玄海町有浦上の歴史について

調査者

山口司
矢野康正

話者
 
中島和十三さん(昭和13年生まれ)
    
一日の行動記録

 12月18日(土)  7:30 六本松集合
             40 六本松出発
          10:15 玄海町有浦上到着(バス下車)
          10:30 中島和十三さん宅訪問
          13:30 中島和十三さん宅退出
・玄海町見学・玄海エネルギーパーク見学
          16:40 玄海町出発(バス乗車) 
          19:30 六本松到着・解散


有浦上地区の小字名一覧 
  三石 (サンゴク) 後山 (ウシロヤマ) 力石 (チカライシ) 山の神
(
ヤマノカミ)畑の迫 (ハタノサコ) 日焼(ヒヤケ) 下田 (シモダ) 山の田 
(
ヤマノタ) 大久保 (オオクボ) 高江 (タカエ) 今里 (イマザト) 
有川内 (アリカワチ) 猪の爪(イノツメ) 大迫 (オオサコ) 山添
(
ヤマゾエ) 寺の上(テラノウエ) 小返答 (コベントウ) 松尾 (マツオ) 梅
の迫 (ウメノサコ) 横道 (ヨコミチ) 返答 (ヘントウ) 平山 
(
ヒラヤマ) 菜切 (ナキリ) 日の出松 (ヒノデマツ) クレ石 
(
クレイシ) 西の股 (ニシノマタ) 京野 (キョウノ) 滝の上  
(
タキノウエ) 長田代 (ナガタシロ)            
・新しく教えて頂いた地名
  土井の田  土井の内 
(
ドイノウチ)                   

圃場整備前の田の名前

一つ一つの田に特に名前が付いているわけではないが、特殊な名前
がついているところもあった。イトマキ、ニトマキ、ゴトマキといった名前で
残っており、整備後もゴトマキという名前は使われている。また山の中の田
には名はなかった。



特に川の名前について特殊な名前はなかったそうです。

井堰

   長さ約2,3キロ程度の川にコンクリートで作った井堰7個、石垣を積
んで作った井堰が7個で計14個ある。そのうち1つや2つは現在使
われてないらしく残骸が残っている。井堰にはそれぞれ名前があって、名前の
由来はその田の名前から取っている。(例 クリノキ、サト)



   特に名前は付いていなかったが、約2,3キロ程度の川に六つもの橋が架
かっているそうだ。(サト橋、寺の下橋、イノキ橋、有川橋、コウチ橋、
ヤマンタバシ)

小集落

   これも井堰と同様にその集落のある田が由来となっており、12、3軒
を一まとまりとしてサコと呼んでいる。さらに井堰によって上井手、下井手と分
けられる。

大木・古木

   日の出松、京野、ヨンゴマツ、スズンマツといった名前の太
いまつがある。そのなかでも話者の中島さんは夏にスズンマツという大きな松の
木蔭でよく弁当を食べていたそうだ。また、その松にはいつも四、五件の農家
が集まって弁当を食べていたそうだ。


田への水  

 田への水は井堰から引いているのではなく、上場開発というところから水を引
いて
いる。井堰は大きな田を持った人の個人の所有物であったため、所有者の承諾
なしで
は井堰から水を引くことはできなかった。上場開発は玄海町、唐津市など
六市町村が
使用している。雨などの影響を受けず、安定した水の供給ができるという利点
もある
が、
「でも上場開発の水は金がいるけんなぁ。」とおっしゃっておられ、少し頭を
悩ま
せているようだった。

水争い

   「(水を)とる人はとる、こらえる人はこらえる。でも一回雨が
降ったらそれでなんとかなる、だからこらえるようにしていた。だから自分
たちの世代のときはあまり水に関してのいさかいは多くはなかった。でも自分
らが小さいときは(いさかいが)あったがねぇ。」とおっしゃっていた。上場開発
の水がきたのと、農業形態が変わったことで(ハウス栽培等)
いまではもういさかいは完全になくなっているようです。

旱魃

有浦上では日の出松のほうにため池があり、中島さんが子供の時は旱魃
があったそうですが、中島さん自身が農業を営むようになってからは旱魃で米
を作ることができなかったということはなかったそうです。また、平成六年の
旱魃の時も川の水を機械で上げて米を作
れなかったというわけではなかったそうです。
 
