」

「早魃の時の思い出などはありますか?」

宮「あー…ないねぇ。ハハハ…」

宮崎氏は、なにやら楽しげに質問に答えてくれていた。

調「雨乞いの経験とかはあるんですか?」

宮「んー…ない。」

調「あ、雨乞い自体はあったんですか?」

宮「雨乞いは…んーない。」

調「そうでしたか。ハハハ」

「用水路の中にはどんな生き物がいましたか?」

宮「んー。フナ…それからあとウナギ、ドジョウ、コイとかおったねぇ。」

調「へぇ!けっこういろんな生き物がいたんですね。それは今も昔も変わらないんですか?」

宮「いやぁ、今はブラックバスが入ってきたけん、みんなおらんなってしもうた…。」

調「そうなんですか…。なんだか残念ですね。」

このとき、宮崎氏は少し悲しそうな顔をしていた。我々にとっても、この地域は非常に美しかったため、このような地域にまでブラックバスの魔の手が忍び寄っているのかと考えると、残念で仕方がなかった。

調「麦を作れる田と作れない田はありましたか?」

宮「いや、麦はそんなに作ってなかったねぇ。」

調「米が主だったんですね。村の一等田はどこですか?」

宮「わからんねぇ…。へへへ…(ニヤリ)」

調「昔は化学肥料を使ってなかったと思うんですけども、米は反当何俵ぐらいでしたか?」

宮「いいときで10俵ぐらいじゃないかねぇ。」

調「10俵というと600kgですよね!では悪いときは何俵ほどでしたか?」

宮「まぁ…8俵くらいじゃないかね?」

調「それでも結構多いですよね!あはは!肥料はどんなのを使っていたんですか?」

宮「3種を混ぜたやつを使ってるねぇ。」

調「3種…っていうとなんとなんとなんですか?」

宮「えー…窒素…カリ…えーあとなんじゃったかな?」

調「もしかしてリンじゃないですか?」

宮「あーそう!リンやね。」

リンを当てることができて、理系としてはうれしかった。久々に自分は理系なんだと感じた瞬間であった。

調「稲の病気にはどんなものがあったんですか?」

宮「あー、昔は害虫がでよったなぁ。」

調「害虫はいやですよね…どのように対処していたんですか?」

宮「薬を散布機でまいて駆除しよったねぇ。」

調「今でも害虫はでるんですか?」

宮「あー今はあんまりでらんねぇ。」

調「へー!では農薬は使ってないんですか?」

宮「あー農薬は使ってないね。」

調「昔もやはり使っていなかったんですか?」

宮「うん昔も。」

調「安全ですよね。」

「共同作業はありましたか?」

宮「あー、あったね。」

調「では、その共同作業のことを“ゆい”といいましたか?それとも“かせい”といいましたか?」

宮「ゆいっちゃなんかね…知らんね。かせいやろうね。」

調「田植えはいつごろ行っていましたか?」

宮「今は…5月ごろやね。」

調「それは昔も同じだったんですか?」

宮「いやぁ違う違う!」

調「では、昔はいつごろ行っていたんですか?」

宮「昔は…6月かな。」

調「へぇ!なぜ今と昔で違うんですか?」

宮「昔と今では作る品種が違ってきとるけんねぇ。今はコシヒカリを作りよるけど、昔はニホンバレやったかな…。」

調「コシヒカリは有名ですよね!お手伝いの早乙女はきましたか?または行きましたか?」

宮「早乙女ちゃなんかね?ちょっとわからんけども…手伝いは親戚同士でやってもらったりやったりしてたねぇ。」

調「うちも(末松)親戚とやります!田植えの後は打ち上げ会などをやったりするんですか?」

(ちなみに質問者は倉垣である。)

