歩いて歴史を考える
〜神秘の島 向島を訪れて〜
千代田 昭三
中川 拓也
波越 洋平
六本松から星賀港までは約3時間。思ったよりも長い道のりだったが、普段見
ることのない風景や、窓をあければ漂ってくる潮の香りに飽きることなく、胸躍
らせ会話もはずむ。途中、予定外の雨が降り出したが小雨だったのでそれほど
影響は心配していなかった。しかし予想に反し雨はしだいに強くなっていった。
港に着いたのは10時50分、雨と道路工事などの影響で予定よりは大分遅い到着
となり、そのせいで11時発の向島行きの郵便船に急
いでのりこむこととなった。私たちが予想していたのは『郵便船』だけに真っ赤
な船、そこに私たち3人が郵便物とともに押し込まれての厳しい船旅。しかし
船は郵便船といわれなければわからないくらいかっこいい(それは少々いいすぎだ
が・・・)しっかり乗船客が乗るスペースも設けてあり、まわりには休日に釣
りを楽しみに行く人々やおじいさんやおばあさんなどが少なからず乗り込
んでいらっしゃった。現地の人々や釣り人にはこの郵便船はメジャーな交通手段
のようだ。それに片道400円(しかも釣りを目的にする人々にはプラス200
円!!)という思いのほか高い運賃が設けてある。唯一の交通手段であることを
利用した非常にタチの悪い詐欺まがいの値段だとおもう。乗り心地はというと、
非常にスリリング(というか危険・・・)で、油断をすれば落
ちるのではないかと思うほど船は左右に大きく揺れ、時には非常に大きく傾
きながらスピードを出すこともあった。途中海から突き出た岩場(瀬??)で釣
りをしている人たちも見受けられた、向島周辺の海は釣りのスポット
であるらしい。
船旅は約10分という短いものであったが普段経験することのない価値ある10分間
であった。
島に着き、まず驚いたのは切り立つ山々の雄大さ、覗き込めば底が見えるほどの
海水の透明度。この島には都会が無くしてしまった、そして現代人が今最も求
めているものがあった。(少しオーバーな表現かもしれないが一目見た島の
光景に言葉を失ったのは確かだ)
そして落ち着いて周りを見回してふと思う・・・
「平均年齢高っ!!」
10代は私たちのみ。20代、30代、40代、おそらく50代もすっとばし周りの方々
はみな60を超えた人達ばかりであった。
向島の風景
船を降りると、こちらを見ているおじいさんがいるのに気付く。
このおじいさんが今回僕らに話をしてくださる古川繁光さんだ。
繁光さんはいわゆる「海の男」という感じで、漁に出る者に特有の赤く焼けた
顔が印象的だった。繁光さんは私たちに
「九大の方たちかね」
とたずねると島の集会場のようなところに案内してくれた。今日話
をしてくれるのは繁光さんのほかに古川友一さん(島には20世帯ほどの家族
がすんでいるのだが、なんとその半分以上の名字が「古川」なのだ!)という方
がいらっしゃるらしく、僕らはその集会場でしばらく友一さんの登場を待った。
その間にトイレに行きたくなり繁光さんにトイレの場所を尋ねると
「そこの階段を降りたところで海にしなさい」
と当然のようにおっしゃった。多少驚いたが島の人がいいと
言っているのだから悪いことではないらしい。だが前述したとおり向島の海は
非常にキレイだったので少なからず心は痛んだ・・・
そうこうしているうちに友一さんがいらっしゃった。
友一さんも繁光さんと同じように顔が赤く焼けていて「海の男」の貫禄
がたっぷりであった。友一さんは奥の畳の部屋に私たちをうながすと
「何が聞きたいのかね」
と、さっそく話を切り出した。僕の勝手な印象だが友一さんは初め話を聞
きにくることを快く思っていらっしゃらなかったのではないだろうか。私
たちが行くことで漁に出られなくなるのだから当然のことなのかもしれない
が・・・。
そんな風に突然話を切り出されてあせる私たちの横で服部先生がしっかり対応
をしてくれた。
まず服部先生が聞いたのは島の地名について、期待通り島には島人だけに通
じるたくさんの地名があるようで島の地図をもとに細かく教えていただいた。
以下からが島の地名のすべてである。心して見よ!
