神集島レポート
姥真奈美
末吉 彩
12月18日(土)、あいにくの雨。私たちは
て足を踏み入れた。とても静かな周囲に、
きた私たちにとっては、とても落ち着き、また神聖な場所のように思われ
た。私たち2人を案内してくださったのは、神集島自治会区長の高崎正幸
さんだ。これから、私たちがわずか1日であったが、神集島で学んだこと
についてつづりたいと思う。
1.地名
(1)神集島
神集島は、ずっと昔万葉の歌の中では小さい島という意味の「狛(こま)
島」と歌われている。しかしその後、狛島の獣辺が木辺に変化して、柏島
となった。その後天皇が現人神と呼ばれていた時代に神功皇后がこの島を
訪れたことから、神が集まった島という字を当てて、「神集島」と呼ばれ
るようになったと学説的にも言われている。
(2)あだな
神集島には21のあだ名(字)がある。カグメジ、後見(うしろめ)、コ
コロセなどである。その中にはいわれがあるものがいくつかある。例えば
白タケというのは、ここの岩盤が白かったことからつけられた。黒瀬とい
うのも同じで、こちらは石が黒かったので海が黒く見えたので黒瀬という
名前がついた。八田(ヤッタ)はその名の通り、8つの田んぼがあったか
らその名がついた。石原は、石が多く石の原っぱのように見えたのでその
名がついたそうだ。しかし、今ではわからないものも多い。
(3)名字
神集島固有の名字は6つしかない。前田、中村、高崎、西元、清水、岩本
だけである。それぞれの名は地名からきた。前田は、田の前にあったから
前田、中村は村の中心にあったから、高崎は高台にあったから、西元は村
の西側にあるから、清水は島の水が集まる位置だから、岩本は周りに岩が
多かったからである。今では、結婚などによりばらばらになってしまって
いるが、もともとはそのような位置にあったそうだ。
(4)自然的地形につけられた地名
まずは光出という少し大きな岩がある。日が昇るとそこに光があたるので
そのように呼ばれるそうだ。神社の裏にはガブロという入り江がある。そ
こにはよくウニをとりに行く。住吉神社のある岬を取り囲むように、海底
には海溝がある。そこは、他の海底よりも一気に深くなっている。そのた
めそこは、キッテオトシ(切って落とし)と呼ばれている。岩本を少し南
下したところに、太鼓岩と呼ばれる岩がある。今ではあまりそのようには
見えないが、昔はまるで太鼓のように見えたそうだ。その近くにはイジロ
ガエという、岩がたくさん集まった場所がある。昔、砂場にたくさんの石
があったりして、そういう状態をいじろといった。そこからイジロガエと
いう名前がついたらしい。ガエは我家と書くのがほんとうで、□□さんガエいこ
かい、というように使う。イジロは浜で砂遊びの時に盛ったり、石を積み上
げたり
することをいう。その先には、厳洞(ガンコツ)というがけがあ
り、自殺の名所となっているらしい。また五人堂と呼ばれる場所があり、
そこには5体の地蔵が祭られている。なぜそれがそこに立っているかとい
うと、昔その場所に5人の人が流れ着いたそうだ。流れついたときまだ彼
らは生きていた。ところが、追いはぎが彼らを竹やりで殺し身包みをはい
でしまったのだ。その怨念が今も残り、そこに行った人は熱が出てうなさ
れることがあるという。島の真ん中には赤土わらという場所があり、そこ
もその名の通り土が粘土質で赤いそうだ。タヌキワラという場所もあり、
狸の巣になっているという。このように、島のあちこちにさまざまな面白
い地名がつけられている。
(5)海流
神集島の周りを流れている海流は黒潮が主だという。それが、島を取り囲
むようにして流れている。海流同士がぶつかる場所として、荒崎がある。
島では海流のことも「瀬」と呼ぶのでそこは荒らせと呼ばれ、地元の人で
も潜るのは難しい。何も知らない島以外の人がそこでおぼれたこともある
そうだ。島を回る海流の向きは一定ではない。季節や時間によって変わ
