タノシタ(菖津)での現地調査に
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木下尚哉
1.地名や瀬などについて教えていただいたこと
地名の由来について
「カラマツ(唐松)」…この入り江には実際に松の木が生えている。
「ショウガツ(正月)」…昔、正月にここで漁が行われていた。
「ツルナキオンセン」…現在の寺浦温泉は昔、ツルナキオンセンと呼ばれていて実際に鶴が養生に来ていたらしく、今も数年に一度の割合で来ている。
「ウシステバ(牛捨て場)」…昔に牛を捨てていたことに由来し、今でも牛の骨があるらしい。
「タケノハラ」…この辺りには細い竹が多く生えている。またここの竹を使って矢を作っていたらしい。
「キョウハク(京泊)」…ここは京都へ行く船が停泊していたことに由来するらしい。
「クロイシ(黒岩)」…ここに今も黒い石がたくさんあるらしい。同じように
「シロイシ(白岩)」という地名もあるが、そこには白い岩
は全くないらしい。
タケノコシマ(竹の子島)・オオシマ(大島)・トリシマ(鳥島)について
タケノコシマ…ここは共有地で昔は前島とも呼ばれていた。また、タケノ
コシマと言う割にタケノコはないらしい。さらに、水がな
いうえに狭く平地がなく斜面ばかりなので利用価値は一切
ないらしい。
トリシマ…この島は見る位置によってはスズメのようにも見えるし、トリ
が羽ばたくようにも見えるらしい。
オオシマ…この島は「バンゴヤ(番小屋)」とも呼ばれていたが、これは近くの真珠養殖のイカダを見張るための小屋があったことに由来しているだけであり正式な地名としては地元の人も「バンゴヤ」とは言わないらしい。
この三つの島の間では干潮時に完全につながる所や、冬の大潮の日には水
深が15cm以下になるところがあるという。外側は遠浅ではないので船で
乗り付けることが出来るらしい。
オオツル(大鶴)…この場所は以前、干潟であり土地は菖津のものであった。ま
た地名からもわかるように鶴が飛来してきたらしい。ここ
を埋め立てたのはキシマ炭鉱系列のオオツル炭鉱であり、
ここから平野山やカネクラのあたりに作ったボタ山に行く
ために橋が2本作られていて炭鉱が閉まるとなくなったら
しい。
「ヤマノカミ(山の神)」…炭鉱が開発されたところで、開発する前に神主を呼ぶほどの由緒正しい祠があったらしい
船当津…地図に載っていた地名は「船唐津」であったがこれは間違いであり、
正しくは「船当津」であることを教えていただいた。漁師さんの話に
よると正しい漢字を正確に知っているわけではないが「船唐津」では
ないらしい。
京泊…菖津はアジロ(漁場)から離れているので京泊を潮と風の向きが逆さ時に休む場所として使われている。玄海灘の風はかなり強く日本屈指のものらしい。潮と風の向きが逆さの時に起こる三角波が非常に危険らしい。この三角波で船が沈むこともあったほどらしい。冬は西風が強いので船を沖へは出せないので風の吹かない場所で一本釣りなどをしてアラカブやメバルなどを釣るらしい。
このあたりでは昔の偉い人であった宮崎さんから名字をもらったために「宮崎」という名字がかなり多く、9割に届くほどである。また古館さんもまつら れており「古館」という名字も「宮崎」には及ばないながらも多くいる。
名字をもらう前には家ごとに屋号みたいものが決められており、昔の人で あればほぼすべての屋号を覚えていたという。
例)
お堂の横⇒堂脇
川の端⇒川端
などが決められていた。
すわ神社はマムシが多かったのでその対策として作られたものであって、昔は祭りも盛大であったが現在ではマムシの数が減ってきているので祭りも以ほど盛大ではないらしい。
すわ神社の土地は玄海町のものであるが、漁業権はタノシタにある。というのはこの辺りは埋め立てられた土地であり、埋め立てたのがタノシタの人であったからだという。
瀬は地元の漁師さんしか知らないので、地元でない人はもちろんのこと漁に
出ない人も知らない。また瀬の中には「かじ取り」と呼ばれるものもあり、
これは干潮時には見えるが、満潮時には見えない瀬のことを指し、外から
来る人はもちろんのこと漁師さんでもたまに乗り上げてしまうらしい。
「ジロウガセ」などがこれにあたるが、岸から15mほど離れた所でも乗り
上げてしまうので「ジロウガセ」には灯台が建てられている。しかし最近は
灯台が火をともしていることはないらしい。瀬は「コサブロウガウラ」や「タ
ケノコシマ」、「船当津」の沖、「カンゴイワ」のあたりなどさまざまな場所に
ある。
2.漁の方法や漁を行う上での問題
