服部英雄先生(木曜日5時限) 法学部
「歴史の認識」レポート 福田康亮
2009.7.27提出 松本裕太郎
値賀川内(玄海町)
@行動記録
08時45分 九大学研都市駅出発
11時00分 値賀川内到着
付近散策
11時30分 値賀川内公民館前にて徳永博明さんと合流
11時45分 徳永映一さん到着
11時50分 調査開始
14時00分 野外調査開始
14時30分 再び、公民館にて話を聞く
15時40分 調査終了
15時45分 値賀川内出発
17時50分 九大学研都市駅到着
A調査内容
値賀川内に到着した僕らは、まず目的地である公民館を探す旅に出た。しかし、土地勘のない僕らにはなかなか見つけることが出来なかった。付近を歩きまわること20分、たどり着くことを諦めかけた僕たちの目の前に救いの手が差し伸べられた。
僕、「すみません。公民館へはどちらに行ったらいいんですかね?」
住民「え?公民館はこの道を逆に行ったらええんよ。あの電柱が二本見える所よ。」
僕「あ。そうなんですか。どうもありがとうございました。」
なんと、僕らは公民館とはまるで反対の方向へと歩いて行っていたようである。やはり、慣れない土地ではむやみに歩き回らないほうがいいということであるようだ。僕らは、それを心に深く刻みつけてから、再び公民館へと歩きだしたのである。
ちなみに、これが値賀川内の自然のごく一部である。僕らの住んでいる福岡市とはまるで別世界であり、昭和の雰囲気すらかすかに感じさせられる場所でもあった。
そして、道を尋ねた場所から300メートルくらい歩いていったところに公民館が佇んでいた。実を言うと、僕らはこの公民館を一度通り過ぎていたようである。ただ、僕らが予想していた公民館のイメージと少しかけ離れていたので、その建物が公民館とは気付かなかったのである。後に聞いた話によると、この公民館の建物は大正時代に作られたものであり、その当時のまま現在まで存在しているらしい。公民館へ到着した僕らは、ひとまず昼食をとることとした。なぜなら、今回調査させていただく徳永さんとの待ち合わせの時間にはまだ余裕があったからだ。どんな興味深い話を聞くことができるのか、と楽しみにしながら持参したおにぎりを頬張っていると、一台の軽トラックが公民館の駐車場にやってきた。この時間にここへ来るということは、もしやこの人が徳永さんなのかと思っていると向こうから声をかけてくれた。どうやら、向こうも公民館の前にいる僕らのことを見て調査にきた学生だと察していたみたいである。ようやく、目的の人と合流することができ無事公民館の中へ入ることができた。公民館の中に入り二階の部屋へと案内されるがまま足を踏み入れた。これがその公民館の二階の部屋で、僕らが話を聞いた場所である。僕らの中では田舎の町の集会所という言葉がしっくりくる感じの部屋であった。今回話を聞かせてもらえるのは、お二方ということだったので僕らは徳永さんとともにもう一人の方の到着を待つこととした。5分ほど待ったところ、どうやら公民館へ到着したようである。これで、今回の調査の役者が全員そろったのである。
まずは、軽く自己紹介から始めることとした。僕らの自己紹介が終わってから、向こうの名前を聞いたのだが、調査のこんな始めから驚かされることになろうとは夢にも思わなかった。公民館の前で出会った方は徳永博明さんで遅れて到着した方は徳永映一さんという名前であった。なんと苗字が同じなのであった。親戚か何かかと思い、それを尋ねてみたのだが、どうやらそうではないらしい。かなり昔のほうまでさかのぼると同じ一族なのだそうだが今は別につながりがないようである。値賀川内には徳永という苗字が多いらしいのである。そしてこの地域には徳永、谷丸、古館という三つの血族が暮らしてきたようで住民のほとんどがその苗字なのである。こういう風に同じ地域に同じ名前の人たちが多いというのも田舎ならではなのであろうか。
