大野城市下大利レポート

調査者:川上裕太

    佐伯亮太

 

下大利の昔と今 

 

浅川さんはこちらから質問する前に、下大利が昔の農業中心の生活から今まで発展する経緯について話してくださった。その話をまとめると次のようになる。

 

 浅川さんは昭和6年生まれで、昔から住んでいた人はもう3、4人しか残っていないということだった。下大利は終戦の昭和20年ごろまでは70軒ほどしかなく、戦前と終戦後の発展は点と地ほどの差だという。

当時の下大利はほとんどが農村地域で、あたりは水田や畑ばかりだったそうだ。終戦後に5号線ができ、昭和25年ごろの朝鮮の動乱から裕福になり始め、食糧難から増産体制に入った。そして、昭和30年後半から40年前半が発展の最盛期だった。大野城市の中でも西鉄とJRの交通の便が特によく、農地から宅地化していった。以前の70軒という小規模な地区から、300〜400軒の町へと発展していった。

それ以降も発展はとどまることなく、昭和46年頃下大利住宅公団ができ、その後に私鉄下大利駅が100メートルほど南に移転・改築し、今の位置となった。昭和56,57年ごろには下大利住宅団地と地区東大利地区が下大利行政区から外れ、下大利が3つに分かれた。

 大まかな下大利の歴史の流れはこのようで、今現在の下大利地区は約2300世帯で、人口は5200人弱だそうだ。ちなみに、大野城市全体では人口9万2000人、3万6000世帯であった。今ではほとんど農業はされていないようで、今年も田植えをしたところは聞いていないとおっしゃられた。浅川さんの自宅も昔の農家の雰囲気を残していたが、今はやはり農業はされていないようだった。

 

 

 

下大利の小字

 

浅川さんは大野城市の中でも、下大利が最も小字が多いとおっしゃられた。そこで下大利の小字で、変わった読み方で由来のあるものを教えていただいた。

 

土林(つちべいし)

椋の木(むくのき)

瓜中(うりなか)

原田(はるだ)

川原(かわはら)―――御笠川流域のため

反布毛(ろくたんま)

今堀(いまぼり)―――以前堀があったため

二又(ふたまた)―――田んぼの水路が二手に分かれていたため

脇田(わきた)―――下大利地区から見て脇のほうだったから

川路(かわじ)―――平田川流域であるため

向川路(むかいかわじ)―――平田川をはさんで川路の向かいであるから

 

小字の由来とは少し違うが、その地域がどういう地域かを教えてくださった。

 

下坪(しものつぼ)

土穴(つちあな)

辻田(つじた)

これらの地域は田んぼとして使われていた地域だそうだ。

 

 松尾の池(まつおのいけ)

 天神の池(てんじんのいけ)

 新池(しんいけ)

これらの池は水田の貴重な水源として使われていた。

 

 上ノ城戸(うえのきど)

 下ノ城戸(したのきど)

この地域を中心に下大利は発展していった。

 

また、地図には載ってない通称も教えてくださった。

 

 後口(うしろぐち)―――西鉄下大利駅の周辺で、駅の後ろ口だったことから通称として呼ばれるようになった

 

ほかにも田んぼの地名が小字として使われるようになることもあると教えてくださった。

 

 

 

 

 

 

 

これ以降は、こちらからプリントに載っている質問をして、浅川さんに答えてもらう形をとった。浅川さんは、こちらが長々と質問をしても少しもいやな顔をせず、真剣に聞いてくださりそして丁寧に答えてくださったのが印象的だった。

 

川や井堰にはどんな名前がついていたんですか?

 (地図を指して)この川が御笠川で、太宰府市へ流れているんだよ。下大利に流れているのが平田川で、源流はここから3キロぐらいの山にあるんだ。御笠川の水流で昔から農業を営んできたんだ。井堰は御笠川のところに脇ノ井堰という井堰がある。平田川にも前川井堰があって、小さい井堰はほかにもいっぱいあったよ。

 

ほかの村との水争いなどはあったんですか?

 いや、大きな水争いはなかったね。でも、用水路や川には水利権のしきたりがあって、

ほかの水路から勝手に水を取ってはいけなくて、きちんとお金を出して水路を使わないといけないんだ。

 

橋にはどんな名前がついているんですか?

 下大利地区には、下大利橋と脇田橋という橋があるよ。

 

小集落に特別な名前はついていたんですか?

 そういった名前は聞いていないね。

 

年行事(世話役)はなんと呼ばれていたんですか?また、家に屋号はついていたんですか?

