肥前町高串の歴史にふれて

平成161218
九州大学薬学部1
井無田麻衣子 奥野祐子

 

私たちは佐賀県の唐津から西に30分のところにある東松浦郡肥前町高串地区の
昔の様子、暮らしを伺うためこの地区に在住の岩本平三郎さんを訪ねた。岩本
さんは大正9年生まれの85歳。19年間高串区長を務めた後、現在は
名誉保護司のほか少年補導員、交通指導員、運動推進員、食品衛生推進員
とまだまだご活躍されている。今回は岩本さんに一日つきあっていただき、記録
されずに忘れられつつある昔の高串のすがたや思い出を語っていただいた。

1.高串地区紹介

高串は海と山に囲まれた自然豊かな村で昔は半農半漁だった。「高串」
というのはこの地区をよぶためにのちにつけられた名前で、字は「田野」
である。海岸線や住宅の裏のがけには岩がたくさんあり、名前が残
されているものがある。まずは「八人が岩」。昔、山に登って山芋か何
かをとっていた8人が、足を滑らせて落ちたことから付
けられたといわれている。次に「渡錫(としゃく)の鼻」。これは弘法大使が唐
に渡られるとき、そこから渡錫の杖を突きながら渡られたことから付けられ、今
では観光施設の一つにもなっている。さらに天然記念物もある。高串潟の
亜熱帯樹「アコウ」ヒヤスキの木は自生の北限地にあることから天然記念物に
指定されている。ほかにも「一軒家」「三軒家」「六軒橋」と屋号
のつけられたところもあり、昔からの呼び名はまだたくさん残っている。

 

2.漁業

2.1子供時代

岩本さんが子供のころは、小学生ですでに夜の漁業にでかけていた。(網引
きには、男子だけではなく女子も参加した。)昔は放送設備がないため、
いわしの大群が来たときには各家庭へ「いわしだ、わーい」などといって伝えに
行ったり、網引き、網の乾かしをするなど、子供の仕事が決まっており、子供
のころから地域と密着した生活を送っていた。その役目も親から言
われなくてもみな各家庭にならって自ら行っていた。決して金になるような仕事
ではないが、遊びと仕事をきちんと区別していたようだ。また、夜に漁業に出
たときは、先生から「寝むかろ、養護室で寝てろ」と言われ、勉強
しないでよかったから夜の漁業をいつも楽しみにしていたとうれしそうに
語っていた。現代の子供たちは小さいころから勉強を強制されることが多く、
そのために自ら進んで物事を行う習慣がついていないのかもしれない。
このころの子供たちには現代の若者にはない純情さと素朴
さをあわせもっていたといえる。

 

2.2漁業方法

今となっては数百馬力の発電機によって簡単に進むことができる船だが、昔は
木造船で櫓を漕いですすんでいた。エンジンは6〜8馬力くらいの電気着火、
石油ランプまたはガスタンクにいれたガスの力を利用して船を操っていたが、
夜の漁業もそれほど危険ではなかったらしい。木造船は造船屋から買い、
造船屋で修理してもらっていた。イワシ漁には昔は巾着網といって、綿糸
でできたものを使っていたが、染料で覆わないとすぐ腐ってしまっていた。
昭和39年になってやっとナイロン、テトロン有機合成繊維製品が用
いられるようになった。網をかける位置はいわしの群れが来る場所も決
まっているため、だいたい定位置で網代と呼ばれていた。また、漁業をする上
で欠かせないのが、「山立て」という作業だ。沖に出たとき、山を見
てどれくらいしたら瀬があるかを確認することをいう。高串では、甲二峰
(標高125メートル)という山を目安にしている。この「山立て」は衛星や
携帯電話のある今でも必ず行う。また、漁業では風の吹き方にも気を付
けている。春は東風(こち)、夏は春風(はえ)、秋は北風、冬は西風で西風
が吹くと海が荒れる。

 

