<玄海町>有浦上現地調査

                調査日:7月20日(月)

                調査者:三重野寛之、登貴信、赤崎光

                話者:渡辺正一氏(昭和28年)

                   山口アイコ氏(昭和6年)

                   中山逓氏(昭和3年)

 

〜小名一覧〜

有川内(アリカワチ) 猪の爪(イノツメ) 今里(イマザト) 後山(ウシロヤマ) 梅の迫(ウメノサコ) 大久保(オオクボ) 大迫(オオサコ) 

京野(キョウノ) クレ石(クレイシ) 小返答(コベントウ) 三石(サンゴク) 下田(シモダ) 高江(タカエ) 滝の上(タキノカミ) 力石(チカライシ) 寺の上(テラノウエ) 長田代(ナガタシロ) 菜切(ナキリ) 

西の股(ニシノマタ) 畑の迫(ハタノサコ) 日の出松(ヒノデマツ)     日焼(ヒヤケ) 平山(ヒラヤマ) 返答(ヘントウ) 松尾(マツオ)

山添(ヤマゾエ) 山神(ヤマノカミ) 山の田(ヤマノタ)山本(ヤマモト) 横道(ヨコミチ) (50音順)

 

            〜渡辺さんとの会話〜

 

私たち:釜はどこに作りますか?

渡辺さん:どこに作るかな、山上ってこれするって決めたらそれが釜やけんね。どれが釜とかはあんま言わんね。

(ここで質問事項を箇条書きにしておいたメモを渡す)

渡辺さん:この村の谷にはどんな名前がついとる?か。谷、谷、谷なんかゆうのはねぇ、有浦上に呼び名なんてなかったな。なんとか谷とかも呼んだ事なかろう。はい次は、淵や滝に名前はついとる?か。滝はないね。淵、淵は川の深いところやろ?そりゃ名前がついとる。ありゃ、なんて言ったかなぁ。その地名を言いよったぐらいでねぇ、あんま言わんけんね。遊びにいったぐらいで、川が好きやったからねぇ。カニとかうなぎとかその他諸々釣ったりね。この辺遊ぶところなかけんね。30年から40年くらい前かなぁ。えーと次は、炭山かぁ。炭山は商売でするもんじゃなくって自分でするもんじゃけ決まったもんは無いねぇ。それぞれ自分とこ用に炭焼き釜は持っとって、物々交換みたいな感じでしよったね。こりゃぁ、じいさんおらんとだめやなぁ。(笑いながら言う)私が知っとる炭火焼釜はね、この人んちの横にあったよ。(地図を指差す)40年45年くらい前はね。だから釜はどこに作りますか?は家の横のところ。

私たち:個人で作るからすぐ家の横に?

渡辺さん:そうそうそう。

 

<田んぼについて> 

渡辺さん:田んぼへの水は溜やな。

私たち:どこにあるんですか?

渡辺さん:どこにあるんっすかって?どこってその「日の出松溜」からひいとるとこがあるわけさ。その栓をぬいたら出るとこがあるんよ。ここね。(地図を指差す)ここにポンプがすわっとるんよ。もともと溜はなかったんやけど、何年前かな?55年前かな?じいさんが作ったからね、標高200くらいの高さやけん田んぼやね。だから田んぼにポンプで水揚げてバーッと流す。これが田んぼに水をやるシステム。ここを耕地田って言ってね。(地図を指差す)この高さやね、もちろんこっから川に流れて戻っていくとよ。ただ溜池と川で水をとっといたねぇ。この辺末羅川からダムがあって、たぶんそれでせきとめといたんやないかね、うん、水を。篠原ダムでダム同士をパイプラインでつないで、わき水ないからに、雨水だけためて、そのポンプをして、水が無いときは水が足りませんっていって頼んで水を引いてもらう。足りるときはいいけど一番この辺りですごいのは山の上よね、全部田んぼやけんね。

              日の出松溜

            山の頂上にある田園風景

耕地田完成記念碑

 

