〜「平尾」を訪ねて〜

                                       馬場 慶彦

                                       能木

 

T、導入

  私たちは7月20日(月)現地調査として平尾地区に足を運び、緑豊かな自然の中で地名や瀬の由来・集落の歴史と現状・名所などさまざまなことを学ぶことができた。そこで今回、調査の

結果をレポートにしてまとめてみることにする。

 

 

U、当日の行程

 まず始めに、私たちの調査当日の足取りから説明する。以下がその結果である。

 

平成21720日(月)

@8:52   九大学研都市駅 出発 (予定より数分の遅れ)

 A10:40  今村交差点    到着 

(時間的にはけっこう余裕で到着。後は地図とにらめっこしながら平尾公民館を目指す。)

 B11:00 平尾公民館に無事到着…と思ったら、そこが別館だとわかりちょっとあせる。

        やさしい管理人さんが公民館の場所を教えてくれた。

 C11:15  平尾公民館   到着

        (この頃には雨も小降りになっていた。)

 D11:20  長老たちと交えて講談

(玄海町の概要、産業、歴史、平尾地区について、地名の由来…)

 E12:40  昼食

(区長たちとともに採れたての海の幸をいただく。)

 F13:50  地区を散策

(天満神社や牛神様・大墓様などを見て回る、交わした会話は後に説明する。)

 G15;10  平尾公民館   到着

(この後、相撲を観戦しながら区長たちと講談、交わした会話は後に説明する。)

 H15:50  平尾公民館    出発

        (平尾区長さん・地区の方々、本当にありがとうございました…)

 I16:10  今村交差点    出発

        (バスのなかでレポートの段取りと調査メモの確認作業、その後能木は暴睡…)

 J17:47  九大学研都市駅 到着

        (調査お疲れさまでした…)

 

 

V、玄海町・平尾地区の概要

  次に玄海町と今回調査にあたった平尾地区の概要を説明する。現在の玄海町は人口約7,000人で

面積は36平方キロメートル。小学校は有浦・仮屋・値賀・牟形の4校・中学校は有浦・値賀の2校がある。

ただし近年の生徒数減少で中学校の統廃合が決定している。統廃合自体はやむを得ないが、問題は学校をどの土地に移すかだと平尾地区方々は頭を悩ませる。産業は主に農業と漁業、集落には美しい棚田が見うけられる。近年では玄海町に原子力発電所もでき、プルサーマル計画が進行中である。原子力発電所は臨界事故など危険な面もあるが、この町は原発のおかげで成り立っている。原発の否定的側面だけをみるのではなく、そこから得られる利益にも目を向けるべきだと力強い声でおっしゃった。さらに平尾地区の説明をする。この集落は玄海町の北西部に位置し、南北に「国道204号」が走っており、西側には本村地域、

東側に御岳地域の2ヶ所に分かれて民家が存在する。本村地域はかつて値賀村役場や駐在所や値賀中学校があり、値賀村の中心地であった。現在は値賀村役場跡付近には、村役場値賀出張所、町公民館値賀分館、町学校給食センター、町営住宅がある。ちなみに現在の現在の平尾地区は戦後の農地改革で再編成されたもので、第二次世界大戦前はより広大で飛び地も存在していたそうだ。このことについて地区の

長老は詳しく説明してくれた。以下は当日行われた会話の一部である。

 

( )…村の長老、〔 〕…質問者、「」…嘱託員

 

「何人ぐらいか…よそから入植者がやってきたばって、半分ぐらいかほとんどよかとこは部落の人だけっち手おこしで畑ばつくって、おこしたしこはわがもんっちいった。農地もつくりよったって、さけんまあ、戦後

たいなあ、開拓団の人が入ってきて、その人たちに分けてやったんじゃ。それでだいたい部落有として売ることはできんやったけな、その時は。農地改革で。それでためになったわけや。じゃけん、ほらあのー自分で耕した分だけわがものみたいな感じで。」

(そうそう。)

「それば部落地ば分けた。」

(繁倉、値賀山な。)

「じゃけな、ずーっとその地はみんな平尾っちなっとった。じゃけん、今は三部でよその地区の人も入って

きちょる。」

〔あぁーっ〕

 