宮「あー、バス借りて町まで行って、日帰りで観光しておいしいもん食べて帰りよったね。」

調「いいですねぇ!観光の思い出なんてありますか?」

宮「んー…ないねぇ。へへへ…」

調「田植え唄などはありましたか?」

宮「そんなんはないねぇ。」

調「そうですか…。では、モミすり唄はありましたか?」

宮「んー、それもない。」

調「牛や馬は飼っていましたか?」

宮「…牛を飼っとったね。昔は一軒に一頭ほどおったけねぇ。」

調「そんなにいたんですね!ちなみに飼ってたのはオスですか?メスですか?」

宮「あー、オスかメスかはわからんねぇ。」

調「え?そうですか…。では手綱はどうやって操作しましたか?」

宮「手綱はつかってないね。」

調「ごって牛をおとなしくさせるためにはどうしましたか?」

宮「ごって牛?こって牛のことかな?わからんねぇ…おらんやったけねぇ。」

調「あ、いなかったらわからないですよね!ハハハ。エサはどこから運んだのですか?」

宮「畑の周りに生えてる草を切って牛にあげてたねぇ。」

調「牛を歩かせたり、鋤を引かせるときの掛け声はどんなものでしたか?」

宮「そんなのはつかったことないねぇ…。」

調「牛は毎日洗ってましたか?」

宮「毎日じゃないけど、たまに家の際で山の湧き水で洗いよったね。」

調「牛の病気はありましたか?」

宮「さぁ…知らんなぁ。」

調「薪はどうやって入手していましたか?」

宮「自分の山から薪を取ってきよったね。」

調「あ、そこらへんの適当な山からは取ったりしないんですね!」

宮「あーそんなんはだめだめ。」

宮崎氏は、牛については、自分が生まれたときにはもういなかったと話し、あまり詳しくないことを話してくれた。

さらに質問は続く。

調「入り合い山はありますか?」

宮「入り合い山ってなんかね?」

調「えっと、村の共有の山のことです。」

宮「あー!共有の山ね。あるよ。」

調「あ、それはどこにありますか?」

宮「大甲二峯にあるよ。」

調「大甲二峯っていったら地図にのってましたね!印をつけておきます。」

調「入り合い山ではどんな作業をしてましたか?」

宮「かやを切って、牛のエサやしかせにしてたよ。」

調「あ、しかせってなんですか?」

宮「あー、牛の下に敷いてやるやつさ。」

調「あっ、なるほど。そういうしかせなんですね。」

「木の切り出しは木馬・路引き・川流しはありましたか?」

宮「路引きをしてる人もいたね。川流しは…できるほど大きな川がなかったからねぇ。ははは…。」

調「炭は焼きましたか?」

宮「あーそれはしなかったねぇ。」

調「あー…では山を焼くことはありましたか?」

宮「草山焼は少しずつ、自分のところだけしてたよ。」

調「山で何をつくっていましたか?」

宮「いやぁ…とくに何も作ってなかったよ。」

調「何年間山を荒していたんですか?」

宮「少し。」

我々は、この「少し」という発言にはかなり戸惑った。

質問はまだまだ続く。

調「そばは反当何俵くらいとれますか?」

宮「そばは…昔だけ作りよったね。自分の家で食べる程度作ってたよ。」

調「野稲は反当何俵ぐらいとれますか?」

宮「野稲はとれないよ。」

調「あ、そうなんですか。ハハハ」

「では、コバ、キイノは何という地名ですか?」

宮「コバ?キイノ?んー…そういうのはないね。」

調「かごは取りましたか?」

宮「昔はとったねぇ。私の親は取りよったけど、私のころは取ってなかったねぇ。」

調「野栗は取りましたか?」

宮「野栗も昔だけかな。今はないみたい。」

調「山で採れる木の実にはどんなものがありましたか?」

宮「いたぶやむく、えの実、いっそくがあったね!」

調「え、なんかおいしそうな気の実もありますね!ほかの山の幸にはどんなものがありましたか?」

宮「ワラビがあるねぇ。」

宮崎氏が教えてくれた木の実は、かなり興味がわいた!