さて、これから調査を始めていこうと思う。ところで、値賀川内という集落はどのような歴史があり、どのように発展してきたのであろうか。その解答は僕らが予想していたものとは大きく異なるものであった。僕らが予想していたのは、単なる農村であり、昔から農業や林業をしているのであろうというものであった。しかし、この値賀川内という集落は石工の里として発展してきたそうである。この発展の歴史を紐解くと、豊臣秀吉が朝鮮侵略を企てていた時代まで遡ることとなる。この時代に朝鮮侵略の本拠地にするために名護屋城を築城する際にこの地に呼んだ石屋である徳永九郎左衛門藤原俊幸という人がこの地の石工の第一人者というらしいのである。このときからこの値賀川内は石工の里としてかなり繁栄していくのである。明治時代くらいまでこの地の繁栄は続いていたようである。江戸時代より前では城の築城に携わっていてかなり繁盛していてようである。江戸時代になり戦乱の世が幕を閉じると、城を作るということ自体が少なくなっていたようである。戦国時代までは築城専門で十分潤っていたようだが、そうはいかなくなってきたので彫刻石屋としてまた発展をしていくというようだ。ちなみに、これが、その当時の石屋の様子である。江戸時代では地元の唐津藩主のおかかえ石屋としていろいろな特権を与えられていたようである。例えば、第6代唐津藩主のお墓を作る際に徳永の姓をもつ者しか携ったらいけないというように、藩主との間にも独特の友好関係を築いていたようである。このように特権を与えられながら値賀川内というただの一つの集落はそうとは思えないほど発展していったみたいである。明治時代と大正時代までは発展が続いていたようだが、昭和になると石工一本ではやっていくことがなかなか厳しくなってしまったので農業も始めることにしたようである。そして今では石工を営んでいるのはわずか1世帯だけだそうである。
さて、昭和といえばあの出来事が真っ先に思い出されるのではないだろうか。そう、第二次世界大戦である。ちなみに徳永さんは第二次世界大戦のことを大東亜戦争と呼んでいた。この戦争の時に値賀川内も例外ではなく影響があったといえる。先ほど載せた写真に写っている石屋が特攻隊の兵野として使われたり、値賀国民学校が宿舎として使われたりしたみたいである。ちなみに、徳永博明さんは戦争が終わる1945年に国民学校を卒業して軍に駆り出されたのだが結局その年に戦争が終わり、戦地へ行くことはなかったようである。今回僕たちが無事に徳永博明さんにお話を伺う機会を持つことができたのは、とても幸運であったということなのである。今一度神様に感謝の意をここで示しておきたい。
さて、明治時代の話に戻るのだが、この値賀川内という場所ではわざわざいろいろな地域から歌舞伎の劇団が訪れていてかなり盛況していたらしい。歌舞伎というものが今では九州では博多座ぐらいでしか行われていないことも考えてみると、当時の値賀川内が如何に発展していて賑わっていたのかということが想像させられる。
ここで、僕たちは値賀川内には、まだ石で造られた作品が残っているのであるかを尋ねたところ、願ってもない提案が向こうのほうから出されたのである。それは何であるかというと、今から実際に外に出て見てみようというものであった。ここまで話を聞いていたところ、正直な話、いまいち値賀川内の石工のすごさがつた伝わってこないところもあったのでかなり有益なものになると思ったので即答で了承し、すぐに外へ旅立つこととした。その際に撮影した公民館の外から見た様子である。ここで一つ注目してほしいのが公民館の看板である。この写真ではいまいち分かりづらいのだが、なんと文字が反対に書いているのである。つまり、「値賀川内公民館」ではなくて「館民公内川賀値」となっていて、ここにもまた歴史の長さをかすかに感じさせていた。ということで、外に出た僕らなのだが目的地へとたどり着くまでのわずかな時間の散策の間にも値賀川内の石工の技術の高さを知らされることになるとは思ってもいなかった。何の変哲のない民家の壁を見て徳永さんが立ち止まった。僕らはこんな場所に何があるのかと思っていたら徳永さんは口を開き教えてくれた。どうやら、この壁は伝統的な石の組み方であって寺勾配と呼ばれるものであるらしい。この写真を見たら分かるとおり積まれている石には一つとしていらないものはないのである。さらに、向かい合う4つの石の角が向かい合わないように配慮されていて、非常に頑丈な作りとなっているみたいである。そうこうしているうちに目的地である白山神社へとたどり着くことができた。神社には4つの狛犬たちが僕たちを歓迎してくれていたようである。神社の中へ足を踏み入れる前に徳永さんに記念碑について紹介された。この記念碑は値賀川内が石工の里であったということを後世まで語り継いでいくために徳永さんたちが建てたものだそうである。