2.3漁業領域

漁業領域は同じ高串でも高串、大浦、肥前で分かれており、どこまでがどこの
領域かはそれぞれ把握していたため(灯台や岩などを目印にしていた)、境石
(海岸線の部落境に置く石)はお互いあまり利用しなかったようだ。共同漁業権
もあった。領域を分けてもらうには、「しまうけ」といって魚を取れる領域が
許可される権利をお金で買っていたそうだ。しかし佐賀の領域は隣の県の長崎県
に比べるとかなりせまい(500メートル先はもう長崎)。これには、麦地場
の言い伝えがある。昔長崎の殿様が麦地場で領域を決める線引きを行い、田野の
殿様が弱かったため広領域をとられてしまい、博打と麦の地域をかけて麦地場
(ばくちば)と呼ばれるようになったそうだ。漁業海域には潮の流れが重要な
鍵を握っており、潮流で獲れる魚も全く変わってくるそうだ。現に高串はこの
影響によりイワシ漁が不振になり打撃を受けている。

 

2.4捕獲物

昔はイワシ漁が盛んで、水揚げ高は佐賀県一で、毎日3kg詰めのいわしの袋を
何千も関西方面に運搬船で出荷するほどだった。高串でよく獲れたのは
オオバイワシ。昔は流し網により大量に獲れていた。岩本さんはそれを一斗升
50~60キログラム)にいっぱいにして売り、3銭ほどのお小遣
いにしていたそうだ。また、いわしの缶詰工場もでき、からし付けなどにして食
べていた。いわしがたくさん獲れると海にたくさんいわしが落
ちていているので矛でついて食べるのも一種の遊びだった。しかし、今では潮
の流れが変わり、いわしがあまり取れなくなってしまい、漁業不振に
陥っている。潮の流れは、50年から60年周期で変わり今では山口地方や遠
くは北海道でたくさんとれるようになった。オオバイワシも生活圏が変わり、前
ほど獲れなくなってしまった。さらに外国産の安いオオバイワシも入ってきて、
イワシ漁はそれほど盛んではなくなってしまった。そこで今ではイカ漁が主
となっているが、対馬まで行かないととれず、経費がかかりすぎるという欠点
(日帰りで行けないため1回に5万くらいかかる)があり対策を練っている。

魚類以外としては遠浅の海であるため海藻類が豊富に獲れる。例として、
かじめ、ひじき、てんぐさ(ところてんの原料)、わかめなどだ。
かじめというのは芽の生えたわかめのことで、少し固いため刻んで味噌汁に入
れて食べるととろとろしておいしいらしい。(こんぶはとれない)

 

2.5漁業加工

昔からいわしの加工は盛んだった。大正9年にはすでにオオバイワシのしめ粕油の
製造が始まり、煮干いりこ製造も盛んになっていた。昭和12年には煮干し鰯の
食料品供出の成績優秀として県知事から表彰されるほどだった。戦後食糧事情
が悪くなったときには仲買人が多数買い入れに来てさらに製造が盛んになり、
高串煮干し加工組合が結成された。工場は約百ヶ所にのぼった。

 

2.6海難事故、漂着

これまで最大の海難事故は大正2年の遭難者35名の大事故である。高串漁船が
暴風雨により沈没した。遭難者の墓は山の墓地に並べて建てられ家族は今
でもお祭りをしているそうだ。後でもまた述べるが、海難事故には台風の影響
もかなりあったようだ。また拿捕されることもしばしばあった。昭和36年、
巾着網船が鮮魚を西唐津魚市場に運搬中に長崎県監視船に連行されたときには、
うち続く長崎県側の不法拿捕に漁民の憤懣が極に達し、佐賀県水産課に対し
長崎県側と交渉するよう請願するなど、長崎県側との対立も絶
えなかったようだ。また昔は和船(櫓を漕いで進む船)でケンサキイカを釣りに
行く船が多く、突風が吹くと倒れやすいので、一人二人が遭難する小さな事故
も多かったそうだ。現在は遭難事故より衝突事故のほうが多い。

