佐賀県唐津市鎮西町丸田の調査

調査者    平山 雄太(18

森 英一郎(18

取材協力者  平野 一馬さん(61

―調査の様子―

712日日曜日、私たちは佐賀県唐津市鎮西町にやってきました。バスで海岸のそばを通り、街並みの間を通ってバス停の前に降ろしてもらったのだが、そこから迷ってしまい海に出てしまいました。かなり焦っていたところに、平野さんの奥さんから電話がかかってきて車で迎えてもらいました。出だしから失敗してしまったが、平野さんには笑顔で歓迎されました。しかし、いざ取材になると緊張してしまい、昼食までの前半は相槌ばかりになってしまいました。昼食までも御馳走になり、それから時間になるまで取材をして、帰りも送っていただきました。さらに取材した平野さんに、後日屋号や地名を地図に書き込んでいただいたものと資料を送っていただきました。何から何までお世話になってしまい、この上なく感謝しています。

 

―丸田町の字・屋号・集落・地名(地図参照)―

『丸田の通称』

琵把頸村(びわのくびむら):丸田のことを昔はこう呼んでいたそうだ。楽器の琵琶のことだろうが、その意味は分からないという。平野さんから送っていただいた資料には「地形から」と書かれていたが、琵琶の首のようには見えない。

『字』

副(そえ)   北畑(きたばたけ)   大神(おおがみ)

三反田(さんたんだ)   丸田(まるた)

『屋号』

昔は家を屋号で呼んでいたが、今は呼ばなくなっている。

(字)    (屋号)

副       ウシロ        ホンヤ       ウエ

        カミ         ウトヤマ      ナンジョ

        テンジョ

北畑      フタズカ       インキヤ      シミズ

        ザレ         タカミノウエ    タカミ

「シミズ」は「清水」となるが、周辺に川はなく、昔何かがあったのだろうと平野さんはおっしゃっていた。

大神      カキネ        カワンハタ

三反田     デンヤマ       ウウジモ      ドンシモ

        シモ         サンダダ      ヒガシ

        ニシ

丸田      カワンウエ      ウエ        ホンヤ  

        ワクドガワ      ホリキリ      ムタ

        ウウサコ       シンタク

『川』

大友川(おおともがわ):大神(字)と畑ヶ田(字)の間を流れる

名切川(なきりがわ):北畑(字)と副(字)を通る

割石川(わりいしがわ):三反田(字)と屋敷谷(字)の間を通る

河川は乏しいらしいです。地図上でも気づきにくいくらい細いです。

いずれも通称はありませんでした。

『集落』

琵把頸谷(びわのくびだに):大神(字)と北畑(字)の間一帯

副谷(そえだに):副(字)にあります。

三反田谷(さんたんだだに):丸田(字)と三反田(字)の上半分を占める

丸田谷(まるただに):丸田(字)と三反田(字)の下半分を占める。

丸田にある谷は、浅い谷ばかりだそうです。集落はすべて谷にあります。

『地名』

(字)       (地名)

副         副の上      向山      ウトノ辻

北畑        オチョーズ    名切      ヒラキダ

          干場       辻

大神        スダノキ

三反田       寺ノ山      上ノ松     

丸田        エダモト

―調査内容―

「この辺りは田んぼがわりと多かったですけど、地図記号から見たら果樹園の方が多い気がするんですけど・・。」

『うーん。そうですね、ここら辺は大体畑作地帯ですね。水田よりも畑がものすご多いですから・・・どんぐらいでしょうかねぇ・・・。3対1・・・畑が3で水田が1。』

「こっち(平野さんの家周辺)は、水田の方が多かったんですか?見た限り畑が見当たらなくて水田の方が多かったので・・・・。」

『あー、ここら辺は水田ですもんね。ここはもう湿田なんですよ。この谷っちゅう所はずっと田んぼのあたりなんですよ。この河原の近くでは。谷川・・谷沿いと川沿いに田んぼがはいってる。真ん中にはなかですもんね、水田は。まず、河川がなかけんですね。

