肥前町(きり)() 

調査者

染矢祐孝

高橋淳一
 
柴田清治さん(以下A)大正14年生まれ、中江義雄さん(以下B)大正15
年生
まれ、柴田政照さん(以下C)は質問に答えてくださった方。

 田舎育ちでですね、昔は車も通らんような田舎だった。今は立派な国道
のおか
げでご予算のおかげで

(前に通っている国道は204号線のことですよね?)
 ええ、はい。

(いつ頃から通り始めたのですか?)
 んー、ちょっと覚えとらんが大体50年前後くらいじゃなかちゃねぇ。

(やはり国道が通ってからは、生活は便利になりましたか?)
 そうですね。それで今、公民館の前んさ曲がっとったんですね。
そしてかり、
中学校の前さんできてかり。そすと、曲川も小学校の下さんまっすぐ、ずっと上
の方
さん曲がりよったんが、まっすぐなったんですよね。

(ところで小字というものは聞かれたことがありますか?)
 あぁ、はい。昔の小字ですね。地籍を調査する時分に、結局、小字という
言葉
を作ってですね。そして地籍を作っときにですねぇえーと、何
というかですね

 そいけん切木が、部落の中に地名があそこ、ここってあるわけでしょ。
その地
名をずっと小さく分けたつが、久留米市内も久留米ん中にいっぱい町
があろうが。そ
れと同じよ。

(つまり、久留米市の中に色々な町があるように、肥前町の中にさらに色々な
小字
(部落)があるということなのですね。)
 はい。ですけん、ここは肥前町切木部落になるとです。
 
(小字はもう今では使われないのですか?)
 いや、今も使うとですよ。地籍を調べるときなんかですね。
それぞれにうちだ
けの図面があるとですよ。個人個人の領土、結局地主ですね。それを分割して
作って
いるわけ。そいけん小字ん中にずっと個人個人の持ち前があるとですよね。
全部共有
地はなかけんですね。ただ道路だけが共有地ばってん。

(共有地というのは何ですか?)
 部落みんなで共有している土地のことですね。だから、それは個人では
使用が
できんとですもんね。

(みんなと共有していく上でのルールはあるのですか?)
 はい。そいで何かしら問題が起きた場合、そこをみんなで話し合
わないけんわ
けですね。
 昭和24年以前には、切木地区に共有地は莫大な土地があったですもんね。
国の
政策でですね、共有地ば持っていかんごとなったですもんね。つまり、共有地ば
個人
に分けていきましたもんね。
 昔はもう、個人んもんって言ったっちゃ、耕作している所、畑とか田
んぼとか
だけが個人んもんで、空き地とか原野とかそういう所はみんな共有地
になっとったと
ですね。

(それでは、昭和24年に国がそのような、共有地を個人に分けていこうという
政策を
始めたわけですね?)
 そうです。それで、(共有地の)一町七反が一人平均で分
けらしたとですね、
各個人に。一町七反より残ったところは、競り買いっていってから、個人に
売ってし
まったもんね。でもこのように分けたもんですから、道が通
らないかんわけでしょ。
道っていうのは、境目がだが(誰が)通ってもよかわけですね。しかし切木の取
り決
めで、三軒は道路として通ってよかって、部落が決めたとですね。それが
三軒道路っ
ていっちょったとが、部落共有がいかんもんじゃるけん、森林共有組
合っていうとば
結成して、その森林組合が管理するようになったつが共有地です。
 結局、個人に分割するでしょ、一町七反がいくらずつって。そしてそこに
通ず
る道路がなかとこのあるとですね。そうするとみんなが要望するわけですね。
自分が
分けてもらった土地まで道路ば通してくれ、ちゅうて。それが三軒道
路っていうとで
す。結局、共有地の中につくってよかっちゅうことになったとですね。
そんだけは差
し引いて、各個人が一町七反ばもつようになったとですね。

(それでは、その三軒道路というのは誰が作ることになるのですか?)
 結局それは自分で作らないかんていうことですね。だけんその関係者
だけでそ
の道路ば作るんですね。

(どのような道路を作るんですか?)
 ただ土をならして、それから木のあるところは切って、石垣を
作ったりなんか
してね。
(話は変わりますが、やはり切木部落内に防風林はあるのですか?)
 はいはい、海ん見ゆるとこじゃけんですね、高かところは。防風林を立
てた
ら、今度はずっと遠かところまで風が差し支えんですね。