質問はまだ続く。

調「川にはどんな魚がいますか?」

宮「ウナギやメダカ、ツガニ、エビなどがおるよ!昔はね…。」

調「今はやはり減ってきているんですか?」

宮「そうだねぇ。」

調「川の毒流しはありましたか?」

宮「あー、いやいや、そんなんないない。」

川は大河ではないらしいが、生き物はかなり多様だったようだ。

木の実や川の生き物について話す宮崎氏の顔は生き生きしていた。

調「昔のお菓子にはどんなものがありましたか?」

宮「あー、キャンデーかな…。」

調「キャンデーというと、ドロップのことですか?」

宮「いいやぁ、アイスキャンデーのことよ。うん。」

調「あ!アイスキャンデーですか。なるほどですね!ハハハ」

「ところで、干し柿はどうやって作っていたんですか?」

宮「んー干し柿は…干すだけかな。」

調「やっぱりそうですよね!ハハハ!」

宮「ハハハハハハハハ」

調「干し柿って、どういう単位で数えていたんですか?1連、2連でしたか?」

宮「いやぁ?1つ、2つって数えるねぇ。」

我々の予想に反し、数え方は普通だった。

調「勝ち栗の作り方を教えてください!」

宮「作り方は…しりませんねぇ。数え方は1つ、2つだよ。」

調「干し柿と一緒なんですね!では、食べられる野草とかはありますか?」

宮「食べられるっち…ヨモギとか七草とかかなぁ。」

調「あー、なるほど。ヨモギか…。では逆に、食べられない野草とかはありますか?」

宮「うーん…食べられない野草ねぇ…。」

調「あ、じゃぁ絶対に食べてはいけないっていう野草はありますか?」

宮「んー…?ははは…。」

調「へびいちごとかですか?ははは」

宮「うーんそうやね。へびいちごはたべたらいかんねぇ。ははは!」

ここにきて、やっと打ち解けてきた感じがでてきて、宮崎氏は笑顔がふえたようだった。

質問はまだまだ続く。

調「米はどのように保存していたんですか?」

宮「いやぁ、倉庫に入れとくだけ。」

調「ネズミなどはどのような対策をとっていましたか?」

宮「それは米を囲いに入れるだけやねぇ。」

調「米作りの楽しみと苦しみは何ですか?」

宮「楽しみっちゅうたら、やっぱり収穫する時ですよねぇ。苦しいっていったら…やっぱりきつい仕事だからねぇ。」

私も田植えの経験はあるのだが、収穫には参加しなかったため、苦しみだけ味わって楽しみを知ることはできなかったようだ。

調「昔はどのようにして暖をとっていましたか?」

宮「あー、火鉢をつかってたよ。」

調「村にはどのような物資が入っていましたか?そして行商人は来ていましたか?」

宮「物資は入ってこないし、行商人なんかも来なかったね。」

調「こなかったんですか…。では魚売りはどうですか?」

宮「あー、魚売りなら高串からやってきよったよ。天秤でかついで持ってきよったね。」

調「座頭さんはきていましたか?」

宮「あー、ない…。」

調「では、やんぶしや薬売りは来ていましたか?」

宮「きてないねぇ。」

田野には、外からの訪問者はほとんど来なかったらしい。唯一やってきていた魚売りであるが、田野はすぐ近くに港町があるため、そこから来ていたのだろう。

質問はまだまだ続く。

調「昔、病気になった時は、どこで見てもらっていましたか?」

宮「高串や、入野にある病院でみてもらっていたね。」

調「米は、麦と混ぜて使ったりしていましたか?」

宮「あー、混ぜて使ってたねぇ。」

調「それはどのくらいの比率で混ぜていたんですか?」

宮「米:麦=7:3ぐらいで混ぜてたよ。」

調「自給できるおかずにはどんなものがありましたか?」

宮「野菜なんかは自給できよったね。」

調「では、逆に自給できなかったおかずにはどんなものがありますか?」

宮「あー、肉や魚は自給できんかったねぇ。」

調「結婚前の若者が集まる宿・青年クラブのようなものはありましたか?」

宮「宿…うーん、クラブはあったねぇ。」

調「クラブですか!それはどこですか?」

宮「公民館にあったね。というより昔は公民館のことをクラブって言いよったけどねぇ。」

調「クラブに集まるのは男だけなんですか?」

宮「うん男だけ。」

調「なるほど。そこで何をしていたんですか?」

宮「仲のいい友達同士で集まって、夜は別のところに遊びに行きよったねぇ。」

調「クラブでの規律は厳しかったですか?」

宮「規律?そんなもんはなかったね。」

調「上級生からの制裁などはありましたか?」

宮「いやぁそんなんはなかったねぇ。」

調「力石はありましたか?」

宮「あー力石…昔はあったて聞くけどねぇ。」

調「干し柿を盗んだり、スイカをとったりはしていましたか?」

宮「あー、昔はあったみたいだけど、私たちのころにはなかったですねぇ。」

調「戦後の食糧難で、若者や消防団が犬を捕まえてきてすき焼きうや鍋にしたことはありますか?」

宮「いやそんなことはしてない。」

調「では犬はどうしたら捕まりますか?」

宮「わからん。」

調「よばいは盛んでしたか?」

宮「昔はあったみたいだね。私のころはなかったけど。」

調「よその村から来る青年と喧嘩をしたことは?」

宮「それはなかったねぇ。」

調「共同風呂というものはありましたか?」

宮「ないねぇ。」

調「では、地域に祭りや盆踊りはありましたか?」

宮「8月に盆踊りがあったねぇ。今はもうやっとらんけども。」

調「昔はそれは楽しみでしたか?」

宮「まぁ…一年に一度やし、楽しみでしたねぇ。」

調「恋愛は普通でしたか?」

宮「普通?ハハハ。いや普通でしたよ。」

調「農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか?」

宮「昔は減反がなかったくらいかねぇ。」

 

ここからは、質問リストに載っていない、オリジナルな質問とその回答である。

 

調「昔と今ではこの地域はどのように変わりましたか?」

宮「んー…、道が広くなった。」

調「ずばりこれから田野はどうなっていくと思いますか?」

宮「んー、これからいったいどうなるんじゃろうねぇ!?」

調「ドッグフードなどの日用品はどこで購入するのですか?」

宮「車で唐津市まで行って買いますよ。」

調「田野についてに限らず、若者に語り継いでいきたい話はありますか?」

宮「…別にないね。えへへ。」

照れ笑いをする宮崎氏。

ちなみに宮崎氏は、昭和26年生まれである。

 

ここまでですべての質問とお回答が終わった。

このあと宮崎氏とたわいのない会話があった後、宮崎氏の母から缶コーヒーをいただき、宮崎氏に心の底からお礼を言って、宅を後にした。

 

4.その後

 

その後、スーパーの総菜で昼食を済ませた我々は、田野の美しすぎる景色を堪能しながら、バスが来るのを3時間まった。これにて現地調査は終了した。

田野の棚田の風景

海の向こうには風力発電もある

 

 

 

 

 

 

 

協力者:佐賀県唐津市肥前町田野区長 宮崎富秋様

ご協力ありがとうございました。

 

レポート作成:林剛平 倉垣大河 末松佑介

 

九州大学工学部エネルギー科学科1年

 

 

レポート作成日:2009年7月15日

 

 


戻る