鎮西町赤木

 

担当:    中塚千裕、土岐真里奈

お話をして下さった方:    坂本徳光さん(昭和23年生まれ)

                                          竹下敏男さん(昭和3年生まれ)

 

 

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712日、鎮西町赤木でのフィールドワークが始まった。訪問する3日前まで、連絡が取れなかったというハプニングを乗り越え、なんとか現地に到着。事前に調べておいた嘱託員の坂本徳光さんのお宅を探して、正直迷ったと思ったが、なんとか到着。

まずはじめに、連絡の確認をちゃんと取れずに、押しかけに近いかたちでの訪問をお詫びして、赤木についていろいろと聞いた。

(写真は、坂本徳光さんとお孫さん二人)

 

 

まず、大きな地図を広げて尋ねてみた

―赤木は、この地図だとどこら辺まで入りますか

こっちからほかの部落。こっちは塩鶴って部落。そっちは中野。

ここから、赤木の字とその場所のことついて教えてもらった

これは、ナカダ、水田ばっかり。

ヤナギノモト。

―ヤナギモトかと思った。

ニシノマエはもと唐津市。

キタダは、もともと水田が多い。

―赤木は広いですね。

これがタツノキ。

―これはトウですかフジですか。

これはフジ。フジも結構戸数がある、10戸くらい。

田んぼが。畑のほうが多かね。畑とか山。

オグラってゆうて、山になっちょる。畑と田んぼと山が多い。田んぼはもちっとしかない。畑ばっか。

―ほかに地図に載っていなくて田んぼとかに名前がありますか。

んや、ない。オベタなら、オベタ。おぐらはおぐら。

シュクが部落の真ん中になる。中心地、ここがええ所や。戸数も16戸。

学校とかお寺がある。

―赤木の中心人物がいるとか。

うんまあそうじゃね。それに学校もあれば神社もある

ウラダは山ばっかり。

タノガシラ家が6戸。

キタダ。隣はヨコノ。

 

―昔からこの道はあったんですね。

昔からあった。今は市道になってるんだけどね。宇和場開発で。

赤木左近がだいたいオベタに住んでいて昔は戸数は大層あったらしか。60戸あったらしか。いまは、3戸しかない。

―なんかさみしいですね。

―他のところに移ったりしたんですか。

跡が途絶えていったとかなんかね。

―さびしいですね。

銀行もあったらしか。オベタ銀行。

―山の中に田んぼがあったか。

あったね。何戸か。

―隠し田とかですか。

いや。

―地図に載ってるのそのままかな。

山の下は田んぼたい、中段がね畑だったたい。

―焼畑はやっていましたか。

うや、この集落では焼畑はやってない。山が多いばけんね。今畑で育てているものタバコ、たばこは盛ん、あとは野菜。昔はこの集落ではミカンを育てていた。山はほとんどミカンだった。いまやミカン畑は荒れていった。農業している人がおらんけえね。

―だいぶ減っちゃいましたか。

うんまあ。

―麦は作っていましたか

むぎはぜんぜんつくってない。むかしはつくってた。

 

― 一頭田はありましたか。

よかとうたんぼはナカダやね。

あと、シュクのとこ一帯もね。

昭和5859年、水田整備が終わった。

 

―昔家に屋号とかついていましたか。

屋号たにゃ、べつに。

―ない感じですか。

 

―地図に載っていない名前とかないんですかね。池とか川とか。

んや、ない。

 

―これって赤木溜っていうんですか

ため池、ここから流すと全部の田んぼに行き渡る。

―あでもこれ枯れちゃったらまずいですよね。

ダムからひいちょるから大丈夫、宇和場に五つのダムがある。一番ありが、ウシロガワチダムがいちばんも本下で、これがポンプアップして、五つに流す。川の利用もしてる。これを下っていくと一級河川の江頭川。上流に行くとただの河川。二つにわかれている。

―どれが道でどれが川かわからなかった 笑

この辺までずーっと川になる。

2つに分かれた後の川にはなにか名前がありますか

んや、ない。

―江頭右とか左とかって呼ばないんですか。(笑)

あと、こっちの川は赤木溜までいっちょる。

「用水路は何て呼んでいましたか。」

そのまんま、用水路は用水路って呼んでたばってん。

「田んぼの水はこの赤木溜か川から引いているんですか」。

そう、こっからは川から引いていて、田に流してる。

ここの田んぼは全部かかって行く。

 

―大きい木や岩に古いみちや峠に名前がありましたか。

そういうやつは、なかった。ばってん、加藤清正公の墓があったよ。公開されてないばってん。藤というとこのね。

―加藤清正公が病気して、この地でなくなったとか?

いや、清正公が病気に伏せて、藤の人たちが看病してね、清正公はね、自分が死んだとき名護屋城が見よるところに葬ってくれとねって。小倉の山の一番上に加藤清正公の墓がある。ここから本当に名護屋城がよく見よると。

―見晴らしがいいんですね。

この辺は高い山がなかけんね。オグラ山からよく見えると。

地図で少し確認してみると

―あ、ほんとだ。陣跡が見えますね。

このあたりは、陣跡が多いと。

―名護屋城が見えるところに埋めてくれって、なんかかっこいいですね。

―特に思い入れがあったのかな。

 

―特に、この辺で呼ばれている名前とかはないんですね。

そういうのはなか。

―川は川、谷は谷って感じですかね。

まあね、別にね、そういうふうにはよばんけぇね。特に、名前に思い入れがないね。

「シュクはどうしてシュクって呼ばれているのとかは。」

―宿が多かったとか?

宿じゃなかったとばってん

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ここで、赤木にある神社について教えてもらえることに

そんで、赤木は、赤木左近という人がオベタでね、治めとった。ヒエ(日枝)神社って名前は付いたのは明治になってから、それまでは、ただの神社って呼んどっちゃ。日枝神社は、赤木左近が平家さん、平重盛の次男、平伊豆守重信(ひらのいずのかみしげのぶ)という人がおられてね。この人が壱岐におられてね、赤木左近が赤木に迎え入れて、初代の神主にした。日枝神社というのが、昔は、中野と合併両方こっちにあったらしか。でも部落が栄えないから二つに分けた。中野は中野。赤木は赤木で。部落の中心に持って行ったっていう話がある。そんで、明治に日枝神社って名前がついた

―明治時代に地名とかの名前がつけられてますよね。

名前は無くても別にええね。

どこの神社も山登るが、日枝神社は平地にあるからいい。田んぼのど真ん中にある。

―確かに便利ですね。

(左図が日枝神社)

―昔、水争いはありましたか。

まあ、水は昔から大事だったけえね、いざこざはあった。もめごとはあったが、一揆はなかった。

―水に関してのいざこざの対処方法はありましたか。

我々は、知らんけえね。ものすごい昔はあったかもしれん。

―どこでもそういうごたごたはありますよね。

―水は貴重ですもんね。

干ばつ年にはね、ダムのね4万5千万トン入るばってん、だいたいそれいっぱいで足るようにはなっとる。そんじゃけえ、昔みたいに枯れることはなか。

まあ、昔は雨乞いしてた。金、太鼓叩いて。それを日枝神社中心でやってたんだよね。公民館がなしかね、昔は人が集まるのは神社やった。お寺より神社が中心だった。

―台風予防の神事とかありましたか。

いや、台風はしょうがないけん。でもどこの部落もね防風帯というのがあると。山の上の木がいっぱいになって、そこだけは部落特有の地にしてね。この木が台風に対して盾になるんでね。赤木にも何ヶ所かあるけんさ。