る。満干の変化に合わせて、まったく正反対にもなるそうだ。
2.歴史的に見た神集島
(1)史跡
神集島は大陸に近かったため、大陸の影響を強く受けた。言葉の中にも残
っていたりする。例えば、「ちんぐ」という言葉がある。この言葉は朝鮮
語で「親友」という意味だそうだ。また島には8つほどの古墳群がある。
カグメジ古墳群、石原遺跡(旧石器・縄文)、学校東古墳群、鬼塚古墳
群、宮崎第1遺跡(旧石器)、八田遺跡(旧石器・縄文)、とのや原遺跡
(縄文)、宮崎第2遺跡(旧石器)である。その中でももっとも大きな古
墳は鬼塚古墳群で、石室などもあるという。海の中に防波堤も存在する。
高さは6〜8m、幅およそ2m、長さは約400mもあるという。普段は
見えないが、天気のいい夏の日には、海の中にくっきりと黒く見える。一
説では、神集島の山の上に在る畑からは貝殻などが出てくるので、神集島
がまだ海の中にあったころに作られたのではないかとも言われている。
また、神功皇后にまつわる史跡も数多く残されている。応神天皇を生んだ
といわれる親子様(おやぶさ)、応神天皇の産湯に召されたといわれる子
濯ぎ川、応神天皇が産声を上げられた産声山(うぶこやま)、全国の神様
が集まって評議された評議岩などである。
(2)万葉集
神集島には万葉歌碑と呼ばれるものがある。そこには、天平8年(736
年)大和朝廷の使節として新羅へ旅立った遣新羅使一行が、日本最後の停
泊地である神集島に立ち寄って詠んだ、7首の歌が刻まれている。
3.海での生活
(1)漁業法
神集島は半農半漁で漁業と農耕の両方を行い生計を立ててきた島である。
男性は海で漁を行い、女性や子供は耕作を行って、ほぼ自給自足の生活を
していたという。現在は農耕はほとんど行われず、漁だけを行っている。
神集島を支えているもっとも大きな漁業の方法は定置網漁である。特に黒
瀬で行われている黒瀬大敷(おおしき)と呼ばれるものがあり、そこには神集島
大謀定置網がある。これには昔神集島のほとんどの世帯が株を持っていたが、現
在では185世帯中165世帯が株を持っている。ここであぶれた人たち
は壱岐の島や島根県などで権限を買って、ここの大敷をモデルとした定置
網を行っていた。もちろん地元の人たちを雇って働いてもらうのだが、島
からも応援が行ったりしていた。そういうことが、島の漁業や生活をより
豊かなものにしていた。定置網漁で獲れる魚の種類としては、ぶり、さわ
ら、しび(本マグロ)などがいる。本マグロ漁で1代を築いた人もいると
いう。さらに年に2、3回クジラがかかったりもするという。神集島はク
ジラの解体が許されている島の1つであり、かかったクジラは解体され出
荷されるという。クジラは1匹あたり500万円近くすることもあり、島
に大きな経済効果を与えている。そのため、神集島にはクジラの神様とぶ
りを持った恵比寿様が祭られている。
神集島で行われている定置網漁で使う導網の長さはおよそ200m、網の
直径はおよそ40〜50mある。昔はさらに大きく、直径はおよそ80m
もあり、昭和30〜40年代までは西日本一の漁獲量を誇っていたとい
う。しかし、年々量は減ってきていて今現在では漁業だけでは生活できな
いので、嫁に来た女性は島を出て働きに出るそうだ。
神集島にはこのほかにも、大きく分けて5つの漁業方法がある。海士(あま)
漁、
底引き網漁、かし網漁(たて網漁)、(一本)釣り、イカかご漁である。
この中でも、海人漁と底引き網漁がもっともよく行われている。海人漁と
は、その名のとおり素もぐりであわびやサザエなどを獲る方法である。み
んなそれぞれいわゆるなわばりのような、たくさんの貝が獲れる自分の瀬
を持っている。海人漁は湾内以外のどこでも行うことができるが、特に学
校後ろや、後見、ココロセ、黒崎などがよく獲れる。海人漁はあわびなど
の産卵期には、1年のうちに3ヶ月ほどは禁止令が出る。底引き網漁も一
般的に行われている方法と変わらないという。かし網漁、一般的にはたて
