佐賀県東松浦郡鎮西町馬渡島における現地調査

阿部 春加

内田 梨恵

内山 由貴

お世話になった方々

富永 廣信さん(昭和6年生まれ)
富永 信子さん(昭和6年生まれ)


 12月18日土曜日、私たちは佐賀県東松浦郡呼子町に到着した。今回調査
する馬渡島(まだらじま)はここ呼子港から船で45分のところにある。朝まだ
早く、呼子では朝市が開かれている。船が出る時間までまだ1時間半以上
あったので、私たちは朝市を見に行くことにした。そこまでは良
かったのだが、雨が降り出してしまった。雨具を用意していなかったため、ある
旅館の隣で雨宿りをすることにした。「そういえば前回の調査
(熊本県玉名郡三加和町)のときも雨だったね、服部先生は雨男かな」そんな話
をしながら待っていたが、雨は一向にやむ気配を見せない。けれどそんなに長
く留まっているわけにもいかず、仕方がないからそろそろ行こうかと頃合いを
見計らっていたとき、隣の旅館から若いお兄さんが出てきた。「傘
がないんやろ?これ使ってええよ!」と傘を貸してくれた。「私たちよっぽど怪
しかったんだろうね」と笑い合いながらお借りした傘で朝市へ出かけた(お借
りした傘は調査後にお返ししました)。
 雨にもかかわらず、狭い通りには品物を売る人、それを買うかどうかを見定
めている人で溢れている。「はーい!おねえさんたち、ほら見てみて!味見
してみて!美味しいけん!」元気のいいおばあさんが売っていたのはパック詰
めのアジのみりん干し。なかば強引に引き止められ味見をしてみると、美味
しい。「はい、これにねぇ、こんなにおまけしちゃうから!ほらおねえさん、
買って買って!」パックに入れた、というより盛ったという表現のほうが的確
だろう。そのおばあさんの元気と、おまけがいっぱいだなぁというお得感に
負け、買うことにした。こういうことも朝市の楽しみなのだろうか。さらに進
んでいくと、面白いものを見つけた。通りの広場に飾られている
クリスマスツリー。しかしそれはただのツリーではなかった。なんと
「イカツリー」なのだ。てっぺんにはイカのオブジェ、オーナメントは本物の
イカ。「さすが呼子だね」と写真をとった。そんなこんなで、朝市の通りを出
る頃には、私たちは来たときの倍の荷物を持っていた。
 そろそろ船が出る時間になった。私たちは船の待合所で膨れ上がった荷物の
整理をして、船に乗り込んだ。いよいよ出港である。船には色々な人が
乗っていた。馬渡島からわざわざ呼子までピアノを習いに来ているという中学生
の女の子がいた。島では習えないから、と朝一番の船に乗り、30分ピアノを
習った帰りだという。また、久留米から魚釣りにきている人もいた。よく訪
れるそうで、島で1泊するのだそうだ。他にも、乗組員の方が話
しかけてくれたり、45分間様々な人と楽しい会話を交
わしたりしているうちに、あっという間に馬渡島に到着した。
 同船していた方々に「頑張れよ!」と声をかけてもらいながら船を降りると、
富永廣信さんが迎えにきて下さっていた。港を出て、急な坂や階段
をいくつかのぼると、富永さんのお宅に着いた。昔
ながらのたたずまいといった感じの、とても温かい雰囲気の家だ。玄関を開
けると奥さんの信子さんが笑顔で迎えてくださった。時刻はちょうど12時。
「さぁ、まずはお昼ご飯にしましょう。こたつに入って。」と信子さん。
思ってもいなかった歓待にびっくりしたが、お言葉に甘えさせてもらった。
まずは大皿いっぱいに盛られたお刺身。カワハギというお魚で、朝一番に廣信
さんがさばいてくださったのだそうだ。透明な身は新鮮そのものといった感
じで、見た目もとっても美しい。次はアジのかまぼこと野菜の煮物、なんと手作
りのかまぼこだそうだ。そのほか、キンゾウイカのお刺身、ヒラマサという魚の
煮付け、ミズイカの煮付けにアラのお吸い物、ウニ、手作りのお漬物。テーブル
いっぱいに並べられた料理の数々に本当に驚いたが、どの料理も大変美味
しかった。漁業が盛んな島だということで、どれもが新鮮で、日頃自分たちが食
べているものとは全く違った。もうこれ以上入らないというほどお腹
いっぱいにいただいてから、いよいよ調査を開始した。