台風予防の神事

   特にこの地域では行われてはいなかったようです。8月の大きな台風
についてはこんなことを言っていた。
「上場より被害のないとこはなか、収穫はほとんどおわっていたから。ただ
ハウスの被害だけ。ただきつかったのは新潟とかは台風の影響で米が例年
よりすくなくて、米の値段が上がっていたのに、もうその前にすべて
売ってしまっていたので、(笑って)損してしまったなぁ。だから風での被害
とかはなかったがそういった面では被害を受けてしまった。」

井出(用水路の生物)

   昔はアユが大量におり、なんとウナギもいたそうです。
「アユを釣って帰って、おふくろから臭かー!っち怒られよったわ(笑)」
とのことです。今は少しはいるものの、ほとんどいないそうです。

田の生物

   「そーなぁ、トノサマガエルがハウスんなかにおるとさ。ばってん大
きくならんで、小さかやつばっかやなぁ。昔は34cmくらいやったが、今はも
1・くらいのしかおらんなぁ。おることはおるやけど気づきにくいなぁ」
とのことです。数は減ってはないらしいです。

麦作り

   麦を作れる田と作れない田があったそうで、現在は
作っていないそうです。今は畑作でみかんやたまねぎやイチゴなどを
作っているそうです。また、田は一毛作だそうで、
  「たんなか(=田)は二毛作やと金にならんけんねぇー、コンバイン、
トラクターとか3台そろえたら500万はいくけんねー。そら儲からんですたい!
(笑)」やはり現在はイチゴなど単価が高いものでないと採算が取
れないらしいです。

米作り

   昔は五丁で反当り(=一丁の10分の1)六、七俵だったらしく、今
は七、八俵に増えたそうです。なぜ今とれる量が増えたかというと、
「今から340年くらい前は、今と品種がちょっと違うんじゃ、そんで10月に収穫
じゃったから、台風にやられとったんよ」とのこと。今は収穫の時期が早く8月
ごろになので、台風の被害をうけないそうです。もちろん化学肥料などの使用や
品種改良によるところもあります。


肥料

   昔は化学肥料でもタンピというもので、硫安のみとかリン酸のみなどを、
家主が選んで使っていたそうです。
「ここは畜産も多かけんさ、昔は一家に二頭くらい牛がおったばってん、
そのたい肥肥料として使ったりしよったが、今はもうたい肥を投与
したりすることはなかよ」とのことです。



   木灰がとても貴重だったそうで、灰の売買もおこなわれていたようです。
また、火山灰を畑にまいて使うことはできないそうです(笑)ちなみに話者の
中島さんはたばこを作ってたこともあったそうです。

稲の病気

   昔はいもち病がひどく悩まされていたそうです。
「今はもうそげんことないけども、山の下ん日照不足のとこは今
でもあるねぇ。」とおっしゃっていました。

害虫

   ホリゾールを使っていたそうです。人体にかかっても特に問題
はないようであったが、船に乗ったときに全員酔ってしまったそうで、
17人くらいで共同でホリゾールをまいた後、魚釣りいったらみんな酔
うたな〜、やっぱ内臓とか弱ってたんたい(ホリゾールのせいで)。」
とおっしゃってました。

ゆい

3軒か5軒でな、収穫とか大変なときに、今日は急
がしかけんちょっときてくれんか、っち頼んだりして、
てまがえとかしよったな」とのこと。つまり、ゆいとは共同作業
のようなもののことです。

田植え

    田植えの時期は昔は6月だったが、今は4,5月だそうです。
(品種改良のため)
   なので前述のとおり、収穫時期も当然ずれています。そのため今は95%
くらいは台風の被害を受けないそうです。

収穫

今はコンバイン導入のため、一人でがんばっているそうです。子供
はみかんをちぎったりするそうです。
「昔は機会もなかったし、ハウスみかんもなかったし、みんなで田植
えとかみかんの収穫とかしよったな」
昔はみんなで収穫を行っており、田が広いところはお手伝
いさんがいたそうです。

宴会

    集落に宿が何軒かあり、そこで宴会を行っていたそうです。



   育てるためにやはりお金もかかるため、近年では採算を取るのが苦
しいそうです。
「はやかうちに採算考えて、一年のうち350日くらいはたんなかに持ってくよか牛
をその当時6万で売ったおふくろにあほかー!言われて怒られた(笑)」
とおっしゃっていました。
ちなみにオス牛のことを「ごって」ではなく「こって」とよんでいたそうです。