「畑は何を作ってるんですか?」

『畑はですね、ここは・・温州みかんが前しよったですね。以前はですね、まあ、まず麦なんですよ。それから、葉タバコ。それから、馬鈴薯ですね。じゃがいも。あと、サツマイモ。昔はこういったもので・・・今はいかんかなー・・。昔に比べて。温州が始まって・・(温州の)植栽が始まってからですから、昭和30年代頃・・・くらいからですね。温州みかんの植栽が始まったのは。』

「ミカンに変えたんですか?全員。畑していた人は。」

『そうですね、植栽したわけですね。まあ、要は普通畑だけやったきですね。あの、果樹やなかったきですね。それこそ、馬鈴薯、葉タバコ、サツマイモ、あと大豆もですね。それで、えー・・・と、どっちが・・葉タバコがはやかったんですかね。それから、温州みかんとですね、乳牛。それが、まあ、あんまり変わらん時期に始まったとですね。それが、昭和30年代ですよ。して、えー・・田んぼは、水田だけ。で、田んぼが少なかったですから、所謂おかぼ。陸稲。まあ、日本じゃおかぼってあんまりなかですがね。』

「外国とかではまだやってる・・」

『うん、外国ではおかぼ作ってるんですね。梅雨でも水少なかったですからね。ここら辺は、あの・・・水田は少なかったですから、我々が小さい時はおかぼ、陸稲作りよったですね。で、30年代から温州みかんと乳牛がはいってきたんです。それから温州みかんを作ったらハウスみかんにして、そして、苺。葉タバコ・・は、あの、何軒かあります。』

「じゃあ、馬鈴薯とかはもう・・?」

『馬鈴薯はですね・・・・まだしよう人はおるでしょうかね・・。今はもう・・。馬鈴薯はですね・・・たくさん作って出荷はしよらんでしょうね・・・。自家消費・・ぐらいじゃなかですかね。』

「やっぱり、売れないんですか?」

『値段の問題でもなかですもんね・・・。ですから今は・・・苺、ハウスみかん・・・・それから、玉ねぎ。一番新しいのは、玉ねぎなんですよ。水田は・・あんまり裏作しよらんかったですからね・・湿田やったけんが。裏作しにくい状況でしたよ。水田には蓮華草しいて・・・。』