僕らもまた、これからはこの値賀川内という集落の存在を知る者としてこの事実を決して忘れずにいて、また伝えていかなければならないのであるということを強く実感した。そして神社の階段を少し上ると一番手前にあった狛犬がすごく近いところまできた。近くで見るとこの値賀川内の石工のレベルの高さをまざまざと見せつけられることとなった。狛犬の口の中を覗いてごらん、といわれて一体何があるのかと思いつつ口の中を覗いてみた。中には石玉が一つ入れられてあった。これが一体何なんだと思っていると徳永さんが説明してくれてようやくその凄さが僕らにも分かった。なんとこの石玉は狛犬の口の中で作ったもので口の中から石玉が出てくることはないというのである。それを聞いた時は石工のレベルの高さにただただ呆然とするしかなかった。すると徳永さんが、実際に石玉が出ないかどうか試してみるといいよ、と言ったのでやってみることとした。実際に子供はやってみるそうである。僕らも童心に返り夢中でやってみたのだが一向に出る気配はない。やはりこの程度では出すことはできないようであり、僕らは当然のことなのだが、この伝統的な技術の前にあえなく敗れ去ったのである。敗北感をわずかに感じながら立っていると次に目に入ってきたのが、先ほど少し触れた歌舞伎にまつわるものであった。その正体は歌舞伎のステージ(跡)である。今はただの野原のようにも見えるのだが、当時はここで賑わっていたのかと思い、感慨に耽っていると歴史の匂いを感じさせられた。ちなみにそのステージ(跡)の様子はこのような感じである。手前の芝生のところで人々は歌舞伎を楽しんでいたようである。奥の横長のものがステージとなっていたみたいである。今僕らが見ているというのに肝心の歌舞伎が現在行われていないというのは何とも残念である。次に僕らの眼に飛び込んできたものは、何ともアグレッシブな狛犬であった。どのようなものであるかというと、なんと逆立ちをしたものと二本足で立ちあがっているものである。ここでは二本足で立っている狛犬のほうの写真を載せておく。一体なぜこのような形をしているのであろうか。僕らは考えてみたのだが、この狛犬は普通のものよりも迫力があり威圧感があるのではないかと思う。臨場感があふれるポーズにすることによって神社を守る、というような狛犬らしい役目を普通のただ座っているだけの狛犬よりも果たせるのではないだろうか。ちなみにこのような普通とは少し違う狛犬を見ることは他の場所ではできないらしい。というのもそれだけこの値賀川内の石工のレベルが全国的に見てもかなり高い水準にあるということなのである。このような石工の作品を今日のよき日に見ることができて大変幸運であったと僕らは思っている。
白山神社の調査は貴重な石工の作品を見ることができ、僕らの思っていたよりも価値のある時間となった。調査を終えたところで一つの悲しい別れが起こってしまった。なんと、僕らに貴重な話をたくさん聞かせてくれた徳永博明さんがもう僕らと一緒にいられないというのである。人との出会いには必ず別れがあり、だからこそ僕らはその出会いの一つ一つを大切なものにしていかなければならない。徳永博明さんとの出会いもその一つになったと自信を持って言える。こうして僕らは徳永映一さんから先ほど聞き逃した話を聞くために再び公民館へと歩き出していったのである。
公民館に戻った僕らは、映一さんから、子供のころの生活について話を聞いた。まずは食べ物について。当時は、成人男性の日給が300円程度だったのに対し、米が60kgあたり4500円もしたので、自給自足が基本だったらしい。予想以上の米の高額さに僕らは驚いたが、もっと驚いたのは、軽食・間食、要はおやつである。「ハンゲツ」(さつまいもを煉ったもの)や「カンコロ」(イモと小麦を混ぜ合わせ、蒸したもの)など聞いたこともないようなものが、おやつだったみたいである。これらはとてもおいしいらしく、僕らもぜひ食べてみたいと思った。しかし、これだけでなく、当時、おばあちゃんやお母さんといった人たちに作ってもらうもの以外に、自分たちで捕まえる「おやつ」もあったらしい。それは鳥の「メジロ」である。実際に、トリモチを枝につけ、近くにみかんやシバノミを餌としてセットし、メジロを捕まえていたらしい。シバノミよりもみかんの方が目立つためか、みかんの方が捕獲率は高かったそうだ。