 現在の西の浦・平尾・値賀山・繁倉の一部・古野・沙子・女石の一部などは、みな昔、平尾地区の一部

だったようだ。私の祖母から昔、地元の山を開拓した分だけ自分のものとして所有していたという話を聞いたことがあったが、これがどの地域でも行われていたことに驚いた。なお戦前の平尾地区の範囲は地図にオレンジのマーカーで記入している。

 

 

V、地名のおこり・瀬の名称

 次に地名の由来や瀬の名称について説明する。平尾の「平(ひら)」は「平らな土地、山中の小さな土地」

「尾(お)」は「丘などの高い所、山の峰」を意味する。地理的内容を見ると、集落は上場台地の上にあり、

一帯は平らな丘陵地になっている。このことについて私たちは嘱託員さんに話を伺った。以下は会話から抜粋したものである。

 

( )…村の長老、〔 〕…質問者、「」…嘱託員

 

〔ここは、でも山が中心でけっこう高い場所ですねぇ。〕

(高いですよ、ここは。)

「高い山です。でもまあ高いっちゅうたってめちゃくちゃ高うなかばって。」

(へへっ。)

〔こぅーせりあがってきますね。〕

「うん、そうそうそう。高いところっちゃ。」

(うん。ここは今、なんちゅーか、ほらあそこにタナバシっちいうち、カンタチの。

ハゼヤマじゃない。タナバシな。あそこにこれからずぅーっとあがっちょる。ここが

高うなっとる。)

「地形的には高い。」

(うん。)

〔やはり、その、つくる田んぼも棚田になってしまう…〕

「うん(うん)、大概ね。今はそこらへんも平地になっちょるとは、ほら今度開発関係で広めっちまったけん。もともとは、ほらずっとこう棚田みたいな感じ。」

〔ああーっ。〕

(うっ、うん。)

〔今も同じように棚田、この来るときにバスでも棚田…〕

「そっそう、そうそうそう。棚田だったろ。」

〔同じようにうちもそう。〕

「そうそうそう、うちもそう。」

〔ああーっ。〕

 

  平尾地区は丘陵地なので田はたいてい棚田になっている、実際私たちがこの地区に来る時もバスから

美しい棚田を眺めることができた。さらに彼らは海に存在する瀬についても詳しく説明してくれた。

 

 【瀬の名称と由来】

@     船出…昔、朝鮮人が船で来日しエイやカレイなどの荷を卸していたことから名づけられる。現地の

        人々も彼らと物々交換をしていたようだ。昔、平尾の人々はできる限り自給自足の生活をして

        おり、金銭売買はしていなかった。酒・焼酎・米・塩(西の浦産)は自分で作り砂糖すらサトウ

        キビから作っていた。自分で作ることのできない魚介類を、この船出で調達していた。

 

A     わくど瀬…瀬の形がわくど(ガマガエル)に似ていることから。集落ではガマガエルのことをわくどと

         呼ぶらしい。

 

B     せんちん瀬…形がトイレの便器に似ていたことから。集落ではトイレのことをせんちんと呼ぶようだ。

             トイレのことをせっちんと呼ぶ地方があると聞いたことがあったのでせんちんがトイレの

             ことだと容易に想像がついた。

 

C     三ッ瀬…沖合いに3つかたまって存在することから。単純で分かりやすい名前だ。

 

D     キャワラ瀬…瀬の形がキャワラ(貝殻)に似ているからだろうか。集落では貝殻のことをキャワラと呼ぶ

            らしい。

 

  さらに沖合いには小森・沖の瀬・丸瀬などの瀬があるが、瀬の由来がすべて分かっている分けではない

と言う。

 

( )…村の長老、〔 〕…質問者、「」…嘱託員、『』…平尾区長

 

「道路は今すっけ、これが道路。これ、これ。」

〔あーっ。〕

「これが本線行き、今はこれが拡張してね。これからきゃーっと道路が今、つくっちゃって、上までいくと、平尾地区の土地があるけんね。これまで行くごと道がつくっちゃっとう。だいたい景色はね、ここから見て一番景色がよかった。」

(そうそう。)

「川掛かりに行っても、棚田は棚田があるけんが景色がよかばってん、この平尾の下に

ここから見た方が一番景色がいい。」

『そこにある海瀬とかも名前があるたいな、いろいろ。』

「そしたらちょうどここに、夕陽の沈むっていう、こっち方向に沈んでいくけん一番景色がよかった。ここん先、道路抜けたら一番景色がいい。」

『そげしてナカガミとかコヤマ・マルオ…あの船出とか丸瀬とかな、丸瀬とか沖の瀬とか…。昔はせんちん瀬とか言いよったな、せんちん瀬っちこれかなあ。』

(とびわたりの。)