<遺跡の有無について>

渡辺さん;遺跡はありますか?って、遺跡あるんよこの辺、点々点々とね。

 

<稲刈りについて>

渡辺さん:お盆すぎたら稲刈りやけんね。えーと、米は毎年反当何俵とれましたか?は、今は8から10ぐらいらしいよ。今は機械やけど昔は牛やったもんね。耕耘機の代わりやね。牛の糞も肥料になるけんね。大きな百姓さんはみんな牛飼ってたもんねぇ。牛で耕して糞尿をやる。そういう人力の農業やったね。それから耕耘機になって今はトラクターたいね。

次は、昔はどんな肥料を使ってましたか?か。昔は薬にホリドールっていうのがあったんよ。

私たち:どうゆう意味ですか?

渡辺さん:葉が出て、穂が出る前に葉っぱの病気にかける薬でさ、真っ白いのがあったとね。それは害虫駆除でかけよったんやけど、人間にも害がある話だったっさ。最近はそういうのは使わんね。人間に被害が出た訳やないけどね、まぁ食べるもんやけんね。

んで次は、共同作業はありましたか?かぁ。相互が加勢するって言いよったもんねぇ、今はもう一家総出で田植えをやるけんね。

田植えはいつでしたか?はねぇ、昔は6月やったけどね、今は4月。

さなぼりはありますか?かぁ。さなぼりはあります。田植えが終わるとね、旅行に行くとさ。さなぼり旅行っていうてね。

私たち:今でもやるんですか?

渡辺さん:やるやる、農協の薦めもあるけんさ、温泉でもどうですかってゆってね。

私たち:それは補助とか出るんですか?

渡辺さん:ないない、自分たちで全部。けど格安で出してくれるけんさ。

 

<牛の手綱操作について>

渡辺さん:飼っていたのは馬ですか?牛ですか?って、だから牛ね。どうやって手綱を操作しましたか?手綱は何本ですか?は、2本やなかったかな。

えっ?牛を歩かせるときのかけ声ってなんやったかな?左はさしって言いよったな、さしが左かな。右は何やったかな。忘れたなぁ。(笑いながら)

 

<薪の入手方法>

渡辺さん:薪はどうやって入手しましたか?ね、そりゃもう山に登って切ってくるんよ。切ったやつをからしたりね、干ばつしたやつを取ってきたりね、昔子供つれて登りよったもん。

 

<城跡について>

渡辺さん:なんかね、この辺城跡があるんよ。んで、この地図のこのあたりを潟っていうんよ。この地図には乗ってないけど、潟ってゆって干潟の潟ね。この下流やけん潮があがってくるんよ。船つなぎ石ってのがあってね、船をつなぎよったんよ。今は取り壊したけどね。いつかなぁ?江戸時代かそこらの、ほら、元寇がせめよって、なんか大河ドラマでしよったやろうが。

私たち:義経ですか?

渡辺さん:違う違う。あのおふくろと一緒にテレビによう出る俳優さん、いや俳優やないわ。(考え込む)能!能!そう、和泉元彌がやりよったやつよ!(興奮気味に言う)この時代の山城よ。で、次が馬渡姓についてけど、実は馬渡っち言うのはないんよね。この玄海のマダラ島ってゆうのがあってね、どこも黄海とかがこの辺一帯陣取ってて、松浦島っていう、どうも海賊のようやけど攻めたり攻め込んだりしてきて山城があるんやなかろうかっていうね。耳づてやけどその当時どんな攻撃がありよったかはわからんけど、守るためにね。そこ藤見山があるやろ?よくそこにも行きよったんやけど、堀があるんよ、行きにくくしたような。なんでこんな山(地図を指差す)のてっぺんにほったりしたようなのがあって、なぁんでこんなもんがあるんかなぁ?って思いよったらどうもそうらしい。この辺大久保迫っていうんやけど、(地図を指差す)個人名やけど本屋っていうのもあれば、軍屋っていうのもあるけんね。この山城の関係かなって。んで軍屋の所には槍とかもあるし、金の茶釜が埋まっとるとかいう伝説もある高江っていうのがそこにあるね。今はもう全くよりつかんけんわからんけど、調査をしたみたいやわ。

