肥前町入野西の歴史について
実施日 7月11日土曜日
・調査者
青木洋平(あおきようへい)
田之上伸吾(たのうえしんご)
守谷隆義(もりやたかよし)
・話者
現区長 井上新一(昭和23年生まれ 60歳)
副区長 山口駿一(昭和18年生まれ 65歳)
前区長 井上繁光(大正4年生まれ 94歳)
・1日の行動記録
8:00 ビッグオレンジ集合
8:15 九大学研都市駅集合
8:30 九大学研都市駅出発
11:10 肥前町入野西到着
11:20 公民館到着
13:20 公民館出発
13:30 入野西見学
14:30 入野西見学終わり
16:00 入野西出発(バス乗車)
18:30 九大学研都市駅到着
○しこ名調査
東松浦郡 |
東松浦郡 |
東松浦郡 |
東松浦郡 |
東松浦郡 |
東松浦郡 |
郡 |
唐津市 |
唐津市 |
唐津市 |
唐津市 |
唐津市 |
唐津市 |
市町村 |
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明治二十二年以降村名 |
肥前町 入野西 |
肥前町 入野西 |
肥前町 入野西 |
肥前町 入野西 |
肥前町 入野西 |
肥前町 入野西 |
地区名 |
タチ |
サガリ |
タバタ |
ババ |
ウランサコ |
シモ |
しこ名 |
太刀 |
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田端 |
馬場 |
裏迫 |
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漢字表記 |
山口駿一(S.18) |
山口駿一(S.18) |
山口駿一(S.18) |
山口駿一(S.18) |
山口駿一(S.18) |
山口駿一(S.18) |
話し手 |
田之上伸吾 |
田之上伸吾 |
田之上伸吾 |
田之上伸吾 |
田之上伸吾 |
田之上伸吾 |
聞き手 |
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江戸〜明治初期村名 |
西ノ川 (エンノコ) |
乙田山 |
妙賀田 |
妙賀田 |
妙賀田 |
中江 |
字名 |
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屋号 |
屋号 |
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備考1 |
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田の端の一軒 |
馬のつなぎ場 |
山の裏の坂 |
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備考2 |
○聞き取り調査
農業
1.地形
主に丘陵地帯で占められているため、地区内で低いところや盆地は水田になっている。古久祖川が縫うように流れており、それに沿って棚田が開けている。さらに、区画が悪いため、谷には小さな畑がたくさんある。これらの畑は主にタバコやたまねぎの栽培に使われている。
2.水について
ほとんどの水田の水はため池(於呂溜(おろだまり))から確保しており、ため池から遠いところは天然の湧水で賄っていた。そのため、「雨の降らんなったときにゃ、たんぼがとれんと。雨がようふったときにゃ、たんぼがとれるぅと。」とおっしゃっていた。山口さんが20歳のころ(昭和40年頃)から盛んにボーリングを行なったり、ユンボでため池を作ったりして貯水し、一年中使える水を確保できるようになった。土地改良事業が昭和50年ごろから始まり、5つのダムをつくり、そこへ古久祖川から水を引くようになった。
また、土水路からレンガの水路になり、漏水が多いためコンクリートの水路になった。さらに、現在ではため池の下から稜線に沿って水路が張り巡らされている(井手ノ上幹線、妙賀田幹線)。
3.水争いについて
水争いは起きなかったようである。ため池ができた昭和初期から水番を2人立てて水を管理するシステムがあったらしい。上のたんぼから水を使っていくという決まりがあったたことが水争いが起こらなかった理由だろう。
4.稲作について