 世話役は区長と呼ばれていたね。屋号はついていたよ。家城(けしろ)というんだ。

 

大木や岩、道などに名前はついていたんですか?

 特別そういう名前は聞いていないけれど、矢倉山という山はあったよ。昔矢じりを作ったことからその名前がついたそうだ。(南西のため地図に載っていなかった)

 

今まで話してくださった地名の場所に思い出などあったら聞かせてください。

 昔は今のように一人で遊ぶということはなく、上級生が下級生を連れて遊びに行くことが伝統になっていたね。学校から帰ってきてはお宮で遊ぶのが中心だった。夏休みには川に魚釣りや泳ぎに行ったりした。御笠川や新池、脇ノ井堰が遊び場だった。秋口からは木の実を採りに行ったり、冬休みには山に遊びに行ったよ。同じ年代の人なら隣の地域でも大体みんな分かるよ。今の子供はそんなことないだろうけどね。

 (そういった浅川さんは少し残念そうだった。)

旱魃の思い出はありますか?雨乞いの経験はありますか?どんなことをするんですか?

 旱魃は何回かあるよ。雨乞いの経験はある。わらで作った竜を池までかついで持っていくんだ。今までに1回か2回ある。昭和48年の8月30日に平田川が氾濫したのは覚えている。下大利地区の3分の2が浸水したんだ。集中的な豪雨もあるけど、山の開発が一番の原因だろうね。当時は水防対策もなかったしね。

 

田んぼの中にはどんな生き物がいたんですか?

 フナやなまず、ゲンゴロウやトンボの幼虫がいたよ。でも用水路の改修工事や、農薬のために今はもういなくなってしまったけどね。

 

麦を作れる田と作れない田はありますか?村の一等田はどこだったんですか?

 日が当たらなかったり、渇きが早くて麦を作れない田は菜種を作っていたよ。麦は乾燥した所に作るからね。下大利の一等田は、古川、脇田、今堀といったとこだね。御笠川流域で、水と土の関係がよかったんだろう。

 

その一等田では昔反当何俵でしたか?また、悪い田んぼではどのくらいですか?麦やそばはどれくらいですか?

 当時は平均して一反当たり6表ぐらいだね。悪いとこは5俵ぐらいだと思う。麦は一反で4俵だね。そばは空き地で作る程度で、ほとんど作っていないよ。

 

昔はどんな肥料を使っていたんですか?灰も使われたんですか?

 大体各農家に牛、馬、鶏がいたから、堆肥を撒いていたよ。チッソという肥料も使っていたよ。かまどの灰も肥料に使っていたね。

 

稲の病気にはどんなものがあったんですか?害虫はどうやって駆除しましたか?

 いもち病という病気があって、稲が赤くなって枯れるんだ。この病気は今でもあるんだよ。白葉枯れ病と言うのもあって、葉が白くなって枯れていくからほとんど収穫がなくなるんだ。ウンカやメイチュウという害虫は種籾の中で消毒していた。農薬を使わないように、アヒルや合鴨を水田に入れたりもしたね。

 

共同作業はありましたか?なんと呼んでいたんですか?

 戦争で若い人がいなかったから、昭和15年〜25年くらいまでしていたよ。上ノ城  

 戸の7〜8件で共同作業をしていたんだ。ゆいやかせいやてまがえとも呼んだね。

 

 

 

田植えはいつから始めたんですか?お手伝いの早乙女はしていたんですか?

 だいたいいつも7月3日か4日からだったね。終戦後は早く植え終わったところを雇って植えていたよ。昭和24,5年まで続いていた。

 

さなぶりやさなぼりと呼ばれる打ち上げ会はあったんですか?

 さなぼりはあったよ。加勢をしてもらったねぎらいとして、鶏をひねって料理などを出したよ。

 

田植え歌や地域の民謡などはあったんですか?

 いや、そういう歌は特になかったね。

 

牛や馬を飼っていましたか?えさはどこから運んだんですか?

 うちは牛を飼っていたよ。えさは稲のわらを確保したり、草を駆ったりしていた。ふすまなどの飼料もあったね。

 

牛を歩かせたり、鋤を引かせるときの掛け声はなんと言ったんですか?

 牛や馬は農耕用だったから鋤などは覚えているようだったね。左に行かせるときは、サシ、右に行かせるときはセイと言った。止まらせるときは、牛の場合はワー、馬の場合はドーというんだ。

 

雄牛や雌牛のことをそれぞれなんと呼んだんですか?

 雄牛はコッテ牛で、雌牛はウノ牛と呼んだ。

 

そのコッテ牛をおとなしくするためにはどうしたんですか?