網漁ではカマス、カサゴ、メバル、ヤツゴなどが獲れる。満干の差などの
影響により魚が移動する習性を利用して、通り道に網を仕掛けて魚を捕え
る。季節によって魚の種類や通り道は変わるので、それに合わせて網の位
置も変えるのだが、昔からの知恵によって位置は決められる。底引き漁と
貸し網漁は港のある湾を除いた場所なら、どこでも行うことができる。
(一本)釣りでは主に鯛を釣る人が、島に3人ほどいたという。しかし3
人ともそれぞれの理由によってやめてしまい、現在は行っている人はいな
い。また神集島は周囲を岩で囲まれているため、地引網漁を行うことがで
きない。そのため浜に近づいてくる魚などは、かし網や釣りによって釣っ
ていたそうである。また、島の絶好の釣りポイントとしては黒岩を教えて
くださった。荒崎でぶつかった海流はいったん黒岩で止まる。そのためプ
ランクトンなどが多く魚がよく釣れるのだという。黒岩には干潮のときに
しか渡ることはできない。
最後のイカかご漁は、その名のとおりかごを仕掛けてイカを罠にかける漁
である。捕えるのはコウイカという頭の丸いイカで、産卵に来るところを
捕獲する。漁を行うには許可が必要で、その漁が始まるとかごを仕掛けた
区域にはしばらく立ち入り禁止になる。1人当たりおよそ200〜300
のかごを流し、2、3週間放置してから回収する。去年は15世帯ほどが
参加したという。
このように紹介してきたが、一人がひとつの漁業だけを行うのではない。
一人で平均およそ3つの漁の道具を持っているという。例えば、海人漁が
禁止期間に入ると、その人はトロール船で釣りに出たり、時期が来ればイ
カかご漁をしたりする。季節に応じて漁の種類を変えることで、漁業をし
ていない期間ができることを防いでいた。
この島では、これだけの種類の漁を行ってはいるがそれでも島民の生計の
半分にも満たないという。
また最近では海草も採れなくなってきている。主な原因は、乱獲と自然の
バランスの乱れである。島自体が水洗化され、当然の結果として汚水が海
に流される。すると、海草が死んでしまい採れなくなってしまったのであ
る。
(2)海での活動
上記のような漁業を行う際十分な漁獲量を上げるためには、自分の居場所
を正確に知らなくてはならない。また、島の周りには黒潮という海流が流
れており、その流れはとても速い。その速さは、高崎さんの例えを借りる
と「本土から島まで泳いで渡れたら、1千万やる。」といわせるほどのも
のだ。また季節や潮の干満によっても流れの向きが変わってしまう。そ
のため常に自分の位置を確認していなければ危険である。気を抜いていた
ら佐賀県の水域を出て、長崎県や福岡県、国境界を越えて韓国にまで入っ
てしまったり、流されて島を囲む岩に船を打ち付けてしまいかねないから
だ。実際島の人間以外の人は、流れを甘く見てもぐってしまい、溺れた
り、船で座礁してしまったりするそうだ。現在では機械化が進み、コンピ
ューターによって衛星通信などにより自分の位置を知ることができるが、
コンピューターがなかった時代は神集島でも山あて(山たて)が行われて
いた。例えば、本土に見える立神と呼ばれる高さ40m程度の岩と、姫
島、小川島の3点を結び、自分からそれぞれの見える位置を探ることで自
分は今島から何mくらいの位置にいるのかをほとんど正確に知ることがで
きたという。また夜になると、灯台の光や北極星やカシオペヤ座、北斗七
星などが目印となる。長年の勘だけが頼りとなるのである。
大正生まれの人たちなんかはよく北極星のことを一番星といった。唯一動か
ない星である。あんとこに、一番星があるけんが、ここはどこだ、といった。
魚の群れを見つけるのにも方法がある。例えばいわしの群れを見つけると
きにはまず波を見る。波が一箇所だけ激しく揺れているのだ。さらにそこ
に鳥も集まってくる。しかし、それがいわしの群れなのかさばの群れなの
かを見分けるのは、漁師の勘である。時期や回遊ルートによっていわしや