僕らは当時の子供は、今の子供よりも、よっぽど頭を使って遊んでいたんだという印象を受けた。「メジロ」は蒸して醤油で食べるのがおいしいらしいが、僕らが人生の中で「メジロ」を食べる機会は、あまり無さそうなので残念ある。機会があれば、是非というところであろう。こういったものばかりあげていると、当時の子供が今の子供と全く違うものを食べていたように見えるが、実際は、アイスキャンディーというような現在でも見かけるものもあったらしい。しかし、結構値が張るものらしいのであまり食べる機会はなかったらしい。僕らはすぐにこういうものは食べることができ幸福なのかもしれない。しかし、徳永さんがしていたようなことはあまりすることはできないので、結局は自分の生まれた時代が一番楽しいのであるということに、僕らは結論付けることとした。
当時の遊びについて教えていただける機会を得たのは本当にありがたかった。僕らの想像では鬼ごっこやけいどろなどのなにも道具を使わずにできる遊びなのだとおこがましい想像をしていたことをここでお詫びしておきたい。いろいろ知恵をはたらかせて、僕らが今からしてもかなり楽しめそうなものもいくつかあった。最初に教えてくれたのは「どうぐるま」という代物である。言葉だけではイメージしづらいので図を載せることとする。木の板にタイヤを4つつけて走らせて遊ぶというものである。坂道などで勢いよく走らせたらかなりスピードが出て面白そうである。しかし、この遊びですごいのは、遊び自体とは別のところにある。それはどこかというと、この遊び道具自体を自分たちの手で作り出したという点である。現在の僕らのような子供は、既に用意された遊び道具で遊ぶというだけである。その中では発想力という大事な力を育む機会を失っているのかもしれない。個性が大事などと言われている現代だからこそユニークな発想力をもつ人材の育成のために徳永さんの時代のように、「自らつくりだす」という機会を設けるべきなのではないだろうか。次に紹介してもらったのは、亀をつかった遊びである。亀の甲羅の後ろの部分に穴を空けて、そこに糸を通す。そうした亀を二匹用意して綱引きをさせるというものである。楽しそうなのだが現在ではこの遊びはできそうにないのが非常に残念である。動物愛護が叫ばれている現在では問題になりそうだからだ。そういう規制の緩かった時代に僕らが生まれていたら確実にこの遊びをしていたであろう。夏には川で泳いでいたようである。ここは僕らの想像していた通りだったので予想が当たって嬉しかった。冬には縄跳びをしていたそうである。しかし、この縄跳びというのは僕らがやる縄跳びとは違い、今で言うゴム跳びのことであった。また、パチというものを使った遊びも流行っていたようである。一体パチとは何なのであろうか、と気になっていた僕らに徳永さんは教えてくれた。パチとはどうやら僕らで言うところのメンコである。メンコとは遊びの中では割とよく聞く方ではあるが実際にはやったことはないので、実際の楽しさがいまいち伝わらなかったのは本当に残念である。徳永さんに聞くところによると、値賀川内の子供たちだけで遊ぶだけではなく、普段はほとんど一緒に遊ぶことのない他の集落の子供たちと戦うために遠征して遊んだりしていたそうである。遠征という言葉は普段使う言葉でないし、僕らは遠征というものを経験したことがないのでその言葉に強く憧れを抱いたのである。最後に教えてもらった遊びは独楽を使った遊びである。独楽は僕らも回したことがあったので共感できるかと思い、少しホッとしていたのもつかの間、またしても予想を裏切られる結果となる。なんと遊び方が、僕らのやっているような只の独楽回しとは一線を画すものであった。独楽を回す際に地面と接触する部分がある。その場所をケンというらしいのだが、そこに自分の独楽をぶつけて相手の独楽の息の根を止める、といったなんとも攻撃的な遊びである。平和ボケした今の子供ではおよそ考えられないだろう。そもそも独楽回しをする機会自体が非常に少なくなっているというのが現状である。このように、今とは違う時代ではあるが故に今とは全然違う遊びを生み出していたのである。もし僕らがこの時代に生まれていたとしても、このように数々の種類の遊びを考え出す自信はない。僕らはこれから生きていく中で発想力を身につけていくことがとても大事なのである、ということをこの遊びの話を聞くなかで身にしみて感じることができた。