 初めに、馬渡島にある3つの部落(宮ノ本・二タ松(ふたまつ)・野中)の
範囲についてお話を伺った。この3つの部落の中では、宮ノ本が一番広い。
<廣信さん>:「二タ松と野中はキリシタンで、新村といいますね。あんまり
新村という言葉は使いとうなかばってん。古くは、長崎県の島原あたりから
『マキヤマアリエモン』ちゅう方がね、2人か3人でこっちの方に来て、その
子孫が住んでる。ですからもともと、この宮ノ本がほんな馬渡島のね、人間
ちゅうわけ。」
 角川日本地名大辞典に、宮ノ本(馬渡港周辺)を本村、二タ松・野中(山の
上の方)を新村と呼ぶ、という表記があった。宮ノ本では全ての家が仏教を信仰
してお
り、キリシタンの家庭はない。
 新村に関して、隠れキリシタンという見方もあるようだが、     
<廣信さん>:「隠れキリシタンまではないと思いますけどね。一時は弾圧
もあったみたいですね。秀吉が近くに城(名護屋城)を持っとったけんが。
秀吉はキリシタン嫌いじゃったけん。」 
 秀吉に名護屋城といえば朝鮮出兵。朝鮮出兵に馬渡島が何か関係
していたのか、と伺うと、特に関係はなかったらしい。しかし、富永さん宅の近
くに「8人墓さん」というところがある。出兵に遅れてしまい、出陣出来
なかった侍8人が、秀吉に申し訳ないということで、そこで自害した、という
話が残っているそうだ。今ではそこに小さな小屋が建っていて、祈祷所
のようになっている。


・しこ名
 地図には記載されていないが、土地の人が通称として使っている呼び名(しこ
名)について伺った。
   シロヤマ(城山)
     小高い山の名前。元寇でモンゴル軍が攻めてきたとき、
あるおばあさんがひき臼を投げたところ、モンゴル軍の大将に当たり、難を逃
れたという伝説が残っている。
   コウチダニ
     田んぼの名前。
   オガワ(小川)
     河内川の下流。今はダムが出来ている。
 昔は千枚田(いわゆる棚田)もあったそうだ。
<廣信さん>:「ここらへんは案外棚田は美田だったっちゅうかね、いい田
んぼだったですよ。130枚くらいはあったかな。川の通っとる区域
はほとんど田んぼがあったね。」
 しかし今では田んぼがほとんどないそうだ。国の減反政策で、米作
りをやめてしまった。ただ1件だけ、100haほどの田で米作りをしている方
がいるそうだ。
 農産物に関しても、一時期甘夏かんをほとんどの家で栽培していた。しかし
輸送の問題で出荷するのが大変なので、全部やめてしまったらしい。廣信
さんが見せて下さった本(村の歴史や慣習を書いた本で、昭和10年に発行
された)によると、甘藷を96町(約97ha)、米を22町(約22ha)、他
にも大豆・小豆・麦などを栽培していた、という記録が残っている。しかし今
では特に農産物もなく、ほとんどの家庭が漁業で生計をたてているそうだ。
<廣信さん>:「今は女の人は楽ですよね。ここはね。昔は稲とか麦とか作
るときはね、ほとんど女の人が働きよったばってん、今は漁師は男
ばっかりじゃけん。」
出稼ぎに行くことも出来ず、女性の仕事はずいぶん減ったということだ。


・海にかんするしこ名
   イカズチ
     瀬の名前。地図には「雷瀬」と表記されている。
   オオセ
     瀬の名前。
   イサキゾネ
     イサキ(魚)が多く生息していることからついた名前。周囲の水深
は50〜60mくらいだが、ここは一番浅くて、8mくらいの瀬だそうだ。
   ナガセ(長瀬)
     瀬の名前
アカイワ(赤岩)
     岩の名前。船の上など、海上遠くから見ると、岩が赤く見
えるそうだ。岩そのものが赤いというわけではなく、岩の粘土質がむき出
しになっているために赤く見えるらしい。
   ホトケダニ
     岩の名前。仏さんのような形をしているため、こう呼ばれるそうだ。
   