牛への掛け声

   牛をひかすとき、回るときに手綱をひっぱると同時に「きせ!」という掛
け声をだしていたそうです。ゆうことを聞かないときは「はたう!」
といっていたそうです。



   中島さんのお父さんの代では馬は農耕用だったが、中島さんのときは
馬車引き専門だった。馬の股にばい菌がたまり、病気になるため殺菌するのに
苦労したそうです。

牛・馬のエサの草

   採取する場所は決まっていたそうです。
「昔は採るとこはきれいやったが今は汚か。昔はよく採ってたけんども、今
はもう年に3回くらしか採らんからね」とのことです。



  「自分とこの山でとってたよ。今は雑木林も減ったばってん、昔はみんな山
をもってました」とおっしゃってました。今は違いますが、昔はみんな山を所有
していたそうです。

水道

   「今はボウリングしちょんから、とおっちょるよ。以前は井戸から水
をとってた。」
  水をとるのも大変だったらしいです。
  「今は幸せじゃねぇ、こたつやら扇風機とかあって楽やからね(笑)」
とおっしゃってました。

入り会い山

   部落のみんなで使っていたそうです。昭和27年には個人で所有
しなければならなくなったため、みんなで平等に個人に分けたそうです。

つくし

   「つくしはあんま食べんなぁ、たまに油いためとかして食べるけんど。
都会にいった姉御は帰ってきたときに、つくしを食べたがるねぇ」
とおっしゃってました。
   やはり都会にでて食べられなくなるとつくしの味が恋
しくなるようですね。

野草
   昔は土日に親と一緒に山で採っていた。親に食べてもいいものと悪
いものの区別を教えてもらったそうです。今
はもうそのようなことはないそうです。そのため、今はよほどの人
じゃないかぎり野草の区別はできないそうです。
  「今は親も教えきらな、子どももしらんね。だって山に入らんけんがねぇ。
都会で本当に山を愛する人が野草の区別をできるんやろうね」とのことです。


米倉

   昔はセコという高床式倉庫のようなものがあった。やはりネズミが天敵
だったそうです。
「ねずみがはいらんようにいろいろしよったばってん、ネズミ
がどんどんかじってどこからか入られよったわ(笑) そんたんびに板
をはりかえたりしよったから、大変やったんよ。ブリキ屋さんでブリキの板を
買ってはっつけたけど、やっぱり穴ほがすことがあったばい(笑)」と笑
いながら話してくださいました。



   新米はとてもおいしいそうです。新米をガスがまで炊くのが特
においしいらしい。
  「どこの新米もおいしいかと思うばってんが、やっぱり自分んとこで
作ったんがおいしく感じるねぇ。昔は電気ジャーとかなかったばってん、ガス
がまで炊いておったね」とおっしゃってました。ちなみに、中島
さんがつくっていたコシヒカリ100%の米は本当に美味しく、他のものより高
く売られていたそうです。しかし量が少なくて大変だったそうです。

こたつ

   「昔は掘りごたつとかイロリとか使ってたねぇ、今はもうないけんど。今
はほんときれいなこたつやけんど、昔はほんと汚かもん(笑) すすもポロポロ
でよったな」
   とおっしゃってました。

馬車

   馬車もあったけど、牛車もあったそうです。ここで年金の話になって、
いろいろと今の年金システムについて話し、不満点が多くあることや、働く人間
はみんな平等!という中島さんの考えを熱く語っていただきました。詳しくは
テープに録音されているので参照してください。

自給自足

   自給自足できないものは、昔は行商人から買い取っていたそうです。また
行商人は薬も売っていたそうです。今は少しだけども店があるので便利
だそうです。バナナがすごい高級品だった。

ソソクリ(修理屋)

   行商人と同じくやってきていたそうです。
   
神社

   近くにあるそうです。

やんぶし

   「やんぶしっちなにかわからんなぁ」とのことです。

カマドのお経

   「よくわからんけんど、おこじん様んことをいうかねぇ?」
とおっしゃっていまし
た。

病院

   昔は3つほどあった。3つでも多いほうだったそうです。一軒だけ息子
さんが継いだそうで、今は1つになったそうです。

麦ご飯

   昔は食べていた。麦とご飯の割合は家庭
によってさまざまだったそうです。今は全く食べてないそうです。余談
ですが、麦にはヘコという部分に栄養があると教えてくださいました。

自給

   中島さんはいろいろな野菜をつくっているそうです。農業が好きな人は
退職しても趣味があるということや、年をとってからも稼ごうという意欲が沸
いてくる!っといった農業を営むことの素晴らしさを語っていただきました。
詳細はテープを参照してください。