―どこら辺にあるかわかりますか。

オベタ。ちと、分かりづらいと。北風をよけるために、この辺も通っちょるね。この辺にもずっと通っちょるね。部落の山になっちょるけえね。この辺の山が帯状になっていて、それで防ぐ。そんで防風帯は昔はね。今は防げん。

―そうですよね。ただでさえ芋の台風は勢力が強くやっていますからね

―そういうのには名前がなかったんですか

そういう名前はなかった。暴風帯っていう名前じゃなかったと思うばってんが、だいたい、暴風帯じゃろうっていっとった。木が雑木ばってん。これがあったら、台風が防げるかなーって。(笑)ニジュウマツバラもそうじゃったね。この辺には、いたるところにあったとよ。

 

―さっきタバコを育てているっておっしゃっていましたけど、それってずっと昔からたばこを。

タバコの栽培は昔から盛んで、たばこが入ってきたのが昭和8年ごろで、そこからずっと作っているのがこの部落に1,2人いる。

―それじゃあ、もっと昔にミカンを育ててましたか

いや、ミカンが始まったのが昭和3十何年ごろだったけえね、ナナヤマ、ハマタカがぼんぼん儲けようるらしいぶんに、うちもやってみようかってやってみたけど、全然だめ。

―向こうのほうがよく売れたとか?

いや、採算がとれなかったんだよね。

―それじゃあ、たばこと野菜のみ?

いや、たばことそんけん米、たばこが9人。専業は10人しかなかけんね。専業だけだったら、ほんとあんまりいない。

みんな兼業ばっか、これだけじゃ生きていけない。

―確かに今では、無理ですよね。

 

― 米はどのくらい獲れましたか。

専業だけでは。400410ぐらいかね。おいは田つくらんけよくわからんけえね。

 

―坂本さんは、何を作っているんですか。

おいは、イチゴ。佐賀ほのかの専業農家

畜産も結構あるけんね。牛とか。56人いるかな。

 

―馬飼ってましたか。

昔は、機械がなかったときは、馬に鋤を引かしとった。

―馬の餌はどこから手にいれましたか。

昔は田畑の畔草を食べさせてた。

今は、専用のものを作ってね。

 

―牛を歩かせるときや鋤をひかすときの掛け声とか。

はいはい、どうどうといやあ進めし、どーとかいやあ止まるし、左さ曲がる時はサシ、右さ曲がるときはコセ。

―手綱はどうやって動かすんですか。

鋤ば持ってるから、手綱もって両方から持って右さ曲がるときは右を引っ張って、コセって。左さ曲がるときは左引っ張ってサシ。

―ごって牛をおとなしくする方法は。

ごって牛あたりは、使わんけえね。すぐ売りょうた。

―んじゃあ、もうすぐに食べられちゃうんですか。

そ、200日ぐらいしたら、売っちょった。

メス牛(ウの牛)を農耕に使ってた。食べるのは基本雄牛。

―ごって牛は、食べられちゃうんだ。

馬はどっちも使ってた。馬の掛け声も牛と同じだったと。

馬には、轡をつけて咬ませにゃいけんけえね。

―あぶって知ってますか。

あぶって言うのは、馬の口の中の歯茎の腫れのこと。馬にはよくできるから、年に一度つぶしてやる。

―それって、針とかで突くんですか。

―痛そう。

 

―馬は毎日洗いましたか。

うん、馬はね、畑に入るときはよかさ。水田のときは、必ず川につれて、馬入れ川っていうのが、江頭川にあっって、そこは、ちょうどここが深みになっちょっる、

―んじゃあ、牛入れ川とかはありましたか。 笑

んや、んで、必ずここさ連れて行って、洗ってやらんといけんちゃね。馬のふとももまで浸かりょうる。

―結構、深いんですね。

深かっちゃね。ここを歩かせてやると

―あ、歩いて洗うんだ。こうごしごしってやるんじゃなくて。

忙しかったけんね。立派に洗ってやるのは、最後たい。あとは、ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ洗ってやるだけ。馬は前がけするけえね。腹に水がかかるんよ。

―牛は洗うんですか。

牛は洗わんと。

―え、牛はそのままですか。

―んじゃあ、牛は泥だらけのまんまですか。なんで。馬は洗って、牛は洗わないんですか。

知らん。牛は飼ったことなかけんね。馬は必ず洗って腰ば温めちゃらあならん。体悪するけんね。

―馬や牛の病気はありましたか。

風邪ひいたり、牛ば流行性感冒、今でいうインフルエンザ。夏にかかるとよ。

―そういうのがはやると大変ですね。

特に乳牛は弱い。かかりやすかね。そんけん、予防注射はあると。牛には全部すると。これにかかったら、熱出して死ぬけんね。

―熱出してるとかってわかるんですか。

耳が冷とうなると鼻汗かかんくなるけえね。

―蹄鉄ってしてましたか。

馬は、何もなか泥道ならいらんけど、ほかの道は鉄つけんといかん。農耕とかは鉄つけとかんと滑る。足裏が痛むけんね。

―鉄打ちこむのって、なんか痛そうですね

 

―草切り場ってありましたか。

草切り山は昔あったけど、今はない。

―共同作業とか結とかありましたか。

そういうのはあったね。今でもしようる。今も共同でなからんと、イチゴのビニール張りはできん。

―田植えはいつですか。

4月の下旬から5月の連休にかけてやね。

―お手伝いの早乙女はいましたか。

昔はね、田植えは人雇わないといけんしか、今は機械化してから雇わなくなったばってんね

―田植えの後の宴はありましたか。

この辺ではしよう。家回ってね。

―どんなことしてたんですか。お疲れーって感じですか。(笑)

まあ、酒飲んで。子供からお年寄りまで呼んでね。

―楽しそうですね。

―田植え歌とか籾すり歌とかありましたか。

それはなかった。

 

少し話題を変えて、お菓子のことについて尋ねてみると一番楽しそうに話してくれた。

―干し柿とか作ってましたか。

干し柿は正月とかにいるけんね。正月飾りとか。干し柿は我々子供のころは、品物がなかった時だけんね、どんどん食べようたけど、今の子供は食べん。我々のときはまず砂糖がなかったけんね。そういう甘かもんはね。

―干し柿は大事なお菓子だったんですね。

まあ、ほかにもお菓子はあると言えばあった。駄菓子とかね。梅酒とか作るビンの中からするめ一本、二本ってとってね。今は、ビニール袋なかったけんね、紙袋に入れて十円、二十円とかね。金平糖とか羊かんとか食べてた。こういうのは自分で買ってきてたべちょった。

―家ではこういうものを作らなかったんですか。

自分で作るというとね、昔は砂糖がなかったけんね。砂糖は貴重品だったけん自分でやろうとすると芋ふかしたり、団子作ったりしてね団子は何でもよかったけえ、餡が入らん団子たい。蜜げんってあったけえね

―蜜げん?