オオナガサキ(大長崎)
     岩の名前。
コナガサキ(小長崎)
     岩の名前。地図では「長崎鼻」と表記
されている。                  
   シオフキ
     岩の名前。風によっては20mぐらいの波がたつこともあるそうだ。
   ウツゼ(宇津背) 
     岩の名前。
   ナンジョバナ(難所鼻)  
     潮流があるところ。潮の流れが速く、船の運転が難しいらしい。
   メイバノナハ(名馬ノ鼻)
     メバサキ(名馬崎)ともいう。一種の名所。
マツセ(松瀬)
  今は埋め立てられている。近くに松が生えていた。
   ウーガマ
     ガマ蛙に由来?
漁に行くときはこのようなものを目印にして、漁を行っていたそうだ。漁業は、
島の周囲はもちろんのこと、長崎県の相模や五島など、結構遠くにまでも行
くらしい。
<廣信さん>:「山立てもしていましたよ。山立てはね、例えば小長崎から
壱岐の長島を立てたら、その近所に瀬があって、魚がとれるとか。名馬ノ鼻
から、肥前町の納所(のうさ)山を立てたら、どこに瀬があるとか、そうやって
山立てすんですよ。」
その他にもたくさんの山立てがあるそうだ。今ではほとんどレーザーで魚を探
すためあまり山立てをしなくなったが、納所山を立てて漁を始めるなど、今
でも少しは行われているらしい。
 魚の群れを見つけるのも、今ではレーザーで行われているが、群
れはほとんどいなくなってしまったらしい。
<廣信さん>:「今はもう魚群探知機。昔は上の方から見
る、ってあったですけどね。山見って言いますけど、高いところに登って探
すとですよ。昔の船には、やぐらを組んで高いところがあったわけやね。
そしてその上に乗って、『あそこに群れがおるよ』っちゅうことで、船長に合図
して。登ったって5mぐらいでしょうか。『ここよ、あそこに行かんか
い』って。高いところをわざと作ったわけやね。」

 潮の流れに名前は付いていないが、干潮のことを「下げ潮」、満潮
のことを「上げ潮」というそうだ。また、潮によって流れも速さも全く違
うらしい。
 風の名前は、南風をハヤカゼ(はや風)、東風をコチと呼ぶそうだ。他に、
北東の風をキタゴチ(北ごち)・北西の風をアナゼと呼んだりする。

・漁業について
 この辺りでは何といってもイカが有名である。イカ釣りは夜に行われるため、
夜に漁業を行う。昔は天気予報もなく、夜の海には危険がたくさんあった。
そのなかでも一番恐かったのは突風だったそうだ。天気予報のない時代
にどのようにして天気を予想していたかというと、
<廣信さん>:「日の入りに空が赤く染まったら、明日晴れるとか、雲が上の雲
にかかって、流れる雲がこっちに流れたら雨が降るとかね、そういう迷信的
なものですよね。島の人たち、漁師さんたちは全て勘でね。そして新暦は使
わんのよ。旧暦ば使うとですね。旧暦の1日と15日が大潮。
ですからもうほとんど旧暦ばよく利用しますね。」
 カレンダーも日めくりで、今でも旧暦がついたものを利用されていた。

島には禁漁区域がなく、魚の数も多いため、釣りに訪れる人も多い。案外大
きな魚が釣れるそうだ。
<廣信さん>:「海がきれいというわけではなく、やっぱり潮流の関係
でしょうね。今は釣りさんが多かもんね。やっぱり釣りが今ブームでしょ?
ですから島の漁師さんが怒っとうとですね。いっぱい餌をまくから海ん中汚
れてしまうって。」
 馬渡島は昔はフグの本場だったそうだが、今ではもうフグはとれないらしい。
やはりイカが多く、他に青ものの魚がよくとれるそうだ。
 今まで養殖は全く行ってなかったが、今年から島で一口あわびの養殖を始
めたそうだ。島には海人さんが16名おり、3月〜10月まであわび・さざえ・
うになどをとっている。しかし、それ以外の期間は仕事がなく、他の仕事に切
り替えるそうだ。
 イカは年中色々な種類がとれるらしい。夏はアカイカ(スイリとも言
う)・マイカ、冬はキンゾウイカ(北海道ではスルメイカと呼ぶ)・ミズイカ
など。廣信さんによると、アカイカが一番美味しいそうだ。
<廣信さん>:「生で食べるのが一番美味しいですよ。ほかに2月ぐらいから
ササイカていうのがあって、オイカ(雄)とメイカ(雌)がおって、メイカ
にはこどもがいっぱいくっつく。そのこどもが、めんたいみたいな形やけどね、
美味しい。それを湯がいてしょう油かけたら美味しいですよ。」