            初代有浦高江城主の墓

 

 

            〜アイコさんとの会話〜

<炭焼き釜について>

渡辺さん:炭焼きはしてますか?って

アイコさん:炭焼き釜しとらしたなぁ。炭焼きするわけじゃなかばってん、まぁ事情があってしちょらしたとん。そこで山ばこーちぃ、小屋建てちぃ、その炭焼き釜を作ったな。それもその山のてっぺんに50年くらい前やねぇ、それも緒方梅之助様がその炭釜つきの技術者っていうことあるぜん。こっからやったら前が道で、ちょっと小屋があったら、そこに墨ばつめちからね、ずっと山があって、そこに赤土ばそうけでもってきてしこば、土俵つくごとと一緒であるけんね、煙の抜けんごて、中ばとったってくずれんごて土固まっとるんやけぇ、その中で焼けば、炭で売るるけんば、炭で焼いたことある。うめさこにあったども大久保山ってとこ。ここからこやーんずーっと行ってこやーんって畑があってここらへんで炭釜つくーち。(あたりを指差しながら説明する)牛で荷物ば運ばなならんけんね。道ていうと、真ん中が溝になっちょって、水が流れるとこは平らになっちゃらんで、真ん中が水のはけ口で。で、そんときマテの木がよかったけん、マテばしいて。

 

<焼き畑について>

渡辺さん:えーっと次は、焼き畑はしちょらんね?

アイコさん:焼き畑はしちょらんな。山ばこーちょらすけん野菜ば作って食べらしたよ。

 

<田んぼ•米について>

渡辺さん:次は田んぼのことについて、田んぼの水はどっからひいてますか?

アイコさん:やっぱ川ばせき止めて。家の溜もあったけ建設の田んぼの下に、川からはあがっとらんと、うちん溜水ひいて、それか山の溝の方の水と溜め水が盛るけ。干ばつのときは干やがるきできん。昔はジュンサイがあったけ端踏んでいきよったって。

渡辺さん:水争いとかはありましたか?

アイコさん:そりゃなかったなぁ。もうみんなして協力してみんなで出てしとったからに。うちん人はみな穏やかで上にたまったら次の田んぼ次の田んぼでね、下にたまって、下に行ってずーっと下りになって、すっと溝に進む口ば開けち、その水だしとらした。水がたまらんときにゃ穴ば塞がないかん。今はそんなことないけんよかばってん、あん頃は水が無いけん大事やってん。そこん耕地田があんたんとこのお父さん(渡辺さんのお父さん)がの耕したけん。うちじゃ耕地田が一番の歴史って思う。あたしゃ子供連れち、ゴットン石っていうのがあるっていいよったんね、今はサイレンで知らせるばってん、昔はそんなんわからんけん、石の上に乗ったらばゴットンゴットンいうて12時知らせよらした。

渡辺さん:あとは、雨乞いの経験はありますか?って。

アイコさん:雨乞いはぁ、ないねぇ。昭和15年がものすごい干ばつだったっつ、そのときの耕地田ていうたら、かたかんかたかん干あがったらもう田植えられんと。とにかく手では植えられんことで固かったと。

渡辺さん:米は当時単とうなんぼぐらいとれましたか?

アイコさん:今は8から10ぐらいとるるばってん、前は半分で牛の堆肥ばやったりして、藁はやりよらんだったもん。藁は牛の飼料やね。牛は必ず二頭はおったね。私も二頭こうとった。馬屋ん小屋たてて、牛の肥やし持ってきて飼料ばつくりよったわけ。

渡辺さん:稲の病気はどんなものがありましたか?

