鎮西町波戸の地名について

 

大脇 幸博

川上 司

 

お世話になった方

坂本 栄さん(大正14年生まれ)

 

はじめに

 

 7月12日、私達は村の古くの様子、あるいは地名についての調査を行うため、佐賀県の波戸に訪れた。そこで、現地を坂本栄さんに案内していただいた。以下は、その調査の記録である。なお、栄さんには現地を実際に共に案内していただいたため、記録の内容は時系列順としている。

 

調査結果

 

 7月12日、晴天のもと、波戸にお住みになる坂本栄さんのもとを尋ねた。当日に急遽他の組と同じ方の元を訪れるということがわかり、4人でお話を伺うことになった。

 県道沿いに行くと、道沿いに大漁旗が立ててあり、その傍に坂本さんはいらっしゃった。先日、電話で確認の電話をさせていただいたとき、待ち合わせ場所に「フライを立てて待っている」とのことだったのだが、「フライって言ってもわからんね、大漁旗のことたい」現地では大漁旗のことをフライといっているとのことだった。

 「まずは境界教えとこうかね」ということで、私達は県道沿いのお宅の庭に案内していただいた。その傍を流れる川が境界線になっているとのこと。しかし、水の流れる音のようなものはしたものの残念ながらその川を確認することはできなかった。

 

 続いて私達は県道からそれ、漁港へと向かう道であるウオミノサカ(魚見の坂)へと案内していただいた。今では黒鯛が各地で取れるようになったが、昔は黒鯛がとれる地域は少なく、波戸は黒鯛の本場であり、黒鯛漁が盛んであったとのこと。漁の際にウオミノサカの上から魚の様子を見て、合図をしていたとのこと。ただ、現在ウオミノサカは藪に覆われていて、通ることはできなくなっていた。

 

森の中を歩いている男性

低い精度で自動的に生成された説明

森の中の道

中程度の精度で自動的に生成された説明

右部分の藪がウオミノサカ

図中の上り坂の先がウオミノサカ

現在は通れなくなっていた

 

再び県道に戻り、別の道で漁港に向かっていくと、途中に組合の方々がおられた。私達が来ることを知っていたらしく、飲み物を頂き、しばらくお話を聞くこととなった。「天狗岳についてはもう教えらしたと?」とそのうちの一人が栄さんに尋ねた。「日本で一番最初に打ち上げ花火打ち上げたとこたい」とのこと。天狗岳は午後から訪れたので、後述とする。

 

図中の山が天狗岳である

 

その後、波戸漁港にある、組合の入り口でお話を伺うことになった。栄さんが5000分の1の地図を取り出すと、そこには海岸線沿いにいくつかの地名が書かれていた。地図に記載されていたしこ名に関して、以下にあげておく。

 

     アカハゲ

     ヒナンコ……加部島の藻島とアカハゲを一直線に繋いだ地点にある堤防

     センタクカワ(洗濯川)……夏はこの川で洗濯を行っていた

     ミミツヅレバナ

     メクバリバナ

     クビレオオシキ

     ゴオセ(五瀬)

     ダカセ

     ウニャコ

     オキノセ

     メゼ……5000分の1の地図には載っていない地形が書いてあり、そこに記されて   た。波戸岬の先端にある。細かい場所は地図を参考

     ナカセ(中瀬)

     セイロノシタハナレ

     オダイシサンバナ

     サツマジンハナ……朝鮮出兵時、島津義弘が陣をしいていたことから

 

また、同時に打ち上げ花火に関する案内と、朝鮮出兵時、誰がどこに陣をしいたかを記した地図を見せてもらった。打ち上げ花火の案内には天狗岳付近日本初めて打ち上げ花火を打ち上げた記録について記載されていた。それは「1593年文禄2年、波戸天狗岳付近で『唐人見物ニ参』『花火多数サセラル』大和田重清日記」というもの。朝鮮出兵時の地図には石田光成や徳川家康をはじめとした名立たる武将の名前が波戸から名護屋に渡って広がっていた。私達がいた場所に当時、日本全国の武将がいたことを考えると、心をくすぐられるものがあった。

その後、実際地図上のしこ名の場所を訪れることとなった。とはいえ、当日の佐賀は真夏日であり、天狗岳付近は高低差も激しく、移動はなかなかの労力を要した。

まず私達が向かったのは、天狗岳である。打ち上げ花火に関する資料があるのでは、と期待の元に登ったのだが、天狗神社にいたるまで花火に関するものは何も無かった。栄さんによると「天狗岳付近で打ち上げられて、具体的にどこであげたかはわかっとらん」とのこと。