食べたことなかろう。甘みの元たい。甘くするのに蜜げん。そう問う甘くなる。石炭からつくとったからね。化学薬品じゃけえね

―あー、今でいう甘味料みたいなものですね。

―体に悪そう。

ちょこっとできくと。それでメリケン粉ばごねごねしてんね。蜜げんば、水で溶いてさ。そしてそれをフライパンに、バーってのばしてね。

―おいしそう

卵焼きのほうがおいしいけんね (笑)。

―勝ち栗とかってありましたか。

さあ、それは知らんね。

―食べられる野草ってありますか。

ミツバとかセリとかツワブキ。大抵食われるばってんね。それ以外は食べれんね。他ならフキノトウとかヨモギとか。ヨモギは血行がよくなるけぇね。毒の付く野草はわからんけえね。でも、牛には食べさせとった。牛はそう死なんけえね。(笑)

―米の保存方法は何ですか

米はね、せこっていう貯蔵庫で大きな木の箱に米入れて保存する。ゆるしこっていう出し口があんけんさ、蓋ば開けて、米がバーっと出て、それから精米してね。

―ネズミとかにやられたりしましたか。

やられとった。ネズミの薬脇に置いたりしてね

―猫は。

猫はやってない。青大将、へびは昔たまに家回ってきてね。ネズミを音を立てずにバクっていくけんね。丸飲みするだ。ネズミがいるところには必ずおるけん。

―蛇には米は食べられないんですか

蛇は米は食べん。

今は、カンカンの入れ物があるけんね。ネズミに食べられることはなかね。

 

―農作業は、大変だと思いますが、楽しみはありますか。

仕事をした後の休みと豊作のとき。赤木はけっこう安定しとるけえ。それ以上に収穫できた時は嬉しいけんね。

楽しみはやっぱり持たんとね。ひと段落した後の趣味を楽しまんばいかん。

―徳光さんの趣味って何ですか。

おれは、釣りに行きょうたばってん、今は、しちょうらん。んでも、最近は前より釣れんくなっちょる。

―川とかでは釣れないんですか。

川はコンクリで整備されとるけえ、釣れん。

2009_0703_035500-IMGP2322.JPG江頭川は、整備せんかったらだいたい200mm降ってこの辺は浸かっちょった。神社も浸水してた。あの辺は、家はそんなになかったけんね、家が浸かるということはなかった。180oぐらい降ってたら道ば越えとった。ここ一帯は水に浸かっとった。田んぼや神社は水没しとった。

―土砂崩れはありましたか。

昭和28年にウラダでさ、土砂崩れがあって、農道がつぶれた。おいが5歳の時にね加藤清正の山が1mぐらいずれて、そのままは、もちっとずれとらね、ドーンといってたね。このときは600mmくらい降ったね。二日間ぐらい、すごい雨だった。田中一帯は、流されて麦とか菜種とかもダメになった。そういう被害があった。

(右図が当時水没した場所)

―そういうときに、伝染病とかはやりましたか。

むかしはね、伝染病ははやらんかった。今は消毒ばかりするから体が弱くなっとるばってん。昭和28年の水害は、どこでもあったと。そのあと、ここの復旧作業とかして、川はなおったと。

 

―整備される前に使ってた道はありますか。

今は、昔の道広めとるけえね。大方なくなった道とかはない。新しいのが増えた。昔は、道があんまりなくて、人に担いでもらって田んぼ渡ったりしたね。細か道しかなくて、リアカーしか通れんかった。

 

地図をふと見ると、寺のマークが見えたので、聞いてみると。

これはお寺。88カ所の札所の一つ

―札所?

四国のお遍路さんと同じもの。どこにでもあるんよ。春と秋のお彼岸にはい回らすと。

―クモウラにある山の上に神社がありますが、これは何ですか。

八天宮という火の神様を祀っちょる。そんけんが日枝神社を作った当時にここに八天宮をおいた。

―八天宮と日枝神社、繋がりはあるんですか。

つながりはあるよ。この日枝神社の分れじゃけえ、日枝神社に火の神様は置かんで、火の神様になる神は、八天宮でなった。よそは一つにまとめてあるけど、赤木は、火の神様は山の上にある。水の神様は、赤木溜の近くに祀っておられる。昔は、水神様祭りをしよった。竹にべらべらば立てて、川の神様ば、祀とった。どこでもやっとけど、今はしちょらん。

―昔の暖房は。

火鉢かね。部屋の中では。あとは焚き火とかなんかね。

―炭はどこで手に入りましたか。

昔は、炭は竃の下にできたやつを使っちょったけえ、買わない。昔は買わずにそういう木炭は自給自足、ガスがなかったけんね。木は、自分の山から木を切ってきた。12月ごろに木を切り倒すのが仕事だった。まきはよく売れた。どの家も作って商いに持って行った。プロパンがはやると売れんくなったけど、それまではどんどん売れたんよ。昭和38年ごろからガスが入りだした。

 

―車はいつ頃からありましたか。

昭和40年ごろかな、車が家庭に見え出したのは。おいも、車は18ぐらいで免許は取ったけど、使っちょらんかった。一軒に23台はなかった。2軒に1台が普通だった。車道は狭かったけんが、ちょうどよかった。車はおらんかったけえね。今は車があるから危ないけんね。昔は、道幅が1.52.0mぐらい本通りで3mぐらいでちょうどよかった。今は、34mぐらいに広がった。2mあれば、牛や馬と一緒に通れた。

―でも、道広げたら田んぼが減りますよね。そういうのでなにかごたごたはありましたか。

道は、作らなあいかんかったけえね。そういう抵抗はなかった。道は作らないと行けんけえ。

―便利になりましたか。

便利になった。やっぱ鎮西町で赤木が一番いい道だと思ってる。田に入る道は全部アスファルトになっていて、山も田んぼの道も全部アスファルト。他の部落は、田んぼの侵入道は泥道になっちょる。道は十分いい。立派にしてもろうた。

 

こいが通ってしもたらもう幹線道は5・6メーター前後になってしもてる。

―おおー凄い。ここからこういってここまでを今広げてるっていうか綺麗にしてる?

ここがもう一番最後になってる。この線がね。あとはもう全部になったら一つになっとっとばいね。キタダっていうとこ。

―ヤナギノモトとキタダの間の道ですか

―キタダ、キタダ線。

こいがもう来年くらいで完成…いや、もう完成しとんかな。完成してるかな…。

―変わってきますね…

完成しちょるか、もう全部。通ってしもちょる。こいが一番最後やったもんね。そいでもう、赤木は全部道の整備できてしもとる。

―すごい

 

―…河原とか、お宮の境内に、野宿しながら蓑とか売りに来たり直しに来る人とかいますか?

にぃねんー売る人・・・こういう人はおらんね。昔はね、こういう…そっけんそこ、裏の…暮らしようって言うたろ。こういうところがね、いくつかあるとじゃね。部落内にも、小部田にもあるけんね。ここも暮らしとるじゃいね。これとこれとかさ、ジンシャ(神社)とかさ、色々…泊まってね。そやって、あんの、昼は…昼はなんやかんやモニョモニョ言う…お経あげるんごてしてね。

―お遍路さんとか?