 コッテ牛や馬はおとなしくさせるためにこうがんをとったりしていた。

 

馬は毎日洗っていたんですか?場所も教えてください。

 馬や牛は川で水洗いしていたよ。盆までは田植えの仕事が多いから、田植えが終わって、さらに芋植えや草取りが終わった後洗うんだ。(地図で下大利橋周辺の川だった)

 

草切山はあったんですか?

 牛頸山やマグサ山が下大利地区の山だった。草を駆ったり、薪を取ったりしていた。

 

この地区にガスや電気がきたのはいつ頃ですか?

  プロパンガスは昭和30年代だったと思う。電気は聞いていないけれど、おそらく明治のときじゃないかな。電話がきたのは昭和30年代で、戦前には病院にしか置いてなかった。

 

薪はどうやって手に入れましたか?

  村の共有山が犬頸山の近くにあって、そこで取ってたね。でも山は村から遠い所にあったから、今みたいに車もないし、道もできてないから滅多に行かなかったね。

 

 木の切り出しなどはあったんでしょうか?

  もともと山がない平地だからそういうことはしてないね。 (…だったら山を焼くこともしないなぁ。この質問はやめよう。)

 

 炭は焼きましたか?

  炭は自分たちの使う分は作っていたけど、収入源にするほどではなかった。

 

 焼畑などはしたんでしょうか?

  してなかったね。

 

 山栗は取れましたか?

  栗は作ってたんじゃなくて、自然になっとったね。他にも山にはなんでもあったね。

 

 では商品価値があった山の幸はどのようなものがありましたか?

  商品価値があるようなものは特になかったね。生活のたしにするようなものはなかった。

 

 川にはどんな魚がいましたか?川の毒流しはありましたか?

  川にはドジョウ、うなぎ、フナ、へび、メダカ、他にも川魚はなんでもいた。外来種はいなかった。けど農薬を使うようになってから魚が住める環境じゃあなくなった。今ではだんだん昔のようになってきよう。毒流しはやったことがある。魚を取るために、ゲラシという農薬を川にばら撒くんだ。でもそれをやってたのは一時的だった。他にはバッテリーで電気を川に流して魚を取ったりしてた。…ほんとは違反だけどね。

少し声が小さくなった。

 

 昔のお菓子はどのようなものがありましたか?

  昔のおかしかぁ、くろぼうとかあとはキャラメルとかを食べてたね。そういえば炭酸饅頭もあったなぁ。

 

 えっ!炭酸ですか!?(二人とも驚く。)

  そう。しゅわしゅわってするやつ。

 

 では干し柿の作り方を教えてください。それとどのように数えていたかもお願いします。

  干し柿の作り方は簡単で11月ごろになると渋柿の皮を向いて干すだけだった。数え方は普通は1つ2つと数えていたけど一連と数えるときもあった。干し柿は二つの柿が1組になってつるされているから、2列で一連とよんでいたね。

 

勝ち栗というものはあったんでしょうか?

  えっ勝ち栗…そういうのは聞いたことがないねぇ。

 

 食べられる野草は?また食べられない野草はありましたか?

  うーん…そうだねぇ、せりや土筆やたけのことかかな。でも今はもう野草はほとんど見かけなくなったね。下大利は住宅地になってしまったからね。自然が無くなってきとるとよ。

 

七草粥などの材料は今は野草からとらないんですか?

 今はもう犬のションベンがかかっているような草しかないからね。それにスーパーとかで買ったほうが揃っとるしね。

 

 米はどのように保存しましたか?

  土で作ったとびつというもみを入れる蔵に貯蔵しとったね。土壁でねずみが入ってこれんようになっとった。

 

飯米や兵糧米などはありましたか?

  やっぱりこめが不作などでたりんくなった時のためにとっといたね。現在では一人当たり55kgしか食べないけど、昔は120kgは食べていたからね。一人当たりそのくらいはとっていたよ。

 

 米作りの楽しみはなんですか?

  米が病気をしないで収穫できたときかな。昔は病気でだめになることが多かったから。

 

 昔の暖房は?

  昔は電気カーペットもエアコンもないからこたつだった。中には木炭を入れていた。火が長持ちするように炭を入れてわらの灰を混ぜていた。ちなみに冷房は必要なかったね。昔は屋根が藁葺きだから涼しかったよ。

 

 

 

 行商人や魚売りは来ていましたか?またどこから?箕ソソクリや

鍋ソソクリは?

