小川島レポート

はじめに
 1218日、私たちは小川島への現地調査へと向かった。今回は九大の大学院生
であられる石橋先生も同行した。呼子の朝市をたんのうしたあと、1050分発の
定期船に乗って小川島へ向けて出発した。
 20分ほどたって小川島に到着。事前に手紙で連絡してあった、区長である
渡辺孝氏(昭和5年生、74歳)が迎えてくれた。小川島港から歩いて10
ほどのところに位置する「憩いの家」に案内されて、そこで調査を開始した。

1部 地名調査
 調査はまず、小川島に現在残る地名の調査から始まった。私たちはこの調査の
準備として江戸時代の小川島の絵図面に記載されていた地名を用意していた。
しかし、今回の調査で第1の発見だったのだが、現在では江戸時代の地名の半分は
残っていなかった。今回の調査で発見した地名は次の通り。

地名(地図参照)
ナカバト・ホンバト・ソトバト・ヒガシノタケノヤマ・ニシノヤマ・アコラ・アコラシタ・クロハエワン・ユルカフチ
(ゆるいカーブを描いているから)・クブキ・スウダ(水田)・セメントダル
(昔付近で難破した船の積荷であった大量のセメントが流れ着いたことか
ら)・ユルカンクチ(ユルカフチと同
様)・カマブタ・アザメンザキ・イケンシル・ノバラノシタ(昔の小学校の
校庭が野原となっているが、その下に位置する海岸だか
ら)・ヨコゼ・マンザキ・キンノウラ・ホトキサンノシタ(墓所(仏さん=
ホトキサン)の下に位置する海岸だから)・ミズノウラ・イノセ
瀬名(地図参照)
シャーザエゼ(サザエ瀬)・ヤカタ・ヒラセ・ミツボセ(三つの瀬のこと)
発見できなかった地名
エケシタ・アサコウラ・ダモンシリ・カマハタ・チカラサキ・シャウシノタン・
間浦
(アカ浦はおそらくなまってアコラとなったか。黒バエもクロハエワンのこと、
というのが3人の共通した意見。)

あと、イケンシルとは最北の岸の地名。おそらく「行けんしるし」
のことだろうか。(石橋先生説)