さば、さよりを見分けるのだが、長年のサイクルの中でみんな記憶してい
るのだ。また、今でこそ無線機があるので、仲間同士で連絡をとる方法も
あるのだが、昔はそのようなものはなかった。そこで、昔は前もって最初
から目的を持って漁に出ていた。というのは、親の時代からこの時期には
何がどのあたりで獲れると言うシステムを認識してきているので、そろそ
ろこの準備をしないといけないというのが分かっているのだ。さらに、島
には見張りと呼ばれる人がいて、学校後ろや山の上に行って海の様子や雲
のたれ方や風の吹き方をみて、「こん風ははえん風(南風)んごっじゃ。
二日も続いたらくっどね。」と概算計算をした。そして、鳥が飛び立った
りするのを確認すると、みんなで連絡しあって漁に出た。現在でも、より
正確に魚を捕えるために魚探知機を使ったりするが、方法の基本的なとこ
ろは変わらない。いまも旧暦の暦を使っている。潮の動きは旧暦でないとわ
からない。閏月があると同じ月が二回ある。
潮の干満なは大きい。船に乗る時、朝は天井に上り、6時間後はそこに降り
ていく感じ。5メーターの干満差がある。神集島での漁法が変わらない限り、
このやり方はずっと受け継がれていくだろう。
島では、今も昔も変わらず夜の漁も行われている。夜の漁はなるべく月の
明かりのない日に行われている。というのは、魚は夜の暗い水中で船の照
らす明かりに集まってくるので、それを捕えるのだ。そのため、今でも島
では旧暦の暦が利用されている。夜の海で危険なことは、流木などの漂流
物である。今の時期だと大陸側からの偏西風が強いので、そちらから多く
の物が流れてくる。ぶつかってしまうと、船に傷がついてしまったり、網
で引いてしまうと網が破れたりしてしまう。さらに網が破れたからといっ
てそれを海に捨ててしまうと、それがスクリューなどに巻き込まれてしま
い船が止まることもあるという。そのため、夜の海での航行には細心の注
意を払わなければならない。「自分たちで自分たちの首をしめちょる。」
という言葉が印象的だった。
島には船大工もいる。その船大工は図面を書いて自分で木造船を作ること
もでき、現在でも島には4隻ほどの木造船がある。自分の山の木を伐採し
て海水につけておき、それを干して裂いて船を作っていた。昔は1本の杉
の木を船大工のところへ持っていくと、その木から小さな船と交換できる
時代もあった。またこの島で使われている船はほとんどこの島で修理する
ことができる範囲にある。ただ、大きな船になると造船されたところまで
走っていって直してもらわなければならない。
ところが、島の海岸は多くの漂流物で汚れてしまっている。それを清掃す
るのは島民の仕事である。1、2年前までは年1回「クリーンデイ」とい
う海岸清掃の日があった。また何回かは島の消防団を出して、島民をあげ
て清掃をして、集めたごみは海岸でまとめて燃やしていた。ところが、ダ
イオキシンの問題が浮上してきてからそのようなことはできなくなり、去
年から正式に中止した。そこで現在では、神社の周りと海水浴場の周りだ
けを掃除している。また、区をあげて島の清掃をする機会が年に4回あ
り、区役と呼ばれている。主に山道の清掃や生活道路を清掃しており、割
り当てをして、出欠を取り、欠席したら3000円、80歳以上の方は欠
席してもOKという風にして行っている。
4.陸での生活
(1)島の植物
神集島にはアロエが多い。神社の近くなどに大量に生えている。切っても
切っても生えてきて、おまけに切って捨てようとするとまたそこから生え
てくるという。高崎さんいわく「もうどうしようもなか」(笑)また、宮
崎県などに多いウチワサボテンも生えている。さらに、島の人たちが通称
「サボテン」と呼ぶサボテンがある。それがいったい何という種類なのか
は島の人も知らないという。しかし、暖かくなるとそのサボテンがつける
赤い実はとてもおいしくて、まるでストロベリーの味がするらしい。一度