「蓮華草?」

『マメ科の・・・根粒菌というんですかな、それをしいて肥料の代わりにしよったとですよ。化学肥料があんまなかったですから、それを肥料にしよったとですよ。』

「蓮華草を肥料に?」

『マメ科の根粒菌というんですかな。昔あの・・鏡山から虹の松原を見るとですね、花がですね、赤と黄色で、黄色が菜の花、赤が蓮華草の色ですね。』

「鏡山っていうのは?」

『ああ、唐津なんですがね。虹の松原では・・田んぼに蓮華草植えて、水田を埋め尽くすくらいあるんですよ。

サツマイモも今は・・商売としてはしよらんでしょうけどな・・・。

農家がですね、農家自体がまいってしもたですけんね。専業農家が何軒あるでしょうかね・・・・。今は65個ばっかあるでしょうけど・・。』

「ほとんど兼業?」

『ほとんど兼業ですね。

「牛や馬を使っていた時代の話」

『我々が小さい時に牛や馬をつかいだしてですね。我々、まだ耕運機が入ってくるまでは牛や馬でした。ここら辺は馬は使っってなかですね。・・ここら辺は湿田やったですから、馬は動ききらんとですよ。牛やないと。馬は、ぱっぱっぱっぱ足がかわすけんですね。湿田とこでは馬は使われんかった。牛のようにゆっくりゆっくり行くような・・・牛じゃなかと。ですから、ここら辺は皆牛使って。耕運機が入りだしたのが何年ぐらいやったかな・・・。昭和33年くらい・・・35年。そのくらいに、あの・・テーラーっていうの。家庭菜園であるでしょ、小さいやつが。今はもう・・大きいやつはタイヤがあって・・そして、ロータリーっていうのがあるでしょうが。そのタイヤそのものが、ロータリーになっておりますかな。まあ、耕運機の始まりなんです。昭和30年代の中頃からでした。それまではもう、牛ばっかりでした。今は畑もそうなんですよ。もう、今はトラクターのところが全部牛で。最初にこの搾乳牛がはいってきたとですね、乳牛が。その後は、肥育牛に変わってから。今はほとんど搾乳牛はなくなったんですよ。今は、肥育牛なんですよ。こっちの特産は、搾乳牛やったとですよ。入荷の低迷で。肥育に。昔は、養鶏もあったとですけど、養鶏も・・・のうなってしもたですね・・。今の養鶏所といっても、あるにはあるとですけど、同じ場所に。』

「ここは養鶏場じゃ・・・。」

『ここは、養鰻場。養鰻場ちゃ、養魚場ですね。』

「全部つぶれてしまったんですか?」

『潰れてしまった。土地もなんものうなってしもた。今の代表的なやつですよ、肥育牛、みかん、玉ねぎ、いちご・・・水稲、こしひかりですね。サツマイモ、葉タバコ。・・・サツマイモは少なくなったもんね・・。』

「これは・・?(写真を見ながら)」

『これは、ダムからの調整池ですよ。ここら辺台地は、川の乏しかでしょうが。』

「今と比べてこの地図は変わっていますか?」

『変わっとうですよ。田んぼそのもので。まあ、はっきりとせんけん分からんとですね。我々が見たらだいぶ変わっとうですよ。今はもう丸田にはですね、搾乳はないですね。昔は育牛だったですから、必ず農家にはおったとですよね。一頭か二頭か。で、役牛および繁殖牛やったとですね。これはもう肥育牛ですから、餌なんぼもやって太らせて、脂肪つけさせて。しばらく良かったもんですね・・円高の日は。飼料が外国から安く入ってくる。以前は、土地改良事業した後にですね、サツマイモが、名倉地区ではしよったとですよ。でも、今はあまり栽培しよらんのう・・・。馬鈴薯よりも・・甘藷よりも馬鈴薯・・じゃがいもの方が売れると・・。』

「箕を直したり売りに来る人はいましたか?」

『箕っちゆうたら選別器具の・・。』

「ああ、唐箕とか・・。」

『そうそう。あれが、唐がついたら唐箕。あれは、回転車、羽根車で・・風扇ですね。風で軽いカスを飛ばすんですな。箕ってゆうたら・・こうして竹で作ってあるのもあった。葛とか。それで、米とか麦とか脱穀するでしょ。クズとかいっぱいはいっとるでしょ。それをこうして・・・』

「ふるいみたいに。」

『そうそうそう。皮とか風で・・・。それを箕っていったろう・・・。今、機械がなんでんパーっと選別するでしょうが。しかし、その風扇っていうのはあるとですよね。エンジン回転しよるとですから。殻を必ず飛ばすわけですね。で、重量で選別するわけですよ。ここら辺は箕はぜんぜん・・・・。我々が小さい時から、箕もあったですけども・・・・量少なかですから・・唐箕ばっかりですよ。箕を直しにこられよった人は見たことなかな・・・。』

「他に使っていた農具みたいなのは、どんなのがあるんですか?」

『あー・・千歯。脱穀は必ず千歯ですよ。それとですね・・・農具でですね・・・。まず、すくのが鋤ですね。農具の段階から行くと、耕運をします、それから鋤。そして、田んぼの場合も鋤でして、水を入れて流します。今はトラクターがばーっと。マガっちゆうたかな・・・牛にひかせてですね。・・これは、櫛と同じ。これを押すと塊がなくなるんですよ。これで行ってから、叩いていくわけですね。そして、ならしていくわけですね。刈り取りは、鎌ばっかでしたね。で、脱穀が千歯ですね。』

