調査地域:佐賀県玄海町藤平

調査日:2009 720

調査学生:今村公裕(九州大学理学部地球惑星科学科1年)

     荒武見希(九州大学法学部1年)

 

・到着から第一回聞き取り開始まで

1030分に藤平に到着した。事前に入手した地図をもとに本日お話を伺いに行く中島秀雄さん宅を探す。地図上の公民館を目印に探したが、一向に見当たらない。バスを降りた所の周辺を歩きさまよったのち、中島さんに電話した。21日に来る、と思われていたらしく、「今日は少ししか時間がない」と言われた。自宅を教えていただき、お会いすることができた。自宅ではなく、離れに案内されて、早速聞き取りを開始した。

 

・中島秀雄さん(昭和31年、53歳)の話

 「藤平」の読み方は、「ふじひら」もしくは「ふじのひら」である。この名称のいわれは二つある。@「藤の花」が咲くところ。また、有浦川の周辺が谷のようになっており、「平ら」であった。Aその昔、陶芸家の「藤平(ふじひら)」という人物が当地にいて、焼き物を作っていた。この地区内にある小高い丘の上からは、陶器の破片が出土するという。

 「藤平」地区の中には、字として「田藤」という名前がある。これは、天保年間から明治時代初期(地租改正:1870年)まで、当地を支配していた庄屋「藤田」氏に由来する名前である。

 病気になったときには、藤平より4km離れた「有浦」地区にいた医者に診てもらっていた。

 藤平は、水資源に恵まれていて、農業用水や生活用水をめぐる水争いは、なかった。

 藤平地区には、ダムが建設されている。このことによってどのような影響があったのか。藤平地区大平は、ダム建設によって、水没した。また、旧藤平公民館はダム建設にともない移動させられた。なお、大平地区の住民は、馬頭観音の上側に移住している。

 藤平地区には、馬頭観音と大山祇神社がある。馬頭観音は、農耕の神および馬を祀る。昔、農耕には馬が使われており、大事に扱われていた。大山祇神社は、「おおやまづみ」と読み、山の神を祀っている。

 炭焼きは、米に次ぐ、収入源であった。

 かご作り、紙すきなどを、米作りと兼業していた。また以前はタバコ作りが盛んであり、この集落の8割近くの農家がタバコを作っていたが、現在では2軒だけである。

 谷では、段々畑をつくっていた。だが、近年の圃場整備事業によって段々畑および棚田は当地からなくなった。

 山では、みかんを栽培していた。国のパイロット事業の一環である。

 この地区では、囲炉裏より掘りごたつのほうが一般的であった。掘りごたつの中に入ってしまい、亡くなる人もいたという。

 昭和50年代まで、結婚前夜の男たちが集まっていたらしい。青年クラブのような集まりもあり、地区の文化祭の余興の練習や、旅行などをおこなっていた。

 この地区には、「よばい」があったらしい。「よばい」先としては、他の家の奉公人が主だった。その奉公人のことを、当地では「奉公人のあんねしゃん」と呼んでいた。

 もやい風呂(共同風呂)があった。その場所は、現在の「消防団の格納庫」がある場所である。

 馬頭観音の祭りが、昭和30年代の後半くらいまであった。祭りの運営は、平等であった。また神社総代などの役職があった。

 恋愛は、ふつうであった。

 経済格差というものは、当然ながらあった。地主のところの嫁は、田んぼにはいって手伝うということがなかったため、足袋の色はいつも白かったという。

 にわとりを自宅で飼っていて、自分たちで殺して食べていた。にわとりの羽を一本とって、その根元の部分をにわとりの首(後頭部のくぼんだところ)に突き刺して、にわとりを絞めていた。

 この地区にガスがきたのは、中島秀雄さんが小学校に入学したころ(昭和40年ころ)だった。このことによって、生活がかなり楽になったという。

 藤平の人口は、増加傾向にあるという。農業の後継者もいる。一方、玄海町の中心部である有浦は過疎化がすすんでいるらしい。

 