人間が漂着することもあった。昔、炭鉱があったとき、炭鉱の人で肥前町と
福島町の間の150メートルの間をふざけて泳いでわたる人がおり、誤って溺れ
死に、誰かわからない人間が漂着したことがあった。

 

2.7いつまでもきれいな海で

海岸の清掃も定期的に行われる。清掃をしないとヘドロがたまり緑色になる。
そうならないよう今では清掃部や子供たちにも定期的に清掃してもらっている。
また粗大ごみは昔は海が近いので海にぽいと棄てることもしばしばだったが、
今は粗大ごみも生ごみも徹底して収集されている。昔に比べ海
をきれいにしようという意識が人々の間で、そして釣りに来るお客の間にも高
まって、昔よりも海はきれいになっている。

 

3.農業

3.1農地

高串地区は昔から半農半漁で、今は衰退しているが昔は農業も盛んだった。田
んぼはほとんどが山にあるため、棚田である。田にもそれぞれ名前がついており
海岸線に沿って麦地場、鵜ノ瀬など名前がついていた。高串は漁業のほうが主
であったため都合のいい下のほうの田だけを耕したりもしていた。川は少
なかったが、唯一田んぼにある川には田えび・たにし・めだかが住んでいた。
この生き物たちも田んぼで農薬を使ったため死滅してしまい、今ではあまり見
られなくなってしまった。野焼きは、春先に農作業が始まる前の秋口に
行っていた。高串では大規模な農地整備は行われなかった(肥前町
ではあった)。昔は親戚中が集まって、「今日はここの田んぼ、明日は隣の田
んぼ」というように協同作業を行うが、入りあい地は少なく自分の土地には特殊
な木を植えたり石を炊いたりして他と区別していた。また、高串は
東京女子医科大学総長の故吉岡弥生先生の出身地であり、土地は娘
さんのきぬこさんの名義になっていて吉岡家の土地が多い。

 

3.2農業方法

農業において、人間の命より大事といわれている耕作用水。自分たちで
作ったため池から水を引いて、使っていた。水を引く水路は井手と呼ばれ、
一年に一度は「井手さらえ」といって掃除を行っていた。水を引く上ではみな、
どの池から水を引くかは話し合いで決めており、大きな農地でもないため、特
に争いごとはなかった。昔はトラクターのような機械がなかったため牛を
飼っていた。この地域の田んぼは棚田であるため、牛は細いあぜ道を通って作業
をしていた。牛のえさはわらだった。わらは自分たちで草切場というところで
刈って乾かし育て、保存し小さく切って沸かした湯に混ぜて食べさせていた。
栄養面も考えて乾燥したわらに青物の茅を混ぜて食べさせるという工夫
もなされていた。牛の手綱は右に一本だけであったため操作するときは、左に行
くときには「きせ」といい、右に行くときは手綱を引っ張っていた。また基本的
には雄牛のことを「ゴッテ牛」、雌牛のことを「ウノ牛」とよんでいたが、雄牛
にも気性の荒いものとおとなしいものがおり、特に気性の荒い雄牛のことを
「ゴッテ牛」とよぶことが多かった。この「ゴッテ牛」
をおとなしくさせるには、普段は長く持っている手綱を短く持って、鼻
ぐりをぐいぐい引っ張っていた。農作業をする牛も洗ってあげないと汚い。
そこで、昔は海岸を埋め立てていなかったため、牛を海まで連れて行って、
洗ってあげていた。高串では牛の病気は特に流行ったことはなかったが、上の
集落では流行ったことがあったそうだ。その理由はその部落が増田神社の信仰は
迷信だと悪口を言ったことによる崇りだともいわれている。

 

3.3米の保存

米の保存には大きな甕や貯蔵庫を利用していた。一般には籾のまま保存
することが多く、必要なときに必要な量だけ取り出し、玄米にしていた。昔
はねずみが多く、かごを仕掛けてねずみ対策をしていたが、猫
がたくさんいたため猫もかなり活躍していたそうだ。

 