「やってみたこととかあるんですか?」

『あるですよ。あと・・私も名前忘れたもんなぁ・・。大豆をですね・・できたら、乾燥させるでしょ。そしたら、殻の中にはいっとうですよね。・・今は、もうコンバインでばーって脱穀していくですけども。昔は、なかったきんがですね。抜いてきて、それ天日に乾燥して・・それを脱穀せないけんわけですね。・・その脱穀する道具があったとですよ。なんていったかなぁ・・・今でも時々中国のがテレビでありよったですけども・・中国まだそれ使いようですね。豆類ほとんどこれで脱穀しよったですよ。』

「結婚前の若者が集まる宿は?」

『青年宿ってあったですもんね。・・・公民館が青年宿やったもんね。我々のときはなかったですけど。・・・実際、70前の人は・・・青年宿はあったですもんね。このころ、ほとんどの集落では・・青年宿っていうのはあったですもんね。よか事も悪か事も、ここで先輩から習うわけですよ。酒飲みでんなんでん、夜這いに行ったりなんだりするともここで習うんですよ。いろいろ習うわけですね。昔の青年は、ここで鍛えられよったとですよ。』

「若者や消防団が犬を捕まえて、すき焼きや鍋にしたことは?」

ある。赤犬ですな。犬は赤犬がよかとですよ。柴犬なんか赤犬ですよ。赤犬食べるとですね、暖まってしまう。あの・・おしっこまりかぶらんとですね。昔の子供何故か知らんばってんおねしょしよったわけですな。その赤犬食べるとおねしょせんて、そういう話を聞きよったですな。我々もあんまり犬は、食べたことなかですけど、それこそ青年宿に行きよった人はほとんど犬をすき焼きにして食べよったとですよ。さすがに猫は食べなかったでしょうけどね。今はもう考えられんでしょう?』

「今はもう、びっくりですね。美味しかったんですか?」

『それは、まずかったわけはないでしょう。でも、ここら辺は魚もあったけんですね。肉っちゅうなってくると、牛肉ってほとんど・・・・。魚ばっかりでしたから。青年宿と消防団は一緒やけんですね、青年宿の者は全部消防団に入ってたんですね。もう、我々のときは青年宿なかったけんですね。青年宿終わったら、やっぱり犬食う人もやめたっちゃなかろうかな。』

「どうやって捕まえてたんですか?追いかけ回して?」

『追いかけまわして・・やったかもわからんですね。他は・・針金をわっかにしといてですね、犬にわっかをぴゅってするとですよ。ぱってかかるですよ。その代り、あれを見せたら、犬は本能的に知っとうですよ。昔、何べんもしたもん。仕事で。』

「仕事?」

『うん、衛生におったけん。野犬は処理せないけんごとなっとたけんですね。狂犬病があるから。昔は保健所で職員しよったとですよ。各市町村から捕まえたのを保健所に持って行って、保健所が県に一か所か二か所処分場があったとですよ。今は、佐賀県はどんぐり村のところにあるとですよ。』

「よその村からくる青年とけんかしたりは?」

『こんなことは、もうしょっちゅうですよ。青年宿に泊まったら青年が必ず呼子町の・・・。ここは農村ですけども、そこは漁村でしょ?まったく性格が違うわけですよ。しょっちゅう喧嘩ですよ。私の兄貴なんかしょっちゅう喧嘩しよった。呼子からくるしこっちからくるし。悪かもんがおったですもん。で、マルタンモンって呼ばれよったですもん。丸田の人を。学校とかですね、なんかあったら必ずマルタンモンって。悪いことばっかするとですよ(笑)。またマルタンモンだろって。っていうことは、漁師さんたちとですね、喧嘩するとですね。近いもんですから。よそは遠いかけんがですね、この人たちが歩いて他の集落までいかんとですよ。丸田が一番近いもんですから。』

「喧嘩強い人いましたか?」

『相撲もしよったし・・・まあ、勉強はいっちょんしきりよらんかったそうですよ。勉強せんで、喧嘩ばっかりして・・・やきマルダンモンって。気性が荒かった、まあ環境のせいでしょうけどね。なんか、祭りとか盆踊りとか、そういった祇園祭とか祭があると向こうから来るとですよ。』