そんで米ばね、米ば…皿にちょこっとばっかい入れてやるとよ。そんでせんせ、どことばっし回っている人おっとよ。ほどんな、ゼンモンって言うとばってんね。ゼンモン。

―え、どう書くんですか

いや…知らんばい(笑)漢字はなかとばい。そういう人がおらしたとばい。来よらした、昔は。

―ゼンモンて、そういう風にその人たちのことを呼んでたんですか

そっけん、お経…お経でね、詳しいは知らんとばい…モニョモニョモニョモニョて…般若心経くらいは…。そうそ、やっぱ、ちょこっとばっかの米か、ちょこっとばっかのお金を、やらすわけよ。家庭のいい人はね。そういう風の集めて、暮らしようわけよ。今は、そういう人たちは国からの補助があるけんね、そういう人はもうおらんごとなったばってんね。国からの補助があると。ほら、何か…なんぼ言うとるかいね…まあほいでていうかなぁ、それをぽつぽつ。(笑)

―なんか…生活保護とかいう…

生活保護か、生活保護。

―ゼンモンていうのはそういう感じの…

そっけんそういうのがおらんごとなっと。生活保護があるけんね。

―そういう人達が札所とかお寺とかを回ったりしてたんですか

そうそ。

―それでお米貰って

お米とか御金とか貰ったりして、そして転々と回ったりしてね。こういうとこなか時は橋の下とかさ、雨露しのげばよかけんね。

 

―なんか、お坊さんとか回ってきたりしましたか。お寺・・・辺。

―お坊さん、旅をしてるお坊さんとか着たりとかは

そういうのは、ない。

―薬売りとかは

薬売り…あんまりそういう売るだとはねー、

―行商人とかもですかね

んー。行商人とかはねー。

―部落…赤木の中だけでも自給自足というか、外に出て行かなくても生活できる、ってありますか。

んー、そういう…そういうとこまではいかんばってんね。

―閉鎖的って訳ではないですよね、普通に呼子(ヨブコ)とか行ったりして。

用があったら呼子行ったりね。今はまた違う…今はもう…やり方が変わっちょるけんね。

―あー

 

―自給できるおかずと自給できないおかずとか。よそで買ってこなきゃいけないのとかありましたか。

買わにゃいかんおかず…は。まぁ野菜ば作るって言ったって全部が全部あるもんじゃなかけんね。野菜をこうたり、まぁどうしても、ぜひ買わにゃいかんとは…肉とか魚とか。そういうやつは是非こうてこにゃなかっちゃん。―呼子ですか

んにゃ、呼子じゃなか。 色々、あっちこっちデパートとかね。エイコクとか。

―スーパーとかですか

うん。昔は割と……あー、肉ていうのがなかったけんね、昔は。(笑)そっけん魚。野菜はもう大体自分の家にあるとでね、使うくらいで。魚は絶対買うていかにゃいかん。呼子まで。

―それは行商人が回ってくるとかじゃないんですか

そういう人もおらした。魚売りね。あんなかには魚売りだなんだ、そういう人もおらした。 …そっけんもう、肉ていう肉じゃなか…クジラばっかじゃったけんね。豚とかそういう肉はなか。毎日がクジラ。

―肉食べたらどうにかなるって噂があったんですか。なんか昔…牛食べたら牛になるよとかいう話があったから食べなかったって聞いたことがあるんですけど。笑 そういうのじゃなくて、単純に食べる風習がなかった?」そうじゃなくて(笑)、肉ていう…肉も出回りゃおらんかったしね。クジラとすっと相当値段も高かったしね。

―それでもゴッテ牛は売ってたんですね、肉に。

肉は…うん、牛は…肉にゃなるとばって、今と違ってほら、あぎゃん切り伏して、600キロいくらもならかして、売る…ていう、そういうとかじゃなかったけんね。2・300キロくらいじゃしね、せいぜい、肉屋に出すって言うてもね。

―それじゃあんまり食べれなかったんですね

そっけん、今のごて出回りゃしなかった。今はもう500キロ600キロあらかしてね。

 

―もやい風呂とか、共同風呂ってありましたか。

うちの部落はなかった。隣りのシオヅル(塩鶴)ではあった。

―干し柿を盗んだりしたことありますか。よそから盗ったー、お腹すいたーとかで。笑

昔はねー。昔はそういうこと厳しかったけんねー。今はもう…盗ったとかって、やかましいもんおらんばってんね。今はもう…ばってんね、盗ってまで食おうと…子どもはおらんね。昔の方がやっぱり盗って食う…ちょっとばっか盗って食う…あるとね。まぁ…ばってんが、厳しかったは厳しかったね。見つかったら学校まで…校長先生までいきよったけんね。

―えー!

―まあ万引きと同じですよね笑

今はまぁ…今はちぎったっちゃ、ちょっとだじゃ、ミカンちぎって食うような子どもはおらん。せんばって、珍しいね。

 

―戦後の話とか聞いても大丈夫ですか。食糧難のときに犬を食べた、とか。

そぎゃんことせん。なか。笑

―食糧難の時の話とか聞かせてもらっていいですか

我々の…昭和30年くらいになったらやっぱ結構難点でてきたけどね、まず…サトがなかったけんね。そっけん木の実…木の実のくわるるやつは殆ど食べた、甘いけんね。そっけん、やっぱ、買おうとしてもなかっちゃけんさ、物がなかっちゃけん。今はもう買えばもう何でもばんばんばんばん揃うばってんね、そういう揃うもんがなかった。昭和30年過ぎたらね、そういうこったなった。そっけんもう我々の…遠足…春の遠足あたりは、持っていくもんがない。ミカン…ミカンでもほら、今は甘夏とか、なんとかってイヨカンとかあろうさ今はね。普通のナツミカンばい。

―でか。(笑) 

一個。笑それで持ってくとさ。

―お弁当ナツミカンですか笑

普通のナツミカンくらいでね。温しゅうの、温州のミカンの持ってくのはよっぽどよかとこばい。(笑) ゆで卵とかねぇ、

―いいなー、みたいな?(笑)

まぁーそっけん自給自足でねー、家にニワトリでもおれば卵はあったしねぇ・買うとはなかっちゃけん。

―今じゃ食べないけどこういうもの食べたよとかありますか

まぁそっけんが、飯も今んような米ばっかりの飯じゃなかったけんね、麦飯とか。やっぱり麦飯にしたり、芋…芋飯にしたり、昔はね。今んごとは…よか…じゃなかった。米飯じゃなかった。 そっけん米出てくるとうまかった。麦もさ、精米所でついてくるような麦じゃけんさ、べったり真っ黒ついとった。真っ黒だった麦飯。ビタダレじゃなかつ。今、釣り具屋で売ってあるぐらいあんくらい麦じゃなかつ。まぁだ黒かつ。笑 

―黒い麦ごはん?

黒い麦ごはん。(笑) 

―食べづらいなぁ…

百姓はね、百姓は大体1しょうのコメに麦ば2ゴウか3ゴウくらい。そうすっとね、百姓じゃなかとこはね、反対さ。そっけんその、もう…農家ではね、1ショウのお米にね、麦を2合か3合入れとっとばい。そいで黒かとった。百姓じゃなかすとはさ、今度はもう、シマの行きん人はさ、反対しよる。米2・3合に麦ば1ショウ入れるぐらい。(笑) 

―じゃあ麦の中に米ちょっと入れる?

そうそうそ。(笑) 

―それで黒かった。笑

そう。(笑) 今の…今はよかばってんね・そういう時代じゃった。

―犬は食べない笑

犬はね。(笑)

―おねしょの薬にもならない。

 

―戦争でこの村に影響があったとかは。麦の話もですし

―あのころくらいに赤木でも影響は?

そういう影響の話は聞かんね。やっぱ空襲警報の時は防空壕に入ったりしよらしたけん。各家にもあるとよ、大抵どこの家でもね。

―家ごとにあるんですか

うん、家にも防空壕あったしかばってん。もう大きな防空壕はね、このへんにあるとよ。

―ウラダの方に?