  魚売りは週1回志賀島から来ていたな。基本的に箕は自分たちで修理していたから箕ソソクリは見たことないね。でも鍋とかの専門的なものはその専門の人に頼んでたね。

 

 かまどのお経をおげる目の見えないお坊さんはいましたか?やんぶし、薬売りは?

  そういう話を聞いたことはあるけど、実際に見たことはないね。やんぶしや薬売りはいなかったね。

 

 では病気になったときにはどこで看てもらいましたか。

  私よりも昔は漢方薬病院があった。私のころは山田病院が近くにあった。

 

 米と麦は混ぜたりしましたか?

  うん半分半分くらいで混ぜて炊いていたね。

 

 自給できるおかずとできないおかずは何ですか?

  野菜は何でも作っていたから自給できていたね。あと鶏を飼っていたから鶏の肉は自給できていた。昔はほとんどが鶏肉だった。牛肉とかは食べてなかった。鶏は卵を産むので卵も自給できていたね。

 

 結婚前の若者たちの集まる宿はありましたか?男だけですか?何をしていましたか?

  あったよ。公民館に集まっていた。農業の話をしに行って、ほんとは酒を飲んでいたりしていたなぁ。(みんな笑った)年長の先輩から色々教えてもらっていた。

 

 力石は?

  当時米は一俵60kgあって、それを持つための練習としてお宮に置いてあったんだ。

 

 戦後の食糧難の際に、若者や消防団が犬を捕まえてすき焼きにしたことはありましたか?犬はおねしょの薬だと聞いたことがありますか?

  自分はそんなことしたことはなかったけど、そういう話を聞いたことはあるね。犬の肉は体が温まるからおねしょにいいと言うのは聞いたことがあるね。

 

 夜這いの話は聞いたことがありますか?よその村の青年と喧嘩したことは?

  その話も聞いたことはあるけど自分の近くではなかった。喧嘩はやっていたね。

 

 じょうもんさん、まつぼりごなどの言葉を聞いたことはありますか?

  じょうもんさんはあれ、顔のいい女性という意味やろ。まつぼりごは青年団が小遣い稼ぎに、家の米を勝手にとって売ることやね。そういうことはしちゃいかんけど(笑)

 

 もやい風呂はありましたか?村に二ヶ所あった。

大正の初期頃にはできていた。

 

 盆踊りや祭りは楽しみでしたか?祭りはいつでしたか?

  盆踊りは8月のお盆のころにあって、終戦後に盛んになったね。

 

 恋愛結婚は多かったですか?

  ほとんどが見合い結婚やったね。親同士が酒の席とかで、子供の話が出てきたときに、「おまえさんのとこの息子はもう結婚する年だろ?じゃあうちのとこの娘と結婚させる        かぁ」て具合に決めていたのがほとんどやった。

 

 農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか?

  家城の田を小作していたね。

 

 村に格差のようなものはありましたか?

  いやーあたしんとこの村にはそうなかったね。みんな平等な生活やったよ。

 

 では神社の祭りの参加・運営も平等だったんですか?」

  ああ平等やったね。

 

 戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?戦争未亡人などはいたんですか?

  戦争のときに召集がかかって戦争に行って、戦死した人が9人いた。やっぱり未亡人になる人もいて、そういうひとは嫁ぎ先の次男と結婚したりしていた。

 

 下大利の名前の由来というのは知っていますか?

  この辺一帯は、今は上大利と分かれているけど、昔は同じようなものとして見られていた。でも大利という由来は分からないね。

 

 この家の近くにあるお宮は老松神社といいますよね。そんなに古い松があるんですか?

  いや松はないよ。老松神社というのはほかの場所にもいくつかあって、大宰府天満宮関係の神社やね。

 

 大宰府にですか?

  そう。大野城市には他にも名前が同じ神社があって、老松神社が2つ、地禄神社が4つ、宝満神社が4つ、黒男神社が1つ、平野神社が1つあって合計12こあるんだ。ほかにも伊勢神宮関係の宮でもあるから伊勢神宮が20年に一度改築するときに、それぞれの宮が10万くらいお金を集めて出さないかん。

 

 村は変わってきましたか?これからどうなっていくのでしょうか?

  昭和21年の段階では大野城市には12区あって1300所帯あったが、今では30000所帯にまで増え、人口も91000〜92000人にまで増えた。今は春日や筑紫野の人口が増えてきている。しかし最近の人たちは昔のことはほとんど知らない。これからも下大利の伝統を伝えること、そういう義務感みたいなものが私にはある。

 

 以上で質問は終わりです。どうもありがとうございました。