「こっちからは?」

『こっちからはあんまり攻めんとですよ。漁師さんが15日には漁に出るでしょ?暇つぶしに上がってくるとですよ。青年宿におる青年団は守らないかんとです。』

「呼子とか、隣の村と特別な取り決めはあったんですか?水田だったら水を取水する時期とか」

『なんかあったかねぇ。用水路を通ってくるわけじゃないから、田んぼごしなんですよね。これに、ルールがあるとですよ。まず、一番上の田んぼに水を入れて、そして溜まってしまったら下さえ通す。水口をですね、上の人が落とすと。下の人が落としたらいかんと。自分のとこばっかとらないってルールがあったとですよ。分け与えるって。ルールとして水口は下の田んぼの人は扱ったらいかんと。しかし、中には下の人が落とすんですよね。昼は落としきらんとですよ。』

「見つからないように・・・。」

『見つからないように夜にするとですよ。そして、夜のうちに塞いどくわけです。わかるんですね、自分の田んぼが減っちょるって。下の田んぼが水がたまっとるけん持っていったなってっていうのが。ばってん、文句言われんとですよ、目でみとらんけん。そういうのがあったんですね。それをする家とせん家があったんですね。するとこは歴代やってきて、しないとこはずっと歴代しない。それともう一つ、草刈り。あざ草は下の人が切る。』

「切らないとまずいんですか?」

『病害虫とか人の土地に侵入することになる。百姓仁義っていうとですな。これは、許されんとですよ。これは刈っていいとですよ、人の土地ですけど。これは、畑も一緒やったですね、土手の草はですね。下の人が邪魔になるなら刈っていいと。そういうルールがあったとですけど守らんかった人もおったとです。我々も知っとります。昼させるときはですな、子供にさせるとですよ。子供、何も知らんけんがパッと行って外して来る。今でも、水田にはそういったルールはあると思うですけどね。昔から、耕地整理したところで、水管理者とかあるとですけど。今は、用水路で水をかけてくるんですけどね。昔は、上からずーっと一つずつ。これ(上の方)は、早く田んぼは田植えされるですけども水が足らんごとなったら上から枯れていくわけですよ。』

「大正・昭和初期の村の姿はどうですか?」

『以前の人と一番違うのはですね、人間の気持ちっちゅうか・・・いつも最近思うことは、自分も何もしちょらんき言われんとですよ。・・神社仏閣のですね、これが疎かになっとるとですね。崩れて落ちようですもん。昔の人はですね、食いもんも食いきらんとに神社仏閣とかを作っとうとですよ。・・ここに、山神宮っていうとがあるとですね。これを、今年改修したとですね。この質問とはちょっと違うとですけどね、今の人とこの時代の人の違いは、神社仏閣に対する気持ちが全く違う。自分は贅沢してても、氏子の神社を修繕しようかとかいうのは全くない。昔の人は食いもんも食わんで金をだして、しよるとですね。そういう風習がないごとなったんですね。それはやっぱり、今の百歳代の人のしつけが悪かったとですよ。百歳の人が80代の人に、80代の人が我々60代の人に、教えてきとらんけん。隣の中野って所は神社をよーう手入れしたりしよるとですよ。ひとつは世話人の問題もあるとかもしれませんけどね。これは、今の人が悪いばっかりじゃないですけんね。百歳の人が教え込んでないから・・・自分たちもあんまりしきらんもんけん』

「ここら辺で、祭りとかあってるんですか?」

『八坂神社・・・公民館。ここは、有名ですもんね。海に渡る祇園山。聞いたことなかですかね?海の中ば、祇園山の山笠走るとですよ。』

「あ!そうなんですか!?