食べてみたいと思った。他にも、ハマユウという花もたくさん咲いている
そうだ。
(2)農業
昔神集島では、稲や麦、とうもろこしやスイカをはじめとする野菜や果
物、大豆などほとんどすべてのものを作っていた。島の下のほうは田ん
ぼ、上のほうは畑だった。田んぼに引いてくる水だが、不思議なことに山
から湧き出る水があるのだという。その水は、どんなに日照りが続いても
決して枯れることはなかったという。昔まだ放牧を行っていた頃は、牛が
その水を飲んでもまったく飲みつくせないほど潤沢な水源だった。それ
は、コウソ辻のところにある。見てみると分かるのだが、とてもじゃない
が大量の水を蓄えておけるような大きい山は存在しない。本当に不思議な
水なのだが、この水がこの島の水田を支えていたのであろう。一説では、
この山の下にある岩盤に形がすり鉢上になっていて、あまり水を溜め込む
ことができないので、それが湧き水として出てきているのではないかとい
う。しかし、それは定かではない。そこからの水は、川というほど大きな
流れになることはないが、溝程度の大きさで島全体に流れている。それを
田んぼの水に利用していた。
田んぼの隅には、「のうしろだ」という、苗を作る場所が各家庭に一箇所
づつあった。苗を作るには日当たりのよい場所が必要なので、島の南側の
サヤンサキという場所によく設けられていた。そこに田んぼを持っていな
い家庭では、実際に家で作られていた。まず、もみを水につけておく。そ
して、もういいなと判断したら、そのもみを、部屋で言うと広さが4〜8
畳くらいのところにまいて苗を作った。そしてそれをそこから、それぞれ
の田へ運んで田植えを行っていた。島の田んぼはそれぞれ2升蒔きとか3
升蒔きと呼ばれていた。肥料としては、牛糞、堆肥、生ごみを発酵させた
もの、灰などを利用していた。灰の売買はなかったが、野焼きなどをして
作られ、そのまま耕して肥料にしていた。灰は良い土を作るために必要不
可欠であった。
島の畑と畑の間には、きちんと区切りが分かるように石が置かれていた。
石は普遍のものだからだ。島では、ほとんどすべての農作物が作られてい
た。唯一作られなかったのは、レンコンである。やろうと思えばできたそ
うだが、レンコンの栽培には大量の水が必要なので作られなかったそう
だ。
島には放牧場がありそこは区の管轄ではあるが、島民が共同で使用してい
る。その放牧場には、誰でも牛を放牧することができた。牛がいたときは
牛が草を食べてくれたので必要はなかったが、今はいないので年に1回2
月の上旬に島の消防団が中心となって、島民を上げて野焼きを行ってい
る。
昔は牛だけではなく馬や羊、豚なども飼っていたそうだ。羊は毛を刈って
その毛を利用した。また豚は出荷したりもしていた。牛は動力として、島
の人たちにとってはなくてはならない存在だった。畑を耕したりするのに
利用したからだ。牛を動かすときにかけた掛け声は「どうどうどう」とか
「おらおらおら」とか、とにかく牛を追い立てるようなものだった。しか
し、あまりに強くやりすぎると牛が怖がって暴れてしまうので、あまり強
くしてはいけなかった。牛を右に動かすときには手綱を右に引っ張りなが
ら「右、右」と声をかけるそうだ。「右」という言葉を理解しているかど
うかはともかく、牛は雰囲気で人間の言いたいことをつかんでくれるとい
う。目的が分かっているので、人間の動作と言葉を聞いて、行動するのだ
ろう。言葉は掛け声としか捕えていないだろう。またずっと買われている
ので、牛に道具を取り付けると、牛は何をすればよいか分かるのだとい
う。ちなみに、赤ちゃん牛のことは「ベベンコ」、雄牛のことは「コッテ
牛」と呼び、雌牛は「ウノ牛」と呼ばれる。雌のほうが貴重であった。人
間のことでも「うちん子はウノばっかじゃ」という風にいったりするらし
い。牛には基本的には1本の手綱をつける。しかし、あぜを作るときなど