梅雨を待って、夏休み前くらいに田植え。そうしないと五月晴れで水が必要なときに田に水をとると、水がなくなってしまう。梅雨時に代掻き。今は四月中旬から八月の中旬までしかため池の水を使わない。前は6、7月に田を植えて、10月下旬に刈り取り。
5.米について
米は政府米といって、政府に供出する分を除けば、一番の現金収入源であり、とても大切にされたらしい。農林23号という米の種類だったかもしれない。精米はせずに、もみのまま「セコ」という、トタンでつくられた桶の中にいれて保存をしていた。必要なときは、必要な分だけ取り出して、精米所に持っていった。また精米したての米は非常にうまいらしい。
6.耕法について
昔はトラクターがなく耕すときは人力の鋤や桑、牛で耕していた。昭和30~40年にかけて耕運機がはやってきて耕運機を使って耕すようになってきた。
7.農耕牛について
牛のしつけや鋤の練習は砂浜でやっていた。川で牛を洗うこともあった。夏場には井手にも水が流れるからそこでも牛を洗っていた。
8.肥料について
窒素、リン酸、カリウムを自ら桶で調合して使うのが望ましいが、お金が非常にかかるらしい。そこで、農耕用の牛から出た牛糞に藁を混ぜたものを肥料として使っていたそうだ。牛のえさとして残った蓮華草や山に生えている草、芝など、とにかく手に入る植物はすべて発酵させて用いたりもしたそうだが、その場合、窒素過多になってしまうことが多かったという
9.変化
昭和40年ころには、専業農家が80%を占めていたが、今では専業農家が20名おり、タバコ耕作、肥育牛の飼育、イチゴ栽培などを行う兼業農家が16名となっている。さらに、農家の数が減っただけでなく、農地として開拓したところが現在では、宅地、公園、その他施設のために使われている。農業を行うより、農地を借地として貸して賃借料をもらうほうが楽にお金を稼げるからである。また、現在40~50代の農家の人は、自分の持つ土地は先祖代々受け継いだものだ、という思いが強いため、わが子が土地を受け継いで農家をつぐことを心から望んでいる。その一方で、高校、そして大学へと通う彼らの子供たちは、農業をすることに抵抗があり、その土地を売ってお金に換えたいそうだ。しかし、市街地から離れたところの農地の受け皿は、ほかの専業農家か、あるいは農業法人のどちらかのみである。そのため、将来的には集約的に農家の規模拡大が進み、農業法人がその農地の下支えをする形態になるだろうと山口さんは言う。
生活
1.燃料について
炭焼きをして貯蔵していたのはほんの一部であったし、さらにそれを出荷するというところはまずなかったらしい。薪は豊富にあるため、昭和30年代にガスが普及するまでは乙田山などの周囲の山から採っていた。
2.ガスや電気について
ガスが来たのは昭和30年代、電気は物心がついたころにはあったらしい(昭和20年くらいか?)。山口さんが学校に行くときには、電気の下で勉強をしたり、本を読んだりしていた。その頃は、家に十色光か二十色光ぐらいの電気が二、三灯あり、裸電球にかさぶたをつけたくらいのものだった。また、雷がなるとすぐ停電していた。
3.青年宿について
結婚前の若者たちがよく集まる場として、青年宿があったらしい。この地区では「クラブ」と呼ばれていた公民館に10人くらい集まり、若者はここで寝泊りをして、朝に帰宅をしたという。上級生から酒やタバコを教えてもらったり、「あそこに、よかおなごんこがおる。」とか「あそこに梨が実りよるけん、きょうはあそこへ梨をばちぎりにいこか。」などの会話をしたそうだ。山口さんが言うには、「クラブ」は情報交換の場であり、「ろくな悪さはせんかった。」そうだ。また、若者たちは青年宿だけではなく、それぞれが思い思いの場に集まっていたそうだ。
4.共同作業について
ため池を中心にして人が通るために集落内の市道・県道・農道の草刈はすべて共同作業で行っている。自分たちの生活の場はとにかく自分たちでやっている。県道に対しては村か町に負担金を出して作ってもらう。町道に関しては昭和33年頃までは自分たちで作って、町道に認めてもらっていた。災害に弱い道であったため、災害復旧時にお金を負担してもらためにこういうことをしなければならなかった。農作業の共同作業は「ゆい」、または「てまがえ」と言った。この共同作業は皆同じときに同じ仕事をしなければならないため、親戚内ではあったとしても、集落内ですることはあまりなかった。みっつくりの共同作業には「ゆい」や「てまがえ」というものはなかった。