アイコさん:あたしらが子供のときゃ、メイチュウ取りっていう苗代ばこやんつくっちょんちゃろ。(ジェスチャーを交えて説明する)苗の頭ばこうすると虫の卵ばつけた白いのがあったら田ん中こうして、苗代の卵ば駆除するわけ。こんくらい(30pくらい)の竹んに、藁でこやんしたちょうどしめ縄ん先にこうして、竹んさきにこうして、それが幅こんくらい(30pくらい)で、人は竹筒に油入れち、穴ほげち、藁で穴ふしゃぎ、穴開くようにしてち、一人その竹ひいたらそこにしか油いかんち、それに続いて一畝一畝油こうして、油で死ぬんやったんろうね。そのあとはホリドールやね。今はもう匂いがどうやいうて使っておらんけどね、昔は前の人に引いてもらわないかんやったけん、頭からずぶ濡れになったけんねぇ。でもどうもならんかったけ、今の人はどーやこーや言うけどね、今ん人は弱かけんね。んだばドウフンチュウってゆうの肩にかるわして、田んぼでずーっとこうして握っちょって、向こーまで行くうちに田ん中はこまかこやんしてつちビニールの中ひっぱって向こーまでいくとBHCがびっしりかかっとったもんね。それでん平気で生活しよったもんね。

渡辺さん:あとは結いってわかる?

アイコさん:あぁほとんど結いやったけねぇ、両方河川が結いで。それは隣近所の助け合いで結いしよった。

渡辺さん:さなぼりはありましたか?

アイコさん:さなぼりはしよらしたね。田植えに加勢にきてくれて、バイロンでこーつけたりしよった。旅行ってのは農協がいいよったけんね。それはもう感謝の気持ちでの旅行は最近ので、そやんか余裕はなくて忙しかったけんね。

渡辺さん:あとは田植え歌はありあましたか?

アイコさん:いや、聞いたことなか。あたしが小学校んころは田んぼが2メートルくらいあるのを一人で真ん中ば進めたごたんあるけん、それ一丁ずつかわすだけで助かったけん、3つしか植えんで、間あけていっぺんにゃ植えられんけん田植えの幅に一人で間あけて、一番始めは竹やったけ、竹ばかわすてに手伝いさせられたわ。竹があったら印付けがあったな。田んぼの水面に竹ば落として間あけて一人一人ひっぱっていかすと、ライン引きして目分量でね。結局竹でした方が進んだけど、ラインばひいた田植えになると、近う植えようと近う植えようとしたら同じになってくるけんね。縦横でしよったけんね、だんだん技術も進歩しちきち縦だけでよくなったねー。

渡辺さん:牛の手綱はなんほんでしたか?これ2本やったよね?

アイコさん:いやぁ、手綱はいっちょやったね。さしが左で右がきせっていいよったね。さしさしっていいよったわ。きせきせっていってひきよらしたね。あたしもちょっとやってみたけど下手やったけんやめたね。下ばおろしても牛に負担がかかるけん、牛のこっちとで持って、こっちとで持って、鋤を浮かせたごとして、ちょうどいい高さで浮かさんと牛に負担がかかってフラフラってするけんね、男の仕事やったね。米ば昔俵だったけんね60キロ入れち、縄で結んで、水戸黄門がするごたんして、ちきりのさおがかりやろ、俵にゃ入れないかんかったけん肩いたくていたくて。とにかく百俵こせられたとにいなわせられたとが記憶に残っちょん。百俵かるわないかんけんトラックばでつれてもらって一生懸命2百俵玄関にならべて、こりゃあのよみやげでつくらしてたね。どんぐらいつくらしたかね?100俵は有浦上で出しよる人はいなかったね。いまはね、単賞より米100俵のほうがいいとやろ。むかしは100俵だせば悠々とした暮らしやったもんね。だけど今は米だけじゃね、いろんなことせなならん。

 

〜中山さんとの会話〜

 

<港の歴史について>

渡辺さん:日露戦争はいつですかね?