『八坂神社のことを祇園山っていうとですよ。だから、丸田にも八坂神社あってここにもあるとですよ。昔はですね、旧の615日か・・。これが、祇園祭の日なんですよ。今年は、8月の5日かな。我々、注連縄作って行かないかんとですよね。我々の親父の時代はですね、ここは人数が少なくて丸田の人も担ぎに行きよったですもん。同し八坂神社ですから。我々も、青年時代までは旧の615日は八坂神社のとこで金太鼓ば一晩中たたきよったですもん。それが、私の、青年団で終わった。だから、祇園祭はのうなったですね。青年団が引き継いでしよったですけども。祭りって言ったら神社仏閣の祭りですけんね、これをうやむやにするけん祭りもなくなった・・・。』

「寂しいですね・・・。」

『寂しいです。ここは今でも続いとんですけども、この祇園山の綱引きはですね。呼子の綱引きとかは、太閤秀吉が始めよったとですけども。ここの祇園山は疫病なんですよ。

伝染病。伝染病が出て、神輿をひいて・・・そしたら治まったと。それから、止めたら疫病がでると・・。』

「大正昭和初期の生活」

『まず、家の中のこととすれば・・・まずは、水問題なんですね。今、水道ですけども、昔は井戸ばっかりですから。いざ、聞かれると分からんもんですね(笑)』

「昔、病気になっていたらどうしてたんですか?」

『薬は、富山の越中の入れ薬入れ薬とか、知らん?聞いたことなかですかな?製薬・・・向こうで作りよって、店員さんがかろうていって、丸薬を。そういうやつを家に置いとくわけですよ。あらかじめ、入れとくとですよ。箱を持ってきて。そして、その中に、風邪薬とか胃の薬とかいろいろあるとですよ、絆創膏とか。そして、それを使うわけですね。次の仕入れの時に来るわけですから、前は何を何個いるかとかちゃんと記録をあるけん、箱を見てなかぶんを生産して金を払うと。これを、入れ薬っていうと。』

「富山って富山県ですか?え?そっからからって来るんですか?」

『全国をまわるんですよ。富山は薬を作りよったけん、それを全国に宅配しよったとですよ。アミド酸っちいいよったかなぁ・・・箱にかいてあったですよ。それが、5つくらいあったかなぁ・・。最近は3つくらいあったよ。』

「今でもあるんですか?」

『今でもあるですよ。ただもう、今はほとんど入れ薬入れんように・・。家も何年か前に断ったんじゃないかなぁ。今は、佐賀なら佐賀に中継所があるけん。そのころは、国民健康保険がなかったけんですね、だからこの入れ薬なんですよ。どうしてもな時は行って、現金払いとか後払いとかもお正月に・・・。町医者はおってあったけども、健康保険がないき、高いから・・・いけなかったですとよ。だから、早死にしよった。戦争しよった時に平均寿命が50歳っていうのは、戦争ばっかりじゃなかった。医療もですね。正露丸って知っちょうですか?あれもこの入れ薬に入ってた。今でも残って、正露丸って商品だしようとでしょ。』

「野菜は、どっかから売りに来た人がいたんですか?」

『農家で作ってました。ここは生産地。ここらへんは野菜を作ってですね、逆に呼子の朝市に野菜をもっていって供給生産地でした。逆に呼子の人は魚をつって夕方に上がった魚を新鮮なうちに持ってきてという感じで相関関係にあって、野菜はこっちから、魚は呼子から持ってきていました。呼子の朝市は日本の三代朝市と呼ばれてます。

昔は肥料がなかったですから、し尿でまかなってたんですよ。それだけでは足りないため隣の呼子のし尿をもらってきていました。呼子の漁師さんたちのような魚をよく食べてる都会の人のほうがし尿の栄養分が高かったですから、し尿は都会の人のほうが良かったわけですよ。丸田の人はそのし尿のことを「呼子肥え」と呼んでました。呼子肥えをくんだのは丸田が一番ですよ。』