・現地散策@から第二回聞き取りまで

 中島秀雄さんの聞き取りを終えたのが12時前後であった。お話の中に出てきたところを実際に見てみようと考え、現地の散策を開始した。まず、馬頭観音を訪れ、ダムの周辺を歩いた。

 大山祇神社も訪れた。

 1時間程度の現地散策を終えて、再度中島秀雄さんを訪ねると、村の長老を紹介してもらった。午前中と同じ場所でお話をお聞きすることにした。

 

・中島正男さん(80歳)の話

 この地区には、地図には載っていないが、「あーぎゃり」という場所がある。これは、「あゆがえり」がなまったもので、その場所が滝つぼとなっており鮎が川を上れずかえったから、そう呼ばれるようになったらしい。

「さつまいものだんご」をお菓子として食べていたらしい。作り方まで教えてもらった。作り方は、さつまいもを干したあと、粉にして水をいれてこね、蒸して小豆などをいれて食べたそうだ。このお菓子(食べ物)のことを当地では、「かんころだごて」という。

食べられる(食べていた)野草は、ゼンマイや蕨、ふきのとう(終戦後食べ始めたらしい)である。ゼンマイの食べ方は一度干してからもどして食べたそうだ。ふきのとうについては、終戦後食べるものがない状態で食べられるものとして見つけたと言っていた。

  2回にわけて米を保管していた。半分ずつ玄米にしたらしい。紙や俵ではネズミが食べてしまうため大きなかめに入れていた。しかし、「ネズミはどうしても米を食べにくるものだからしょうがない」とも言っていた。ネズミ退治に猫を使ったかと聞いたところ、「そんなもん使うわけがない」と笑われた。米の脱穀のために「とうす」という道具を使っていた。

 夏場は、一日四食取っていたらしい。

 暖房として囲炉裏を使っていたと言っていた。「つるべ」や「てっきゅ」という道具の話も聞いた。「てっきゅ」は、囲炉裏の上でもちなどを焼くための道具で、「つるべ」は、囲炉裏の上に鍋などを吊るすための道具である。

 当地には、「やんぶし」と呼ばれる人がいた。やんぶしは神主のようなもので伝染病を祈祷で治してくれたそうだ。「やんぶしよりも高貴な人たちが神主だ」とも言っていた。

 薬売りが来ることもあり、その人たちは富山や鳥栖から来ていた。

青年クラブには、旧制中学校を卒業するころから行き始め、柔道や剣道を先輩に学んだり、力石で力比べをしたり、夜這いに行ったり、夜這い先で干し柿やスイカを盗んだりしたそうだ。青年たちが集まる場所は公民館であった。夜這いは合意があるときが普通であった。

 野犬を、消防団の出初式や催しごとのとき、食べていたらしい。「さすがに飼い犬は食べられない」と言っていた。本当に犬が風邪に効くかはわからないが、風邪のときにも食べたそうだ。

 魚は、「いない手棒」という道具で玄海町狩野(かりや)から行商人が売りに来ていたらしい。

 クジラ肉を食べており、農協を通じて一括注文していた。特別なことがないとき以外は、あまり食べなかったらしい。もっと昔は行商によって運ばれたと言っていた。

 軽い病気の場合は村の長老に祈ってもらっていた。重い場合は病院までトラクターなどで連れて行ったらしい。産婆さんが村の中にもいて、出産は家で行い、産婆さんが無理な場合のみ病院に連れていったという。当地では、産婆さんのことを「こもたせ」と言う。

 昔、川祭りがあり、「大石」を祭っていた。この「大石」は、長い間川底にあったが、ダム建設を契機に川から引き上げられた。現在、ダムの近くにある広場に置いてある。

 

・現地散策A

 中島正男さんの話に出てきた「大石」の存在を確かめるために、教えてもらった場所に行った。「大石」は、どっしりとしていた。

 

 

 


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