うん、これは俺ももう入って遊びよった。(笑)ずーっと奥のほうにね。もう真っ黒じゃけんさ、中はね。結構中さんはいりよったけんね。別にね、こっちはうちのとこは空襲におうたとか何とか、そういう話はなかけんね。―疎開はなかったですか

町方じゃなけん、うちんち。笑 くるとかもなかった。

―兵隊に駆り出されたとか

兵隊は大体いっちょらすと。大体もう…昭和元年…2年、2・3年ぐらいの人までは全て、駆り出された。

2009_0703_040913-IMGP2335.JPG―すいませんお生まれは…何年ですか。

おいは23年。

 

ほとんどの人が病気せん限りは行っちょらすね。

―ああ、やっぱり…(苦笑)

殆ど行っちょらす。

―空襲とかなくて、

―あんまりそんな、もう、都会とかみたいに死者出たりとか、ああいうことはこの辺ではあんまりなかった?

んん、戦死者が赤木部落で18。赤木区でね。

―その後助けあったりとか、赤木で。戦争でお子さん亡くしたりとか。                      (上図 芳魂碑:戦没者を祀ったもの)

ほとんどの人がやっぱ独身者…まぁ戦死さした人は結構、あー…結婚してらした人もおらすけんね。まあ後は殆ど、未亡人になった人はまあやっぱ、あとは『後』ばもろてね、一人はもう、一人ん人は未亡人のまんま、まだ生きちょらす。あとは、結婚しちょらした人はもう、旦那さんばもろてね。

 

―農地改革前の小作制度とか、それでどう変わったとかって何かありますか

んーやっぱほら、農地改革でさ、やっぱそん頃…農地改革は、もう、大地主ば潰すこっじゃけんな。そんで、大地主がもう、小作者にやらせてたとこがね、やらせてたとこがこさくけんでもう、農地法でその小作者にどーんとそのまんますっとやけんさ、大地主とばね、そがもう、一般にかかってしもちょるもんやけんが、そじゃ、兵隊行ったら、若いもんが兵隊行くけんが、あとつがんも んじゃけんね、そったらもう小作に出す。そったら戦後になって農地法改正でそんなことになったもんじゃけぇ、そったら小作者はもうそのまんまどんと自分の土地になったというだけで、そっけん、大地主ばっかじゃのうなくして、一般にもそれが広まっとったぃけんね。皆が皆。法律とはそうなっちょっもんじゃけぇ。皆もう、全部ひっかかってくるわけよ。あんたはもう大地主からかっちょらんばってんが、というこっちゃなかすけんね。そいで結構もう小作けんでそういう風にとらすようなった人もおらすわけよ。そのとき小作させたばっかりに、そんけん、んば、まあ大地主ば潰すということは、良かろうば、良かったけんね、一般の、少ししかなか人で、小作に出しとったんば、とられたーていう人がね、それがキツかったいね。

―この辺りだと、その大地主っていうのは

赤木はその、庄屋ていうのは2けんあった。庄屋さんてはおらした。宿に一件と、今はもうのうなったもんね、家ものうなったもんね。オベタにも一個あった。庄屋さんが。

―そこが大地主さんですか

うん、庄屋やけんね。

―農地改革で変わったーって?

うん、もう家もなかったもんね。もう、あとが続かでね。そういう風で、

―じゃあ格差のようなものも特に…格差というものはそんなに、なかったですか?

―この人が偉いとかこんなことしなきゃいけないとか。

―上下関係てきな

まあ戦前はそりゃーあったろばってんさ、もう言論の自由とかそういう自由時代になったらね。そういうことはもう云うてもはじまらんけんさ、そやこと言うてもね。戦前・封建時代の自分にはもう、あの人が言うたらもう口ばだされんってのはね。自由時代になったらね。そりゃ何処であろうとも、どこん地区であろうともね。

―じゃあ祭とか、盆踊りとかそういうのはあったんですか

ん、部落の祭ていうたら今でもしていとと。

―日枝神社でですか

うん、神社を中心とした祭は一つ。

 

 

―ちょっと全く違う話になっちゃうんですけど、恋愛てどんなでしたか?坂本さんのお話でも…

したことなかけんなぁ

―え、そうなんですか?

やっぱこれはもう、大元は青春時代になくてはならんこっちゃけん。まあ、そら、適当にあったけんがー。

―参考に聞かして下さい(笑)

―何か、なんだろ、お見合いとか?

んーおらぁもう、お見合いでやったけんね。まあ恋愛もそら、せんばったことなかけんが。

―それはどういうふうに?(笑)

それはーやっぱ、………うん。(笑)

―結婚前の、若者たちの集まる宿ってあったんですか?若者宿とか、青年宿とか。

もう、我々の時はなかった。相当前はあったらしか。青年宿ていうてね

―それってどんなもんなんですか。出会い場みたいな?

青年宿っていうのは……公民館っていうのがなかったけんね。集まる所なかったけんね。若いもんが若いもんの、今日はここん家集まろう、ここの家集まろうていうてね。ようくは分からん。ばってんが、青年会長、会長がおらにゃいかんけん、青年団にはね。なら、青年会長の家を宿として、そこで会議をしたり色々催しをしたりとかいうことも。

―どういうことをしてたんですか?

やっぱ青年団活動に対するその、昔はいまんごとみたいにどんどん出鱈目に酒飲んだりとかはね。酒もなか時代じゃけんね。色々な世間話をしたり

―世間話をしたり?(笑)

女の話をしたり男の話をしたり笑

―そこで恋愛の話が?(笑)

そういうこと(笑) そういうこったろうね、でも、今のごて飲みやもなかし、スナックもないしね。(笑) それが楽しみやったとさ。そしてもう、何十人もいよらすけんね、青年団がね。赤木ももう30人も40人もおらしとたいね。男女合わせて。

―え、女の人もいたんですか?

うん。女の人も結構おらした。

―え、なんか若者が集まるところみたいな?

うん。やっぱもうね、昔は何でも手でせんといかんかったけんね、人間でせんといかんかったけんね。機械のなか時代じゃけんさ。そったら家族も余計いるとやっちゃっけん。家族の中では仕事もできんとだろう。そって若いもんよそさ家事、しよったけん。今はもう弟だったら次男・三男・そって妹だったらも、学校卒業したらよそさつとむるじゃろが。そういうひとが昔は家におって、家の仕事してた。そっから多かった。一人立ちするまではね。そいだけ家を大事におもっちょったたいね。家―仕事して、家を盛りたててというような、そういう考えやったけんね。

―やっぱりお父さんが権力が強いみたいな?

そうね。やっぱそういうさ、仕事そのものもなかったっけぇね、会社とか何とか。仕事もぼんぼん出てきたのは我々の時代じゃけんさ。

 

―変なこと聞いてもいいですか?

うん。

―夜這いは盛んでしたか?笑

んーまぁ、我々のときは、ない。昔は結構、ありよったらしか。やっぱ。青年宿辺りのはもうそう主だっちょるけんが。

―青年団であったんですか。わー、なんか怪しい活動。笑 徳光さんはないんですか」

うん、なかったね。笑

―よその村から来る青年と、青年団で争いとか。派閥争いみたいなのは

よそとは交換会とかはしよったけんね、なかようはしよった。うん、よそにほんと派閥争いとかそういうのはなか。

―ふーん。でも夜這いはあったんだ。(笑)そっから結婚とかあるんですかね?

そうねぇ、それで結ばれた人もあろうねぇ。

―びっくり。今はもうない?