現在のタノシタでの漁業は定置網や養殖が主なものである。定置網は合計で4か所に設置されていて、一つの規模は200mくらいの大きさになるという。網で主に収獲されるのはイワシである。この網はどこに仕掛けてもよいというわけではなく、漁業権のある場所や共同場と呼ばれる所にしか設置することが出来ないのである。さらに魚の動き方も考えて設置するので定置網を設置することだけでもそれなりの経験がいることがわかった。また最近では、エチゼンクラゲなどのクラゲの異常発生のおかげで網が重くなり船にあげるときに難しかったり、破れたりしてかなりの被害が出ているらしい。またクラゲだけでなくヘドロが大量に流れていて網にくっつき網を重くしてしまうのだ。ヘドロは洗うのも手間がかかるのである意味クラゲより性質が悪そうである。漁師さんの推測によると中国あるいは韓国の工場から流れ出たものや生活排水がヘドロであると考えられるらしい。
現在は漁業をするには多くのことに許可証が必要になり、必要でないのは釣りくらいである。網に関してはどんな網についても許可制であるし、養殖に関連する免許になると国からの免許であるので、一番大きなものになる。網に関連する免許はお金も要らず個人で勝手に申請出来るが、乱獲にならないように誰でも許可がもらえるというものではない。また、養殖に関連する免許では、10年間という長い期間が対象であり区画漁業権という。この免許を取るのに上手いか下手かはあまり関係がなくお金も必要としないが、ただ国からの許可を得るだけでいいというモノでもないのである。まず、地元の漁業組合に許可をもらってから申請しなければならない。というのは、養殖している区域では許可を受けた本人以外は誰も使うことが出来なくなるので第一に地元の許可が必要になってくるのである。例えば、真珠の養殖になると実際の核入れは3カ月くらいで出来るがイカダを置いておくことになるなどの理由でその区域には入ることが出来なくなるためである。漁礁にかんしても免許が必要となり、これも国からもらう免許である。話をうかがう中で真珠の養殖が外国産の安さに負けているらしく、昔は加工まで行っていたが今では生産しか行われていないらしい。
3.昔の漁法
昔は、今のように動力で動くものではなかったので人力でろを漕いでいで動かしていたらしい。このろは60代以上の漁師さんは漕いだ経験があるらしいので語っていただいた。まず、基本的に一本のろに対し一人が担当するものであり、早く漕ぎたいときに一本のろに二人が担当していた。また一つの船にろを何本つけるかで呼び方が異なっていた。
二丁ろ 四丁ろ
漁船から岸までの運搬船はろを使っていたが貨物船からの子船は櫂を使っていたらしい。というのは、櫂はバックもできるし左右にも自由自在だったからである。漁師のみなさんはろの方に慣れているらしく、櫂は難しく「使ったことは、あるけど使い切らん。」といっておられた。またろの使い方がへたくそな人はよく海に落ちていたらしい。昔は先輩の言うことは絶対だったらしくタバコを吸わされて頭がクラクラするなかで漕いでいたら漕ぐたびに海い落ちていたという話もしていただいた。
今のイワシ漁は定置網だが、昔は二艘の船で網を張り以下のようにしていた。
網の巻き取り方も今のように動力でなく人力で行っていたのだ。このころの漁で使われていた網は綿糸で出来ていて、それを柿渋で染めたものを使っていたらしい。柿渋で染めていたのは、染めることで綿糸の強度が増すうえにカビにくくなるからであるらしい。網には昔も今もかなりのお金がかかるらしく、昔の網は現在の価値で言う300万円くらいの値段であったらしい。今の機械式が1000万円であることに比べるとかすんでしまうかもしれないが昔は網の予備も必要であったしすぐに300万円という大金が出るわけでもないのでかなりの額である。現在の設備はすぐに出来るものではなく、今までの積み重ねによるものが大きいと言っていた。
というのは、イワシの加工用の機械は1億円規模のものらしく確かに今までの積み重ねであると納得してしまった。イワシのことを白子と言っていたので網のことを白網と言っていたらしい。
昔は今よりも真珠産業が賑わっていたので加工もしていたし、真珠による利益だけで十分に生活が出来ていたらしいが様々な要因が働き真珠だけでは上手くいかなくなったらしい。このことは真珠の養殖にかかわらず漁業の様々な側面において影響を及ぼしていて、今では半農半漁の人も少なくないらしい。