『これか、知らんけど名前があるとですよ、その由来自体よう分からんとですよ。でも

せんちん瀬っち…』

「こりゃ、わくど瀬はわくどに似ちょらすけわくど瀬っち言わすんで、平瀬はほんまあっこに。」

『これは丸瀬っちいうとですよ、丸瀬。』

(それに、とびわたっていかな渡れんと。)

『して、ここにき瀬のするたいな、キャワラ瀬とか。ここに沖の瀬っちいうとな?』

(沖の瀬。)

『沖の瀬っちいうとです。そしてですね、潮が引いたときにですよ、ここらへんにキャワラ瀬っち存するとです。この辺です、はい。』

〔もう一度いいですか?〕

『キャワラ瀬。』

〔キャワラ瀬って…〕

「貝殻瀬っちいう。」

〔あっ、貝殻瀬!〕

「貝はこっち辺の言葉でキャワラっちいうと。」

〔あっ、そうなんですか!〕

「じゃけんキャワラ瀬。」

『ここは何か、三ッ瀬…三ッ瀬か。これが三つの瀬。それとこっちは何ちいうとかいな?』

「沖の瀬、沖の瀬な。」

『これが沖の瀬なるん?』

「そらなんね?」

(こりゃ小森やろ。)

『小森か、小森。これが沖の瀬。それは小森っちいうとです。』

(これは潮が引いた場合には一緒になる。)

「つながる。」

『小森、小森か。』

「小さい森。」

『で、ここにせんちん瀬っちあるとや。昔ですね、田舎はですね、あれ、トイレんことはせんちんっち言いよらしたんです。たぶん、その隅板があれに似ちょったんじゃなかろうか、な。そういうことまでは…』

「あるもんね、やっぱ。」

『ここに昔ですね、ここらへんのトイレのことはせっちんっち言いよらした。それがですね、よう似ちょったっち、その人が…そげん、せんちん瀬っち。これな、これ。ちょうど、このここんとこ出たところに瀬がありますよ、瀬っちいうのが岩場がですね。それが似ちょったけ、せんちん瀬っちいうんじゃなかろうか。ああ、なっ。昔その、トイレが昔、何ですかあの、何ちいうた、ぽってんっちいうか。あの、ただ隅板だきあったトイレとかあったでしょ。あれによう似ちょったとでしょうね、たぶん。そげん、せんちん瀬っちいうとです。』

「わくど瀬っちいうとはね、わくどっちいうのはガマ、ガマガエルの太かことたい。

それをわくどっちいう。いうけん、わくど瀬っちいう。」

 

 瀬の名称にも一つ一つ由来があり、それが歴史的事実や形から決まっていることに気がつき、非常に

興味深かった。瀬の名前には「わくど」や「キャワラ」のように独特な方言が用いられているものもあり、最初

聞いもさっぱりなんのことかわからなかったが、区長さんたちは笑顔で一つ一つ丁寧に教えてくれた。

なお、会話の冒頭で出てきたように、新たに出来た国道については地図にピンクのマーカーで記入している。

 

 

W、集落の歴史

 ここで集落の歴史について説明しておく。この地区は約600数十年前、この地方を治めていた松浦党の一族佐志氏の領地であったことが正和2年(1313)の『佐志浄覚挙譲状案』(有浦家文書)などで推定される。さらに、江戸期には唐津藩領に属し、元和2年(1616)の検地帳(名護屋松尾文書)に「平尾村186石1

9升」とある。江戸期後半の文化年間(1804〜18)の『松浦拾風土記』には「平尾村 田畑188石4斗3

5合、家数47軒」とある。藩では庄屋製がとられたが、平尾村にいつごろから置かれたかは不詳だが、ほかの集落より早い慶長4年(1599)に久左衛門慶治、元禄年間(1688〜1704)に中山慶治などが確認されている。延宝2年(1674)から庄屋は転村制がとられたが、全集落において行われたのではなく30数ヶ所

では相続庄屋があり、平尾村は明治3年(1870年)の庄屋制廃止時まで中山氏」が相続庄屋として続いた。また組村制もとられ、値賀組に属した。明治22年の町村制施行で集落単位の村は統合され、平尾村は値賀村に属し、昭和31年(1956)9月30日に有浦村と合併し、玄海町になり現在に至っている。

