玄海町諸浦について

青柳瑠那

川上尚子

話者:宮廣美さん(昭和24年生まれ)

 

<一日の行動記録>

900  九大学研都市出発 

1045 宮さん宅到着

1100 お話を伺う

1445 諸浦散策

1600 宮さん宅帰宅

1625 諸浦出発

 

<しこ名>

市町村

地区名

しこ名

漢字表記

話し手

聞き手

東松浦郡

玄海町

諸浦

ソウベザカ

惣兵衛坂

宮ア廣美さん

青柳瑠那

 

 

 

イチノツボ

 

 

川上尚子

 

 

 

オンノカマ

 

 

 

 

 

 

チャワンガマ

 

 

 

 

 

 

イシキ

石木

 

 

 

 

 

ハマノタ

浜ノ田

 

 

 

 

 

ニシノタニ

西ノ谷

 

 

 

 

 

ウダハラ

宗田原

 

 

 

 

 

イシクボ

石久保

 

 

 

 

 

ソンダ

尊田

 

 

 

 

 

カタヤマ

 

 

 

 

 

 

ババガミサマ

 

 

 

 

 

 

イデグチ

 

 

 

 

 

 

カミガタ

上潟

 

 

 

 

 

シモガタ

下潟

 

 

 

 

 

ヨコヤマ

 

 

 

 

 

1 通称名

・ソウベザカ(惣兵衛坂)

150年前、宮さんのお家しかなかったころ。宮さんの曾おじいさんの前ぐらいの人にあたる惣兵衛さんの所に坂の上の人たちが降りてきていたことから、その坂は「惣兵衛坂」と呼ばれるようになった。

 

・チャワンガマ

 焼き物を作るための粘土をとった跡だと思われる穴がある。防空壕ほど(10m以上)の大きさ。今は窯はなく、土を掘った跡しかないことから、江戸時代くらいには茶碗を作っていたのではないかと宮さんはおっしゃっていた。茶碗のかけらも見つかっている。宮さんは昔、そこから粘土をとって様々なものを作って遊んでいたそうだ。

今はその穴にゴミを捨てる人が多かったことから、ふさがれている。

 

・ハマノタ(浜ノ田)

 今は役場になっているが、昔は田んぼだった。

 

・タチ()

 昔造り酒屋があったからこの名前で呼ばれている?とのこと。

 

・カミガタ(上潟)、シモガタ(下潟)

 カケモチ橋の上流に位置する。昔、館のあたりまで海だったが、学校の上のほうで地滑りがあり、上潟や下潟のところが潟になったころからこう呼ばれるようになった。昔海だったところに生息する弁慶ガニが館のあたりにいることからも、海だったことが伺える。昔海だったことは嘘のようだが、「嘘のごたるばってんねー、潮のきよったというのは今から考えたらねー。ただ、地球の歴史から見たら、人類がアフリカから出て行く時のシナイ半島あたりの水位の低かって渡れたとかいう話もあるわけだけん、あながち嘘じゃなかったはずやもんね」とおっしゃっていた。

 

・イデグチ(出口)

 館から上潟、下潟までは、土で流れがせき止められて、淡水と海水が混ざった湖のようなものが出来ていたと考えられる。その湖から海への出口であることからイデグチと呼ばれるようになったのかもしれないと、宮さんはおっしゃっていた。

 

・オンノカマ

  水が流れてきて侵食によって穴があき、岩などがそこに入って転がり、穴が広くなり窯のようになったものを「ワンド」と呼ぶ。川の近くに、荒々としたワンドがあり、その荒々しさを「オニ」と表し、オニノカマとしていたのが、方言としてオンノカマに変化したと思われる。

 

・ウマンフンポガシ

  侵食によって多くの穴があいていて、馬が踏んで穴をほがしたように見えたことから、そのように呼ぶ。

 

・タカエジョウ(高江城)

  お濠の跡があり発掘がおこなわれ、瓦や茶碗が出てきた。地元では高江城というのは知られていて、幽霊が出るなどの噂もあるが、普通の人にはわからないくらいなくなっている。だから、結構古いものだと思われる。宮さんは室町のものだと推測されている。

 