1 島の周り
1:キタメイソ
島の東部の磯。
2:タテイワ(立岩)
岩が縦にずっとならんでいることから。また、この中にはキシダケ
(岸
岳)の落人(豊臣秀吉に嫁を差し出せといわれ、断ったため追われる身となり、
九州一円を逃げ回った人)の隠れ家といわれる場所があり、たき火
のあとがあるらしい。そのたき火の煙が海賊にみつかって殺されたという伝説
も・・・。
3:ホウキド
島の北部の磯。ここには「ヒヒロガマ」
と呼ばれるところがあり、
そこには昔、朝鮮の茶碗を運んでいた船が沈んでしまって、石をなげると
カランカランと茶碗の音がするらしい。昔の人にはこの音がどういうわけか
“ヒヒロ”と聞こえたらしく、それが由来となっている。
4:ムタ
牟田側にあることから。昔は大量に水が出たらしい。
その水を田んぼに
利用していた。今ではその水源にダムが作られて、島の人たちにとっての大切な
用水となっている。今となってはダムが作られてしまって、島には田
んぼがない。
5:キンザン(金山)
金が出たらしいがほとんど出なかったために儲けはなかったらしい。
残念。
また、ここには「キンザンブツ」といわれる寄り墓
(難破して身寄
りの亡くなった人の墓)があり、夜になると一晩中人の話し声が聞こえるという
噂が。ぶつぶつ聞こえるから“金山ぶつ”らしい。このへんはキャンプ場
となっておりそこに泊まった人たちも怖くて眠れなかったという証言
もあるらしい。
6:ヒグラシワンド
ワンド=湾。船をとめることができる。
7:サキノホキノイワ
何を隠そう友一さんの土地。そこに切り立つ山には水晶があるらしい。
8:クラマ
島の南部の岩場。
9:タキノシタ
この近くにも寄り墓がある。
以下に、友一さん自身が過去に体験
したこの墓にまつわる不思議なエピソードを紹介する。
‐昔、友一さんの知り合いの方の足が突然痛みだした。話を伺うと、
この墓に小便をかけたといっていた。もしやたたりかもしれないと思って、友一
さんが次の日に酒と水をその墓に持っていき“ことわけ”(言い訳)
をしたところ、友人の足の痛みが一気にひいて治ったという。‐
それからというもの、 この墓にいたずらをする人は島の人
からとがめられるようになったらしい。
2 瀬の名前
10:ビワゼ
びわの形をしていることから
11:ムギツキゼ
キタメイソに面した瀬。名前の由来は不明。
12:イガイグチノカミノセ・シモノセ
貽貝(からす貝のでかいやつ)が由来である。
13:メゼ
ホウキドの近くにある瀬。名前の由来は不明。
14:オソガセ
昔カワウソがいたためよく捕まえたらしい。カワウソのことをオソと呼ぶ。
15:トリセ(鳥瀬)
島の人たちは(ヨボセ)と呼んでいた。
16:ハリマゼ
昔の播磨の国の侍である「ハリマヤゲンタ」が由来らしい。この人が何
をしたかは不明である。
17:ナカノセ
学校の前にある。昔、ここに座礁したジャンク船の船員が「なか」という地名
のところに泊まったことが由来である。
18:アカセ(赤瀬)
船に乗っている途中に見えた岩場。釣り人がいた。
3 海との関わり
島の住民の生活の糧となるものはやはり漁業である。漁はだいたいが島の周
りで行われ、ウニや貝類(アワビやサザエ)が主に採れるらしい。毎年2〜3月
にはイルカも島に訪れるということだ。僕らが島を訪れるのがもう少し遅ければ
イルカを見られたかもしれないと思うと非常に残念である。島の人は昔イルカ
も食べたらしいが肉がまずいため今ではほとんど食べないという。それでも捕
まえるのは簡単だと友一さんは自慢げに語っておられた。昔イワシクジラ
もよく島のまわりで見られたらしいが「とる道(とり方)がわからんけん」と
友一さんがおっしゃったように、ほとんど捕ることはなかったという。今
はほとんどクジラが訪れることはないらしい。ちなみに友一さんの話によると
イルカとバンドウクジラは同じ生き物らしい、決め手は肉の味だとか・・・
昔の主な漁はイカ漁だったらしい。イカ漁は夜の海に強い光を当てて行うことで
有名だが、今のように電気がない昔は石油ランプを、その前はハロゲンガスを、
さらに前にはたいまつを海にかざしてイカ漁は行われていた。しかし明
かりのない時代は夜に船をだすのは非常に危険(ほかの船への衝突など)なので
イカ漁が昼に行われていたこともあったとか。現在、漁をしていい区域
というものが肥前漁業会によって指定されてあり、自分の島の漁業圏ならば
イワシ網(網漁)などを行ってもよい。範囲は目印となるような島や瀬を利用
したどこどこ見通しで大まかに分けられている。また、釣りやもぐりならば、
4 島内部 (畑の名前)
ほとんどが個人の私有地であり、共有地は海岸と先祖のお墓くらいらしい。畑
では主に芋や麦がつくられ、それを収穫したあとには綿花を栽培して綿
をつくり、それを使って、自分たちの着物をつくっていた。
19:キュウジロ
20:タカナス
ここが友一さんの所有する山である。灯台の周り一帯。
21:ミチノウエ
22:マキステバ
23:マエヒラ
24:キタノ
もとは畑、昔は牛を飼っていたらしい。牛は飼育するという形
でほかから預かり料
米1俵をもらっていたそうだ。
ちなみに牛の操作方法 ホイホイ→まっすぐ
キセキセ→右に曲がれ
サシサシ→左に曲がれ
クークー→ストップ!!