 さらに今回は、平尾の歴史ということで、地区の皆さんにさまざまな思い出話を語ってもらった。

 ( )…村の長老、〔 〕…質問者、「」…嘱託員

 

「唐津からバスが来ることなったは、何年ぐらいから?」

(バスは、えっと、俺が尋常3年生の時。)

「木炭車が来たと?」

(あん時分じゃ、まだ木炭車はなかった。)

「なかった?」

(ジープ来ったると、ジープ、ジープ、ジープたい今の。車間は暗かったもん。何台くらい来よったじゃろうかねぇ、3台ぐらい来よったじゃろうかな。俺が覚えちょるとは、俺が尋常3年生の時に佐賀、んーこう、あー、県庁向きは出来ちょったよ。政府とか講堂はあったすけん。歌は…歌ひらいたことがあった。通りと…国鉄の前。かりだしのとしお、かたやまとしお、なかどり、つるたきよし、おったよな。)

「あーはあはあはあ。」

4人、4人連れ。…ふじおば、ふじおばと今浦さん、はつめい、ほかうらはつめい、あれは踊り手たい。男が4人だったじゃ、踊り手いや、あの見たことあったたい。あのあん時分に、んー、それなりにジープ乗って行った覚えあるわけたい。)

「木炭車は?」

(木炭車は遅かった。)

「遅かったつのは、戦後?」

(はい、戦後じゃろ。)

「戦後、木炭車はな。」

(あそこでー、かりだしの、今停留所、今村停留所のところで、あの出兵兵士送るしたけんな。その時分は木炭車やったもんな。昭和、昭和18年に俺が兵士行ったけ、もうそれ前からあそこから木炭車が出よった。)

〔ああーっ。〕

「昭和15・6年からずっと出ちょったっちゃな。そしてね、当時の道路はとても道路

っちゅうことは道路じゃなかったやろうけんが。」

(あーいや、そして今いう値賀山線だったあれが。うちかえったところの今の一位とはらうたやなっためっちゃいいよったっちゃけん。)

「どんぐらいあった?フクインの。3メートル、3メートルもあった?」

3メートルはなかろう。)

2メートルぐらいやなかろうかね。」

(そん時分にジープ、ジープ車…)

「そうそうそう、じゃ木炭車が来たっちゅうのはもう道路ができた頃やね。」

(県道できたったい。)

「できちか頃に木炭車が走っとった。」

(タンザキまで出来たもんげな、木炭車が。)

「ちゅうことは、昭和15・6年ぐらいに…。」

(はいはい、そうそう。)

「その頃ね。」

 

 木炭車は大正時代にはどこでも普及していたのだろうと考えていた私たちはこの事実に非常に驚いた。

ジープ…今で言うと自衛隊や陸軍が用いるような護送車(?)みたいなものだろうか。一度見てみたい。

さらに、大正時代は道路もきちんと整備されてなく、雨の日に通るのも大変だったそうだ。今は県道や国道

が整備され、道路もずいぶんときれいになったとうれしそうに語っていた。

 

( )…村の長老、〔 〕…質問者、「」…嘱託員

 

「戦後よね、松食い虫の件が増えちっとったのは。」

(夏も枯れることは滅多になかったなぁ。)

「ああーやっぱり俺も聞いたことがなかったばってん、今後の話やね。松食い虫が増え

たっつのは。」

(外材の、外材が入ってきてやっぱあれから自然に松食い虫のアメリカ方からなんか一緒にきちょるとたい。)

「当時は松食い、松も枯れるちゅうことはあまり聞いたことなかったもん。やっぱりなんでも一緒ばってんね、もう。」

〔というと、根元から、あれ落とさないとダメですか?〕

(ダメ、ダメ。)

「松食い虫はね。」

(はいはい。)

〔下から切り落とさないと…〕

「もう色が変わってきたときはダメじゃ。」

(うん、もう油気がのうなってしまうけな。パサパサになってな、ひいのうなからな大変な木になってしまう。)

「夏は大体油が落ちよってん、油がのうなってしまうけん…。昔はな、太か松もあった

けんが、2本ぐらいあんなら家が建つぐらいあったな。普通の柱やったら。柱っていうか、梁も建たんね、一本二本でとらえるなら…。今は完全に松ものうなった。」

 