 

天狗神社の鳥居

残念ながら花火に関する資料はなかった

 

続いて、私達は地図に記載されている丸尾という付近の道を歩いた。そして、地図には記載されていない道を通って、アカハゲに向かった。獣道のような細い道の先は巨大な岩場のようになっており、その先にはヒナンコというしこ名の堤防が加部島へと伸びていた。堤防は途中で切れ目があり、そこは船が通る為の場所とのことだった。

 

手前の岩場がアカハゲ

奥の堤防がヒナンコ

 

同様に、丸尾から地図上に無い道を通り、センタクカワへ向かった。センタクカワは海へとつながる川であり、川幅は40センチ程度、深さは10センチ程度のものであった。当時の川幅が現在と同じかどうかはわからないが、洗濯をするには少々小さな川であるという印象があった。

 

センタクカワ

このすぐ左手は海である

 

再び丸尾の道に戻ると、栄さんから「この辺りマヨウミと言っとった」ということを聞くことができた。「グルグル回っているから、一度中に入るとなかなか目的の場所にいけない」とのこと(マヨウミは漢字で迷う身か)。なるほど、確かに円状になった道路の中の木が生えた部分は遠目からでもうっそうとしていて、一度入れば迷いそうだった。また、道沿いには今は使われていない馬車と馬小屋があった。昔は観光のために波戸岬の方を馬車が走っていたそうなのだが、あまりの暑さに次々と馬がだめになり、誰も引き手をやらなくなった、との話を伺った。

 

 その後は県道を波戸岬のほうへ歩いたわけだが、その間に風についての話をうかがうことができた。波戸において、特別な風の呼び名は無いが、冬は立っていられないほどに風が強いのだとか。昔、満州から帰って来た兵士が「波戸の風は満州の風よりひどい」といったという。(後に調査してみたが、満州の風がどのくらい強いかというデータは見つからなかった)

 

 その後も県道沿いに歩いていくと、しこ名でいうのクビレオオシキ辺りを通過した。そこには網が設置されており、最初は定置網かと思ったが、栄さんによると「養殖用の網」とのこと。網の様子に関しては写真参照。

 

クビレオオシキより撮影

画面中央がミミツヅレバナ

クビレオオシキ

確認しにくいが中央に養殖の網がある

 

その後、波戸岬にある展望塔へと向かった。展望塔からは、今まで歩いてきた道の海岸が見え、メクバリバナ、ミミツヅレバナ、アカハゲ、ヒナンコを見渡すことができた。調査の結果を確認するような形で、調査は終了した

 

玄海海中展望塔より撮影

手前からメクバリバナ、ミミツヅレバナ、アカハゲ、ヒナンコ

 

1日の行動記録

 

8:45 九大学研都市にてバス乗車

11:40 坂本さんと合流

12:10 組合にて話を聞く

13:30 天狗岳(天狗神社)へ

14:00 アカハゲへ

14:20 センタクカワへ

15:00 玄海海中展望塔へ

15:30 波戸岬にてバス乗車

 

調査後記及び感想

 

まずなにより、30度を越す暑い中、波戸を共に歩いて案内してくださった坂本栄さん、そして、色々と貴重なお話しをしてくださった組合の方々に深く感謝でいっぱいである。申し訳ないのは、テープレコーダーに上手く声を拾うことができず、一部方言が聞き取れなかった点は私がそれらしきものに書き換えた点である。今回の聞き取り調査は、現地を実際に訪れることの大切さを実感することができた。また、調査中、すれ違う人の多くが栄さんと話していくのが印象的だった。そこから、地域のつながりや暖かさを感じることができた。その他にも、現地を実際に歩いて回ることで、話を聞くことや、本を読むことだけではわからない多くのことを学ぶことができ、非常に有意義な調査となった。改めて、今回の調査に協力してくださった方々に感謝を申し上げたい。

川上 司

 

初対面のお年寄りの方に突然訪問してお話を聞かせていただくということで、とても張し、また電話をかけたときとても方言がきつい方だなという印象をもち、とても不安でした。しかし今回お話していただいた坂本栄さんは私たちが突然おしかけても嫌な顔ひとつせず波戸について説明してくださって安心しました。

私は初めて佐賀に訪れたので、調査で体験したものすべてが新鮮でした。また調査で一番印象に残ったのは、人の温かさです。途中に出会った人も気軽に声をかけてくださったり、栄さんには波戸の特産品であるいかとサザエを奢っていただきました。

この調査で得た知識と人の心を今後の学生生活にいかしていきたいと思います。

大脇 幸博