ここまで、子供の頃にしてきたことを述べてきたのが次は大人、といっても青年時代にしたことも話してくれた。徳永さんの青年時代にやったことは大きくいえば2つで、それは夜這いとバイクである。夜這いというものは現在と同様の意味である。夜中に好きな女の子の家、というか部屋に侵入して一夜を共にするというものである。これは現在では確実にできない。といっても実際できたとしても僕には恥ずかしくて、というか怖くてできそうにないのではある。これも徳永さんの時代には規制が甘くて大目にみてもらえたようである。当時の人は皆おおらかであったということなのであろうか。もうひとつ紹介してくれたのがバイクである。これも現在のものとあまり変わらないようだ。ツーリングをしたり道をスピード出して走り回っていたみたいである。
調査の最後に慣習についての話も聞かせてもらう機会がもてた。徳永さんの時代には一家に風呂が一つあるということではなかったらしい。地域のほとんどの住民が集落に3つあった共同風呂を利用していたみたいである。ちなみに徳永さんの家には個人の風呂があったらしい。ひょっとすると、徳永さんは結構裕福だったのかもしれない。
B調査を終えて
このような感じで値賀川内の調査を無事に終えたのであるが、まず思ったことがこの調査は思っていた以上に価値のあるものになったことである。正直言って最初はあまり乗り気ではなかったのだが、いざ当日にバスに乗り込んで揺られること2時間ほどして値賀川内付近にたどり着くに連れて僕らの胸の高鳴りは徐々に大きいものになっていった。普段は街中で暮らしているので、この値賀川内のような田舎ののんびりとした環境を心のどこかで求めていたのかもしれない。到着するとまず深呼吸が無性にしたくなりこの地でのおいしい空気をいっぱい吸い込んだのが値賀川内での最初の思い出である。そして、福岡の町では到底考えられないようなこともあった。それは、地域住民の暖かさである。知らない人に気さくに道を教える、というような一見簡単そうなことだがなかなかできる人の少ないというのが現実である。僕らもいきなり道を聞かれてとても愛想よく受け答えをする自信はない。しかし、この値賀川内の地で迷った僕らを救ってくれた人は、ごく自然に愛想よく道を教えてくれたのである。それを聞いた時に、この値賀川内という集落には僕らが忘れてしまったようである心の「本当のぬくもり」というものを未だに持ち続けている人たちなのである。僕らも彼らを見習って、少しでも心の「本当のぬくもり」というものを取り戻していきたい。そして、この調査の中で最も多く感じられた感情は、意外にも「裏切り」という気持ちであった。裏切りと聞くとなんだか悪いイメージが浮かんでしまいがちではあるが、ここでいう裏切りは良い意味での裏切りである。例えば、僕らは調査する前は値賀川内という集落は古くから農業を営んでいたのだと思っていた。しかし、実際に話を聞くと農業の里ではなくて、僕らが予想してなかった石工の里という返答であった。これは、今回の調査の際に感じた「裏切り」の極わずかな例である。実際に値賀川内に行けばこの「裏切り」という言葉の本当の意味が分かってもらえるであろう。今回のこの有意義な調査は、多くの方々の協力がなければ到底実現することは考えられなかった。この調査を行う機会を与えてくれた服部先生、突然の訪問を快く引き受けてくれた徳永映一さん、今回の調査をする際に多くの資料を提供してくれて、貴重な話をたくさんしてくれた徳永博明さん、と挙げればキリがないのだがこの場で一つお礼を申し上げておきたい。このレポートもそのお礼の一つの形なのではあるが、稚拙な内容で、文面も支離滅裂になってしまったことには深くお詫びを申し上げたい。最後に載せたこの写真は、僕らと徳永さんとの出会いの場所であり、さまざまなお話をしてもらい、この調査をした2009年7月20日という日を非常に価値あるものとしてくれた値賀川内公民館の看板である。僕らはこの素晴らしき日をずっと忘れることはないであろう、いや決して忘れることがないのは当然のことなのであるから。そして、機会があればもう一度値賀川内の地に足を踏み入れたいと思う。そして今回話を聞かせてくれた徳永さんに会って今度は僕たちの住んでいる土地の話をして、世代や地域を大きく超えた交流をしていきたいと思っている。