歩いて歴史を考える レポート

田北 健三
 
 私は今回、玄海町小加倉の山口隆男氏に協力を頂き、主に小加倉の農業に関
しての聞き取り調査を行った。山口氏は戦後生まれで、戦前の事は聞
いたことのある範囲で答えていただいたが、戦前、戦中、戦後を経て小加倉
がどのように変わっていったか、その転換期の話を聞くことができ、たいへん
興味深かった。

 <田について>
 田そのものに固有の名がついているわけではなく、田の所在地の地名と、
そこにある田につけられた番号で呼び分けている。たとえば、「牟田の1番」
という風である。また、圃場整理の前後で特に変わった所はないらしい。田の
水は小加倉第一耕地溜や、川(田の所在地から考えて鬼木川か?)から水を引
いているらしい。この小加倉第一耕地溜のおかげで、平成6年の旱魃のときも、
むしろ豊作であったそうだ。ちなみに、山口氏は昭和48年から50年の間に
一度旱魃にあわれたらしい。
山口氏の所有する田の所在地・・・牟田、小前田、鬼木、中駒、長谷、
浅木場、山口、太田、野中
 <農作業について>
 農作業は、共同作業で行われ、やはりユイと言った。ユイは、近所の人や
身内間でおこなわれ、かなり広範囲の協力関係が築かれていたようだ。田植
えの後の打ち上げ会もあり、そこでだされるごちそうを当時の人々は、楽
しみにしていたようだ。また、家畜としては牛をかっていて、オスをゴッテ、
メスをウノといったらしい。操作方法は右の手綱をひいて右に移動させる方法
であった。掛け声は「サッサッサッ」で、えさは残飯や、あぜの草であった。
この草は、田の手入れのときに刈った草であり、干して与えていた。牛を毎日洗
うことはないが、鉄製のブラシで毛をみがいていた。米の保存はカマス(俵)に
入れ蔵に保存していた。このとき裕福な家ではセコという、板でできた櫃に入
れて保存するらしいが、これに入れるとねずみは入れず、米を食われずにすむ。

 <村の生活>
 小加倉にガスがきたのは昭和30年代半ばで、電気は山口氏が幼
いころからあったらしい。水道がくる以前は井戸から水をくみ上げて
使っていた。薪を使っていた時代には、それぞれ各家庭に割り当てられていた山
から、立ち枯れした木や、枝の枯れた木をオノ・ノコで切り出し薪としていた。
一方生木は、各家庭が所有していた炭窯を使って炭にして売っていたらしい。
ちなみに牧草を刈る草刈山も各家庭を単位に決まっており、どちらも共有の山
はなかったらしい。野焼きも行われていたらしく、焼く山というのは決
まっていた。野焼きは昭和35,6年まで行われていた。また、車社会になる前
の村にあった道は、田んぼの道、畑の道、馬車や牛用の土道で、草などが生
えていたらしい。小加倉では、修繕することを「そそくる」とは言わないが、鍋の
修繕をする人たちはやって来ていたらしい。そのほか村を訪れていたのは、お
タエさんやタクハツとよばれる、お遍路さんのような格好をした人々
であったらしいが、小加倉を少し歩いてみた所、小さな小屋に地蔵
のようなものを置いて、「八十三番礼所」などとかいているものを二つ発見
したので、もしかしたら実際にお遍路さんのようなことが行
われていたのかもしれない。病気にかかったときは、吉田内科という病院に
行き、この病院は戦前からあった。食事は、自給自足で(近所との分け合い)米
と麦を混ぜ合わせ、その割合は3:7程度であった。青年団の部屋もあり、規律は
上下関係を除いてそれほど厳しくなかったらしい。青年団で競技として力比
べをすることはなかったが、米俵を持ち上げることを腕力の自慢としていた。干
し柿やすいかを盗むことは、罪とはされず暗黙の了解として若者には認
められていた。よばいやよそからくる若者とのけんかもあったらしい。


 <村の風習・慣習>
 盆踊りや祭りはもうなくなってしまったが、御日待は今でも行われている。
また、死者が出た年には婦人会や子供クラブがカミコ様と呼ばれる祭りを
行う。祭りの参加・運営は平等であった。結婚はお見合い結婚で身内との結婚が多
かった。

 <その他>
戦後、経済が豊かになり村にはいってきたものは車と農機具。
昔食べていたもの
山・・・野イチゴ、ヤマモモ、アケビなど。
川・・・タニシ、ドジョウ、フナなど。
海・・・クサビ、アラカブ、ホリ、メバル、アブラメ、カワハギ、ミナテ
(貝類)など。


 今回協力してくださった山口氏は人生のうちの多くを小加倉で過
ごされてきた。農村で生活することは「不便」、「百姓が嫌いだった」と言う
山口氏が小加倉で生活することを選んだのは家を継がなければならないという
責任感からであったらしい。また、小加倉で生きてきて楽しかったことは
青年団の友達と遊んだことだと答えてくれた。この事から農村に生
きるということは、同じ農村に生きる人々やかつて生きていた先祖との絆を保
つと言うことだと考えた。ただ情報を集めるだけの調査以上に人間や伝統
といったものについて考えさせられた。

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