3.4少なくなる農家

現在では二十数戸になってしまった農家。原因には減反政策で荒地
になったことや若者が少なくなり後継者が少なくなったこと、そしてその
結果、売るための米を作る農家が減り保有米のみを作る農家がほとんどになり、
米を作ってもお金にならなくなってしまったことがあげられる。

 

4
.炭坑

高串地区で特に有名な阿漕炭坑、大鶴炭坑では上石炭が出炭した。戦後の石炭
ブームの時には各地に小炭坑が続出し、昭和29年冬季のシワスイカ不漁の際には
各炭坑への稼働者も少なくなく、厳しい生活をする家庭もあった。爆発的な
人気でベストセラーになった日記「にあんちゃん」は「幼くして両親を失った
兄妹4人が大鶴炭坑夫として働く優しい兄を中心に互いに寄り添い気づかい
合って生きていく」姿を描き、読む人の心を強く打つものがあった。

 

5.日常生活

5.1ガス

高串にガスが通ったのは戦後の昭和38年になってからだった。戦前は手動で
ガスを発生させていた。その頃はバスもガスで走っており、車掌さんが朝早
くから木炭を小さくちぎって新聞紙などで火をおこしてまわしながらガスを発生
させて、その力で進んでいたそうだ。また煮炊きする際はガスではなくかまどを
利用していた。かまどに使う薪は木を一軒ぐらいに伐ったものを持って
帰ってきてかまどに合わせて小さくきり、割って利用していた。山
にはかけばがなかったので、家の近くに積んでいたそうだ。

 

5.2電気

電気が初めて通ったのは大正11年だったが、当時はまだ高額であったため、
全戸には至らなかった。電気が通る前は石油ランプを使っていて、5円か10
円を持って子供たちが買いに行かされていたそうだ。また、暖をとるときには
木の根を掘って乾かしたものを使っていろりで火をおこしていた。しかし昔の
若者は火にあたって暖まることは少なく、大きな石をかかえて力
くらべをしたり、すもうをとって体を鍛えたり、青年組織に入って奉仕活動を
行ったりすることが多かったようだ。

 

5.3水道

昔より高串は水不足で有名だった。そこで岩本さんが子供のころは水汲みが日課
になっており、毎日学校から帰っては井戸水を汲みに行き、大きな甕に溜
めていたそうだ。井戸水は一軒家の裏、三軒家の裏、そしていけごうの裏
にあったほか、「水のれい」というところが豊富な水で有名で、飲料水
はもちろん、網を染めるときにも利用していた。なぜ網を染めるかというと、
昔は網の材質が綿であったため、毎月染めないと網が腐ってしまうからだ。染料
にはたくさんの水を必要としたために、そこの水はありがたかった。渇水期には
福島北ビラや鷹島タケダン等から船で水を運んでいた。この苦難を除くために
村議会員の吉田清吉氏が「高台に貯水池を作り新田川の余り水を貯え、それを
浄水して各家庭に供給する」という計画を立て、昭和29年に簡易水道工事が始
まり、翌年に完成した。これにより高串区全家庭、新田、新木場、上ヶ倉等6
00戸が完全給水となった。また、保健衛生や消防消火の面でもかなりの向上
があった。昭和48年の火災では水道水利用の消火栓のおかげで1戸焼失で済
んだそうだ。現在では白糸滝の滝の水を利用していているが、水の安全が保障
されているのは肥前町の中では高串だけである。農家のほうではまだ井戸水を
利用しているところが多く、水道水と違って塩素殺菌をしていないため、年に
一度水質検査が行われている。

 

5.4交通

まだ道路が舗装されていないときは、物を運ぶのにトロッコを利用
していたそうだ。岩本さんは「子供のころはいたずらしても逃
げたらそれですみよったけ、よういたずらしよった。トロッコに乗って作業の
邪魔もしよった」と懐かしそうに話していた。大正15年には定期自動車の
「船岡自動車」の運行が始まり、唐津上ノ山間を1円20銭(今で言うと約
860円くらい)で走っていたそうだ。私たちが高串まで来るのに利用した
県道は昭和6年に完成したものだ。昭和24年には伊万里湾定期旅客船により、
伊万里まで3時間で行けるようになった。高串区内の道路のコンクリート舗装
が始まったのは昭和39年になってからだった。