2 橋

カケモチ橋…カケモチ橋の近くの地下水が出ているところの水を、橋の向こうの酒屋さんにかけて持って行った橋だからカケモチ橋と呼ばれたかもしれない、とおっしゃっていた。

 

3 岩

C:\Users\Lucy\Pictures\2009-07-25 1\1 007.JPGウマンホネ

仮屋にある三島は、岩が

むき出しになっており、

馬の背中のように見えたのか、

このように呼ばれている。

 

 

 

 

ウマンホネ→

 

 

4 滝

 滝はない。長倉の辺りにあったが、ダムの建設によりなくなった。

 

 

 

5 田

C:\Users\Lucy\Pictures\2009-07-25 1\1 015.JPG・田についている通称名

  ババガミサマノウエ

ババガミサマ(由来不明)の上に

あるからこう呼ばれている。

                 

 

 

 

 

諸浦の田んぼ→

 

 

C:\Users\Lucy\Pictures\2009-07-25 1\1 036.JPG・田植え前

  田を耕すのは牛(馬は少ない)

最初はスキ、水を入れてからは

カネで出来た千歯こきのような

農具を牛にひかせて耕していた。

 

 

 

 

牛にひかせる農具(画:宮さん)

 

 

・田植え

  田植えの歌はなかったそうだ。共同で使っている田もなかったが、田植えの日をずらして、お互いに「かせ」しあっていた。田植えが終わったら、魚釣りに行こうなどと言って磯に出ていた。水のいらなくなる時期を合わせるために、田植えの時期を合わせる必要があった。そうしないと水の管理上他人に迷惑がかかる。町人に「かせ」を頼んでいる時もあった。それは昭和35年ぐらいまでは続いていて、今から考えると、食糧不足対策のための国の方針だったのだろうかと宮さんは考えていらっしゃった。

 

・刈り取り

  収穫祭はなかったらしい。田植えのときほど遅れが出ても他人に迷惑をかけるということはないので、「かせ」などもなかった。

・牛

  前に行かせるときは尻を叩く。左に行くときは「さし」と言いながら「はなぐり」を左に引く。右に行くときは「うせ」と言いながら、右に引く。山に牛をつれていくときがあったが、子どもが連れていくと、牛は子どものことをなめているため、山道を登らず、仕事をしないで草を食べたりしていた。牛は納屋で飼っていた。堆肥をかき出して置くスペースが納屋の横にあった。

 

・田の水

(1)   イデ(井出)

用水路のこと。高地にはモロウラダメ(諸浦溜)から山の中を用水路が通っていて、そこから田植え時の水を引いていた。平野部は有浦川から引いていた。

(2)   ため池

ため池から水を引いている田んぼもあった。ため池の水はなくなったら終わりだから大切にしなければならず、流しっぱなしにするわけにはいかないので、効率よく水を使うため、田植えの時期はそろえなければならなかった。

(3)   水争い

水が干上がることはなかった。そのため水争いもなかった。しかし、飲み水より田んぼの水!というくらい田んぼの水を一番に考えなくてはならにという厳しい掟があった。水がよく入る田と入らない田が極力ないようにするため、1年交代で農家の組合の人が「水番」をやっていた。「水番」はいまでもいる。

 

・肥料

  米ぬか、牛のふん、雑草(田の畔道などに生えているもの、「かや」と呼ぶ)、藁、れん 

  げ。地力を戻すためにれんげは植えられていた。れんげはマメ科の植物であるため、根に窒素が含まれているので地力回復には有効であるらしい。れんげは牛に食べさせるという目的もある。

 

・田の優劣

  一等田はないらしいが、川の周りは地力があるため、一単(300平方メートル)10俵。山の田は地力があまりないから、2割減の8俵くらいしかとれないらしい。

「何万年かかってずーっと堆積してきた平野でしょ。そしたら、何もせんでもその中に地力というのがあるわけよね。この辺は見たらわかるように、平野じゃなくてほとんど山でしょ。ゆうたら、この辺の山の田んぼて地力はないとですよね。」

堆積した何万年も歴史のある土には敵わないとおっしゃっていた。

 

 

・害虫

  遅くとる米にはウンカなどがつくが、刈り取りが早い米が出てきてからは、虫はあまりつかなくなった。

 