今はもうねぇ(笑)今はもう家宅侵入罪でもうー笑

―(笑)ですよね

今は門ばくぐっただけでもう。(笑)昔はそんなんもあったろ。

―プレイボーイが。(笑)

 

こんー…おいはもっちょっとね、加藤清正公が出よんかならんかなーて思いよっとっとばい。加藤清正ば墓場、せっかくあるけんね。

―もうちょっと有名にならんかなーってですか?

ここの山のひとね、どうも話し合いが弱い。いかんかったらしかもね、前へ。

―ここを有名に、ここにありますって言うってことですか

うん。ほったら、掘り返してみるかって、そういう話もでたらしか。でも山の人ね、うまくいかんかった。

―あんまりそういうの薦めたくないかな。

―でもここらへんに埋めたってのは?

そりゃあもう墓があるとじゃけんが。そしてね、刀でなんであったっちゅー。昔の、もう今のとしの70もいくらのならした人が、そっで持って遊びよったて。そこへほんとにうめよったとばいね。

―見てみたいなぁ、こう…。

こういうえらか人がいたという所に塚ば構えちょらすばってんね。宮本武蔵のも塚ばあるけんね。

―宮本武蔵もこのへん?

宮本武蔵はなか。(笑)  あとはもう、岸竹さんの、キシタケクズレがもうここにきったいあっとさ。唐津のキタハタはんの、きたはた、とくせんの、とくせん・キシタケ城てあった。キタハタにね。

ーキシタケさんて誰だろう

キシタケていうとこよ。それが豊臣秀吉然り、責められしか。キシタケさん逃げよらした。こっちへ果てし、命を果て地。そしてもう逃げどころものうしてね、ここに来て 至るところでもう死もしと。キシタケクズレて。その人たちが色々病気をもうなっかすっけんね、危のうて、働けん。

 

―この辺りが何か変わったなぁと思う所はありますか

それもう、地形的に、やっぱこういう開発事業ばしたらもう相当変わってしもうたけんね。山が畑になるしね。水田がまた大きな水田になるしね。道が、大きな道が通るし。

―これからどう変わりますかねー?

これから変わるとすれば、

―道整備されたし

何でも整備できちょるしね、そいたらまた、のうちの、田畑のね、一枚の面積が広がるくらいじゃなかろうかね。また再度再開発したらね。もう何十年先かわからんばってんが。

まあ希望としてはね、色々の、赤木ばっかりじゃなか、このへん一帯に1つくらいはね、施設がほしかどばったいね。健康的な、健康施設を1つくらいはね。この辺一帯にね

―鎮西町で?

鎮西町のこっちのウチアゲならウチアゲ地区くらいでね。健康センターか。

―そしたら色々な人も集まりますもんね

まあフクシカンホウで色々健康的にはケンシンとかしよるばってんね、そういうセンターが欲しかばってんね。―あ、なんか来る途中にナントカ医院があるって見たんですけど。こっちに来る時に地図にナントカ医院があるってのってたんですけど

ヒラサカ医院じゃろ?

―あ、シオヅキ医院

シオヅキ医院もうなか。もう倒産倒産。笑

―倒産?笑

もう崩れかかりよるもん、ここは。先生がね、1週間に2.3回くらい久留米からきよらして会計ばしよった。出張所。

―え、じゃあ今は病院はどうしてるんですか

今はもうヨブコまで行かないかん。車で。元はもうヨブコの中央病院じゃけん。

―それが、なくなって

そっけん、そういうのなかけんが、ヨブコさいかないかんけんし、ヨブコは2健あるけんさ、フクダ病院と内科のほうね、外科は、山田整形外科が。

 

―アカギ公民館てあるのは、これはちがうんですか?

そうそう公民館

―公民館は最近できたんじゃなかったですっけ

―公民館ないっていわなかったっけ

公民館はこれは昔はなかった。公民館だった。これは昭和ね、昭和20…何年か、建ったと。昭和にじゅう…もう分からん。(笑) 昭和20…29年か8年、俺たちは公民館で

―じゃあ集会とかはもう公民館で?

今はもう集会所になっちょんもんね。研修集会施設になっちょっと。今また公民館ていうと建て替わってね、今はもう立派になって。昭和59年に、昭和60年に。

―坂本さん多いですよね

うん、坂本ばっかここの近辺が。

―分家ですか?

いや、分家じゃなかばってん。

―ニシオさんも多いし。何でかなーと思ってて

色々…やっぱ苗字ばつけないかんちゅってね、色々繋がって。隣りがサカモトって着けたからおいらもサカモトでいいやみたいな。(笑)

 

と話をしていると、ちょうどいい時間に。この辺で、質問をやめて、坂本さんにお礼を言い、赤木周辺を散策することに。


 

話にあった日枝神社とその向かいの公民館を探索していると、坂本さんがトラックで追いかけて来てくれた。何でも近くに赤木で一番物知りの方がいらっしゃるとか…。その方のご自宅へ向かう途中、ちょうど車で通りがかった竹下さんの経営する事務所で再びお話を聞かせて貰えることに。

 

 

1.      赤木の起こり

竹下さんに再び赤木についてお尋ねすると、赤木の発祥について語ってくれた。

竹下さん「大体ここを、治めたのが赤木左近、我々は左近ちゅうことで小さいときから聞いちょるさい。ところがマツラ市(松浦市)辺りじゃ右近ちゅう話になっとるらしい。」

もはや伝説のように語り継がれていて、赤木左近さんらしいが…もしかすると右近さんだったかもしれないと、赤木の方にも怪しいご様子…

 

地図には残っていないが、公民館と日枝神社の間から、雲浦の山の方にかけて唐津街道があったという。公民館の前の家の塀の内側に、今もその石碑があるそうだ。唐津街道自体は総和58年の整備で田圃の底に消えてしまったのだが、山の中の街道はそのまま残っているのだという。

坂本さんと竹下さんの記憶の限りでは

昭和48年頃〜    国土調査

昭和52年           現地調査視察、航空写真

昭和58年           水田整備完了

 

日枝神社の外側の鳥居の脇に、水田整備事業の記念の石碑があった。石碑には次のように書かれていて、赤木部落一帯の共同の整備であり、赤木の部落一致の2009_0703_041247-IMGP2336.JPG心が窺えた。

 

水田整備記念

 

上場地区土地改良事業化が進められる中で赤木地区に於ても字中田宿、柳ノ元、の水田、田、畑、一部原野の地権者全員協議の結果県営農地開発事業に依り水田整備事業を施行し近代農業基盤の確立を目指し限りなき繁栄を記念し本碑を建立する。

 

平成四年十一月吉日

赤木土地改良組合建立

 

 

 

 

 

長崎県赤木村

かつて『赤木』の区域はもっと広かったのだという。「元々赤木ちゅうところが、明治の初期までは長崎県赤木村だった。佐賀県はその後にできたんさ。それで、その当時は、マルダ(丸田)、ヨブコ(呼子)、ツジムラ(辻村)、それから、オオドモ(大友)、それと、この辺ぐらいまで長崎県赤木村だったんね。シオヅル(塩鶴)・ヨコザキ(※)も長崎県赤木村だった。その後佐賀県になってから部落が出っと分かれた。だから、その当時は今の県知事のことを県令て言ったん。そいで、その今言いよった所が、シュク(宿)、ここ、この家たいね。さっきの庄屋さんで、これがお寺でこれが学校。この学校の発祥の地…寺子屋だった。」