 

5.5住居・墓地

高串区内の住居はほとんどがわらぶき屋根だった。そのわらぶき屋根を修繕
するわら屋のことをソソクリとよんでいた。各住居には必ずかまどがあり正月
には重ねもちをあげたりろうそくを立てたりして祀っていたそうだ。炭を焼
くことはほとんどなく、木炭を買って使うことが多かった。(肥前の農家では焼
いているところもあった。)また墓地はほとんどが土葬で、西ノ谷に共同墓地
がたくさんある。密集しているため他人の骨を掘り当てることもあった。
岩本家も親戚の墓が山の上のほうにあり墓参りが大変であるため掘り出
してまとめているそうだ。

 

5.6食事

基本的に主食は米100%などというぜいたくはできず、米と麦が1対1
でたまに芋を混ぜることもあった。麦も自家製でゆがいて炊いた後、ご飯と混
ぜて食べていたそうだ。岩本さんは昔なじみの麦飯が消化
にもいいということもあって好物だとおっしゃっていたが、今ではあまり炊
いてくれないらしい。おかずは半農半漁で自給自足であるため困
ることはなかったし、それ以上の食事をあまり望むことはなかった。お祝い事や
行事があるときに鶏の肉をごちそうとして食べていたが、おなかの空く少年時代
にはこっそり鶏をゆがいて食べたりもしていたそうだ。山の幸としては、
わらび・ぜんまい・いたぶ(いちじくのような味のくだもの)・つわぶき(黄色
の丸い花をつける植物)・じねんじょ(山芋)・いっすふ等が豊富にあった。
そのため山は子供のときの遊び場にもなっていたそうだ。

 

5.7病気

高串区内には代々医者である吉岡家の吉岡医院があったため、病気
をしたときにはそこで診てもらっていた。伝染病がはやったこともあったが、
増田神社のおかげで広まることもなかった。隣の集落では赤痢が流行ったが、
高串では流行らなかったのもこのおかげと信じられている。昔は行商人として
越中富山の薬で知られる富山の薬売りにもお世話になったようだ。現在では
昭和45年に竣工された草場医院と吉岡医院が高串での主な病院となっている。

 

6.青年時代

結婚前の若者はみな青年宿(わっかし、わっかもん)とよばれる宿で、寝泊り、
勉強、いたずらをしていた。規律はあまり厳しくなく、日常生活の一部
になっていた。この頃の青年の遊び・楽しみには以下のようなものがあった。

力石大きな玄武岩を持ち上げて力試しをすること。当時はお宮に2個
あったが今ではどこにいったかわからない。

いたずらなし、干し柿、すいかを夜中に盗んで食べていた。今では犯罪行為
になるかもしれない。

犬をたべる炭坑では赤犬に残飯を食べさせて大きくし、首にロープをまいて高
いところに連れて行き、首を絞めて殺して食べていた。

よばい夜にこっそりと女のところに行くのだが、家の人も見て見
ぬふりをしていた。これが縁になって結婚
するということもしばしばあったらしい。だから結婚はほとんどが恋愛結婚。
舞踊や劇をして写真に撮り戦場に送ったりすることもあった。

けんか炭坑には映画館があり、よその村の青年が観に来
ることがありけんかもよくあったそうだ。炭鉱の青年のけんかはすごく、警察官
が来ては「上着を脱いだら、警察官じゃなか」
といってかかっていっていたらしいが、彼らは炭坑の道具できれいに研いだ
刃物を持っていたらしく、手に負えないこともあったとか。ちなみに岩本さんは
店の手伝いや学校の仕事、労働組合での奉仕活動などを主に行っていたため、彼
らとは異なり、映画館にも行けなかったそうだ。しかし、戦争前で青年団が多
かったため人とのふれあいの場所は多かった。

