高島に関するレポート
工学部機械航空工学科 権藤道直
僕たちが行った高島は唐津から船で片道10分ぐらいのところにある周囲3キロほどの小さい島で全国的に宝くじにご利益があると有名な宝当神社がある。
まず僕たちは漁協の組合長である野崎秀人さんに高島の漁業について尋ねた。
高島では昔も現在も夜に漁で海にでることがあり、底引き網漁や刺し網漁をするそうである。しかし夜の海には危険があり季節の変わり目などに吹く突風により船が横転しそうになることがあるみたいだ。そういう危険を今は海に出たときでも携帯電話を使い気象情報を聞き漁をするか判断するとおっしゃっていた。また海の中の権利については高島から500mまでが自由に漁をできる範囲でその範囲を超えるとほかの島や唐津市との共同漁場になるらしい。この島では、なんと漂流物で人間の死体が夏になると度々海岸に打ち寄せられるとのことだ。また2,3年前ではハングル文字が書かれたポリ管が多く漂流してきたらしいが、今年は少なかったそうだ。このような海岸のごみは年に2回漁協の人や組合の方たちが掃除するそうだ。次に昔(昭和3、40年頃)の漁のことについて尋ねた。その頃は今のように魚群探知機や無線がなかったので、三人ぐらいの人が山に登り海の色の違いなどからいわしの群れを探して、群れを発見した場合は白旗をふりどこに魚がいるかというのを決まった方法で船に伝えていたようだ。また船同士の連絡も旗を使っていた。また高島では海藻をとって市場に売っていたらしいが、今じゃほとんどとれなくなり、多いときには100人ほど海藻をとっていた人たちも、50人ぐらいに減ったそうだ。また昭和50年までは木造船を使っていたらしく、その船は唐津の船大工さんにつくってもらっていた。しかし船の修理は高島の東の浜で自分たちでしていたそうだ。
そして次にぼくたちは高島の風土について聞くために宝当神社の野崎覚さんのところを訪ねた。
まずこの島で祭りは宝当神社が年に一度、塩屋神社(宝当神社の本家)が年に三度あるそうだ。ここでこの宝当神社と塩屋神社のことについて紹介します。
まず宝当神社は野崎隠岐守綱吉が祭神であり、その歴史はこうである。元亀4年(1574年)のある日の事、筑前国吉井の海賊、火山神九朗の猛悪異名に恐れおののいていた吉井娯が神九朗の手下30余名を率いて、高島の人家を襲った。穀物や金銭を強奪し、船に積み込み、とも綱を解き、浜辺を去ろうとしていた。これを聞きつけた綱吉は、海辺に走り出て飛鳥の如く賊船に飛び乗り、帆柱を引き抜き横一文字
に振りまいた。賊徒は、その場に倒れ、各自物を取って綱吉にたち向かってきた。綱吉は、車輪の如く早業で投げ飛ばし、骨折、流血、転倒、負傷をおいながらも、賊徒を倒した。
生き残った者はわずか5人であった。5人は、強奪した物を前にして命乞いをし、綱吉は、それをねんごろに諭し許した。
その後、近遠の賊船は、綱吉の勇力を聞き、2度と高島を襲うことはなかった。
しかし綱吉は天正13年(1586年)にわかに病に犯され再起することができず、高島において逝去し島民は綱吉の弔いを厚くし祠を建てて島の大権現として祀った。
そして明治34年(1901年) 当島の宝『寶当神社』として称し、鳥居が奉献され、年々奉を催す事怠らなかった。
この野崎隠岐守綱吉は藤原鎌足の子孫にあたり、このことを示す系図がこれである。
次に塩屋神社は大山祇神、須佐舘男尊、菅原道真の三神を合祀している。その歴史は野崎隠岐守綱吉が天正9年(1581年)島民とはかり先祖である藤原鎌足、子の不比等、不比等の孫魚名、続いて産土神として大山祇神(おおやまつみのかみ)を祀る山王宮を建立した。これが現在の塩屋神社である。
上記の文章が書いてある 塩屋神社の本堂
そして高島の風土のことを聞いた。この高島には今も昔も田んぼはなく、昔は漁業や
製塩、海苔の養殖をして成り立っており、今は漁業と宝当神社を訪れる観光客を対象にした、お土産などを販売して暮らしているそうだ。しかし漁業で生活していくことが厳しくなり(大手の漁業関係の会社が魚をとるので魚がいないので)、漁業に不安を感じ島を離れる若者が増え、島の人口20年前の半分以下(380人)まで減り、小学校では1クラス4,5人で中学校は唐津に行くという状況だ。また高島には川などはなく、部落も宝当部落だけだそうだ。台風予防の神事もしてないとのことだ。しかし台風のときは漁船は唐津におくらしい。