上大利のむかしの様子に関する聞き取り調査
藤元正太
黒瀬菜々
はじめに、および地名の由来について
藤元正太
六月二十七日。私は井上光さんの家をお訪ねした。あまりの大きな家に、しかも御自分名義のマンションがそばに建っているのに大変驚いた。その後、井上さんにお会いして、自宅にある庭の枯山水や倉一つ分を使った書庫などを拝見させていただいた。しかし、残念なことに、若い頃に宮崎の農業高校に行き、その後は戦後まで北京に住んでいたため、むらのことについてはあまり御存知なかった。それでもいくつか参考になる話を伺うことができた。
その後、井上さんの御案内で、私はこの辺りについて御詳しい伊藤熊雄さんのお宅へ伺った。よって課題の質問事項はほとんど伊藤さんからお聞きしたことである。
まず、小字の名称が書かれた地図を見せ、書いてない名前などを確認した後、名称のいわれについて尋ねてみたが、残念ながら、いわれについてはご存知なかった。ただ、私たちの推測で考えてみると、水にちなんだ名称が多かった。田んぼの水はほとんど池からとったと言うから、そのことと関係があるのではなかろうか。また伊藤さんは、向という小字の名について、上大利では方向をさすときに向かい方、裏方などと言ったので、そこからきたのではないかということだった。
―この小字の地図には書かれていないが、みなさんが使っていた地名(通称)は他になかったでしょうか―
背振、永福、向(むかい)、唐千田、三兼、池の上、池の下、池田、辻の田、居牟田、宮の脇、南が丘、横堤、野添
―村の田んぼにそういう名前はなかったですか。また、山の中に田んぼはありましたか―
小字の地名と重複する。田んぼは山すそにあった。
―年行事(世話役)のいる単位は?―
区長、四十軒に一人いた。
―家に屋号はついていましたか―
家の屋号はなかったが、「〜方」「〜向かい方」「〜裏方」などと呼ばれていた。
―田んぼの水はどこから引いていますか―
牛首川、三兼池から引いていた。石入という牛首川の井手から。
―水の量は潤沢ですか。水争いはありますか。また、水を分ける上で特別のルールはありますか―
水の量は豊富ではなかった。水分けについては「寄事」で決められていた。水番という水を入れる当番があったが、決められた水の量以上水を溜めてはいけなかった。
―旱魃のときの思い出は?雨乞いなどの経験はありますか?また、台風予防の神事はありましたか?―
旱魃の際は、四王寺山で神主や僧侶が祈りを捧げていたが、台風予防の神事などはなかった。
―用水路の中にはどんな生き物がいましたか。昔も今も変わりませんか―
どじょう、蟹、すっぽん、うなぎ、鮒などがいたが今はいない。田の中に、たまにどじょうがいた。
―麦を作れる田と作れない田はありましたか。また、村の一等地はどこで、昔米は反当何俵でしたか。悪い田はどうでしたか。麦や蕎麦についてはどうですか―
麦を作れる田と作れない田はあった。部落の周囲の田は豪農の田で、一等地であった。
米は反当八俵、悪い田では六〜七俵ほどだった。蕎麦は若いうちにとって食べる程度で、麦も少なかった。
―昔はどんな肥料を使いましたか。今はどうですか。灰は重要でしたか。どのようにしてつくるのでしょうか―
人糞尿と草木灰を使用していた。人糞尿は借家の分も取りに行き、草木灰は土も一緒に燃やして肥料とした。灰は堆肥として大変重要だったが、現在は化学肥料を使用している。
―稲の病気にはどんなものがありましたか。害虫はどのように駆除しましたか―
イモチ病といい、斑点が現れ枯れたようになる病気があった。害虫は主にうんかであったが、明かりをつけたり、油を落とす竹筒を使用して駆除した。
―共同作業はありましたか―
満州事変のころ、二年間ほど共同作業を行った。
―田植えはいつでしたか。ゆいでしたか、お手伝いの早乙女は来ましたか。あるいは早乙女に行きましたか―
田植えは場所によって時期が異なるが、ここ(上大利)では大体七月、山笠の前くらい。
手伝いは田植え人、田植えさんと呼ばれる人を雇った。早乙女は何人かいたが、既婚者はいなかった。
―さなぶりはありましたか。思い出は?―
さなぼりと呼び、「おこもり」などをして団子を作って食べさせていた。お宮の木の下で田植え人も読んで、酒盛をした。
子供は弁当を持って参加していた。
―田植え歌、もみすり歌など、地域の民謡などはありますか―
民謡はなかった。
―飼っていたのは牛ですか、馬ですか―
(井上さん宅では)どちらも飼っていた。
—えさはどこから運んだのですか。
田の土手に生えている草をえさとして使用していた。もっと昔、おじいさんの代では馬草山と言うところがあった。
—牛を歩かせたり、鋤をひかせるときのかけ声は?右へは?左へは?
