佐賀県唐津市鎮西町野元における、旧地名・しこな・歴史の現地調査に関するレポート

 

調査者  TA神谷さん

     藤澤 遼    

     田中 孝  

 

今回は、事前に調査の依頼をしたが断られてしまい、誰からか話を聞けるというあてもなしの状態で現地に赴いた。アポなしで現地の通行人や民家を訪ねて質問し、時間の許す限り出来るだけ多くの人に接触し、情報収集に努めた。しかし、限られた情報しか集められませんでした。

 

 

調査実施日 2009年7月12日

 当日の調査の流れ…11時半   現地・野元に到着。

 

       11時40分 道で川村シマ子さん(昭和8年生)と川村勲さん(昭和8年生)と遭遇し、話を聞く。

 

       12時    野元神社に行き、昼食をとる。

 

       12時30分 オダイサンと呼ばれている祠を調査。

 

       12時40分 宮崎光男さん宅を訪問し、野元に詳しいという増本さんを紹介してもらう。

 

       〜1時    区長さんの家を訪ねたが不在。増本さん宅に向かう途中にタバコ畑と田の見学。

 

        1時    増本さん宅に到着。しかし詳しいという増本さんは不在で、親戚の増本繁人さん(昭和22年生)、ひろ子さん(昭和24年生)夫婦にお話を聞くことができた。ここでは、お話を聞いた後に、ゆでたトウモロコシとスイカをふるまっていただき、たいへんありがたかった。

 

     2時30分〜   民家をいくつかまわるが、どこも不在。誰かに遭遇するまで、野元をいけるところまで歩きまわり、畑、田、海、山などの写真撮影も並行して行った。

 

     3時30分〜   野元周辺の畑にて、田原さん(昭和28年生 女性 姓は教えてくれたが名前を教えることを強く拒み、けっして教えてはくれなかった)と遭遇し、お話を聞くことができた。

 

     4時15分    福岡へ帰るバスに乗り、調査終了。

 

 

・今回の調査で、野元が想像以上にはるかに広範囲であることがわかった。

だから、時間的な制約により、野元神社周辺の野元の中心地しか調査できな

かった。人情にあふれたよい人たちばかりで、楽しみながら調査することができた。

以下、調査してわかったことを記す。

 

 

調査してわかった野元とその周辺の小字・地名一覧

小字

・アカマツ(赤松)

・ナゴヤ(名護屋)

・イシキリバ(石切)または、イシトリバ

・イシモロ(石室)

・アラクチ(荒川内)

・ヒランヤマ(平山)

・シミズ(清水)

・ツツミノハル(堤ノ原)

・シンデン(新田)

・ウーヒラヤマ(大平山)

・トウノキ(東ノ木)

・オニギ(鬼木)

・タチキ(立木)

 

地名(地図参照)

・ウーサカ:野元川上流の支流となるところの南側にある山の名前

・マエダ(前田):野元川周辺の田の総称。山側にある田は、ノモトシンデンと呼ばれる。

・ヤトコ:野元川周辺で、野元神社西側のトウノキの谷に広がる棚田の名前。

・ウーヒラヤマ:地名と山の名前とに使われ、二つの意味は同義である。

・フルミチ:野元の集落の中にあり地図に載っていない小さな道。

・シンデン:野元川下流のこと、昔は田であったが、現在は海となっている。

      または、名護屋大橋の西側にある田園地域のこともそのように呼

      ぶ。

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↑写真 海になっているところがシンデン。かつてはこの海のも田園

 ↓    だった。

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・マツノモト:シンデンの東の山の方一帯のこと。現在では道が舗装され、現地の人たちは「カイハツ」と呼ぶようになった。

・バンザイヤマ:ウーヒラヤマの西にある、標高30mほどの山の名前。

・ガタシンデン:清水の北にある海岸付近の田(地図参照)。

・ナゴヤオオハシ(名護屋大橋):名護屋浦の東岸と西岸を結ぶ橋(地図参照)。

・カイガンドオリ(海岸通り):名護屋大橋を東岸に渡って、北にのびる海岸の名称。

・トノヤマ:カイガンドオリのある海辺一帯の名称(地図参照)。

・イカマチ:トノヤマのさらに北の海岸付近一帯の名称。

・ホウガラ:イカマチのさらに北の岬の西側一帯の名称。

・ニシノシタ:ホウガラの東、赤松付近の海岸の名称。

・ウラウチ;名護屋大橋を西岸に渡った場所一帯の名称(地図参照)。

・アカマツミチ:野元から赤松へと通じる旧道。

・マルオンカゲ:アカマツミチの途中山のふもと付近の名称。

・イボンカミ:アカマツミチの途中にある山にある。

・ヒランヤマ:ため池のある山全体をさす。

・ツツミノハル:ヒランヤマにあるため池の名前。

・タコカ:ツツミノハルのため池がある場所の総称。

・ヤマノウエ:タコカの西側の山の頂上付近。

 

小字・地名の由来

・いくつかの小字、地名についてはその由来があった。

 

シミズ(清水):きれいな水が湧き出ることからこの名前がついたそうです。

イボンカミ:お堂のようなものがあり、そこでお祈りすると、イボが治るら

      しい。

バンザイヤマ:戦争にいく兵隊たちを見送るときに、みんなで山に登って「ばんざーい」と叫んだことから、この名前がついたそうです。F1010014.JPG

        ↑バンザイヤマ

 

 

※調査結果をカテゴリーに分けるとまとめにくかったので、話を聞いた人別にまとめました。

 