上下関係

   上下関係は特になかった。みんなで和気あいあいとした雰囲気
だったそうです。

戦後

   百姓は食べるものには困らなかったけど、逆に百姓じゃない人は食べ物
にとても困ったそうです。犬や猫を食す人もやはりいたそうです。戦後に限ら
ず、20年前まで猫を食べる人はいた。また、よその人のイヌを食べたりする人
もいたそうです。犬を食べたらオネショがなおる、といった話も聞
いたことがあるそうです。

昔の若者
  
   他の集落の宿に遊びにいったりということがあったそうで、ケンカ
などなく社交的だったそうです。昔も積極的な性格の人はよばいなど夜遊
びのようなことをしていたが、中島さんは家でゆっくりするのが好きな性格で、
そのようなことはなかったそうです。若者の性格や行動は、今も昔もあまり変
わらないようですね。

じょうもんさん、みちわけざけ、まつぼりご、といった言葉
 
   じょうもんさんだけは聞いたことがあるそうです。意味は、いいとこのお
嬢様のことをいうんではないか、とおっしゃっていました。
あとのふたつはわからないそうです。
   
もやい風呂
 
   もやい風呂とは共同風呂のことで、中島さんの集落には5
つあったそうです。

結婚
  
   お父さんの勧めで、中島さんの従姉妹にあたる人とご結婚
なさったそうです。
  昔は90%の人はお見合い結婚で、残り10%の人たちは、宿の女性との
交流などで      の恋愛結婚だったそうです。 

他の集落との格差
   「親からは、やっぱこうゆうことは言っちゃいかんやろうけど、上中下
についての話は聞いた事がある。でも差別的な意味じゃないけんどねぇ」
とおっしゃっていました。 
経済面での上下関係がやはりどうしてもできてしまう。しかし、差別的
なことはなく、あくまで比較としての上下関係だそうです。たとえば、他の
集落の一番上のレベルのとこは、うちの集落の真ん中くらいのレベルにあたる、
という意味で使っていた。

神社祭り

 祭りは昔は春・秋とやっていたそうですが、今は春はやってないそうです。
秋の祭りは1025日に行われ、露店はないそうです。
現在でもどこでもそうだが、やはり昔も神輿担ぎは男ばかりだったそうです。
  獅子舞も同じです。

戦後の影響

 戦前のことは、中島さんが小学校に入学したときに終戦
したのでわからないそうですが、戦後では女性でも60kgはする俵を担
いでいたそうです。

村の様子
   
やはり昔と今では大きく変わったそうで、たとえばみかんの栽培はビニルハウス
になったり、新たにイチゴの栽培が始まったりなど。
「孫はもう農業を継ぐ気はないでしょうねぇ。親が継
げっちいうことはなんにもいわんから、子どもはもう自由にするでしょうね」
とおっしゃっていました。 また、これから農家を継ぐ人が、災害でとかで
収穫が減り、ヤル気がなくなるのが心配。努力していける人間が少
ないかもしれない、と心配そうにおっしゃっていました。

村の思い出

   「私はこの村で過ごして本当に楽しかった!腰が痛かったから、イモ
ほりとかはイヤだった(笑) 考え方の問題じゃろうけど、家族にも恵
まれて、私は幸せやったと思う」と、幸せそうにおっしゃっていました。
私自身も自分の幸せについて考えさせられる、ためになるお話でした。


    
考察
  玄海町の農村の変化については、戦争による影響は意外と少なく、昭和30
年頃に始まった農耕機具の機械化や減反政策の影響によるものが大きかった。
そのなかでも、水田からハウス栽培への移行が大きな変化
のひとつであった。  

  今回の現地調査で我々は、広大な農村風景に目の当たりにして、都会では味
わえない雄大な自然を感じることができ、強い感動をおぼえた。さらに中島
さんご夫妻の優しさに触れることができて、農村の生活や慣習、昔からの村の
姿を知る以外にも人生の先輩として非常に多くのことを学ばせていただいた。
「教師は教壇の上、大学の中にだけいるのではない。」という服部教授の言葉の
意味を肌で感じた。          
  
最後に中島さん夫妻、そのほかこの現地調査をするうえでお世話になった方々、
本当にありがとうございました。我々が調査した有浦上の歴史が、後世の役に立
てば幸いです。
 

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