牛を進めるときはかけ声はなく、尻を鞭で叩くのみ。右へ行かせるときはシェイシェイ、左へ行かせるときはサッサッというかけ声をかける。
—どうやって手綱は操作しましたか。一本?二本?
手綱は主に引っ張ることで牛や馬を操った。一本が普通だが、癖のあるやつに対しては二本の手綱を使った。(ちなみに伊藤さんのところでは手綱は二本だったそうです)
—雄牛はなんといいますか?雌牛は?
雄牛はコッテ牛というが、雌牛には特別にそのような名前は無かったのではなかろうか。(伊藤さんが兵隊としていったとき、四国の方では雌牛のことをボンジャ牛というと、仲間から聞いたことがあるそうです)ちなみに、ここら辺で雌馬はヒンバと言う。
—馬は毎日洗いましたか。どこで
洗ったというより、馬は帰りにいつも平田川を歩かせてそれで汚れを落としていた。
—蹄鉄はしていましたか。馬の病気にはどんなものがありましたか。
蹄鉄はしていた。馬の病気には疝痛というものがあって、馬の腹の中にガスがたまって腹が張り、死んでしまうものがあった。
—馬洗いはあるが、牛洗いが無いのは何故?
上大利では牛も馬と同様に平田川で洗った。
—草切山はありましたか。どこに?
牛頸山にあった。
—この地区にガスが来たのはいつ頃ですか。電気がきた頃の話を聞かれていますか。
都市ガスがきたのはつい最近のことである。電気については物心ついて四年後に電気がきたが、覚えていないし、話も聞いてない。
—それ以前にはどうしていましたか。
ランプを使って明かりにし、薪をガスの代わりに使いました。
—薪はどうやって入手しましたか。
入会権(上大利では入会地のことをこういった)で間引きを行ったときの枝を使った。
—入会権でどんな作業をしましたか。
木を植えて大きくし、それを個人個人に分配した。そのための木の世話が主な作業。
—木の切り出しは?
しゅら・路引きを主に、牛や馬にひかせた。川流しは無かった。
—炭は焼きましたか。
焼いたことは無い。だが、人が焼いているのを見たことはある。土地の人ではなく、他所から牛頸山にきた人のようだった。
—山焼きはありましたか。
ない。
—楮はとりましたか。
生えているのは知っているが、取ったことは無い。
—ちょまは取りましたか。どこから?
ちょま用の畑があり、そこから取った。
—山の木の実にはどんなものが?
カンネというものがあり、カンネダゴというダゴ汁を作ったことがある。他にも、山桃、アケビ、などがあった。
—他に商品価値のあった山の幸にはどのようなものが?
山芋があった。自分たちで取ってきて食べるだけで売るようなことはしていない。
—川にはどんな魚が。川の毒流しはありましたか。
泥鰌、ウナギ、フナなど。毒流しをしたことはある。
—おかしは?
ニッケ玉といってニッケというのが入った玉があった。他にせんペい、羊羹など。
—干し柿の作り方、数え方は?
皮を剥いて軒につり下げる。途中に黴対策として「ゆう」というものを塗る。干し柿は一房、二房と数えた。
—勝ち栗の作り方、数え方は?
栗をいって作る。数え方は一個二個。
—食べられる野草は?
きらん草…紫の花をつけ、薬になるという。ほかに、ののへりなど
—食べられない野草は?
うしせり…食べるとウサギも死ぬという。
—米はどのように保存しましたか。飯米・兵糧米は?種籾は?
もみの状態で保存した。昔の頃は玄米の状態で保存。種籾と他の米とは別にしており、種籾は苗代に巻いて特に大事にしておく。
—ネズミ対策は?
伊藤さんのお宅はトタンでできた「ガンガ」と呼ばれる建物の中に米をいれることだそうです。ネズミ対策は人によって様々な方法があったようです。
—米作りの楽しみは?
年齢によって違う。
子ども…綱張り、苗配りの仕事が、子どもながらに面白かった。なによりも、田植えの後にあるさなぼり、およろいが一番の楽しみ。
青年…八月十八日にあった八草のおよろい(絵入りの提灯であちこちを回る)が楽しかった。
壮年…田植えの後の親睦会
—米作りの苦しみは?
何よりも肉体労働が一番苦しかった。
—昔の暖房は?
昔はかまどで薪をたいて食事をしたから、その調理中に暖を取った。後は、冬の寒い日は早く寝ることが一番手っ取り早い暖の取り方だった。
—車社会になる前の道はどんな道でしたか?