鯨の話
<廣信さん>:「鯨は昔よう見かけよったですけどね、最近は全然見
らんですね。」
 昔は小川島や名護屋に、主に食用の捕鯨基地があったそうだ。
調査の前日に、博多港から韓国に行くビートルが鯨にぶつかったという話も
出た。ここで、調査員の一人(Aさん)が「鯨を食べたことがない」と
言ったところ、廣信さんが塩鯨をごちそうして下さることになった。(調査後
にいただきました。美味しかったです。)

海藻の利用法
<廣信さん>:「海藻はね、海藻ちゅうても『藻』ってあるでしょ。昔はね、
わざわざ藻採りに行って、全部畑に運びよった。壌土、土の薬、肥やしに使
うんでしょうね。土を肥やすためにね。それで、藻採
りさんがいっぱいおってね。藻採りさんちゅうが、各お百姓さんたちが船を
持っていって、竹を2本ギリギリ回して藻を巻きつけて、そぎとって。それを引
き上げて乾かして、畑の中に入れる。」

漂流物
<廣信さん>:「昔は漂流物てほとんどなかったですね。ところが今はもう、
韓国のペットボトルとかね、ハングルがもう(一同大笑い)。発泡スチロール
とか網とかロープとかいっぱい来ますよ。もうそういうやつがいっぱい流
れてきますよ。」
 あまりにも漂流物が多いので、今では海の日(7月20日)に島全体で一斉に
海岸を掃除するそうだ。
人が漂着したという話は聞いたことがありますか?
<廣信さん>:「終戦後昭和20年か21年にね、馬渡港の向こう側に松
瀬ってあるでしょ。ここは今道路やけど昔は海やったとですよ。ここに
終戦後韓国から引き上げ途中に船が遭難して。18人かなぁ、遺体
であがったとですよ。」
 その遺体を、松瀬あたりに生えていた松を切って、その松で火葬したそうだ。
船の難破、機械の故障が原因だったといわれている。しかし、その時6
歳前後の、兄弟を含む子供3人が助かったそうだ。その中の2人は福岡で何か
商売をしているらしい。この事件のほかにも、遺体があがったことは何度
かあるそうだ。

木造船
<廣信さん>:「木造船に乗ったことはありますよ。ここは木造船
ばっかりだったですよ。」
水漏れすることはなかったですか?
<廣信さん>:「いや、それはしっかり大工さんがね。もう全然漏
れんかったですね。漏れたら沈むけんね(一同笑い)。」
 船の修理は、昔は船大工さんが何人もいたそうで、その人のところで船を修理
したり、新しい船を作ったりしていたそうだ。



・馬渡島
 佐賀県には8島あるが、馬渡島が一番面積が広く、人口も一番多い。詳
しくはわからないが、かなり昔から人の居住があったらしい。
 島名の由来について。
<廣信さん>:「あんまりわからんとよね、いろいろ説のあるけんね。」
説1:かつてこの島を唐津藩の馬の放牧場として使うため、馬がこの島に
渡ったから。
 説2:大陸(中国)から始めて馬がもたらされた地だから。
 説3:院政期に、美濃国馬渡庄の本馬八郎義俊がこの島に流され、その人が
島名を改めたから。
 島内には、石垣で囲んでいる放牧場の跡が残っているが、今馬は一匹
もおらず、野生のヤギがたくさん生息しているそうだ。
<廣信さん>:「ここはヤギが多くてね。もともとは家畜やったわけですよ。
それを殺して食べよった。犬は食べよらんでしたね。ところが、昭和29〜3
0年にかけて、南米に上ん方(新村)が60家族ぐらい、300人か、
いっぺんに集団移民したですよね。その頃家庭におったヤギばほったらかして
行っとうとです。」今でもヤギが増えて困っているそうだ。500〜600匹
はいるらしい。明治時代の始め頃までは鹿がいたが、全部死滅
してしまったようだ。
 農耕には全て牛を使っていたそうだ。雄牛のことを「コッテ牛」、雌牛
のことを「ウノ牛」と呼ぶ。
<廣信さん>:「ここはね、手綱は一本です。右の方につけるとですよ。
ですから          左の方だけをね、「サシ」と言って。左だけ教
えときゃよかとです。前に進めは「ホイ」でしょ。左だけ教えると、右は手綱が
引っ張るけんが、片っぽだけでね。」
 ねずみは出ましたか?
<廣信さん>:「ねずみは今はおりませんよね。昔はおりましたね。
ねずみがね、もうごそごそごそごそと。やけんどこの家でんねずみとり器
があったね。かごで作ったやつに魚とか芋とか団子とかを入れておいて、
ねずみが入ったらぱかっと閉まるようなやつですね。」