中山さん:日露戦争は明治37、8年ぐらいよ。

渡辺さん:明治でしたっけ、はぁ明治かぁ。

中山さん:明治27、8年で日清戦争。明治2728年のことで、私も調べてくれるならしたいけど専門やないけん、日本の連合艦隊が交戦で、中国の艦船の戦艦などが7千トンで日本のが4千トンで中国全滅するぐらい、日本が勝ったね。訓練もつんじょるけん勝ったね。なんで勝ったかいうたら回転が鈍い訳じゃなくて速力が早かったけんね。三隻撃沈してテイエン、チンエン、イエンが3つの戦艦で、テイエンを沈めてチンエンを引っ張って苅谷湾に入って伝えてね。他の支流とかどこにもないわけやけん、ちょうど玄海っていう自衛官がちょうど入ってね、その人の時、懇親会みたいなのがあったから行ってそん時の船長、官庁さんが大尉っていったかな?その人に話したらそりゃ調べてくる!って言うたけど、手紙もなければ電話もない。なんか言うちゃろうと思ったくらいに無責任と思ったっさ。図書館で調べたけど、どうしても無かったとさ。

渡辺さん:苅谷湾の入り口に7千トンの戦艦を引っ張ってきてね。中国からの航海やけんね。

中山さん:そう、中国からやったかなって思う。

渡辺さん:昔はね、あの佐世保と海軍基地ので争ったとよ。海岸がその候補地としてね、されちょったりしよったからね。湾が小さいとかもあってまぁ佐世保になったとけどね。

 

<力石について>

渡辺さん:この地域にヘントウってあるらしいけど、なんでヘントウっていうんですか?力石のことかなぁ?

中山さん:いやぁ、力石はこりゃあもう当てにならん、大きな石があったと。だいたい熊ほどのそれを持ち上げて差し上げたって言うね。

渡辺さん:親父がなんかぶつぶつ言およったもんね。道ばたでどうしても進まないかんかったけん、その石割ったら村のだれかの具合が悪くなったって言うて、でもそんなんたまたまじゃけんねぇ。なんか親父がブツブツブツブツ言いよったわぁ。なぁに言よんかなって思っとった、子供ながらにね。

 

 

<干拓について>

中山さん:有浦新田干拓のずっと後に昭和40年にはもうできあがっとったかなぁ。その後にまた干拓したもんね。それが十三丁ぐらいで、そこが全部有浦中学校になり高校になり町民会館になり、ゲートボール場ができてしまって、食料事情がひどくて、まあ土地が荒れとったけんな、そこはな。やけん干拓ばしよったやろうね。

          日の出松の木の切り跡

 

<その他>

•特産品・・・みかん、いちごなど。

•高江城・・・周辺には渡辺という姓が10軒程度集まっている。渡辺さんはそ

       の内の一軒に住んでいる。

       堀口という姓が一軒だけ昔から存在するが、それは高江城に堀が 

       あることから由来しているらしい

      同様に高江城の南に館という地名があるが、それも高江城に由来

             しているらしい。

 

<感想>

私たちは今回有浦上の現地調査を行ったことによって、有浦上の特色を学ぶことができただけでなく、実際に広大な田園風景や雄大な自然を目の当たりにして、都会では決して味わうことのできない貴重な経験をすることができました。絵に描いたような風景に私たちは強い感動をおぼえました。また、渡辺さん、山口さん、中山さんをはじめとした村の方々の優しさに触れることができ、昔の村の姿や農村の生活や慣習も知ることができました。服部教授の言葉の中に、「教師は教壇の上、大学の中にだけいるのではない。」というものがありますが、まさしくその通りだなと感じました。この現地調査で学んだことを今後も忘れずに、この先の私たちの考え方や生き方に生かしていければと思います。

最後になりましたが、今回の調査をするにあったって、渡辺さん、山口さん、中山さんお世話になった全ての方々、本当にありがとうございました。みなさんの貴重なお話すべてを上手く書き残すことはできていないかもしれませんが、この文章により少しでも後世に有浦上の歴史や特色を残せたらと思います。

 

<添付資料について>

今回、中山さんから有浦上に関する、短歌や唄、川柳などを資料として頂いたのでこのレポートに添付させていただきます。


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