(べーべー)
25:ササノ
昔は田、水が豊富な土地だったという。ここで少し、昔の食生活
について触れてみる。昔はこの地域に田んぼがいくつか存在し、 島の21世帯中8
世帯だけが田を所有していた。収穫量が乏しかったため米だけでの自給
はできず、漁業の収入でよそから米を買っていた。しかし、畑では芋、麦が主
につくられていたため、そちらのほうを主に食べていたという。このような
食生活は終戦まで続いたらしい。
26:クボ
27:ツジ
お墓などがたっている
28:イエウエ(家上)
島の民家のちょうど上に位置することから。
29:ミヤノウエ
八坂神社の上に位置することから。
30:ミヤシタ
八坂神社の下に位置する・・・のか?位置的によくわからない・・・
31: 向島小・中学校
生徒数は小学生2人、中学生2人で教員数が13人らしい。生徒はかなり
のVIP待遇である。そのため成績はかなりいいとか。
また、この学校の前には「おたよさんの墓」と呼ばれる墓がある。
“おたよさん”とは昔の殿様の娘だったらしく、そのひとが殿様の家老と恋愛
をしたことで島流しの刑にあい、向島にやってきたらしい。最後には打ち首
にされてしまったが、この話は近くに住むおばあさんが目撃しているらしく、
まだまだ新しい話であった。今ではこの墓にはたたりがあるといわれ、島では
大事に扱われているらしい。
5 船について
島という土地の関係上、よその国とかかわる交通手段といえばやはり船
である。戦前は「テンマ船」とよばれる木造帆船を利用していた。風向
きによって帆を動かし、また「ろ」(オール)をこいだりして舟を進めた。帆
の動かし方によっては横風をうけても前に進むことができたり、あまり風に対
して帆が垂直すぎると船が転覆したりと、やはり操縦には幼い頃からの経験
がものをいうらしい。また潮の流れや干満も船を進める上で重要であって、例
えば大潮と小潮では進むスピードが全然違う。大潮のときほど潮の満ち引きが早
くなるため船のスピードも速くなり大潮の満潮時がもっとも最適な出発時間
らしい。干満差は7尺(2〜3メートル)くらいで、大潮の満潮時に出発した
場合、歩くくらいの速さで船が進む。満潮から半分くらい水位が下がると(時間
にして約3時間)、潮の流れの方向が変わり、船が進まなくなるこのことを
「トロミ」(シオドロミ)の状態という。
このような潮や風向きなどをふまえて島の人々は船に乗って各地へ漁に出
たり、島の産物を売りに出たりした。大正から昭和初期ごろの梅雨の時期には
南風(はえ)が強く吹くため、その風に乗って大阪に石炭を売りに
行ったりしたらしい。意外にもほとんどの人が大阪に着
くことができたらしく、昔のそのような技術には驚いた。この石炭売りの仕事
はかなりお金になったらしく、友一さんもこころなしかうれしそうだった。
そのあと、10月くらいに吹く東風(こち)にのって故郷に帰ったらしい。
木造船の修理や製作は大工に任せていて、どのようにしたら水が漏
れなくなるのかと尋ねると、「板をかんなでまっすぐ削るけど、それだけじゃ
アカ漏る(水が漏れる)ばってん、板をぴしゃっとつけて“のこずり”
をしよったばい。」とおっしゃった。“のこずり”というのは、
かんなでみがいた板同士を合わせて、そのわずかな隙間から目の細
かいのこぎりでどんどん上下を磨く作業で、それを10回ほど繰り返
すことによってほとんど隙間をなくして板同士をつなげることができた。そして
最後に板をカンカン叩いておいて、ややへこませた状態でつなぎ合
わせることによって、板が水をすって膨張したときにぴしゃっと隙間が埋
まるようにして作っていた。木造船は木が腐るという弱点があるが、それでも1
0年ほどは使えたという。昔の大工さんはそうとう熟練していたようだ。大きな