ウチアゲ(打上)に続く道と県道 岩野・呼子線(今は唐津・呼子線とのこと)との交差点の所に元々寺子屋があり、それが今の赤木分校の元となったそうだ。赤木の寺子屋がこの辺りでは一番初めにできたものらしく、当時は赤木がこの部落一帯の中心であったと竹下さんは語る。

 

※ヨコザキ…ヨコダケ(横竹)の聞き違いかもしれません。

 

 

洞済寺のソテツ

更に、赤木の中心地にある洞済寺のソテツについて教えてくれた。

竹下さん「あんたたちは豊臣秀吉のニゴウサン(二号さん)について知っちょぉ?一号は誰だ、淀君じゃろ。本妻は淀君じゃろ。豊臣秀吉が名護屋城築城した時に、二号さんがおらした訳よ。それがヒロサワノツボネ(広沢局)。そら奥さんもおったとばいで、昔は、昔は二号三号も。なぜかとか分かる?」

1人だったらもしかしたら子孫を残せないかもしれないから、ですよね

竹下さん「そうそう残せないかもしれないから、三人おったらどれかに子孫…男の子が残せるから。」

―単純に女好きだったんじゃないんですか?(笑)

2009_0703_053250-IMGP2339.JPG竹下さん「いや女好きだったんじゃないよ(笑)あんた大正天皇まで側室がおったんじゃけ。昭和天皇になって『私はいらない』と言って、昭和天皇からこっちはもう側室はおらんかったごと。大正天皇は側室はおった、二人。そいでその広沢局という人が、名護屋のコウタクジ(広沢寺)に祀られてる。でそこにね、ソテツがあるわけよ。ソテツをね、赤木のドウサイジ(洞済寺)にソテツの苗木を広沢局がやってやるのが今植わっとるわけ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今も洞斉寺にそのソテツが植えられたままだそうだ。寺の和尚さんに頼めば広沢局の書状を見せて貰えると聞いて、お話を聞いた後に洞済寺に向かった。時間がなかったため急いで行くと、隣りの民家の方洞済寺のソテツ.jpgに出くわした。丁度和尚さんは留守だったようでお話は聞けず仕舞いだったが、恐らくその広沢局のソテツと思われるものがちゃんとあった。(写真)

 

 

 

さらに、広沢局の贈ったという目薬の木についても語ってくれた。

「広沢局は少し、二号さんは、目の悪かったじゃな。ちゅうのは、ナナヤマのタケ農家のね、あそこ行っと広沢局が贈った、植えらせた、目薬の木ってあるさ。そう広沢局が贈った。多分少し目の悪かったんじゃないかな。広沢局はやっぱり豊臣秀吉の二号であるもんで、やっぱり本妻も幅効くばってん、やっぱ二号もやっぱ幅効いちょるたいね。そんけ至る所に色んなことしちょるわけよ。」

 

広沢局がソテツを送ったのも元々豊臣秀吉と何かしらの縁があったからで、つまり赤木は豊臣秀吉時代からの流れがあり、明治の初期までは長崎県赤木村として一番強い所だったのだという。赤木左近元々壱岐にいたが、長崎県の殿様に命じられてこの部落にくることになった。赤木左近をトウ(頭)として、その下に庄屋さん(今の区長さん)という構図であったそうだ。

 

 

 

 

2.      地名・川の名前

更に、竹下さんにも地図にない地名・通称や川の名前について尋ねたが、この辺りでは特別に名前はついていなかったという。

「川はウマイレガワ(馬入川)しかなかとね、塩鶴・赤木に別れる、これまでは馬入川でよかと。これから下(北西側)は佐賀県の第二級河川、全部エズ(江頭)川。」二つに分かれた後の部分(南東側)には川の名前はついておらず、「敢えて言うならこっちの方はナカダ(中田)川」「あ、中田の方に流れてるから(笑)」「これは塩鶴川。(笑)」「敢えて言うならね。」と坂本さんと軽い調子で仰っていた。

 

日枝神社という神社は東京にもあるように、日枝神社は全国至るところに存在しているそうだ。ところが何故日枝神社というのかは知らないそうだ。ただ、日枝神社(赤木の子どもたちは赤木神社と呼んでいた)の位は高く、洞済寺もこの辺りでは一番高い一等地であるという。

 

 

3.      無縁仏

先の話に出てきた広沢局の書状以外にも、出てくれば国宝級だといわれている書状があるのだとか…。

竹下さん「キザケ城て知らん?イマリ(伊万里)に行く途中にキザケ城て昔あったんね。そこにハタミカミノカミていう人の書状がある。そこが落城するときにお寺に贈った書状もあるはずだっていうね。(笑)広沢局の書状もあるさ、二つある。筆で書いてあってね、それは俺がもうこの目で見ちょるけん。それでも1つその、キザケ城のハタミカミノカミの書状が分からんとたい。行き先が。たぶんね、キザキの和尚が持ってったとたいね。それが出てきたら国宝級。」

 

赤木にはたくさんの無縁仏があったのだそうだ。

山、畑の真ん中、道端などなど、そのキザケ城の落城時に侍や一般の人がそこからカベシマ(加部島、呼子の先にある)まで逃げてきた。その途中で惨殺されたり栄養失調で倒れた人のために、地元の人が立ててあげた墓が何箇所もあるのだ。

 

竹下さん「キザキ崩れていうて、それに何かしたら…『祟る』ていうかな、そういう風な風潮があったわけよ。実際祟らんてね。(笑)扱う人がそういうふうな気持ちで扱うけんが自分自身がそういうふうになってしまうわけね。我々もそういうことしたばってが、何にもなかもんね。それはあの実際あの、道路拡張するとき、溝堀りよったら胸んところ斜めん溝掘ったことあるよ我々も。昔は土葬でいきじゃったけんね、道端にそういうふうな墓があったと、石ころとかなんとかで。ところがそこを移動してそこを溝を掘り寄ったらね、胸・あばら骨出てきよったことあるさ。そんでも祟らんけんね、何にも。」

更に、赤木の水田整備の際、川を掘り起こしたときにも大きさ二丈七尺の骨が出てきたのだそうだ。実際の墓には骨がないのに地蔵だけがある。地面の上だけお墓なのだ。「墓石邪魔になるけんが、墓だけ移動しよった。」と坂本さん。

 

 

4.      赤木の今

赤木は昔、塩鶴やナカノ(中野)、横崎などを含んでいたため一番人口も多かった。ところが現在では、車通りの多い大きな道路脇でないと部落は発展しない。「今は道路脇でないと色んな店も出ない、また色んな仕事もされないちゅうことで、店は道路周辺だけしか家だのなんだって建たんばってんね。昔はそういうことがなかったけんが、やっぱり赤木が一番。一番いい所じゃなあていう所があったわけ。今は一番駄目になってしまったわけ。んで我々も赤木ばってここに出てきとるわけ商売口にね。向こうじゃ商売されんわけですよ。」と竹下さん。お話を聞いている事務所も赤木と塩鶴の境の道の脇に立ってあり、また、そういう所でないと成り立たないのだという。

「そういうことでやっぱり時代が変わればね、昔は良かったけれども…今は…人口もこう…中野とかはどうなのかね。」「変わらんごとなっちょーね。マルダ(丸田)から人一戸くらい負けちょらんかな。」「もうそういうね、やっぱり、向こうは周辺は増えるけれども赤木は減るばっかり。」「真ん中にあるけ。」と、竹下さんと坂本さんは寂しそうに語っていた。

