歩いて歴史を考える(値賀川内)

陣内 康  高橋 望

今回は値賀川内の徳永一吉さん(昭和14年4月1日生まれ)にお話
をうかがうことになる。



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18日(土)の行動記録



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時ぐらい         値賀川内に通じる道が道路工事
をしていたために、かなり手前でバスを降ろされ、歩いて行くことになる。



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時〜1030分      教えてもらった道が間違っていて、迷子になる。




10
30分〜10時40分  なんとか道を発見し値賀川内に到着。徳永家を探
すが、引っ越していたらしく、なかなか見つからない。



10
時40分〜10時50分  徳永一吉さんの友達に偶然声をかけられて、車で
公民館に連れっていってもらった。

 

10
50分〜15時     徳永さんと徳永さんのお友達にずっとお話
をうかがう。ほんとにお二人は値賀川内の歴史についてくわしくて驚いた。


15
時〜16時30分     少し時間が余ったので白山神社・棚田・城
などに連れて行ってもらう。集合場所にも車で送ってもらう。

19
時            九大に到着。とても疲れた。でもこれから部活の
忘年会が・・

               てな感じで課外活動終了!!


      



棚田の風景。非常に美しい。水を張っているときはもっとうつくしいそうだ。
また見に行きたいものである。


お聞きした内容


現在は田圃への水は、堤や自然の川からの水路から引いている。50年前は川
からの自然流水を利用。水をせき止めて堤を作り、上の方の棚田から順々に水
を貯めていく。ここの堤は大正6年にできた。値賀川内は谷に位置し、また川
も流れているので水量は、ずっと昔から安定していた。よって水争いは全然
なかったようだ。他の集落では、ちょくちょくあったようだ。水か集まりすぎて
時々、水害などはあったようだ。虫よけの神事はあった。白山神社で行
われている。夏祭りでは神宮からお祈りしてもらい、おまもりを田圃にたてる。
秋祭りは、また白山神社で収穫の御礼のためお祈りをささげる。値賀川内は農家
ではなく商家であった。ここは豊臣秀吉お墨付きの石材士を住まわせていた。昔
は60人ぐらいいた。よって昔はかなり栄えていた。銀行・床屋・食堂・歌舞伎
など都会並にいろいろそろっていた。用水路にいる生き物は30年代農薬の汚染
によって昔いたカニ・うなぎ・鮎・ハヤは居なくなっていた。今は農薬改善
など水がきれいになってきているので生き物が少しずつ戻ってきている。
ホタルや白魚なども見られるようになってきた。田圃に昔いたドジョウ・タニシ
などは今は居なくなった。区画整理によって排水がよくなって住
みにくくなってきているようだ。棚田では稲作一本。若者がいなくて労働力が少
ないので裏作はしない。川の周りの田圃が一等田である。ここの土壌は赤土
なので米の味がよい。50年前は人糞・イワシ・サバ・牛糞などを肥料
にしていた。昔は、1家で牛を23匹飼っていた。この集落は山がちなので馬は飼
わない。牛に引き綱をして操り牛に田圃を耕してもらう。牛のえさは、わら・
田圃の周りに生えている草・麦をふかしたものだった。だいたいどこの農家も
メス牛を飼っていた。メス牛に子供を産ませて牛売り場に持っていって売り
収入源にもしていた。オス牛は種牛として農協に飼われていた。牛も病気
をするので昔は獣医がいた。50年前はかなり強い農薬を使い害虫や稲の病気
などを防いでいたが人体に害があるため使用できなくなった。昭和20年代は、
鯨油を使って害虫を駆除していた。その方法は、田圃に油をはって稲をわらで叩
いて害虫を油の上に落として殺していた。現在は虫除けの薬は念に1,2回
である。今は薬の残留性もほとんどない。外国産の米などは薬の残留性
がかなりあって危ないらしい。値賀川内は昔からプロパンガスである。農協が入
れ替えてくれる。電気は72年前からもうあった。ただしその当時は使える
電気量はかなり少なかったが。いつ電気が来たか正確な時期は分
からなかった。昔は近くに水力発電所があって、そこから電気がきていた。今
その水力発電所はない。水道は昭和30年代ぐらいにきた。湧き水・井戸水
もかなり豊富で生活水にしている人もいる。飲料水にはしてないが。薪は自分
の山から取ってくる。入り会い山では、杉・ヒノキを切って売ったりしていた。
入り会い山は戦後払い下げをして個人に渡した。今は白山神社の裏山ぐらいしか
残ってない。ここは森林に囲まれているため山焼きはない。山の幸
としてはたけのこがあげ

                                   
 NO.4

 

られる。昔はきのこも採れていたが、今はあまり採れない。杉・ヒノキがお金
にならなくなって、山の手入れをしなくなり山が荒
れてしまったためにきのこが採れなくなってしまったのであろう。他には、
野草・つわ・ふき・わらび・だらのめ・せりなどが採れる。50年前は1年分の米
を倉にもみごと保管する。ねずみが入らないように特殊なトタンの倉を
作っていた。もみごと保管すると虫がつかないし、味が落ちない。水車の力を借
りて食べるしこ精米する。今でも、もみごと保管して農協で精米する。昔の
暖房は、囲炉裏を使用していた。使用する炭は炭焼きがまで自分で作っていた。
車社会になる前の道は今ある道路の半分ぐらいの幅でコンクリートでなく砂道
だった。昔はこの集落に病院がなかったので病人は、ありうらにある病院に担
いで連れて行っていた。保険がないような昔は、田圃など何かを売ってお金を作
らないといけないほど、病院に行くにはお金がかかることだった。今は
値賀川内に病院はある。昔、薬は1年に12回富山の薬屋さんが入れ替えに来
ていた。米は麦と混ぜて食べていた。米は高価なものだし、麦を入れたほうが
栄養がある。麦のほかに、いも・あわも混ぜたりしていた。5対5ぐらいで混
ぜていた。体にはいいが味はよくない。おかずは自給自足である。漬物とか海
も近いので自分で釣った魚とかを食べていた。塩・味噌も自分たちで
作っていた。戦後、この集落は食糧難にはならなかったがほかのところは食糧難
だったため、政府が強制的に米を買い上げていた。ここは商人の町
だったために外との人の行き来が多かったために標準語に近い。周りの集落
はかなり方言がきついとのこと。農地改革前は小作制度(地主が小作人に農地を
貸し、小作人は小作料を地主に納めなければならない)農地改革でみんなに
平等に農地が分けられた。村に格差はあり、等級割というものがあった。今
はもちろんない。いつごろ無くなったかは分からなかったが玄海町の中では早
かったようだ。等級が下だからといって差別や行動の制限
があったわけではない。ただし、歌舞伎を見る位置は等級によって決
まっていたようだ。神社のお祭りの参加・運営も平等だった。もちろん等級が
上の人が発言権があったのは確かだが。値賀川内の近くの海岸に特攻隊の基地
があったため、戦時中はいろんなところから兵士が集まっていた。幸
いなことにこの基地からの出撃はなかったようだ。兵士達は石切り小屋や
公民館に寝泊りをしていた。兵士と町民の交流もかなりあったようだ。
値賀川内に感謝状が送られていて今も公民館に飾られている。昔は結婚前の男
たちで構成さる青年クラブというものがあった。彼らは結婚するまで公民館で
寝泊りをする。夜警や水害・火事など緊急事態にみんなを助けていた。青年
クラブでは、かなり規律が厳しかった。贅沢をしてはいけないとか賭け事
をしてはいけないとか。規則を破ると青年クラブから除名され一人前の男
としてみなされなかった。

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