2 聞き取り調査
 つぎに、渡辺氏に土地の暮らしやその変化、さらに昔の島の様子について
伺った。
 島の行事として3月、4月にワカメキリが行われる。収穫したワカメを島にある4
つの組合(小川島港周辺を宮組、その北西側を上北組(上組と北組が合併)、
北東側を東組、東側、郵便局以南を浜組と分ける)ごとに干し、包装して呼子
など、各地に配送する作業だ。7月にはウニ取りが行われる。そう言われて思い出
したのが呼子の朝市だ。呼子で聞いたところではイカだけでなく、ウニも名産
であるらしい。これは盲点だった。また、島の祭りとしては7月15日に祇園
さん祭り、72628日になごし(夏越し)祭りが、それぞれ3日間行
われるという。区長と各組の組頭が茅の輪を作り、各家から御神灯を持ち寄って
奉納する祭りだ。
 島ということで、漁業の話も聞いた。まず、漁業権は小川島全体にあり、組
ごとに分けるようなことはしていなかったそうだ。そのため、境界の線引
きはもちろん、境石も置いていないという。漁の方法はイカ釣りと、素潜りでの
ウニ採りやアワビ採り。素潜りの漁をする人のことを渡辺氏は「あまさん」と呼
んだが、驚いたことに小川島では男の人が素潜りの漁をする。女の人は全然
しないらしい。「この場合あまさんは「海女」ではなく、「海人」と書
くのかな」と考えた(藤元)。渡辺氏も現役のあまさんで、15mの海底まで
潜り、1分間のうちにアワビやウニをとるという。
 イカ漁は昔も今も夜のうちに行った。今は電灯だが、昔は練炭で明かりを
取り、イカをおびき寄せたらしい。夜海に出るときにはあまり危険
がなかったそうだ。かなり昔からコンパスが存在したらしい。魚の漁は主流
ではなく、あまさんが島の周囲でカシアミと呼ばれる定置網を張り巡らして、
浜に寄ってくる魚をとる漁を行うくらいだ。ただ1人だけ、小さい網を1人
であげるブリアミと呼ばれる漁をする人がいるそうだ。
 風や潮、特に潮はあまさんには重要な存在だったようだ。小川島では北西の
風をアナゼンカゼ、東風をコチカゼ、南風をハエカゼ、北風をキタカゼと呼ぶ。
キタカゼが昼吹くと夜の海は凪ぐ、といわれている。潮は午前中には東のほうに
流れ、これをミッチオ(ミツシオ)といい、午前中は島の東でウニやアワビを
採った。午後になると潮は西向きに変わり、これをヒシオという。潮が変
わるとあまさんは島の西のほうに移動し、そこでまた漁を行った。漁業権は
小川島全体が1つとして管理しているが、漁の禁止区域はあるそうだ。
ユルカフチとスウダで囲まれた区域はアワビの稚魚を放流しているため、禁止
している。(地図参照)
 今では潜る地点は探知機などで探っているが、昔は山合わせと呼ばれる方法を
行った。陸地の形状をみて今島のどの場所にいるかを確認し、その大きさで島
との距離を測りながらポイントを探したらしい。そのためか、海の名称には独特
のものはなく、陸地の名前をとって(クブキンオキ、スウダンオキなど。クブキ
の沖、スウダの沖の意味)呼ばれている。いろいろな場所で潜るため、海岸に
至る道は無数に存在し、陸の名前が付けられている。(アザメノミチ、
スウダノミチなど)海岸はほぼ磯の状態であり、浜と呼べる場所は少ない。
そのためか、浜での作業はないということだ。ただ、ワカメキリやヒージッキリ
(ヒジキキリ)のときには海岸で作業していたことがあるそうだ。ちなみに
小川島では海のことを磯と呼び、陸のことを丘と呼ぶ。海水浴場も最近整備
されたばかりで(地図参照)、船敷き場の中で遊んでいる。
 海難事故についてたずねたところ、居眠り運転が原因で年に1,2回船が衝突
したり、瀬にぶつかったりする事故がおきているそうだ。やはり夜によく起
きているらしい。原因が車の運転と同じであることが少し面白かった。
 船の修理は小川島にある2つの造船所で行った。木造船は、昔はあったが今
はすべてプラスチック船になったという。プラスチック船の特徴は水を吸
わないことであり、重宝したそうだ。造船所が存在するため、修理はすべて
船大工たちにまかせたという。自分たちでやったことは、船底についた海藻とり
(フノリトリ)と、ペンキ塗りくらいだそうだ。木造船は「チャッカ船」と
言い、マグネットの電気で火花を起こし、それを油に引火させて動力源にした。
 小川島は江戸時代以前のころから捕鯨の街として知られている。渡辺氏の話
では大正15年から昭和18年ぐらいまで捕鯨があり、渡辺氏の父親も山見さん
(高い場所に登って鯨を見つける役。ニシノヤマには当時の山見小屋が
残っており、佐賀県重要有形民族文化財となっている)だったそうだ。鯨が出
るとのろしをあげて隣の加部島、馬渡島などに連絡するとともに、山見さんの1
が山を駆け下りて捕鯨船に乗り、捕鯨に出たそうだ。風が重要な判断要素
となったようで、「今日はアナゼンカゼ(北西の風)やけん、鯨さ見
よろるばい」と言われていたそうだ。今でもミンククジラがよく島の周辺を泳
ぐらしい。
 海藻は売り物としてよく利用した。上にもあげた、3〜4月のワカメキリや
ヒージッキリとはワカメやひじきを包装する作業で、売りに出していた。「売
りよったですたい。1年間に。ひじきは組合で出荷しましたね。」しかし、「今
はもう売れん。」とも言っておられた。現在では、1年間の保存食や他所から来
る人への土産物にしている。
 漂流物も島にはよく流れ着いたらしい。韓国のものもよく流れ着くそうだ。
発泡スチロールが一番多いという。中でもノバラノシタに多く流れ着くそうだ。
一方、人が漂着したことはあまりないと渡辺さんは語った。「昔はいたども、今