(防風林にはどのような種類の木が使われるのですか?)
 だいたい昔は松が多かったですね。今はヒノキとか杉の木とかですね。

(それは植え替えたのですか?)
 いやいや、昔は松が多かったばってん、終戦後すべて枯れたとですね、
松食い
虫で。あれが松の木の皮と実との間に住んでいてですね、それがずーっと増
えるとで
す。どんどん食べていくとですね。それが、ちょうど炭鉱で石炭を
採っとにですね、
鉱内の中の支柱にするのに、鉱木っていって、松の木ば使いよったとですね。
その支
柱に使いよった鉱木の中で松食い虫が繁殖してから、まず炭鉱の周りにある松の
木が
駄目になったわけ。そしてずーっとだんだん広がっていったわけ。なんか、
それが、
炭鉱の支柱が足りんくなったけん松材ば輸入したん中に虫
がおったらしいもんね。そ
いでもうすっかり枯れてしもうたとですよ。松の木は、昔は自然に増
えよったとです
よ、勝手に。そすけん私たちの家んあたりが、そん野っ原に、いま言う共有地の
中に
松の木がいっぱいあったとですよ。それが50年も60年も、もう何かあったら100
年も
せちう松があったわけですね。それを自分たちが採ってきて、ただで家ば作
りよった
とですよ。

(それでは松食い虫にやられなかったのですか?)
 それが、家は松食い虫じゃなくて、シロアリにやられたとですよ。
 鉱木っていうちかり、地盤が下がるけん、窓の枠ば切ってドアを突っ
張ったと
ですよ。支え木ば各地から集めたわけですね。それに松食い虫が
入っとっちゃじゃろ
うと思う。
 おそは外材ば使うようになったですもんね。日本の材料が高かもー
じゃけん。


(色々なものに昔から使っていた松の木が、すべて枯れてしまって、色々と不便
され
たんですね。)
 そうそうそう、そうですたい。あの太かっでん枯
れてしもうたとやけん。結
局、用材になる品物が枯れてしもうたとやけん。虫の入って枯れたら使
いもんになら
んって言いよったな。

(それ以降は、家を建てるためにどのような木を使われてきたのですか?)
 よそから持ってきて、四国あたりに残っとるとば買ってきて家を建
てよったで
すたい。

(先ほど鉱木の話が出てきましたが、この近くに炭鉱があったのですか?)
 えー大鶴炭鉱ちゅうて、この近くにあったとですたい。戦争中は炭鉱に
焼酎や
ら野菜やら売りに行きよったけん。もう、職のなかったけんですね。野菜とか
焼酎、
まぁあれなら米も売りに行きよった。米ごたるは夜中に隠れて、野菜なんかは
朝早う
売りに行きよった。

(その炭鉱で働いていた人は、この村にもいらしたのですか?)
 わりかた多かったですね。で、終戦間際は韓国から来た人が主に働
いたとで
す。いわゆる重労働に日本人が使ったわけですね。韓国が日本の領土
でしたけんね。


(その炭鉱に行っていたときは、どのくらい時間がかかりましたか?)
 やっぱり歩いて行きよったですけんね。2時間
くらいはかかりよったですね。
持っていく人
は、50?T$/$i$$$PN>8*$G;}$C$F9T$-$h$i$7$?$1$s$M!#$G$bC:9[$KCe$$$?
ら、そ
50?T$N?)NA$,$?$A$^$AGd$l$F$7$b$&$F$+$i!"M>$k$C$F$3$H$O$J$+$C$?$G$9$1
んね。
 それから、漁業町の大串ってところにも、そういう風でかついで行
きよらした
ですね。大方、売りに行きよらしたですね。あと物々交換もしよったですね。
それに
昔は、大串にはお諏訪さんのおらしたけん、お諏訪さん参りに大体行
きよったです
ね。マムシの魔よけの神様じゃったもんな。そいけん、そこに参ったら、
あのー、畑
仕事中に食べられんごとね。
 そこんで、なんか砂ごたるとば売っとらしたのは、なんば混
ぜよらしたかね。
大体、ミョウバンごたるとは好かんって言うもんね。大体ミョウバンば砂に混
ぜると
良かって言いよったもんね。
 それから唐津の先の浜崎っていう場所にも行きよった。ここか
5?R$/$i$$N%
れたところにある。

(ここには何か神社があるのですか?)
 そこもお諏訪さんっちって、今でもある。たぶん諏訪神社
じゃなかったろうか
ね。
 そこのは、まさしくミョウバンば(砂の中に)
入っとるっちゅうことじゃっ
た。