島内に、番所の辻(標高約238m)、大山(標高約201m)という山がある。
番所の辻には、江戸時代に見張り所が置かれていた。大山の近くには、ニドコ
という場所があり、大山まで木を切りに行った人の休憩場所
になっていたそうだ。
草切り場はありましたか?
<廣信さん>:「放牧場あたりに切りに行きよったですね。」
山を焼いたりしていましたか?
<廣信さん>:「山焼きは特にないですね。ただ個人では、山は焼
かんですけど、畑を焼いたりはしよったですけどね。今はもう畑ないからね。」
入会山とかありましたか?
<廣信さん>:「終戦頃はあったみたいですけどね、今はもうないですね。畑
とか田んぼとかも入会地のあったらしいですけどね。」
 山を所有している人はいますか?
<廣信さん>:「個人で山を持っている人は上ん方はおりますよ。昔は薪が少
なかったから、私の本家が玄海町あたりから薪は買って、船で積んで
持ってきよったですね。他の人たちは自分で山持っとうのは山から切って。今
はもうどこん山に入ったっちゃ誰も何も言わんですけどね。誰も所有
するもんがおらんけん。今はほとんど薪使わんけんですね。昔は風呂もかまども
薪使いよったけど。」
 炭を焼いたことはありますか?
<廣信さん>:「いや炭は、ここは炭焼きはないですね。木炭は
買っていましたよ。私は以前郵便局におりましたけどね、郵便局で一冬に、
暖房用で40俵ぐらいいっぺんに買いよりましたよ。」
 人口が多いときには、山を開墾して家を建てる人もいたそうだ。戦後の
食糧難の中で、島では何でも作れて食べることが出来た。米が少ないときには麦
と混ぜて食べたりもしていた。混ぜる割合は、半々のときもあれば麦の割合が多
いときもあった。島では今でも山ではつわ(蕗)、海ではひじき、天草、
わかめなどが採れる。グループで山につわを採りに行ったり、共同でひじきを
採って、それを乾かして出荷したりすることもあるそうだ。山にはきのこ類
もあるが、毒があるかもしれないのでほとんど採らないらしい。

・水に関する話
 昔は出水や井戸水のみだった。地面を掘って水を溜めて、みんなで共同で汲
んでいたそうだ。昭和32年にダムが出来、水道が通るようになって、かなり楽
になった、とおっしゃった。旱魃もあったが、個人でお参りに行くだけで、
みんなで雨乞いをした、という話は聞いたことがないそうだ。昔は麦わら屋根の
家が多く、台風の被害も大きかったようだ。



部落の生活はどんなものだったのだろうか。風習や暮らしについて伺った。
・宮ノ本、部落の話
<廣信さん>:「今ちょうどここは65戸ありますけどね、8班に分
かれてますね。1班が7名、2班が7名、3班が10名、4班が8名、5班が9
名、6班が8名、7班が8名、8班が8名おります。人口はもう島全体で60
0人きったとですね、今594人ですか。昭和10年頃は1500人
おったですけどね。最高は昭和29年頃で2100人ぐらいおった。結局、戦争
で引き上げてきたとでしょうね。」
 戦争中に召兵された人は、宮ノ本だけでも30人ほどいて、そのうち10何人
かが戦死されたそうだ。
<廣信さん>:「近所付き合いは多いですね。やっぱ助け合わんとね。昔は
隣保班てありましたね。今は班が出来たからないけれど。部落内では年2回
ぐらい話し合いをしますね。」