 松食い虫…当時の人々はこの虫にかなり苦しめられたようだ。松が次々に腐れてしまえば林業に多大な

影響が出てしまう。会話の最後にもあるように、現在はずいぶんと松が少なくなったと悲しげにおっしゃって

いた。松食い虫の存在もほぼ初めて知ったし、海外から輸入される木材がこのような形で影響を及ぼしているのかと思った。

 

 

このほかにも昔の農作業や牛の病気・当時の食生活について尋ねてみた。昔の農作業は共同で行ってい(ゆいやもやい)、収穫後にはみなで盛大に飲み交わしたそうだ。だが今は、稲刈りも機械でやってしまうため共同で行うことはほとんどないという。また当時、牛が病気にかかっても村に獣医がいなかったため数珠をつけみなで病気の回復を祈っていたという。食生活については前に述べたとおり、出来るだけ自分の田畑で農作物をつくり船出で魚介類と物々交換していたという。地区の方々はこれらの昔話を身振り手振り交え楽しそうに語っていた。

 

 

X、集落の名所

 昼食後、私たちは嘱託員の方とともに平尾地区に現存する名所を見て回った。ここではその時に見た名所を紹介していきたい。

 

@、天満神社

 集落の中央にある字古野にある。祭神は菅原道真が

祀られている。文化年間(1804〜18)の『松浦拾風土記』

に「平尾村 氏神古野神社 祭礼11月25日」とあり、また

明治25年(1882)の「郡村誌第二」には「天満神社 菅原

道真朝臣令を祭る、創立並び由緒不詳、祭日陰暦11月

25日」と見え、昭和28年(1953)創の『神社明細帳』にも

同様にある。

 

 この写真で見られるように、この神社には歴史を感じさ

せる鳥居と日露戦争の戦没者をまつる碑がある。天満

神社自体は昔、水害が発生するという理由で一時期は

今よりも標高が高いところに建てられたが、今は元の敷地

に戻されたらしい。境内には土俵があり、子供や若者に

よる奉納相撲が行われていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


A、宮地獄神社・金刀比羅神社

 集落の東の字古野にある。神社は丘の斜面があり、

小祠に「宮地獄」「金刀比羅」の2社が祀られている。

 

 天満神社のほうに設置されているからだろうか、金

比羅神社のほうには鳥居がなかった。境内には牛神

様が祀られている。また、神社の正面には美しい棚田

が広がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


B、三層塔(大墓様)

 集落の中央の字平尾に高さ3〜5メートルの

塔がある。「干時慶安二天(1649)巳之年三月

吉日、奉逆修……祖師西来意」と刻んであり、

通称大墓様と呼ばれている。

 

 墓石には文字だけでなく絵文字も用いられて

いる。とある有力者の威勢を保持するために、

死後ではなく生前につくられたものだそうだ。

子孫・末裔の繁栄も祈ったのだろう。やはり英雄

は受け継がれなくては…奥州藤原氏のような

三代限りの英雄ではむなしい、と嘱託員さんは

語っていた。

 

 

 

 

 


C、庚申塔

 庚申塔とミザル・キカザル・イワザルの像が建てられて

いる。ここでは昔、庚申講や富籤をやっていたらしい。

力石といって男たちが力比べをするために利用された

50Kgぐらいの丸い石が最近まであったそうだ。

 

 この塔のそばにある建物では、毎年大きな数珠をみなで

持ち、無病息災を祈り、その後お茶をして親睦を深める催し

がある。

 

 

 

 

 

Y、調査をふりかえって

 「平尾」には山や海を中心とした豊かな自然がある一方で、これからの産業をどう発展させていくかや荒れ果てた田畑をどう処理していくか、など考えねばならない問題も多い。しかしそこには、平尾の将来に真剣に目を向ける人々の姿があった…。

 

 私たちは今回の調査で、地名や瀬の由来を知るだけでなく、集落の歴史や現状・人々の生活の移り変わりなどさまざまなことを学ぶことが出来た。これは、日ごろ大学で学ぶことのできない貴重な経験であったように思える。この調査を行う前、服部先生は「学問には机上の学問と、実際の現地での学問がある。調査では現地が研究室・教室となる…」とおっしゃっていたが、まさにそれを実感した一日だった。今回の調査に

協力してくださった区長・中山正活さんをはじめ地区の皆さん、本当にありがとうございました。


戻る