@    川村シマ子さん、川村勲さんから伺った話について

・公民館の裏手のところに、フルミチというところがありそこにオダイサン(オダイサマとも呼ぶ)というお堂があって、8月21日にお参りをするそうです。

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↑オダイサン本堂

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↑本堂横

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   ↑本堂の手前にあった石

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↑本堂横にあった複数の石碑らしきもの。風化し、苔むしていたために文字の判別不能だった。

 

野元神社のさらに上には、石田三成の陣跡があったそうだが、今はない。

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↑野元神社入り口付近の鳥居

 

 炭焼きをしているところが5〜6軒あって、それぞれの所有する山で炭を作っていた。窯は山のふもとにあり、山から木を切ってきてふもとまで運んできていた。山は国有林ではなく、個人の所有物だった。昔は林業もさかんで、竹をきってきては、それを漁村の人々が買いにやってきていたという。その竹は、魚を干す竿に使っていた。

 バンザイ山は、戦争へ行く兵隊たちを見送るときに、山の上から万歳を唱和したことにその名が由来している。

 

A    増本繁人さん、ひろ子さん夫婦に伺った話について

・オダイサンの本堂内の仏像が昔盗難にあい、まがいものを作って安置し、本堂に鍵をかけるようにしたらしい。

 祭りは、青年団が年に2回、婦人会も2回、オダイサンで1回、の年に計5回ある。夏にドヨウメグリといって、野元神社 には和尚さんがいないため、アリウラのヘンショウジという寺から和尚さんがくる。正月には野元神社で、的射りがある。的射りは、男の人たちだけでするもので、竹に「鬼」と書いたものを弓で射る。昔、野元で疫病が流行したころからしているらしい。「鬼」の字は、名護屋のフルサトジンジャから神主さんがきて書いてくれる。他にも、疫病が流行したときには、方角を書いた紙を部落のまわりに配置して、疫病が入ってこないようにしていたらしい。

 たくさんの“みの”(かさ)を置くことができるぐらいに広い田を千枚田と呼んでいたが、今はほとんど荒れ地になっている。

 ツツミノハルの溜め池の水の権利は、現在野元の部落にある。その溜め池付近が山の頂上で、そこをタコカと呼んでいる。溜め池からはU字溝の水路が通っており、そこから水を得ることができる。

 風呂の桶の輪をなおすワガエサンや窯をなおすカマシュウリ、傘をなおす人などが家にきていた。他にもゴゼサンという家の前でお祈りをしてお布施をもらう人がいた。ゴゼサンは女のかたが多く、当時はお金をもっていなかったので、お布施の代わりにお菓子をあげたり、家にあるものをあげたりしていたが、その人たちがどこからやってきたのかは分からなかったというが、神社の境内などに寝泊まりしていたのではないかと言っていた。その人たちを総称して「イットンバヤン」といっていて、イットンバヤンをかわいがって、風呂にもいれてやり、着物も着せてあげたある一軒だけが野元で唯一栄えたという言い伝えもある。イットンバヤンは夜明け前の早朝に家にやってきて、牛のえさの準備など家の手伝いをしていたそうだ。増本さん曰く、別に手伝いをやってもらわなくてもいいのだが、彼らがするからご飯をあげたりしていたらしい。そのような面では、野元は貧しいながらもお互いに助け合って生きてきた人情のある部落だと言っていた。イットンバヤンの行動範囲がだいたい野元神社付近から1キロメートル四方だった。

 野元ではなぜか馬の飼育が禁止されていたらしく、牛ばっかりだったそうだ。病気になったときは、ハクラクサマという、現在の獣医のような人がきていた。野本にはタネツケバというところがあって、良い牛どうしを交配させていた。

 昔は田植えのときに、人手が足りなかったら隣家に頼んだりして、部落中でお互いに助けあっていたそうだ。それをユイと呼んでいた。野元で耕運機が使われ始めた昭和35年ごろで、それ以前は鋤や牛を使っていた。

 増本さんたちは戦後生まれなので、食糧難などの経験はないそうだが、イモが主食だったらしい。小遣いに10円もらえたら良いほうだったという。以前は麦も作っていて、醤油や味噌を自給していた。塩と砂糖だけは、よそから買ってきたらしい。サケゲンサといって、昔は家で酒を作ってはいけなかったので家に立ち入り検査があっていたが、実際は家でこっそり酒をつくっていた。

 増本さんが小学生のころに部落に電気がやってきて、部落には一台しかテレビがなかったから、その家にみんなで集まってテレビをみていたらしい。

 

B    田原さんから伺った話について

・地図になっていた新田は、今は海になっている。以前は真珠の養殖をしていたが、今はカキの養殖をしている。マツノモトと昔は呼んでいた地名が、開発地になったことからカイハツと呼ぶようになった。

 

現在の野元

・野元は約14世帯しかない非常に小さな部落で、そのほとんどが高齢者である。主要な産業物は米やたばこなどの農産物で、部落の周りには田園や畑が多く広がる。たばこは終戦ごろから栽培し始めたらしい。若い世代の人が少なく過疎化が進んでいるのがわかった。

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↑ビニールハウスで野菜の栽培

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↑田園風景が広がる

 

↓たばこ畑

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調査全体の感想

・今回の調査は、事前のアポを取ることに失敗したためにうまく調査が進行するかとても不安でした。しかし、現地に行って実際に現地の人々と触れ合ってみると、みんな親切な人ばかりで、丁寧に自分の知っていることを教えようとしてくれました。増本さん夫婦が言っていた言葉、「野元に金はないけど、人情はあるとよ。」この言葉には、自分が野元で実際に肌で感じたことのすべてが詰まっているような気がした。現地調査という貴重な体験をすることができて、本当によかったです。


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