 屋号のついている家はありますか?
<廣信さん>:「何軒かありましたね。ヤマイチとか。こんな屋号が一軒かな。
まいっちょ何かあったみたいですけどね。こげんか屋号はありましたね。
商売人の屋号ですね。昔イワシがよくとれた時分に、イワシを煮てから油
をとったわけですよね。それの商売をしたとですね。」
今イワシはとれますか?
<廣信さん>:「もうとれません。幻ですね。今もう食べられんでしょ?
あんまり取りすぎておらんごとなったっちゃろうね。」

・気候
 海の近くは寒いですか?
<廣信さん>:「いや、海の近くは案外暖かいんですよ。暖流が流
れていますからね。ですから。昭和35年頃まで雪が降ってましたけど、その後
ほとんど雪が降りませんね。温暖化なんですかね。夏は暑いですよ。でもここは
断崖ばっかりだから海水浴場もありませんからわざわざプールを
作ってもらったとですよ。島におりながらプールで泳ぎよう(大笑い)。」
 暖房器具が出来る前はどうしていましたか?
<廣信さん>:「湯たんぽとかね、かめに薪を燃やしたあとの灰を入
れたりとか、そうした暖房の仕方がありましたよ。」

・祭り
<廣信さん>:「7月にね、祇園さんていう祇園祭り、10月の第4土日
にくんち祭りていうておくんちさんがあります。」
 祇園祭が夏祭り、おくんちさんが秋祭りに相当するそうだ。おくんちさんは、
唐津のくんち祭りのようなもので、結構にぎわうらしい。大牟田にある刑務所
に頼んでおみこしを作ってもらい、そのおみこしに花を飾って、それを担ぐ。
<廣信さん>:「海神さんの祭りとかはなかですね。ただ、えべすさん
(えびすさん)はありますね。えべすさんのお祭りはないですけどね。ただ、
防波堤の一番先のとこにえべすさんのあってね、拝みに行く人は行
くみたいですけどね。」
 また、えべすさんの他に氏神様が祀ってある。昔は5つの神社(八幡・住吉・
八剣・熊野・山の神)があったが、それが統合され馬渡神社となったそうだ。
しかしこれらの祭りは宮ノ本の部落だけで行う。

・他の部落との交流
<廣信さん>:「最近では他の部落とも交流はありますよ。でも終戦当時、敗戦
してから一時期は本当に無縁状態だったですね。上ん方の人たちは結局、
アメリカさんはキリストさんね、キリスト教だという宗教関係でね、自分
たちが勝った勝ったみたいなことがあったですね。だから学校もね、別
にしたわけですよ。」
 戦後、「海の星学園」というクリスチャンだけの学校が出来たそうだが、
経営難で3〜4年ももたなかったらしい。結局学校は統合され、今では子供
たちは宗教に関係なく同じ学校に通っている。
 
・学校と子供の数
 今では学生数が100人をきっている。でも複式学級ではなく、まだ学年別に
授業が行われているそうだ。高校は島外に出るしかない。船で通う人もいるが、
ほとんどは下宿しているらしい。富永さんには3人お子さんがいらっしゃるが、
全て下宿だったそうだ。下宿料のやりくりも大変だということだった。
高校でいったん島外に出たら、あと島に戻ってくる人は少なく、島では過疎化
が進んでいる。
<廣信さん>:「子供もどんどん減ってますね。私のときは小学校だけでも25
0人ぐらいおりましたもんね。クラスは53人おりましたよ。でもこれからも
間違いなく減ります。過疎化は止まりませんね。働き口がないもんですから、
漁業をする以外ないわけですよ。前はね、漁も収入が多かったから、漁師
になってみようという人も多かったでしょうけど、今
はもうほとんどおりませんね。だけんもうほとんど帰ってきませんね。
だからもうどんどん過疎化になっていきますね。」
どの島でもそうですか?
<廣信さん>:「どの島もそうだと思いますね。」
 他の島との交流はありますか?
<廣信さん>:「学校自体ではあってるみたいですけどね。子供たちは色々
やってるみたいですけど、大人はもうほとんど交流ないですね。」