 

 

5.      名護屋城を望む墓

国道204号線沿いのすぐ南にある小倉山の頂上に、豊臣秀吉の家臣として名高い加藤清正の墓があるという。

竹下さん「それはなぜかていうのはね、加藤清正が没する時に名護屋城の見えるところに埋葬してくれろと言ったわけよ。だから加藤清正の本当の墓は日本国中どこでもないわけね。ていうのは、昔の人は今はそういうことせんばって偉か人のは家来が分骨して持って帰るわけ。そして祀るわけよ。熊本にもあるじゃろ、加藤清正のお城もあるじゃろ、お宮も。九州にもいたるところにあるわけよ。」

―それで有名にならない?(笑)

竹下さん「そうそう、さっき言うよったごって、偉い人の骨を分骨して、祀ったのが神社とか祠とか。熊本行くと、加藤神社ってあるわ。熊本城に加藤清正がおったっちゃ。豊臣秀吉が朝鮮に行った時分に一緒に行って帰って来て、熊本さ行っちょって。こっから行っちょぉとよ、名護屋から。

―ここから距離…凄いありますよね。

坂本さん「橋はなかったけんね。(笑)」

竹下さん「こう(陸地を)曲がって行って渡る。そいで名護屋城に、豊臣秀吉が築城して、その色んな大名がおる中に、加藤清正もおった。殆ど総大将じゃったったいね、加藤清正。そこから朝鮮出兵した。そいで帰ってきて、今度は、名護屋城を崩して唐津城を造った。そいで、名護屋城の天守閣の一番端の石垣は名護屋城にないわけよ。」

坂本さん「そっけ、豊臣秀吉は金箔ば大好きじゃったて言うけんが、瓦でも何でも金箔ば敷きよったけんが、唐津城も金箔ば出てきたて。」

豊臣秀吉について知りたいのなら、名護屋城に資料館があるからそこへ行くと良い、朝鮮鮮出兵のことも金箔が出てきたこととかも何でも分かると教えてくれた。

 

 

6.      坊主殺しと佐用妃伝説

赤木にはいわくつきの昔話があるのだという。

「洞済寺のうんと昔の和尚が、金持ってて、金貸しちょったわけよ。非人の同じ部落の人に金ば貸しちょったわけよ。ところがやっぱり借りたもんは戻さんばいかんだろ?んで、戻しきらんで、非人で結託して和尚を殺した。それが『坊主殺し』て言いよる。坊主殺しはオベタ(小部田)で、ここに観音様あるけんね、御堂さんじゃけね。」

お金持っちゃいかんよ、と坂本さんが笑っていた。

 

更に、赤木の話ではないが、語り継がれている伝説について、「これは嘘じゃろうね」と笑いながら教えてくれた。

唐津にカガミヤマという山があり、そこから衣をまとったサヨウヒメ(左用妃)が恋人を覆って加部島のタジマ(田島)神社まで飛んで来て、そこで泣き崩れて石になったのだという。田島神社では今でも左用妃を祀っているのだとか…。

 

 

7.      青年宿のない今

青年宿はいつぐらいまであったのかと、先ほどの質問を坂本さんが竹下さんに聞いてくれた。

「昭和22年か3年くらい…まであった。今は田舎の人でもどんどん街に今出ていくだろ。そういうことが昔はこの辺の部落ではなかった。やっぱりあの、この辺の部落に生まれたら、部落におって、どっかに、女性の人は嫁ぐと。そういうふうな習慣があったわけね。まあ特別、男の場合は次男とか三男かはどっかに出て働くと。女性は殆どもう、あの、部落から離れよらんね。そんであの、我々の青年時代は男女合わせて60人ぐらい、赤木の部落にね。一軒に2人も3人もおったとね。青年ていうのがね。ところがあの、今はもう全くおらん。」

「私らぐらいの年齢の人たちもですか」

「全然おらん。…ただねぇ、青年宿も、集まってやぁやぁいうだけの青年宿じゃなかったとたいね。昔はね。上下の関係て言うのが物凄い厳しかった。青年宿でさえ我々、もう若い学校卒業して若い人が入った場合は、膝は崩されん。正座。絶対崩されん。まだ上に人おらすって。そういう時代じゃったね。」

戦時中は尚更厳しかったのだと坂下さん。更に青年宿のない今現代の社会問題についても熱く語ってくれた。

「今は、今は上じゃろうが下じゃろうもなか。今は全然とって。とにかく、青年宿で、学校で習わん礼儀作法とか何とかはやっぱ目の上の人から習いよったんね。それが今ないけんが、今の世の中の若い人は『誰でもよかった』て。ね。誰でも良かったで、何で誰でも良かったて理由で3人も4人も殺されなきゃいかんのか。それがおらぁもう、合点がいかんのね。人を殺して死刑になったって、死刑になるなら人を殺して死刑になるなら自分が死んだ方がましだろう。そっけんね、今年間自殺者が3万いくらいるだろう。その3万いくらの自殺者の人はそういう人間じゃなかったいね。誰でもよかけん殺して自分も死刑になりたい、そういう人じゃなかけん。やっぱり生活が苦しい、色んな経済面での自殺者が3万いくらもいるわけね。」

 

更に合点がいかないことがあるのだと言って沢山語ってくれた。

今失業率という統計には5.何%ある。その中に仕事をしないニートが含まれているのだという。例えば生活保護も、今は「憲法で、人間は国民は最低水準の生活を保障されている。」という文言の名のもとに、5万いくらを貰っているが、たとえば母子家庭の場合は更に母子加担が出てくる。そうすると10何万貰うことになる。それで生活していて足らん足らんと言う人がいる。だが、年金で生活をしていると、75歳以上の女性は、年間60万くらいしか貰えない…月にすると5万くらいにしかならないのだ。生活保護貰っているい人よりも最低の生活をしなければいけない、それが納得がいかないのだという。だから生活保護貰った方がマシだといって失業して生活保護を貰う人が出てくる。福岡では北九州が一番生活保護を貰っている人が多いのだとか…。

 

子どもが2・3人いる女性は離婚したらそれから結婚せずに母子家庭となる人が多い。母子家庭であれば10何万貰うことができる。だから結婚する人が更に減ってしまうのだ。このままいくと戦時中の人口に逆戻してしまうと坂本さんは危惧していた。戦時中の人口が7千5百万〜8千万で、終戦後に1億ちょっとになり今1億2600万になった。それが今度は少子化で激減してきて、50年後くらいには8千万をきるという。だから子ども1人当たり2万6千円の児童手当をくれると言っている民主党が政権を取ればいい。だはその財源はやはり税金であるわけで、「うまかことばっか言いよるばってん、民主党もね。」

 

更に、20年くらい前は九大や東大を出た人達が、25歳くらいで大学卒業したらすぐ、地方出向で税務署所長になっていたのだという。そこで3年ぐらいいてまた財務省に帰る。あんまり若いと言うことで今は35歳以上でないといけないようになったが。「もう大学卒業してすぐ財務省に入って研修のために地方にやられるんよ。やられたらもう所長よ。官僚じゃけぇね。そういう官僚を生み出した自民党もいかんけんね。ばってんか、自民党ももっと考えないかん民主党ももっと考えないかん。」とため息混じりに締めくくっていた。

 

 

坂本さんと竹下さん.jpg

 

 

 

写真はお話をして下さった坂本さん(左)と竹下さん(右)。お忙しい中本当に有難う御座いました!

 


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