玄海町小加倉調査
1TE09239■井上蔵人 1TE09255■岡本惇志 調査日:2009年7月20日 天気:雨のち曇り <<一日の行動>>
玄海町役場 小加倉<聞き取り調査> 私たちがまず山口さんのお宅に着くと小加倉のご長老の3人の方はお茶をすすりながら談笑されていた。 私たちが正座で座ってはにかんでいると一番元気なおじさんが「なんば!!あんたらこれから何時間も話すんにから正座やらせんでよかよか。足崩してジュースでも飲まんね」と言って、私たちにもっとリラックスするように言ってくれた。私たちは最初道に迷って歩き疲れていたので喉が渇いていたのもあり、薦められたジュースを一気に飲みほした。 ここから私たちの今回の目的である聞き取り調査が始まった。私がまず小加倉の田について特別な名称や地域の由来などがあったら教えてくださいと尋ねた。 すると昔の小加倉の田植え作業のはなしをし始めてくださった。ここからは、その話で教えていただいたことである。 小加倉では農作業は主として馬と牛での耕しから始まり脱穀は足踏み機での作業と全て手作業で行っていたが、昭和36年からは小加倉でも機械の農作業が始まった。小加倉は一面が田のようだが、米の他にもみかんや、さとうきび、菜種などの特産品があるそうだ。水田も昔は裏作をしていたようだが、最近では見かけないとのこと。 水田の歴史は分からないくらい長くて、また農地改革前後では特に変わったことはなかった。 最近はできたばかりのダムから水田の水を引いているが、昔は川や雨が降ったときのため水から水を引いていた。 また、生活面でも、農作業にしてもガス普及にしても昔の生活からすると、いまの生活は随分と良くなったらしい。 <小加倉での生活> 山口さんは、昭和15年小学卒業なので、中学には行けなかったそうだ。戦争にも1年間朝鮮に行かなくてはならなかったらしい。若い時は小加倉から姪浜、あで1日がけで歩いて行っていたそうで、訪問先の方々は西区のことや、糸島についても詳しかった。 小加倉で他の町と自慢できることと言えば、とにかくみんな時間に忠実という人間性のようだ。地元の祭りなどの行事もみんな参加して、とても楽しみの一つであるということだった。 昔はもちろんお菓子なんてないから自分たちでサトウキビからあめ玉なんかを作っていたそうだ。 冷蔵庫ももちろん昔はなかったので米の保存にはもみのまま保存していたようだ。そちらの方がおいしく食べられるとのこと。 佐賀の中では唐津だけが標準語を使い、他は方言が強いらしい。おじさんが「がばい」なんて使うのは島田洋七ぐらいだと笑いながら教えてくれた。方言では糸島まで行くとお互いなんて言っているか分からないくらい昔は強かったそうだ。また小加倉は話し言葉が強いのでよく喧嘩しているみたいだといわれるらしい。 生活のことについて尋ねてみると、小加倉にガスがきたのは昭和30年代半ばだという。飲み水に関しては、水道が通る以前は井戸から水をくみ上げて使かっていた。 他にも、野焼きは行われていたらしく、焼く山というのは決まっていた。野焼きは昭和35年まで行われていたそうだ。病気にかかったときは、戦前からあった病院に行っていたらしい。 <小加倉めぐり> 集合時間まで少し時間が残っていたので、山口さんから聞いた小加倉で訪れた方がいい場所を聞いていくつか向かってみた。 とりあえず田んぼに行ってみた。するととにかく水がきれいで驚いた。 そして鬼木川にも足を運んでみると、川沿いに多くの住宅地があり、どれもかなり古い建物みたいであった。 小加倉にはかなり古くから「大般若」という伝統行事がある。これは村の外部から病気が入ってくるのを防ぐための行事で、年に1度行われる。今年はちょうど私たちが訪問した前日に行われ、もちろん山口さんも参加していたらしい。「昨日は宴会で酒ば飲みよったけんが電話に出れんやったとよ。」と山口さんは笑っていた。その大般若の内容は、小加倉から外部につながるすべての道の両面にしめ縄をかけた竹を立て、公民館で経典の束をお坊さんがパラパラとめくり、参加者の頭や服を経典でたたく。これが魔除けや災厄を払うことになるらしい。そのあとは毎年交代で町民のだれかの家で宴会をする。昔は決まって「アメユ」という甘い飲み物が用意してあったらしいが、今はほとんどが持ち寄った料理などである。そのしめ縄と竹は宴会が終わって数日後に集めて燃やすのだという。この行事は、子供を参加させるために学校の都合なども考慮して日にちを決めているような、年齢を問わず村のほぼ全員が参加するとてもにぎやかで大規模なものである。どうしても参加できない人は、自分がよく着る服を参加者のだれかに、自分の代わりとして持って行ってもらう程のものらしい。たとえ行事であってもこれほどに結束力のある町は、今となってはそうないだろう。 大般若以外にも「的射り講」(マトイゴ)という行事もある。この行事は町の男性が一人3本ずつの矢をあらかじめ用意された的に射て、命中すればその年は幸福を得られるというものである。山口さんに見せていただいた小加倉の資料にのっていた写真に写る町民の皆さんの表情はみな真剣そのものである。 他にも小加倉には数多くの行事があったが、それらの中には歴史が古すぎて今はもう行われなくなったものも多い。 ↑大般若の行事の最中の写真 ↑山口さん宅のすぐ横にあった大般若のしめ縄 ↑しめ縄と竹を焼いているときの写真 ↑的射り講の様子 <余談> 小加倉についての話も終わりに近づいたころ、「糸島にゃなんでん知っちょーばい」という話から糸島についての話が弾んだ。「今宿なんて昔は田んぼしかなかっとよ!!!」という話から弟が今宿の三菱電気につとめている話に発展して家族の話をたくさんしてくれた。二見ヶ浦や雷山を訪れた話などもしてくれて盛り上がった。 そのあとも雑談は続き、小加倉で農作業をやっていくにはイノシシが厄介者であるという話が出た イノシシさえいなければどれだけ楽に且、有益に農業を営んでいけるだろうかとおっしゃっていた。 「あんたら九大生やけん、一生懸命勉強してなんかいい策を考えてくれんかね」と言われたのでちょっとやってみようかという気にもなった。 山口さん宅での貴重な話をしていただいた後、わたしたちは小加倉周辺の調査を行った。事前に小加倉の地図を用意していたときにいろいろな想像をしていたが、思っていたよりもずっと道路は整備されていた。 田んぼや川などの写真を撮ったりしながら歩いていると、ひとつのおおきな神社があった。 せっかくなので神社の写真などもとっておこうと思って境内に入ると、ずいぶんと新しい立派な建物があった。 これも町の人々が信仰を忘れずにしっかりと管理していることの現われだろうと思った。 <最後に> 今回の調査でご協力いただいた山口さんをはじめ小加倉の方々にはとても暖かく迎え入れていただけたので、和やかに話を聞くことができた。 この講義を通して今まで全く関わることのなかった地域の歴史や生活の変化を直接地元の方に話を聞いたり自分の目で見たりすることで、肌で感じながら調査することができて貴重な体験ができたと思う。 教室で板書の授業を受けるだけではなく、実際に自分で歩み・見・聞きして学ぶことの大切さを実感した。 またこのような機会があれば、もっとそこでしか学べないことをたくさん学んでいきたいと思う。 |