5.祭りについて
盆祭りや祭りは7,8年前まではやっていたが、テレビなどの普及で最近はしていない。
山笠を出すためには経費が200~300万は必要で、また山笠を出すために5日ほどの休みを取る必要があり、そういう休みを取れる人が少ないため山笠を出せない。子供たちにも太鼓などの稽古をするが。サッカーや野球などのクラブなどに入っているために疲れてなかなか練習に来られないらしい。
歴史
1.大鶴炭鉱について
昔は大鶴炭鉱があったため、町営住宅がなくても120~130戸はあったらしい。この炭鉱には4,000人が住んでいた。石炭は良質だったが、生産コストが高かったために、採算が取れず、またストライキなども起こったために閉鎖された。
2.戦時中の被害について
大戦の被害はあまりなかったが、この集落では戦死者が24人出た。閑散なところなので、爆撃機が狙うようなところはなかったらしい。空襲に備えて各家々が防空壕を掘っていて、現在でも防空壕が残っているところもある。農家の人たちは食料には困らなかったが、学校の先生たちは大変ひもじいおもいをしていたらしい。しかし、贅沢ができなかっただけで、命をつなげる程度に暮らすことができた。炭鉱があった頃は、先生たちや労働者で4,000人ほどいたので、闇売りはできなかったが、食料基地であるこの地域では何を作っても売れたらしい。当時は、「米一俵、金一生」の価値があったらしい。
3.近況
昔は70~80人いた子供たちが、現在では小学、中学あわせて30人程度になってしまった。
同級生がおらず、年代別の集落対抗リレーに出るためには他所の集落から人を借りないと出られない状態である。集落の区にかかった人が昔は103戸あったが、現在では91戸になっている(実際、入野西行政区には125戸あるが、さまざまな事情により区には入っていない)。市営住宅があるので、現在この区には406人住んでいる。70歳以上の老人だけ
の世帯、一人暮らしの老人の世帯は作業に出なくてもいいといった免除が91戸の中に9戸くらいあるため実際作業を行っているのは80戸である。昔は500人程いただろう。肥前町全体でも15,000人の人口が現在では8,700人まで激減している。仕事も農家以外の仕事をしており、都会のほうが生活しやすいため、家を建てようとするには唐津市外の近傍が良く、農家の土地は貸し付けてそこに移る人が多い。山口さんの息子さんも、山口さんが「家を譲る」と言っても、「もらう」とは言わないらしい。
○考察
今回現地調査をして、農村の暮らしの大変さを知ることができた。これからいろいろな問題があったが、特に過疎化が重大な問題であると思われた。昔は大鶴炭鉱があったこともあって人口が、肥前町全体では14,000人と多かったが現在では8,000人ほどに減ってしまっており、その中でも入野西では子供の数が小中学生合わせて昔は70~80人いたのに対して現在は30人程度しかいなくなってしまった。時代の流れのせいなのか、専業農家の数が減って兼業農家の数が増えてしまったことによって、昔は行っていた祭りなどを開催できないなど、そうしたことがさらに町の人口減少につながっていっているのだと考えられた。また、農地を借地としてかした方が農地として使うよりもうかるために借地としてかす人が増えて、農業がつぶされている。このような状況が日本の食料自給率を下げているのだと思われた。
○まとめ
時代が変わるにしたがって耕運機ができたり、レンガの水路がコンクリートの水路になったり、ボーリングをやってユンボなどが使えるようになるなど、農業を行いやすくなってきたのがわかった。また、水争いが起こらないように水番を2人つけたり、米の保管を精米等はせずに籾のまま保管することでおいしさを保ったり、肥料は化学肥料を使うとお金がかかるので化学肥料はあまり使わないで、牛の尿を使って自然の肥料を作ったりもするなど、昔からの知恵がまだ生き残っているのだなあと思った。しかし、昔は行っていた祭りが専業農家の減少などでなくなってしまうのはとても残念なことだと思った。また、農地を借地としてかした方が農地として使うよりもうかるために借地としてかす人が増えて、農業がつぶされているのは更なる農家の減少を招いてしまうのではないかと思った。
最後になりましたが調査に協力してくださった区長の皆さん、町の案内までしてくださって本当にありがとうございました。