貨物船などを作る際は、隙間に“マキハダ”(杉の木の皮)をどんどん打ち込
んで穴をふさいだらしい。また、昔は学校の近くに小山造船場があって、
そこでは大型の貨物船などもつくられていた。機械船が使
われるようになったのは戦後になってからだという。
6 戦時中の生活
終戦のとき、友一さんは小学4年生であった。空襲とかはあまり起
こらなかったが、島には地図の測りだしの基準となる三角点
があったためたくさんの戦闘機が向島の上空を経由して行ったらしい。B-29
なども向島の上空を旋回していたようだ。また、向島周辺は長崎から大阪へ向
かう石炭船の経路となっていたため、よくそれを狙った爆撃機なども見
かけることがあったらしい。福岡空襲のときは島の人間はみんな防空壕に
避難し、時間がたって防空壕から出てみるとものすごい爆発音や閃光が福岡
のほうから見えてとても怖かったという。
7 今ではなくなってしまった俗習
昔は島に結婚をしていない若者の集まる宿である青年宿があり、
そこでみんなで寝泊りをしていたという。多いときには20人くらいいたらしい。
お互い話をしたり、ときにはお酒を飲んだりして絆を深めたようだ。やはり
上級生の力が強く、原則として嫁をもらうまではそこから出
ることはできなかったらしいので30〜40歳になっても青年宿にいる人
もいたとか。結婚はほとんど島内で行われ、許嫁もあったという。ほかの人を好
きになっても、親の言うことに逆らうことはできず、嫌いな人であっても親が
言ったら是が非でも結婚しなければならなかった時代だったらしい。
お葬式は現在も自宅にお坊さんを呼んで行われる。島の各世帯から二人ずつ
夫婦連れで訪れるらしい。宗教は浄土真宗であるという。
また、昔はやはり「よばい」は行われていたらしい。「てんま船にのって
青年宿の仲間とよその島さ遊びに行っとった〜。」と友一さんは意気揚々と
語る。よその島の娘と仲良くなって、結婚することもあったという。ときには向
かった島の青年宿の人たちに見つかってしまい、喧嘩
になったりもしたとのこと。意外なことに、見知らぬ男性が自分の部屋に
入ってきても女性はそれを拒まなかったという。親は娘を早く結婚
させたいために、よばいに気づいていても気づかぬ振りをしたり、娘が成長
すると離れに一人で寝かせるようにしたりしていたらしい。現代とは大違
いである。
8 今回の調査を振り返って
最初は高串に行くはずだったのだが、調査員らの熱い思いのおかげで向島に行
くことになった。天気は雨。しかし海は凪いでいることもあって普通なら漁
にいくところを、私たちの調査のため時間をさいていただいたことに感謝
したい。
向島は島中が磯の香りで立ち込めており、ちょっとしたサバイバルゲームの
雰囲気を醸し出していた。島というからにはなにかと不便だろうと
思っていたが、どうやら慣れるらしい。もしかしたら人と人
とのかかわりがそうさせるのかもしれない。今回の調査も快く引き受
けてくださり人の温かさを感じた。
だが、話を聞く中で私たちの知っていることは皆無に近く、非常に難しかった。
知識のなさと事前調査の怠りに後悔を感じる。
島の周りを歩いてまわっているとゴミが目立った。中にはハングル文字が書
いたものもある。海のゴミはこうして関係のない島に漂流するのだろう。
せっかくの自然が造った風景が台無しで残念である。でもこうしたゴミを捨
てているのは人であり自分たちの問題として受け止めたい。
今回の調査で向島について多くのことを知ることができ、本当に充実した調査
だったと思う。今後の生活に生かしたい。
9 謝辞
今回はわざわざ漁の日程をずらしてもらってまで私たちの聞き取りに応
じてくださった古川友一さん(昭和11年生まれ)と区長である古川繁光さん
(昭和22年生まれ)にこの場を借りて感謝の意を申し上げます。本当
にありがとうございました。