慎重な作業が必要なときには2本の手綱をつけて、正確に作業を行う。
昔、耕運機などがなかった時代は、人間よりも牛のほうが大事だった。高
崎さんも、「牛は人間の3倍も4倍もはたらいちょったっでな。」といわ
れ、人間がご飯を食べるよりも先に牛にえさを与えていたという。
5.日常生活
初めて本土から神集島を見たとき、とても近いなと感じた。実際、「泳い
で行けそうじゃない?」と言うほどであり、船でわずか8分くらいだっ
た。そのため、はじめはこんなに近いので本土との交流も多そうなので、
どれほどの固有の習慣があるのだろうかと思ったが、行ってみるとたくさ
んの私たちには慣れないことがあった。それはおそらく、本土との間に流
れの急な海流が流れているからであろうと予測される。
(1)電気・ガス・水道
神集島に初めて電気が来たのは意外に早く、大正8年のことだったとい
う。しかし、はじめはごく少ないお金持ちのところだけでほとんどの家庭
には普及していなかった。そのため、ランプを使っている家庭がほとんど
であった。高崎さんのお話では、初めてテレビが家に来たのは、本土より
も圧倒的に遅かったそうだ。
ガスは昭和40年前後に来たという。使用されているのは都市ガスではな
く、ボンベ式のLPガスである。ガスが来る以前は、薪を使ってかまどを
で料理をしたり、お風呂をたいたりしていた。そのため薪は非常に重要な
資源であった。高崎さんが子供のころは、もし薪を他人の畑で持っていた
りしたら、「その薪はうちんのじゃなかか!?」と激しく疑われていたほ
どで、今でこそジャングルのようになってしまった島も、昔は丸裸になり
ひとつの木の枝も落ちていないほどであった。また火は非常に重要な資源
であったので、人から物をもらったときにはマッチを3本つけてお返しす
るのが礼儀であり、場合によっては3本を5本にしたりもした。
電気やガスのなかったころは、炭も作られていた。作られた炭は炭壺と呼
ばれる大きな壺の中に蓄積されて、防空壕のような穴の中に保存された。
その中は風通しもよく、年中温度が変わらないので、保存に最適であっ
た。一緒に、まきや漬物なども保存された。
公共の水道が神集島にはじめてきたのは、昭和47年のことだった。それ
以前は各家庭に井戸が掘られていて、井戸水を生活用水として利用してい
た。現在でも、6〜7割の家庭では井戸水と公共の水を併用している。料
理には井戸水、お風呂には水道水と使い分けているそうだ。井戸水を利用
する家庭が多い理由としては、水道代の高さがあげられるであろう。高崎
さんのお話によると、なんと2ヶ月で30000円にも達するそうだ。そ
れなら井戸水を利用するのも納得できる。しかし、井戸水に慣れていない
島以外の人間がその水を飲むと、若干塩辛く感じるという。それは、水を
くみ上げる深さが海面よりも低い位置にあるからだ。そうはいっても、神
集島の人々にとっては井戸水はなくてはならない存在なのである。
(2)普段の生活
昔の暖房としては囲炉裏や掘りごたつを使用していた。今では危険と分か
っているが、当時はよく練炭を使っていたという。その場合は、きちんと
換気をすることを忘れなかったそうだ。
島には昔、富山の薬売りなどもやってきたという。季節によってはござを
売る商人など、さまざまな種類の行商人が島へ来ていたそうだ。さらに島
には昔、西村蔵人(くどう)という医師がいたそうだ。もう2、30年ほ
ど前に亡くなられたが、島の医師としてずっと働かれていて、風邪を引い
たりすると、みんな彼のところへ行っていたそうだ。
また島には青年宿と呼ばれる、青年たちの集会所のようなものも2箇所あ
った。そこには島の青年たちばかりが集まり、いろいろな噂話などをして
いた。もっぱらの話題は女の子の話だったという。その当時は「よばい」
が存在した。気になる女の子の家に夜中にこっそり忍び込んで、一夜を過
ごすのである。そのための計画を、その青年宿で、上級生を中心にして話
し合ったりしていたそうだ。例えば、ある男の子がある女の子を好きにな