・子供に関して
 子供が生まれたときに、特別な儀式などを行いましたか?
<廣信さん>:「あったみたいですね。親戚の女性が加勢に行き、産見舞
いとしてぼたもちとか寿司とか作って、親戚の人が見舞いに行くという風習
ですね。他にも、『百日(ももか)』ちゅうとですね、生まれて99日目に餅の
上に尾頭付きの魚ばのせて。酒、魚と供えて。産みの神様と海の神様
をかけてあるとでしょうね。で親戚を招いてお祝いをするっちゅう風習
があったみたいですね。」
 今ではもう行われていないそうだ。

・遊び
<廣信さん>:「ここは島やけど、海に子供の遊び場はありませんよ。大体砂浜
がないもんですから遊んだりは出来ませんもんね、崖ばっかりで。しかし子供
たちは荒磯でニナをとってみたり、そういう遊びをしていましたね。やっぱり山
で遊ぶ方が多いですね。昔はめんことか釘打ちとか。」
 釘打ちというのは、土に五寸釘をさして、それめがけて釘を投げつけ、倒
すという遊びらしい。
力比べみたいなものはありましたか?
<廣信さん>:「ありましたね。棒ひねりとか。竹とか木とかを両方から
持って、どっちが早くねじるかっていうもんですね。それとか力石。丸い石
があって、それを持ちあげたりとか、そんなものはありましたよ。」
強い人がリーダーになったりとかしたんですか?
<廣信さん>:「そういうわけではなかった。でもまぁとにかく力持
ちというのは有名だった。けんかも強いしね。」

・若者の生活
 わっかもん宿はありましたか?
<廣信さん>:「ありましたね。青年になったらね、16か17になったら親元
を離れて。4件くらいありましたよ。自分のグループば作ってね、そこに
行って。」
 わっかもん宿に入れるのは男だけで、そこではお酒を飲んだり、花札や
トランプをしたりして、結婚したらわっかもん宿を出て行くそうだ。わっかもん
宿は、共同生活を営む場となっており、上下関係も厳しかったらしい。
 夜這いはありましたか?
<廣信さん>:「あったあった。やっぱりその頃はね、男はいかんもんじゃけん
(一同大笑い)。昭和25、26年頃まであったっちゃなかかな。夜這いに
行って結婚した人もおらすしね。」
 出来ちゃった結婚のようなものもあったそうだ。
 ものを盗んだりしたことはありますか?
<廣信さん>:「ありましたね。ここの青年は悪かったですけんね(一同大笑
い)。すいか泥棒とか、にわとり取ってきたとか。そして上ん方のを取りに
行く。上ん方しか行かんですよね。まんじゅうを取ってきたりとか。クリスマス
の25日は上ん人たちはみんなミサに行くでしょう。だから家
がからっぽになる。それを狙って。悪さですよね、いたずら。泥
棒っていうより。」
 すいかの栽培は昔は多く、家庭で食べるぐらいのすいかはどの家庭でも
作っていたそうだ。今は何軒か作っている家もあるそうだが、作るより
買ったほうが早いということで、栽培は減ったようだ。

・結婚
 昔の結婚は、同じ部落の中でのお見合い結婚が多かったそうだ。
<廣信さん>:「今はもう結婚も自由にするようになりましたよね。昔は全然
そんなことはなかったですよね。」
 廣信さんと信子さんはお見合い結婚でしたか?
<廣信さん>:「えー、どっちも半分半分(一同大笑い)。」
 当時廣信さんは郵便局で働いていて、信子さんの親戚が近くの郵便局で働
いていた。当直のとき、その方が夜中に寂しくなって、方々に電話をかけて、
それでその方と廣信さんが知り合い、その縁でその方に信子さんを紹介
してもらったのだそうだ。当時島に助産婦さんが足りず困っていたそうだが、
信子さんが助産婦だったので助かったらしい。信子さんは玄海町のご出身で、
おふたりは来年で結婚して50年になるそうだ。