(それでは、それほどマムシがよく出ていたのですか?)
 はい、今でん沢山おるとですよ。マムシに食いつかれて、隣部落の人は、
なご
う置いとったら亡くならしたですね。マムシの毒はそげんひどかっです。
(実際にマムシに会ったことはありますか?)
 はい、おります。田んぼん中でん、どこにでもおります。この夏も23
匹殺し
たですもんな。ヘビの中ではマムシは一番恐かっですよ。

(この部落に、マムシとりの名人さんはいらっしゃいますか?)
 最近おらっさんでね。昔は、首ばパッと押さえちかり、
にぎってきよらしたも
んね。一般の人はできんけん。長い竹と鎌で一撃、どこでん構わんけん叩く。
そのひ
るんだ調子に殺すちことばしよった。

(マムシを殺した後はどうするのですか?)
 皮剥いだりなんかして、そしてからですね骨だけにして、それを干して
今度は
それを焼いて食べるわけ。精力剤になるけん良かとよ。

(美味しいのですか?)
 美味しいですよ。少し焼いて、醤油つけて食べると美味しかですよ。

(切木に住んでいる方々は、どんな風にして生計を立てているのですか?)
 今までは、田ん中と畑は麦、菜種、そればっかりでしたね。

(野菜は作らなかったのですか?)
 少しは作りよったばってん、売りに行くっていう人は、いくらか余計に作
りよ
らしたばってん、ほとんど自家用だけだったですね。
 普通野菜は自家用ですよね。まぁ最近は、ところによっては指定
してですね、
農協に委託されてですね。いま唐津市が、農協の方からここ地区はトマトを作
んさ
ここ地区はキュウリを作んさいっちゅうてやりよるみたいですね。
 戦争中まではおおかた、米、麦、菜種とかそんなもんば作
りよったですね。
やっぱり、売れてお金になるけんですね。

生:特攻隊についてなのですが、土浦というのはどこにあるのですか?
B:茨城です

生:では、茨城県まで行かれたのですね?
  そして霞ヶ浦航空軍で訓練を受けられたのですか?
B:そうです。そこが私たち飛行機乗りの訓練所だったのです

生:では、切木からも何名か一緒に行かれたのですか?
B:唐津からは2人です。佐賀からは23名ですね。

生:ところで特攻隊というのはどういうものですか?
B:特攻隊というのは、訓練のときは(特攻隊の訓練は)何もなかったですが、
  土浦を卒業して飛行術練習生というのになって飛行機乗りの技術を6ヶ月
習って
  そこを卒業して実用機に乗るわけです。それから実施部隊、つまり戦争に
実際に
行く部隊に入るのです。
A:そこに私たちが卒業した頃特攻隊ができたんです。

生:やっぱり最初に入隊した時から特攻隊に入りたいと思っていたのですか?
B:いえ、そんなことはないですよ。戦争の時は飛行機が一番の武器
ですからね。
A:だから飛行機乗りに憧れてたんですよ。
B:私たちの頃は全国から飛行機に乗りたいという志願を募って、その中で
操縦士・
通信士・機関士という風に分かれてですね、
  お互いに飛行機に乗ってその仕事をしてました。
  輸送が一番需要があり、気象条件の探索や、敵を探したり、陸海軍の行動を
見た
りが主な仕事でした。
  あとは飛行機同士の戦闘ですね。

生:やっぱり、そういうのも体験されたんですか?
B:いや、私たちは若かったのでしてません。空中戦というのは難
しいですから。

生:ではどのへんまでやられたのですか?
B:私は訓練まではしたんですけど、病気になってしまったんですよ。
  ラグビーをやってたんですが、それで無理をしたもので・・・。
  それで別府で治療したのですが、治るまでに半年くらいかかりましたね。

生:その間どういう気持ちでしたか?
B:やっぱり早く戻って戦争したかったですよ。
生:でも、戻ったら死ぬかもしれないじゃないですか。
B:戻ったらちょうど負け戦でしたね。私が戻ったときは私が乗る飛行機
がなかった
です。
  だから筑波山のふもとに秘密飛行場があったので、そこで訓練してました。

生:じゃあ、敵機がいないときに訓練してたんですか?
B:そうです。

生:その時は早く攻撃したかったですか?
B:そうですね。その時日本はどんどん負けてて、しばらくしたら原子爆弾も落
とさ
れて・・・。
  私はずっと逃げてましたよ。