はおりません。」どこからかわからないが、薬屋が漂着したことがあるそうだ。
漂流物などをはじめとした、海岸の清掃は組ごとに組合長の判断で不定期に
行う。粗大ゴミは呼ぶ子から2ヶ月に1回、回収に来る。
 島の民俗について少したずねた。小川島では子供が生れて33日目に親戚内で
33日」と言われるお祝いをする。男の子だけ、女の子だけ、という格差はな
い。41歳になるとお祝いをし、正月の2日に田島神社で厄払いをする。そして数
え年で61歳(満60歳)になると還暦のお祝いをする。昔は赤
いちゃんちゃんこのようなものを着て田島神社にでかけたそうだ。今は全員背広
を着ていく。渡辺氏自身は還暦のときには背広に赤いネクタイ
をしていったとおっしゃった。
 漁業の話のあとには、農業をはじめとした島の昔の様子を尋ねることにした。
まず小川島には田んぼが1つもなかった。渡辺氏の話によると生前、100
年程前では水田耕作が行われていたのだが、今は全く行われていないそうだ。
では、何を主食としていたかというと、粟などの雑穀や芋などだという。戦後の
食糧難の時には畑も結構作っていたのだが、今ではわずかしか
残っていないそうだ。このことからも小川島が漁業の町だということが分かる。
しかし、いくら漁業の町でも旱魃は深刻な打撃になるという話を聞いて驚いた。
自然環境の変化は魚の生活にも影響を与えるらしい。渡辺氏の経験としては何度
潜ってみても、一匹も見つけられなかったという話だ。おこもりの形で雨乞いの
儀式を島でやったこともあるらしい。ただ、台風の神事は
行ったことはないそうだ。
 渡辺氏が子供のときは農耕用の牛はいたそうだが、今はいない。そのため、
えさにはかやを使っていたことまでは覚えているが、他の事は何も
知っておられなかった。「牛のことは全然分からんから聞かんがよか()。」
と笑われてしまった。
 主食の保存はもちにしたり、芋がまに収納して行ったが、昔はねずみによく悩
まされたという。今ではコンクリート製になって、ねずみの侵入も防
げるようになったし、ねずみ自体最近はいなくなってしまったので、保存状態
もよいという。衛生状態も格段によくなったそうだ。
 島の暮らしについて尋ねた。電気、水道、ガスが島に来たのは、島々の中
では1番早かったらしい。よく島同志の間では「小川島は島の東京だ」と言
われ、先進的な歴史を歩んできた。電気は終戦後は自家発電をしていたが、3
0年くらい前にとも(供?)から電気が来るようになった。水道もまた、30
年位前に国の補助を受けて加部島から引かれた。同時期にガスも来たそうだ。
それ以前はガスランプで明かりを取り、井戸で水を供給し、掘りごたつで暖を
取っていたそうだ。井戸水にはやはり塩分が少し混じっていたそうだが、慣
れてしまって気づかないそうだ。
 薪は加唐島まで木造船で買いに行っていた。物々交換ではなかったらしい。
玄海町から売りに来ることもあったという。昔は石を並べただけの狭い道を
リヤカーで運んだり、担いでもって来たりしたそうだ。
 行商人も昔は幾人かいた。福岡の柳川からござを売りに来た人がいたらしい。
小川島にも修理をする人は1人いて、箕や鍋を修理していた。今は呼子に出て買
うそうだ。薬は今も昔も唐津から年に1回売りに来る。遠くは富山から
持ってきた人がいた。病気になったら、昔は小川島に病院があり、医者
(
小川島出身)が看病したという。今はその病院はなくなり、医者は派遣されて
来る。歯医者は今も昔も呼子にいて、小川島から船に
乗っていかなければならない。
 青年団は消防団の下に属し、15歳から25歳までの青年たちが皆所属
していた。男だけであり、女性は、昔は「女青年団」を作っていた。今では
女青年団はなくなり、青年団も18歳から33歳までの20人
しかいなくなってしまったと渡辺氏は嘆く。規律はしっかりとしてあり、間違
いをすると叱られたりしたが、祇園さんのときは無礼講となったそうだ。
祭りは楽しかったか聞いたところ、学生時代は楽しみだったと言う。
しかし、「年をとると、盆も正月も来んほうがいい」そうだ。結婚は、親が
親戚内で結婚を決めたそうだ。しかし、恋愛自体は自由で、別の島の女性と結婚
したカップルが1組だけいたらしい。
 戦争のことについて。小川島からもかなりの人数が出征し、19人が戦死した。
小川島自体でも防空壕を作ったり、船が爆撃されたりしたそうだ。
 最後に、村の変化について渡辺氏に伺った。「やはりもう、電気と水道
がきたっとが一番変わった。」と渡辺氏は語る。かつての村の楽しみについては
「やっぱキンチャクアミ時代が景気だったけんが、小川島の人は。けっこう魚
がとれてきたときには各組で製造施設に入れて、電気が夜遅
くまでついていて。終わったときは真っ暗だったとですよ。」と、当時を懐
かしむように語ってくれた。島で生活してきたことの苦しみについてたずねると
「昭和生まれの人はそうなかばってん、大正生まれの人
はきつかったでしょうね。畑を作ったり、飲料水を作ったりと大変
やっただろうけん。」とのこと。島がこれからどうなっていくと思
うかについては、「これからは人口が減る。まあ、老人が増
えるってことですね。島で大きくなったのもみんな東京や大阪に
行ってしまう。」と話してくれた。
 全体を通して気づいたところは、小川島が周辺の島々の中心地
となっていることである。「小川島は島の東京だけん。」と渡辺氏も
言っておられた。当時の小川島の繁栄振りが詳しく伺えたので有意義な時間を過
ごすことができた。(話者 渡辺孝氏)