ったとする。すると、ほぼ全員が力を合わせて、その女の子の好みを聴く
などしてバックアップしていたそうだ。実際、そうして結婚したカップル
もたくさんいるという。そうした「よばい」のことは、親たちにはばれて
いたのだという。しかし見てみぬふりをしていたそうだ。「よばい」をす
るのは、決して自分たちのためだけではなかったからなのかもしれない。
というのは、島では、島民同士が結婚するときは、男の親が「娘さんをく
ださい」などと女の親と挨拶をかわして結婚が成立する。それは、女の親
と男とで話をするよりも、親同士で話したほうが、立場が対等だからだ。
そのときに、万が一断られたりすると親の名に傷がつくのである。それを
防ぐために、前もってお互いの気持ちを確かめ合う意味もあったそうだ。
そのため、よばいをするときには確実に嫁にもらう覚悟がなくてはならな
い。逆に、女が男のもとによばいをしかけることもまれにあったという。
しかしそれは並大抵のことではできない。それなのに、同じ男のもとで二
人の女が鉢合わせしたことがあったという。高崎さんのはなしだが(余
談)。このように、恋愛結婚が許されるようになったのは、戦後の昭和3
0年代頃からだという。それまでは、親同士、親戚同士が結婚を決めてい
て、本人たちには選択権はなかった。
*うちのかーちゃんは大阪生まれ、島まで追っかけてきたから。
神集島自体には、島民同士の身分格差はなかったという。しかし、島の人
間は島の中で結婚することが多く、ほとんどが親戚という状況だった。そ
のため、親戚の数が多い、少ないという点においての格差は確かに存在す
る。何か物事を決めるときに多数決を取ると、確実に親戚の多いほうが有
利だからだ。だが、島の神社の参加は島民や島民以外の人でも平等であ
る。
さらに神集島では、長男が跡継ぎとして非常に大事にされる。例えば、島
のどこかの家庭の長男が生まれると島中の人が総出で祝う。2万円のすしを5
つ、
6つとってお祝いをする。
それに対して次男が生まれたときはまったくもって普通である。ごく近い親戚
に連絡をして、みんなでお寿司でも食べて祝うだけという、いたって普通のお
祝いである。このように、島で生活をする限り長男というのは非常に大きな責
任や期待を背負うことになるそうだ。高崎さんの父は次男であったが、戦争で
長男が亡くなってしまったために家を継いだ。長男を亡くしてしまったときの
悲しみ方は尋常ではなく、また本家でありながら次男が継ぐということに対し
ての不安は大きく、その母は家の中に神棚まで作ったという。神集島での長男
の存在はとても大きい。そういう意味での格差はあったという。
お祝いで一番たいへんなのは厄祝い。男なら31,とか41とか、61の厄が
ある。41が本厄。ブリはキロ1500円,1600円のものを20本とか。
ウニはこうりに入って1500円,1600円のものを50万とか。原価だけで
300万はかかる。名古屋の嫁入りよりも派手。おかえしも車で返したり、テ
レビを2台とか。家内の大阪の実家なんか50万・60万の祝い金、二度ばか
り持ってきた。島の人々の連帯感回のお祝いに250〜300万円くらいのお
金を使い、親戚という親戚はすべてお祝いに駆けつける。そのお祝いの席では
決してけちをしてはいけない。その家の名誉を背負っているからだ。そこで島
の人たちは借金をしてでも盛大に祝おうとする。
島の人々の連帯感のようなものは強い。島以外の人が来ると、すぐに分か
る。よそから来た人とけんかになるようなことはなかったが、少な
くとも、すぐに島じゅうにそのうわさは広まった。高崎さんいわく、それ
はねたみだという。つまり、島民以外の人間に興味があるのだそうだ。現
代では他人に無関心な人が増えているというので、まったく逆だなと思っ
た。
(3)戦争
戦争が神集島に与えた影響は大きい。兵舎という兵隊の宿舎のようなもの
が島には2つあった。島の娘たちは兵隊に野菜などの差し入れをしては、