昭和十二年頃の道は全く舗装されていない土の道ででこぼこであり、雨が降った後はいつも水たまりで汚れていた。
—むらにはどのような物資が入り、外からはどのような人が来ましたか?
むらの外から物資が入ってきたことは無い。外からはいろいろな人が来た。
—行商人は?魚売りは?箕そそくり・鍋そそくりなどは?
行商人はセンドの木あたりで商売し、魚売りは板付などからやってきたようだ。箕そそくりや鍋そそくりもいたし、他に、傘を修理する傘しうり(しうりとは修理のこと)などもいた。
—河原やお宮の境内に野宿しながら箕を直したり、箕を売りにくる人を見たことはありますか?
箕ではなく、鍋や靴を修理する人たちがいた。鍋しうり、靴しうりと呼ばれた。いつも警察によって注意を受けていたらしい。
—どちらの方から来たと考えられていましたか。
おそらく筑豊の炭坑から来たのではないかと言われた。
—かまどのお経を上げる目の見えないお坊さんは?
いた。唐人坊さんと呼ばれていた。
—やんぶし、薬売りは?
いつも若宮の方から薬の交換に来ていた。
—昔は病気になったときはどこでみてもらいましたか。
近くに病院があったのでそこに行ったり、往診に来てもらったりした。
—米は麦と混ぜたりしましたか。何対何ぐらい
伊藤さんのところでは五対五。しかし、家によっていろいろで、七対三、四対六のところもある。
—自給できるおかずと自給できないおかずは?
野菜は自給できた。あと、飼っていた馬から肉を取ったりもした。自給不可能なのは魚。
—結婚前の若者たちの集まる宿や、青年クラブはありましたか。
わっかもん宿・青年クラブはあった。
—男だけですか?
男も女も入った。
—そこでは何をしていましたか。
公民館をたまり場にしており、何かあったらすぐに駆けつける準備をしていた。ときには泊まったりした。
—規律は厳しかったですか?
そんなに厳しくはなかった。先輩の口伝として言われた以外は、基本事項が額に入れられていただけ。
—上級生からの制裁とかはありましたか。
無かった。区長から注意を受けたくらいだけ。悪者は誰もいなかった。
—力石は?
あった。十九のとき、二人がかりで運んだことがある。
—干し柿を盗んだり、スイカをとったりは?
した。十八、十九の頃だった。
—戦後の食糧難。若者や消防団が犬を捕まえてすき焼きや鍋にしたことは?
あった。特に赤犬は味がいいらしい。
—犬はどうしたら捕まりますか
自分たちで捕まえたことはない。鶏を捕ろうとして捕まったのを近所の人が持ってきたそうだ。
—「よばい」の話は聞きますか。
実際にそういった習慣があった。
—よそのむらから来る青年とけんかをしたりは?
春日、水城、太宰府などの青年と反目し合ったことはあったが、実際にけんかしたりはしなかった。
—次の言葉を聞いたことはありますか。
じょうもんさん…別嬪さんのこと。
みちわけざけ…ない。近そうな言葉としておたちざけとかわらじざけというのがある。出かけに引っ掛ける一杯のこと。
まつぼりご…ますぼりごならある。内緒で作った子どものこと。
—共同風呂はありましたか。
あった。これから二軒風呂になり、やがて今の風呂になった。
—盆踊りや祭りは楽しかったですか。祭りはいつ?
子どもの頃は楽しみだった。田植えの後にあったさなぼりや、稲刈りの後、九月十三日にあっただぶるいなどがあった。
—恋愛結婚は多かったですか。
多いとは言えないが結構あった。
—農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか。
小作人はとにかく貧乏だった。こどもはいつも馬車で小作料を届けにいっていた。作っているうちに何俵も持っていかれてしまっていた。農地改革によって手放そうとしていた田をもらった。
—むらに格差のようなものはありましたか。
ない。ただ、困窮の差みたいなものはあった。
—むかし神社の祭りの参加・運営は平等でしたか。
運営は当番制にしていたから、平等と言える。
—戦争はこのむらにどのような影響を与えましたか。
実際に焼夷弾などで町を焼き払われたりはしなかったが、周囲には戦死した人たちがいっぱいだった。(井上さんの弟さんも戦争でお亡くなりになったそうです)そのような人たちのために慰霊碑を建てたことがある。
—戦争未亡人や靖国の母は?
いた。中には戦後再婚した人もいた。(伊藤さんの奥さんのお姉さんも戦争未亡人であったそうです)
—むらは変わってきましたか。
非常に様変わりしてきた。特に区画が変わってきた。
—これからどうなっていくと考えていますか。
今が転機の時期である。今まで以上に都市化が進み、子どもの遊び場がどんどんなくなっていく。今の子どもたちがテレビゲームに走っていくのがとても残念だ。