もやい風呂共同風呂のこと。年上の人と体を流しながら世間話ができるいい
機会だった。

盆踊り青年団の楽しみの盆踊り大会。女性の下着を着て変装して踊
ることもあった。岩本さんはやりたいと思ったら率先してやられる方で、
やぐらを作って子供たちに踊りを教えたり、キャンディーをあげたりすると子供
たちはとても喜んでいたらしい。盆踊りのとき欠かせないのが口説歌(盆踊
りの際に用いる民謡・流行歌で叙事的な長編の歌)。この口説歌は誰
でもできるわけではないので岩本さんは愛好家と家で輪になって歌を録音し踊
りに備えたそうだ。農協では夜中にやかましいと怒られたこともあった。今でも
作ったやぐらは残っているが、指導者が変わり子供も減少し時代の流れで今
ではもう行われなくなってしまった。

 

7.自然災害

7.1台風

台風の被害はひどかった。昭和17年の台風では、当時は海岸に家が立ち並
んでいたため家の軒下に水が流れ込み大変な被害を与えた。岩本
さんはこのとき、兵隊で、9月1日に入隊だったのだが一日延期して復旧作業を
行ったそうだ。また、岩本さんが高串区長であった昭和62年には、台風12
号で住吉神社と増田神社の本殿が吹っ飛ぶという大被害があった。区内の被害は
瓦の飛散だけで家屋崩壊はなかった。人々は住吉神社と増田神社のご加護、身代
わりだと信じた。さらに平成3年には私たちの記憶にも残っている、台風19号が
接近。家屋の被害はまた少なかったが、増田神社の神木(樹齢推定数百年)が
倒れ、境内より落下し地蔵院前に倒立の状態になり、処置には区民が総動員
した。台風の暴風雨による海難事故もたびたび起こった。昭和6年には大福丸、
神力丸、福神丸が対馬に魚釣りに行き(まだ網ではなく魚釣りが主だった。)
それを売りに博多に行く途中に18名が遭難した。この頃は雲の動きを見て進
むしかなく、時化を読み間違ったことによる事故である。この事故には面白い
話が残っている。沖で住吉神社から大きな火の玉が出るのを見た船だけは助
かったのである。今では、天気予報や携帯電話の普及により、海難事故は少
なくはなっているが、やはりみな緊張感を持って海に出ているのだそうだ。

 

7.2伝染病

高串地区での伝染病は幸いにも少なく、これも増田神社のおかげとされている。
8.宗教参照)増田神社創設のきっかけとなったコレラ以降はスペイン風邪が
一度大流行し死者10名を出したが、隣の部落で流行った赤痢も流行
ることなく、神のご加護の重さがうかがわれる。

 

7.3防災・衛生

平成2年に高串少年消防クラブが結成され、鼓笛隊を通して防火意識を高め、冬期
には「火の用心」といいながら区内を巡回している。環境衛生のため、年に2
度消防団が海水で水路や溝を洗うのも毎年恒例の行事となっている。

 

8.戦争災害

岩本さんは戦争でたくさんの友人を失った。戦地から引き上げる途中で亡
くなることもあった。当時は二十歳ぐらいで結婚している人も多かったため
未亡人になった人もたくさんいた。初めは国が慰霊祭を行っていたが、途中
からできなくなったため遺族の世話人会が結成され、戦没者慰霊祭が行
われるようになった。その世話人会に岩本さんも入っていたが、その仲間で生
きているのは私だけになってしまった、と笑いながら語るほどとても85歳とは思
えない元気ぶりだった。慰霊祭では米をついて酒をつくったり、「おりじめ」
という田舎料理を作ったりして遺族の方とふれあった。位牌は青年クラブに
持ってきて拭いてかざっていた。兵隊に行くときには増田神社の幕を小
さくちぎってお守りとして持っていくこともあったそうだ。

 