その兵隊からタバコなどをもらったりしていたという。兵隊たちは一般人
よりも物資が豊富だったのだ。高崎さんのお宅には、砲弾の残骸が飾られ
ていた。そのようなものが普通に島にあると聞くとなんだか少し怖かっ
た。不発弾も残っているのだという。島の沖裏ではたくさんの軍用艦が沈
められたからだ。高崎さんの母は、軍用艦が火柱を上げて沈むところや、
兵隊が目の前で亡くなるのも見たという。ちょうどイワシ漁に出ていたと
きだったので、近くの穴に潜り込んだのだそうだ。島の人間もたくさん戦
争で亡くなったりした。だから、島の人たちは1軒から1人ないし2人は
戦死者を持っているという。「戦争はいやだなって、いまだに私は尾を引
いているんですね。戦争がなかったらもっと何か違ったんじゃないかなと
か。」という高崎さんの言葉はとても重いものだった。
また戦後の食糧難の時代には、やはり野菜の泥棒などもあったのだとい
う。高崎さんのお宅はとても広い畑を持っていたので、盗むほうというよ
り盗まれるほうだったそうだ。高崎さんがその現場を発見したこともある
という。しかし、なぜか高崎さんのほうがいつも隠れていたそうだ。犯人
とはお互い顔見知りであった。その人の家はとても貧しく、土地もないた
め、作りたくても野菜を作ることすらできず、しかし兄弟が7人もいて、
祖父母も抱えており、泥棒しなくては生きていくことすらできなかったの
だという。「その人の家が貧しいのは知っていたからねぇ。鳥にでも食べ
られたと思って見逃してたのよ。実際その人も必要以上にとって行ったり
しなかったしねぇ。」と高崎さんは語ってくださった。今でも、その人と
は交流があるという。その人は今は漁師をして生計をたてていて、何かあ
るたびに真っ先に高崎さんに魚や貝を持ってきては、「あんときは本当に
助けられた。おかげで生き延びられた。」と言って感謝するという。この
ようにお互いが助け合っていけるのも、島ならではなのかなと思った。
食糧難の時代にも、さすがに犬は食べていなかったという。しかし、野犬
を捕まえると報奨金が出るというので、野犬の捕獲は島の人たちも行って
いた。方法としては、待ち伏せをして罠を仕掛けるという単純なものだっ
た。その方法でもすぐに野犬はいなくなったという。
高崎さんの子供時代のお話は、私たちにとって印象深いものだった。子供
の頃は、あそぶ暇もなく仕事をしていたのだという。畑仕事や牛の世話、
魚釣りなど、生活に欠かすことのできない仕事をこなしていた。勉強をし
たくてもできず、山に仕事に行っていた間に勉強をしていたそうだ。まさ
に二宮金次郎である。自分で鉄くずなどを拾ってきては換金して、そのお
金でノートを買ったりしていて、親が買ってくれることはなかった。しか
し、そのようなことを苦とは思わず、むしろ高崎さんはこのようにおっし
ゃった。「今の子供は私たちみたいに勉強する機会がなくてかわいそう
や。これはあの畑で覚えたなとか、そんな風にして覚えたことは、いまで
も覚えてるよ。」確かに、昔よりも今のほうがずっと物質的に豊かな生活
を送っている。しかし、勉強することに対して、当時の高崎さんたちほど
貪欲な子供は現代にはごくわずかであろう。私も、そこまで貪欲であると
はいえない。見習わなければいけないことは数多くあるなと思った。
わずか1日だけの滞在であったが、私たちは、神集島についてたくさんの
ことを学んだと思う。島の人たちの苦労や喜びを心底理解するためには1
日間という時間は本当に短いものであったが、この先の私たちの考え方や
生き方に影響を与えてくれるような心に残ることばもいただいた。今回協
力していただいた高崎正幸さんをはじめとする島の方々に感謝の意を示し
て、このレポートを終わりたいと思う。
2004年12月24日
姥真奈美
末吉 彩
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