良縁寺レポート(打上地区)
調査者 北川 イ・ユンテ 久次
話し手 霊山 任良さん(1928生まれ)
訂正・追加分しこ名(20090905FAX) |
カクボ、コウチ、ナカビラ、ワラベンサカ、タバタ、ムラシモ、ナガタニ、ハセ、フカタ、ヤマガシラ、ナカドウノ、マンノ、フチヤマ、ハゲザカ |
7月12日、佐賀県鎮西町打上地区に11時に九州大学のバスにて到着し、そのまま良縁寺にある霊山さんのお宅に上がらせて頂き、打上地区の区長さんである浦丸さんにも同席していただき、調査をさせて頂いた。
良縁寺はとても歴史を感じる建物で神聖な感じがした。
客室には霊山さんのお父上の写真や17歳(航空隊志願時)で軍服姿の霊山さんのお写真などがあった。
最初に霊山さんには打上地区の歴史について話して頂いた。打上地区は約400年前の豊臣秀吉による朝鮮出兵の拠点の一部となった場所であり、出兵が失敗した後庄屋制度が成立し、明治まで続いた。
調査をさせて頂いた良縁寺は明治から大正まで部落の会合が行われたり、消防団の設置場所であったということをお話頂いた。ここで霊山さん自身のお若いころの体験なども色々お話して頂き、平成生まれの自分たち三人にとっては何もかもが新鮮な話であった。
次には秀吉が朝鮮出兵時に強制的に連れてこられた技師によって焼き物が日本に伝来したことについても話して頂いた。焼き物には二種類あることを霊山さんは教えてくれた。陶器である白磁と粘土から作る唐津焼があり、霊山さん自身もご自身で唐津焼を制作していらっしゃるそうだ。実際この時に出して頂いたお茶が入っていた容器は霊山さんご自身が作られたもので僕たち三人は感心した。
色々なお菓子を出して頂き僕たちはとてもリラックスした気持ちでお話を聞かせて頂くことができた。
霊山さんにはまたご自身の戦争体験についてお話して頂いた。霊山さんは終戦の一年前に特別航空隊のパイロットに御志願なされたそうである。教科書や文献や記録映画などでしか戦争を知らない僕たち三人にとって戦争体験者の人から直接聞く戦争の話は非常に興味深かった。特別航空隊のパイロットには九州だけで約4000人の志願がありそのうち実際にパイロットに採用されるのは200程だったそうである。
周船寺地区には当時航空隊の基地があったことも教えてくれ、航空隊のパイロットは操縦桿、尾翼ペダル、計算機、無線機などを同時に扱わなければならないため、両手足を同時に、別々に使わなければならないためその訓練も行われていたそうだ。実際に見せて頂いた。霊山さんは「一度覚えた動きは年とっても忘れんけん。」とおっしゃり、僕たちにはとても真似できないと思った。
パイロットは操縦中に脳に血が昇らなくなるため、心臓が強くなければ、いけないので、毎日マラソンをしていたそうだ。当時は女子校が近くにあったためその場所だけ全力で走り最後まで走りきれない人が多かったそうだ。その時全員同時にゴールしなければ罰として飯抜きだったため走れない人は担いでゴールしていたそうだ。
霊山さんは韓国の人とも交流が深く、韓国出身のイさんとは韓国の学校や観光の話で盛り上がっていた。「韓国の人は真面目でかしこい人が多いけんね。」
次に打上地区の良縁寺を中心とした行事についてお話頂いた。年度初めには一年の会計や予算についての会合が行われ、市会委員や民生委員の方が来られるそうだ。また関係者代表の会合も行われるそうである。
年に4回行われるお宮参りが春夏秋冬毎に行われる。ちなみに調査日の7/12は夏の大祭であり区長の浦丸さんは途中で準備に行かれた。
昔は部落ごとの相撲対決が行なわれていたそうだが、若い人が少なくなったため子供の大会に変わったが子供も少なくなったため運営が困難になっているそうである。
年に一回、朝鮮出兵における慰霊祭(5/23)が行われる。山の中では朝鮮出兵時に使用した太閤道と呼ばれるものがあるそうだ。
昔では青年団や婦人団で良縁寺にて盆踊りが行われていたそうだ。しかしいまではその伝統も衰退しており、盆踊り保存会が文化の保護のために努力なさっているそうだ。
ここで昼の12時になった。霊山さんにちゃんぽんの出前をとっていただき、御馳走になった。九州の名物のちゃんぽんはとてもおいしかった。
お昼をまたいで13時より調査の再開。初集会と呼ばれるものが1月と7月の二回にあり、また祈願祭も行われている。今では念仏による行事は打上地区でしか行われていないとのこと。
ほかの地区では病気が流行するのを防ぐため祇園際が行われているそうだが打上地区では行われていない。昨年では毎年行われていた運動会も廃止になった。