9.祭り・お祝い

雨乞いの祭り:耕作の神様がいるといわれている八坂神社に、農家の娘
さんたちがはでやかな着物を着て参拝に来たり、出店が出たり、
すもうをとったりして、にぎやかな祭りであった。農作物の出来不出来は生活
を大きく左右するので、みな非常に気を使っていたそうだ。しかしこの祭りも今
では神主さんが御祓いをするだけになってしまった。

さなぶり:田植えの後の打ち上げ会のことで、いわゆる慰労会のようなものだ。
感謝の気持ちをこめて、そうめんや鶏の炊き込みなどの料理を食べていた。(豚
や牛はほとんど食べなかった。)

子供のお祝い:女の子の3月の節句、男の子の5月ののぼり以外に、10
にもちをついて与える「いのこ」がある。誕生日のことは「しちや祝い」
という。

牛の神様(ぶぜんぼ様)の祭り:農作業を行う牛を海まで連れて行って泳がせる
祭り。このとき米の粉で作った団子を海に投げて供養していた。当時は食料が
豊富でないため、子供たちはその団子を泥まみれになりながらももぐって食
べようとするため、大人たちはわざと遠くではなく近くに投げて、子供たちを喜
ばせていたそうだ。

 

10.宗教

<増田神社>

明治28年の夏、高串にコレラが流行った時、当時27歳の増田敬太郎巡査が
防疫指導のため現地で勤務した結果、自らコレラに感染し自分の命を犠牲にして
村人を救った。そこで人々が祀りを立ててお祭りをしたのが始まりだ。それ
以来、地元の守り神として、また病気の方々や全国の警察官から「巡査の鑑」
として敬われてきた神社だ。増田神社では毎年夏祭りが例祭として行
われている。

<住吉神社>

住吉神社では毎年秋に漁船のパレードをする。網船に神輿を奉載し百余隻の
漁船は大量旗を掲げ港外を三巡して海上安全と大漁万足就受の礼拝祈願をする。

<八坂神社>

全国的に有名な八坂神社のことで、田の神様として崇められている。増田神社、
住吉神社とともに三神社とよばれ、毎年行われるお祭りは時代とともに語り継
がれ、欠かされたことはない。

この他にも漁師の神である金平様・えびす様、牛の神であるぶぜんぼ様、
薬師様と神の信仰は篤いようだ。

 

11.村おこし

高串では現在過疎化が進み、さまざまな村おこし政策が行われている。平成に
入り、子供の無料遊び場『花と冒険のピーターパン島』を設立したり、
毎週日曜朝7時から海産物や農産物、その他加工品を廉価な値段で販売する
『ほいきたの朝市』を開いたりしていた。これらは岩本さんが区長のときに考案
されたものだそうだ。新聞・テレビのPR効果もあり町外からの参加者もいて
評判にもなったが、途中の道路が悪いなど問題点もあり、村おこしの難
しさがうかがわれる。ちなみに『ほいきたの朝市』の由来は肥前町の星賀・
入野・切木・高串・納所の頭文字をとり町民の協力と意識向上を願うと同時に
町外のお客には「ほいきた」という語感の親しみで肥前町の印象を高めるために
岩本さんが名づけたそうだ。

 

12.これからの高串

漁業が不振になり、今はイカ釣り中心だが費用はかかるしこれだけで続
けていくのは厳しい。仕事がないので今の漁師以降の世代が高串に残って跡を継
ぐことはまずなく、若者たちは都会に出て行くだろうと岩本さんは頭を悩
ませていた。地域の特産品を売りにしていこうとしても話に耳を方ける者
もなく、暇もなく、これでは決して成功しないだろう。村を活性化
させるにはみなが体を出し合って、なんとかしようという気持ちが集まらないと
無理だろうと語る。

肥前町は来年唐津市と町村合併することが決まっている。今まで築いてきた
高串の歴史にピリオドを打つのではなく、むしろ再出発のきっかけとし、
これからも誇れる高串にしていただきたい。今回初めて訪れた私たちにとっても
応援したくなる心温かい村として受け取れたすばらしい場所であり深く感銘を受
けた。

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