6 畑

・畑についている通称名

  テントマブチ…「フチ」から想像すると、昔は沼だったのではないか、そして堆積して勾配ができた結果今のようになっている、と考えられるとおっしゃっていた。

 

7 屋号

屋号は残っていない。農地解放で屋号を持つほど大きい農家はなくなってしまった。昔      は、「油屋」や、宿屋でミウラヤ、リョウボクヤというものがあったらしいが、今ではなくなってしまったらしい。未来永劫栄えるものはないとおっしゃっていた。

 

8 川

・生き物

  小学校前の昔深かったところには、ナマズやモズグガニなどがいた。洗濯に行っていた浅い川には、ドジョウ、フナ、アユ、テナガエビ、カマツカドンコなどがいた。テナガエビはよく足に食いついてきていたらしい。

 

・水量

  圃場整備前は森にたまった水が自然にしみだしてきていて、いつも水流があって川は今よりも深かった。しかし、今は、整備や開発で、雨が降ると水が一気に流れてしまい、雨が降らないときには、水が少なくなってしまう。

 

9 山

・生き物

  小鳥はカッチョ、ヒヨドリ、ツグミ。

 

・食べ物

  アケビ、ウベ、ガネブ、ムク、ヤセブセンゴ(おつうじがよくなる)、エノミ。

 

10 遊び

・川の遊び

  学校の前の川の深くなっているところをミャアコミ(マイコミ)と呼んでいた。道からミャアコミに飛び込んで遊んでいた。「俺たちのちいさかころは深かったもんねーここは。えぐったごとして。昔はね、川に飛び込みしよったとよ」

 

・山の遊び

  わなを作って、小鳥やウサギなどをとっていて、食べられるものは食べていた。わなには、首を挟むもの、首をつるもの、足をつりあげるものがあり、宮さん達は手作りをしていたそうだ。麻に似た繊維であるマホランでロープのようなものを作って、わなを作っていた。

 

・その他

  男の子は小学校の時から、学校では仲良しなのに、帰ると村同士でけんかをして遊んでいた。「おとこはねー村同士でようけんかしよったね。学校いったらなかようあそぶとばい。帰ったらけんか」と楽しそうにおっしゃっていた。

 

・テレビ

  昭和356年ごろからテレビが流行り始めた。流行り始めたころは、酒屋さんにみんなで集まって見ていた。テレビが普及する前は、遊びによって様々な感覚が養われていたとおっしゃっていた。「感覚が全く違うけんね、理解しにっか部分が話ようなかであると思うとよね、確かに。ゆうなら、小中学校までは、義務教育だけん、行かないかんけど、そこまで行ったら明日からは自分で生活できるような感覚っていうかな。小さいころから、親が金があるわけじゃないし、自分のことは自分でせないかんけん、人の世話にならんでも食べることとか生活することは…そういう感覚ば小さいころからやしなっとるけんね。」『ホームレス中学生』のような感じだと笑っておっしゃっていた。

 

11 その他の作物

・麦

  「せまかけん、されんけん作らんもんね、麦ば。」機械も入らないのであまり作られていない。

 

・蕎麦

  自分の家で食べるくらいは、作っていた。

 

・みかん

  今は、いろんな種類があって甘いものしか売れないが、昔は「みかん」というだけで売れた。今は、ビニールハウスで作られている。

12 生活

・炭焼き

  戦時中に日本に連れてこられた韓国人が、戦後に町で仕事がなくなり、田舎で炭を焼いたりパチンコ屋を経営したりすることがあったらしいが、諸浦の人々はあまり行っていなかった。韓国人の人達は山にすみ小屋を造って、その周りの木を切って炭にしていた。木がなくなると移動して、また炭を作った。炭焼きをしていた人々は時々、芋などの食糧を売ってくださいと言ってきていた。

  花木の山の上の人々は、売るためでなく自分で使うために炭焼きをしていた。

 

・石炭

  石炭は質の良いものではないがどこでもとれた。個人的に掘っていたりはした。狸ぼりという。企業としてするほどの層はなかった。

 

・炭坑

  炭坑住宅の跡が今でもあるので、炭鉱があったのではないかと思われる。

 