中でもお米には美味しい田と美味しくない田があるらしい。ポン菓子を作った時により体積の増えたものがおいしいお米らしくポン菓子を作って回る人から見ると一目でお米の良し悪しが分かるらしい。痩せた土地で作ったお米がおいしく、肥えた土地で作ったお米は、あまり美味しくないらしい。昔はお米も豊作であったが、近年は温暖化の影響なのかあまり良くなく不作が続いているらしい。田に使われる水には、干拓地で塩分の混じった水を使ったものが一番おいしいらしい。どの水を使ったかは収穫の時に一目瞭然らしく、
一般に収穫時には稲の葉は黄金色をしているが、この干拓地で塩分が混じった稲の葉は茶色になっているという。
4.当時の町の様子
話をしてくれた人の子供のころには、アカセンと呼ばれる女郎屋があり名前を「マンゲツ(満月)」・「ユウフネ(夕船)」と言っていた。料金は朝までで1000円だったが、当時、炭鉱の日当が1000円以上でその他の仕事が200〜300円だったのでかなり高額なものであったと思われる。場所は玄海町側であったのでタノシタ側から渡し船があり、玄海町側の船着き場は干潮時と満潮時で異なっていた。満潮時は川の中まで入っていくが、干潮時には「津金根」という地域に石で造られた渡し場の「ツガネ」というところに行ったという。運良く話をうかがっている中に当時、渡し船の船頭をしていた人に話をうかがうことが出来た。船頭さんの話によると、「お客さんを乗せます、どこまでも〜……」という替え歌がいろいろとあったらしい。漁師さんの中にはこの替え歌を上手く作る人もいたらしい。また話をしてくれた人が当時は10代であったが湾内は潮の流れが穏やかであったのでかなり漕ぎやすかったらしい。渡し船は定期的に往復して、一度に15〜20人くらいの人が乗っていたという。この定期的な渡し船に乗り損ねてしまうと、たいていの人は海岸線に沿って歩いて行っていたという。
オオツル炭鉱が開発されていたころは、山の木を伐採していたので雨が降るたびに鉄砲水が起こり、海が茶色に濁っていたらしい。またここの湾は入り口がせまいので降ってきた水が流れ出しにくく2〜3日は濁ったままであったらしい。今は木も植えられ鉄砲水が起こることはあまりないが、それでも雨が降ると雨水が海に流れ出しにくいので海の表面の20〜30cmくらいは真水になり飲めてしまうという。
今の寺浦温泉のあったあたりは干潟になっていて、カブトガニの産卵地であったらしくカブトガニの卵の大きさはご飯粒くらいの大きさであったらしい。カブトガニはウンキュウとも呼ばれて、タノシタのあたりでもよく見かけていたらしい。
このころは夜這いが平然と行われていて、親たちも来ても何も言わないしうるさくしない限りは文句をいわないらしかった。むしろ誰も来ないことの方が心配の種になっていた。親からしてみると、誰も来ないということは誰にもあいてにされてないということであるからであった。女子の中には、パンツをはかないで寝る人もいたとか。当時は玄関や窓に鍵をかけないで寝ていたので、少年たちは近所からハシゴをかってに勝手に借りてきて勝手に入っていたらしい。もちろんきれいな人のところには先客がいたりするので、そのような場合は争うことなく先客が優先されていた。また十分に電気がなく明かりもないので、女子がどこに寝ているか分からないことの方が多く、親のところに着いてしまうこともたびたび起こっていたらしい。主に行く時期は夏であって、冬は寒いので行かなかったらしい。この夜這いも世代が変わるにつけて、ドンドンなくなっていったらしく親の世代交代による考え方の違いが理由になったのだろうと話してくれた。
このころは青年団というものもあり、仲間意識が強く活動も多く行われていた。絶対のルールとして、先輩には絶対服従というものがあり、ここでの関係がそのまま夜這いの時にお供する関係になっていたという。下駄持ちをさせられる人もいたりして、下駄持ちなどは専門職になったりしていたらしい。やはりこれも親の世代が変わるにつれて変わっていった。話を
してくれた人は「なくなるとさみしいねぇ〜」と言っていた。
ここで貝をいただいた御礼をしたいと思います。頂いた貝はバイト先で殻ごと焼いてバイト先のみなさんと一緒に頂きました。そのまま焼いたものに塩をかけたり、醤油をたらしたりなど、いただいた貝でいろいろな食べ方をさせていただきました。あんなに新鮮な貝を食べたのは初めてであり大変おいしかったです。今回は突然訪れたにもかかわらず温かく迎えてくださりありがとうございました。今回の現地調査は単にレポートを仕上げるためのものではなく、いろいろな社会経験などを語っていただきいい経験になったと思います。大変ありがとうございました。これからもお体に気をつけてください。