生:戦時中はどんな感じでしたか?
A:戦時中は軍事教育ばかりでしたねぇ。
  戦争には行かなければならない、行かない者は非国民みたいな。
  だから女でも竹やりを持ったりしてた。
生:でもそういうのって、合わない人にはキツイですよね。
B:今は北朝鮮がそんな教育をしてますけどね。
A:国際主義でしたね。軍事教育ばっかりで。

生:戦争が終わってからは、そういう教育はなくなったんですか?
A:はい、終わったとたん全くなくなりました。それで民主主義の教育に変
わりまし
たね。

生:戦争が終わってから、また仕事を探さないといけないじゃないですか。
  戦争が終わってからまず何をされていたんですか?
A:食料がなかったから、まず食料を作ってました。

生:それは農業ですか?
B:そうそう。農業。
生:じゃあお二人もまずは農業をしたんですね。
B:私は苦労したんですよ。水田や畑を兄が遊んで
売ってしまってたんですよね。
  だから私は商売をしてました。食堂で働いたり、いろいろしてましたね。

生:農業をする時って、牛や馬を使ってたんですか?
A:牛ばっかりです。今は食用しかいないですけど。

生:今も食用ならいるんですか?
A:私は5頭飼ってます。親を買って子供を生ませて、10ヶ月くらい育ててから
売っ
てます。

生:牛の呼び方で、雄と雌で呼び方が違うというのはあるんですか?
A:今は生まれてからすぐ名前も付けてますね。農協に登録
しないといけないので。


生:登録しないといけないんですか?
A:BSEがでてからうるさくなりましたね。

生:今はこの辺で結婚する時に、仲人さんがいるんですか?
B:今は恋愛結婚ばっかりですね。

生:お二人はお見合いとかですか?
A:私たちのときは仲人さんがいましたね。

生:仲人さんって、なぜ間につけるんですか?
C:前は家と家とのつながりだったからね。
B:昔は難しかったですね。比較するわけですね。お金とか。

生:比較したのはお金だけだったんですか?
A:格式とかいろいろありましたね。

生:仲立ちの人はどういうときに必要になるんですか?喧嘩した時とかですか?
B:夫婦仲が悪くなった時とかですね。
A:離婚のときは仲立ちさんが心配しないといけないわけです。
B:市役所に行ったり、裁判所に行ったり、全てが任せられますからね。
生:でも二人しかわからないことってあるじゃないですか。
B:仲立ちの人はいろいろ調べるんですよね。家のしきたりや家族構成とか。
  そういうのを調べて、いいと思ったら紹介するわけです。
  だから離婚の時とかは調べ方が足りなかったということで、仲立ちの人が
責任を
取るわけです。
A:でも男のほうは自分にとって都合のいいことを
言ってもらわないといけない。
B:そう、少しは嘘をつかないといけない。
  でも離婚とかになったら仲人が責任をとらないといけないんですよね。
A:相手からお金をもらってこいと言われたりね。
生:じゃあ責任重大ですね。
B:だから最近仲人はあまりいないですね。

生:ところで、夜這いとかありましたか?
A:戦争中の娯楽が無い時にはありましたね。

生:相手の娘さんは知り合いですよね?
A:知り合いの時もあるし、知り合いじゃないときもありました。
  知らない人の場合「どこの人だい?」と聞かれるので、どこから来たとか言
うん
ですよ。
B:そういう時は嘘を言わないといけないんですよ。
A:相手を怒らせたらいけないのでね。
  まぁ夜這いは娯楽の1種だったんですね。
生:男を見せるみたいな。
B:度胸試しですね。

残念ながら録画することはできませんでしたが、その後も1時間ほどお祭
りについて
のお話などを聞くことができました。


【感想】
初対面の方に突然お話を聞くということで緊張していましたが、面白い話
をたくさん
聞かせていただいたので、楽しい時間を過ごすことができました。
私が一番印象に残ったのは、戦時中のお話です。なかなか聞く機会がないので、
とて
も勉強になりました。そのお話の中で驚いたのは、戦争したかった、攻撃
したかった
ということです。
やはり戦時中の軍事教育が影響しているのだろうと思いますが、そんな風に国民
をマ
インドコントロールしていたのは恐ろしいことだと思います。今後
はそんなことが起
きないような、戦争が正当化されることがないような社会になってほしいと思
いま
す。そのために自分にできることはやっていきたいと思います。
協力していただいた皆さんには本当にお世話になりました。この場を借りて深
くお礼
申し上げます。この貴重な経験を無駄にしないよう、役立てていきたいと思
います。

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