・戦争

  海に近いためアメリカ兵が上陸してきたときに備えて、名士の家に兵が駐屯していた。その兵士たちの食糧を作るために段々畑が作られたりしたが、まもなく終戦となったし、アメリカ兵が上陸することもなかったので、たいして影響はなかった。

 

・薪

  大人は斧や鋸で木を切っていたが、子どもは枯れて落ちた枝(ビャアラ)を焚きつけのために取りに行っていた。潟の人などにビャアラを一束5円とかで小遣い稼ぎに売っていた。

 

・修繕屋

  窯、傘、鍋の修繕に来る人がいた。その人々は部落の人ではないかと思われる。どこに泊まっていたかは定かではないが、宿屋はあったと思われる。お宮には乞食(前門)が寝ていたので、もしかすると、そこで寝ていたかもしれない。

 

・共同浴場

  ヨコヤマにあった。岩をくりぬいただけのものがヨコヤマで出てきた。他のとこで沸いた湯を岩の中に入れて、みんなで入っていた、という原始的な風呂。有浦上には宮さんが中学生くらいまではあった。

 

・青年宿

  昔は一番年上の人の家の離れなどで、やっていたらしいが、宮さんのころは公民館が多かった。お嫁さんをもらう前の男の人が夜だけ集まっていろんな話をして、結束を強めていた。もめ事もその中で解決しようとしていた。先輩から習って最低限守ることは守っていた。

 

・二十八水

  昭和28年におこった大洪水。小学校が海みたいになっていたのだけは覚えているそうだ。学校の塀が決壊した水で崩れて、田が瓦礫で埋まってしまった。瓦礫を運び出すためにトロッコがつくられた。そのトロッコで宮さんは小学生の時遊んでいた。

 

・酒屋

  昔は23軒の酒屋があった。まず、きれいな水がある。次に大量に重いものを運ぶには船が必要であるが、昔は川が深く船が川まで入って来られたので運搬にも便利だった。当時としては条件がそろっていたので酒造りが盛んであったのだろうとおっしゃっていた。

 

13 行事・祭り

・若宮八幡宮のお祭り

  春祭り、秋祭り、誕生祭などがある。昔はお盆に五穀豊穣を願って綱引きをした。盆綱引きという。子どもは子どもだけで綱引きをし、それを子盆綱といった。秋祭りは、昔は神輿を担いだりしていたが、今は、神主さんに祝詞をあげてもらって祭り旗をあげるだけである。また、無病息災を願い、榊にお湯をつけてかける。獅子が家々を回って厄払いをする、獅子かぶりというのも行われている。

  有浦上の天満宮では祭りが復活し、神輿担ぎなども行われている。

 

・いのこ

  家を回ってお菓子やお金をもらうもの。子供会の活動でおこなっていた。お菓子は普段食べないから珍しいものであった。変装はしないハロウィンのようなものだと感じた。

 

<まとめ>

今回、現地調査をすることを知ったときには、何をすればよいのかということが自分たちの中で漠然としていた。しかし、講義を受け、事前に下調べをし、計画をたてていく中で、この調査により、失われつつある昔の村の歴史を記録し後世に伝えていくということの意義を感じ始めた。現地では、宮さんがお忙しい中、私たちのために様々なことを伝えようとしてくださり、私たちもそれに応えて、諸浦についてより深く知りたいと思った。諸浦の地名の由来について内部の人しか知り得ないような貴重なお話を聞き、地名からその地域の歴史的背景を少なからず知ることができることを実感できた。昔の暮らしについてのお話では、昔と今の人々では感覚の違いがあるということを聞き、その違いを完全には理解できないものの、それを理解し、より深く知りたいという気持ちを持つようになった。その理解のためにも、これからも歴史を学び続けるという姿勢を保ちたい。

 

最後に、今回たくさんのお話を聞かせてくださり、諸浦の様々な場所をみせてくださった宮さん夫妻、このような機会を与えてくださった服部先生、本当にありがとうございました。

C:\Users\Lucy\Pictures\2009-07-25 1\1 035.JPG
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


↑宮さんの畑に咲いたコスモス

今年もこのような綺麗なコスモスが見られるそうです。

 


戻る