「丸田にライフラインが来たのはいつですか?」

『水道は遅かったですよ。一番最後だったですねえ。昭和61年だったですね、丸田は。それ以前にですね、水道は呼子からもらってたんですよ。普通はもらえんのですけど、どうしても水が足らんというわけで、呼子からもらってました。電気はですね、私が来たときから来てました。ガスはねー、私が小さいときは薪ばっかりでしたね。これは何年くらいだったかなぁ・・・30年の後半ぐらいでしたね。それまでは薪ばっかりでしたね。丸田ってところは山が少なかったですから、冬は薪を取りに行くのが仕事だったんですよ。それで1年分まかなえてました。ガスはLPガスが来てから楽だったですねぇー。切りに行かなくていいわけですから。我々は薪に火ばつけきらんわけですよ。なかなか・・・火がつかんというわけですよ。これは明治時代からあったことで、我々が最後にそれを経験したっていうことでしょうね。』

「干し柿を盗んだりしたことは?」

『干し柿?しょっちゅう。もうようあったですよ。ただ学校帰りはしよらんかった。学校が厳しかったですから。ただ家に帰ってきてランドセル降ろしたら・・・よく取りにいったわけですよ。どこの柿がおいしいとか、ちゃんと把握していたわけですよ。今学校、週訓とかなかでしょ?一週間の決めごととかがあるわけですよ。「ハンカチを忘れない、遅刻しない、爪を切りましょう、なり果物をとらない」とかいうのがあったわけですよ。そのときの校長が厳しくてですね。呼子の子供とはよく果物のことで喧嘩もしてました。あのころはそういう時代だったわけですよ。今思うと懐かしかですけどね。』

「食べられる野草とか食べられない野草とかしってますか?」

『それはよくわからんなぁ・・・。ここらへんは野草は少なかった。ドクダミとかはよく聞きよったですがね・・・。ここらは海岸線ってことで、海岸植物が多かった。』

「収穫したお米とかはどうやって保存したんですか」

『昔は玄米でとるでしょ。低温保存して、昔はもみで倉庫に保存して、必要なぶんだけ精米してたんですよ。もみ殻で保存ですね。天日乾燥ですよ。昔は配給米の米は買えんわけですからね。生産農家は配給許可がなかけんが、米が買えないわけですよ。だから自分で作った米しか食べれないわけです。だから、不作になったときが大変だったわけですよ。標高が高いですから、川が乏しかわけですよ。ですから・・・常習干ばつ地。干ばつとか台風。こういうときは大変でしたね。』

「昔の暖房とかは?」

『まず台所・・・台所のことをかまやと呼んでたわけですよ。冬の暖房はここで火をたいて、ここで暖房をとるわけですよ。何をたくかっていったら、普通の薪はたききらないわけですね。貴重品ですから。こうぞってしってますか。こうぞの株をもってきてからここでたいて暖をとるわけですよ。こうぞがなかときは、松の木の・・・あれは油があるからよく燃えるわけですよ。ここでもう小さい頃は本を読めって姉ちゃんとかから言われて・・・。よくやっとったわけですよ。』

「家の間で格差のようなものはありましたか?」

『あったよ。等級は田畑の多さとか収入の多さとか働き手の多さで1級〜4級まで決められていました。区費(自治会費)が違うわけです。収入の多い人が区費を多く払ってたんですよ。農地の多さと働き手。これが基準でした。農地もやっぱり水田が基準でしたな。うちなんかも兄貴が22で死んだけんが、等級がばたっと落ちちゃって。昔はやっぱり等級の上のほうが(自治会費とかは多く払うとは言っても)よかった。昔のほうが貧富の差があった。今は働きに出ようと思えば出れますからね。』

「病気になった時とかは、どこで見てもらったんですか」

『うちあげ村立のお医者さんがいたわけですよ。村からいくらか奨学金?を出して、それで来てもらっていたんです。その人がいなくなってからは、呼子の開業医にかかるようになったんです。呼子には何人か医者がおりましたからね。』

「当時の医者は内科とか外科とかあったんですか」

『その人は産婦人科でしたね。でも、自分は産婦人科だから産婦人科しかしないっていったら成り立ちませんからね。そりゃ完璧にできるわけじゃなかったと思いますけどね。なんでもやってました。「金のなかときはよかよか。金はあるときでよか。あるときにもってこい。」そういう先生だったから、みんなに慕われとった。』