ここで戦争体験のお話を聞かせて頂いた。昔の日本軍では死ぬことが当然だったそうだ。「そんなこといってもみんな天皇さんのために死んだわけやなかよ。みんな家族のために死んで行ったんやけん。誰も顔も知らんようなひとのために死のうとはおもわんよ。みんなおかあちゃーんて言いながら死んでいったけんね」自分たちが知らない戦争体験に三人の顔もより一層真剣になっていた。
霊山さんは剣道や銃剣、短剣もお得意で、それらすべてにおいて有段者でいらっしゃり、木刀や銃剣の木製のものも見せた頂いた。「銃剣のほうが長いけんこっちのほうが勝てると思うかもしれんけんど同じ段やったら短剣の方が強いけんね。」自分たちの時代とは違う人生体験に三人とも顔が真剣になった。
更にこの地方には神仏の慰霊という行事がある。これは昔は多ければ三日間家を回りながら踊っていたそうだが今では家を回ることはないそうだ。
そこまで話してしばらくの間、間が空いたものの、「ここら辺の小学校や中学校の数はどうなっているのですか?」と北川が質問。「小学校も子供が減ってきとるけんが一学年に20人もおらん。」とお答えいただいた。少子化を肌で感じた瞬間だった。
次によく外国(韓国や台湾)に精通しておられる霊山さんが現地の人の生の生活や会話などについてお話頂いた。台湾や韓国には昔日本に連れてこられたひとや自ら来たお年寄りが多いため日本語を今でも流暢に話せる人が多いとのこと。
台湾の人は蒋介石の統治下よりは日本国の統治下の方がよかったと語っていたとのこと。
「日本出てみんと治安国家のありがたみはわからんけんね。」と霊山さん。とても説得力があり、ただうなずくことしかできなかった我々三人。
良縁寺では剣道の指導もおこなわれていたとのこと。
お盆には「オクリセガキ」という行事があった。これは顔を隠しながら女性が歌いつつパートナーとなる旦那さん選びをする行事であるという。ここで女性についての興味の話になり、場が和む。
水車・・・島などから芋などを売りに来る行商人
田に使用する水は「ナカビラ」から「ガタ」まで引いて使用している
車屋・・・木の車輪の「リヤカー」のようなものを作る(5~6件)
ガタの周辺にはくじらを捕ることを生業とする家があったそうだが捕鯨の禁止とクジラの数の減少により消滅しつつある
霊山さんは誰のものかはわからないが700年前の石碑を見つけなさったそうだ。
韓国人の石碑も多数存在する
クジラがたくさん捕れた時は貴重な栄養源になり余った肉は畑の肥料にしていたそうだ
霊山さんご自身石棺を発見したことがあったが役所が調査にくるのが遅かったので自分が掘り返したら役所の人に怒られたという苦い体験を話し手下さった。
ここで手元にあった地図と実際の現地の人の呼び方が違っていないかを確認して頂く。地図には間違っているところはないとのこと。
地名の由来については昔から存在する呼び方であるためあまりわからないとのことだった。
打上ダム・・・干ばつに苦しむ打上地区のために佐賀県が設置したダム
「最近は農家でも自分が儲けることしか考えてないヤツがおおかよ。アメリカの民主主義が入ってきてよかこともあるんやろうけど他人のために生きようとせんばいかんたい。」
15時。霊山さんが所有なさっている登り窯を見せて頂いた。今までみたことのないものに我々三人は興味駸駸。
部屋に戻り先程の庄屋制度について話し手頂いた。打上地区には「サカグチ」「田原」「富崎」の三つの庄屋があった。
米の生産だけでは納税がままならなかったため牛を飼ったり養蚕などを行っていた。
現在では葉タバコ、イチゴ、すいとう、玉ねぎなどを栽培している
農業の肥料としては牛フンを今でも使っている
米・・・一丁ほどで作っている
水田の水は唐津の松浦川からひっぱてきている
山の上に上がるほど赤土が多く土地が痩せているので米がとれない
「このあたりではどのような地酒が作られていますか?」という北側の問いに終戦後直後は米が十分になかったため片栗などからでんぷんを取って水に溶かして飲んでいたそうだ。
15時50分になりそろそろバスの時間が迫っていた。我々がお礼をいっておいとましようとすると霊山さんがご自身でお作りになられた唐津焼をお土産として頂いた。
「いつかまた来てください。」とおっしゃって頂きとてもうれしかった。
我々はその後良縁寺を後にし、九州大学のバスに乗って帰った。
今回の調査で松浦市の歴史や、現在の様子、土地の特色、伝統文化、地名の由来について学ぶことができた。今回の経験を生かしこれからの学習に役立てていきたい。