第3部 地名調査(現地探索)
 食事の後、帰りまでまだ時間があったので、車を借りて4人で島全体
をまわり、最初に聞いた地名がどんな姿をしているかを確認することにした。
(画像のみ別にして送付)

最後に 調査を終えてそれぞれが感じたこと
 離島で暮らしている人々がどのような生活を送ってきたか今まで調
べたことがなかったため、この調査は非常に参考になる有意義なものだった。
冬の荒々しい海を見ているとこの島で暮らしている人の強さを感
じるともにその昔にも思いをはせることができた。また、地名調査を終えて
帰ってきたときに見た島の子供たちの楽しそうな笑い声は島の歴史が育んできた
小川島のすばらしさを感じることができた。どんな小さな場所にも精一杯生
きてきた大きな歴史の流れを感じることができたすばらしい1日だった。(藤元)
 私は岡山県出身であるが、実家は岡山市街地からは外れた所にある。そして、
実家は農家なので、最初小川島に着いたときには(普段福岡市内にいて街だなぁと
思っているだけに)本当に懐かしい気分になった。渡辺さんも丁寧に話
をしてくださり、とても有意義な時間を過ごすことができたと思う。
「島っていいなぁ」と正直に思った。またいつか訪れてみたいと思う。今回の
現地調査で自分自身かなり成長できたと思う。(戸板)
 最後に、お世話になった渡辺さんに感謝したいと思います。本当
にありがとうございました。


藤元正太
戸板将典

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