「農家は農業以外にどのような仕事をしてたんですか」

『ひゆ(火消し)で賃稼ぎ。ほかに賃稼ぎとして、タバコの植え付けなど。それしかなかったが、東京オリンピックなどのころから、土方(どかた)の仕事が増えるようになって。これが日本の農業の転機ですよ。それまで農家っていうのは、1年に1回の収穫だけでしょう、だから農地が荒廃してた。実際3分の2が火消しに、3分の1が農家っていう状態だったんです。まあこれは全国的なものですけどね。』

「昔の食生活はどのようでしたか?」

『我々の時に食生活が変わったなぁ・・・。我々は両方の食生活について知っとる。魚類は今のほうがかえって食べてないですね。米がやっぱり配給系がなかけんが、不作するでしょ。そういうときは他の農家に借りにいってたんですよ。だから、農家のところは配給じゃなかけん、昭和41年・・・だったかな、減反政策があったでしょ。あんなの考えられませんでしたよ。米があまるということなんて・・・。米は足らんという認識がありましたから。農家は米を出さなければなりませんでしたから(供出制)食べ物では・・・ソーセージ。ハムがですね、それが出た後ですね、食べ物が加工品になってきた感じですね。農作業では、耕運機、田植え機が入ってきてから、燃料はLPガスが入ってきてから変わりましたね。』

「さなぶりってありましたか?」

『さなぶりは、田植えした後の打ち上げですよ。酒飲んだり、饅頭作ったり、お疲れさんですってね。』

「当時の農業の様子について教えてください。」

『農家はよく加勢に行くわけですよ。ゆい制度っていうんですが。ここらへんもゆい出してました。たくさん田んぼもってた人が一番得してました。昔は助け合いですからね、みんなが同じ量だけゆいに言ってましたから。その結い制度がなくなってから、農家が個人化していったんですよ。田植え機を使えばいいからなどという理由で、これは稲作に限った話ではなく、農業全般に対して言えることで、農家が個人主義化していったんです。ゆいは楽しかったらしいですよ。夕食においしいもの出してくれるらしいですしね。田植えはやっぱり女性がはやかったですから、若い男性とか下手な人はちょっと嫌ってたみたいです()

 

『ここらへんではね、収入は一番葉タバコが大きかった。どの農家も13単ほど葉タバコを作ってました。供出しなくていいですからね。葉タバコの収穫は我々が夏休みのころだったわけですが、われわれが小さい頃は夏休みに大人が刈り取った葉タバコを荷台まで運ぶのが子供の仕事だったわけですよ。でももう、葉タバコはべたべたしますからね、ニコチンで。もう本当にいやだったですよ・・・。今は大分機械化されて楽みたいですけどね。でも当時は現金収入の目玉商品でしたね。』

「害虫とかはどうやって駆除してたんですか?」

『害虫はですね、昔は廃油を田んぼに流して、竹かなんかで虫に命中させて、油に落として駆除するっていう方法でしたね。それとですね、私が小さい頃、農薬がはやってきたですね。「マラソン」っていうんですが、DDTっていう殺虫剤とか。除草剤のPPCとか、それによって死んだ人もいるんですよ。果物とかは、手で虫をとって、潰すっていう原始的な方法とかもとってました。農薬がくるまでは、全部採れるかわからん、いわば賭けみたいなもんですから。今は農協が殺虫剤は使うなって指導しますから。』

「牛とかをひかせるときに掛け声とかあったんですか」

『ありましたよ。左に回れとかは「サシ」右に回れはなんだったですかねー。止まるときは「ドウ」でしたね。』

―備考―

役牛の掛け声は、

     右・・・コセ     進め・・・ハイ      止まれ・・・ワ

     左・・・サシ     後進・・・アト

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地図2の番号と対応。平野さんに調べていただいた屋号。

 

 


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