・病院
 昔から、病気になった時には島内に古くからある診療所に行っていた。大抵
のことは島の中だけでまかなえていた。ヘリコプター基地もあり、災害用や
急病人の運搬を目的としている。しかし、陸上自衛隊目達原(めたばる)駐屯地
からヘリコプター基地まで15分ほどかかり、それより船を走らせたほうが速
いらしい。時々、ヘリで県警の本部長が視察に来ることがあるそうだ。

・電気
<廣信さん>:「電気は昭和42年の10月にきましたね。ちょうど水道から
10年遅れでね。ガスはプロパンですよ。電気がくる前はランプ、石油
ランプ。」
 廣信さんは小学生の頃、学校から帰ってきたらいつもランプ掃除
をしていたそうだ。

・人の出入り
 行商人とか来ましたか?
<廣信さん>:「昔は富山の薬売りとか、鍋釜屋さん、茶碗屋さん、包丁研
ぎさんとか来ましたね。なかには観音堂に泊まって、そして商売していた人
もおりましたね。今は柳川の方面からござ売りさんとかは時々来ますね。」
 昔も定期便があったんですか?
<廣信さん>:「一日一便やけどね(笑い)。」
今(一日3往復)の体制になったのはいつからですか?
<廣信さん>:「水道んでけた頃ですから昭和35年頃ですね。」
 呼子の方にはよく行きますか?
<廣信さん>:「もうしょっちゅうですね。でも買い物じゃなくて、役所の用事
で行きますね。」
・唐津市に合併
<廣信さん>:「6町と1村が唐津市と合併します。浜玉町・厳木町・相知町・
北波多村・肥前町・鎮西町・呼子町ですね。」
 合併のメリットは?
<廣信さん>:「私は反対しましたけどね。メリット
はあんまりないみたいですよ。唐津市からは遠いですから、差別的なことが出来
んかなって心配しようとですよ。今は島から町会議員が2名出てますけど、
唐津市になったら、一緒に選挙ですから多分票を取りきらんで議員
もいなくなるでしょうね。」
 唐津市にメリットがあるんでしょうか?
<廣信さん>:「唐津市も財政破綻じゃないですかね。合併によって財源を確保
しようとしてるのかね。一時はよかかもしれんですけど。多分唐津市の借金は
相当なもんですもんね。私はそう思っとうですけどね。」
 これから村の様子も変わってくるんでしょうか?
<廣信さん>:「いくらかはね。でもあんまり代わり映えしないような。」
 昔からあまり様子は変わらないですか?
<廣信さん>:「うん、様子はね。ただ、港が大きくなりましたね。海岸とか
道路とか。ここは昔は車なんか一台もおりませんでしたもんね。車が通る道路
もなかったし。道路事情が良くなって車が入るようになりましたけどね。
ですから上ん人たちは全部車を持っていますね。」
 いつ頃から車が入ってきましたか?
<廣信さん>:「昭和55年ぐらいからですね。」
 ではそれまで山の上の方の人たちは大変でしたね。
<廣信さん>:「そうですね。でも足腰は丈夫になりましたよね(笑い)。」

この村で生活してきて良いところと悪いところはありますか?
<廣信さん>:「やっぱし不便ですね。順調に船が通
えばそうでもないですけどね。だけど台風みたいなときは船が通
わんときがありますもんね。やっぱ不便だなーて思いますね。それ以外にはね、
たいして不便だとは感じませんけどね。交通手段は船だけですからね。船
だけが頼りですから、不安といえば不安ですね。診療所がありますけど、診療所
は小さいわけでしょ。重病人だったら連れていかないかんし、やっぱ困
りますよね。」


 瞬く間に時間は過ぎ、船の出港時間が近づいてきた。すると、廣信さんが
「お茶でも飲んでいかんね」と言って柿と羊かんを出して下さった。前述した
塩鯨もいただいた。そして、もうお暇することにした。港まで送っていただき、
「また遊びに来てください」と温かい言葉をかけて下さった。私たちは感謝と別
れの挨拶をし、船に乗り込んだ。みるみる遠く離れていく馬渡島に名残惜
しさを感じながら、私たちの調査は終わった。
 今回の調査で、非常に貴重なお話をたくさん伺い、新しい知識を得ることが
出来た。それだけではなく、人の温かさに触れることが出来た。呼子では雨も
降り、気温も低く寒かったが、人の温かさに包まれて、無事に調査を終
えることが出来た。 

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