歩き・み・ふれる歴史学  大野城市大城(釜蓋)

 

                               谷口愛子

                                山下夏希

目的

 失われつつある通称地名、忘れられつつある昔の村の姿、記憶について、平田さんにお話を伺い、記録し、後世に残す。また、調査を通して昔の人々の意識、生活に触れる事により、自身の将来や、これからの社会のあり方について考える。

 

 

調査内容〜平田寅太さんのお話〜

 

平田さん:どの範囲で今調査してるの?筑紫地区?

学生:大野城です。今回は大野城地区で私たちはここの担当なんですけど・・・(地図を広げる)

平田さん:ちょっと貸してごらん。これはあれだね、以前調査した地図だね。私の地図とどげん・・・同じものですか?同じものだね。ならこれももっとうね?

学生:いえ、それは・・・

平田さん:持ってない?これはあの、大野城市全体のね、あのーあれやね、旧字図だから、わたしんとこは、今、釜蓋やね。釜蓋が瓦田の頃の釜蓋やんね。もと瓦田やった。それが瓦田と釜蓋と、んーあれはいつごろやったかな・・・38年ごろ多分、わかれたと思う。そして、今は瓦田は瓦田、だからそれが以前にでけっとったあの地図が瓦田と釜蓋と、とうし番号でね。それで、瓦田の一番地っていうのが四王寺(シオウジ)。そして、これからずっと始まって、そして千番台になってくると・・まだこれ七百番台が釜蓋たいね。あのー六百番か、これからが瓦田になるかな。これ、あれやったら貸しとこう。

学生:ありがとうございます。

平田さん:長谷(ナガタニ)は釜蓋分になっとうごたんね。これは多分長谷はその頃でも釜蓋にはいっとった気がするね・・・だいたいこれ見りゃわかります。

学生:じゃあ、質問に移っていいですか?

平田さん:何から?あなたたちが質問集やっとったけん。これからいきますか?

学生:はい、お願いします。

平田さん:じゃあ、あなたたちが尋ねたらわかることは答える。もう頭がこうなっとうけんわからんことのが多いと思うけど(笑)

 

 

地名の通称になるのは、だいたい小字で全部呼んでたんですか?

  昔はね。はい。

それ以外の呼び名はそんなになかったんですか?

  そーねー・・・地図にのっとるこれであの呼んどったと思うね。

じゃあ、田んぼとか川とか、そういう自然のものの呼び名はありましたか?

  んーあのー昔はね、やっぱりその上鳥田(カミトリダ)なら、上鳥田っていう小字名があるわけね。ところが今度自分のあれが、上鳥田も範囲が広いでしょう。自分の田んぼに行くときに、仕事なんかするときに、よくわかるように誰から買った人の名前、〜さんの名前、まあ、さんはつけんばって、えー、ロクロウダならロクロウダ行こうとか、うんそのーコムンネモンに行こうとか、コムンネモンとか名前だね。そういうそのあれで呼ぶことはあったね。

ここは近くに池が・・・鐘ヶ浦池ですか?

  うん。で、池の名前はあんまり変わってないごたんね。それから、川の名前のようなそのあれが通称じゃないかね。正式の名前ではなくて、たとえばその裏の川、オリキリ川とか、それからその小さい川がウランタ川とか、まあ、そういうわかりやすう、百姓同士で言えばわかる通称名だね。うんそういうのは呼んどったね。

それはどうしてそういう名前になったとか、理由はありますか?

  んー、どうしてというか、それが一番呼んでわかりやすい。一番最初に呼んでた人が、まあ、誰が呼んで誰がつけたか知らんけど(笑)その川とかしこ名つけてその川が一番読みやすい、わかりやすいあれで、それが自然ずーっとこう伝わったっちゃないかな。

じゃあ、子供のころから周りの人がそういうので呼んでたから自然と呼ぶようになったんですか?  

  うん。そいうこと。子供のときに覚えた川はねそれがその正式な名かと思うて、そういうあれで呼びよったんね。ところがだんだんに大きくなってくると、文章に書いたのはその通称で呼びよう名とは違うやっぱあれたい。

田んぼの用水路にも名前はあったんですか?

  小さい用水路はそのー仕掛け溝って言ってね。〜川からそのあれしとるでしょ、小さい川があるでしょう。それから自分の田んぼに水を引くのを用水路といいます。

池から引いているものも多かったんですか?

  だいたいこのあたりは池からが多いね。

その鐘ヶ浦池は溜め池なんですか?

  うん、溜め池・・・それで、溜め池は大事なこのあたりの灌漑水を確保しとる池でしょ。だからそれには、その田んぼの係り、田んぼの係りの人に米を持ち寄り、昔はやっぱり料金は金じゃなくして米、米を持ち寄って管理費としてあげよったね。それで大体その、池の管理費は公役、公役ってあの区であれする人夫賃を定むるんですね。その公役の賃金の何人役、五人役とか三人役とかがこの池の管理料、この溝の管理料がその何人役とか、そいうその決め方してましたね。

実際ではどのくらい払ったんですか?

  んーそれはやっぱり安いですよ。そうですね、今でもそれのずーっと継続で、ひよりが一年間の管理料で公役の五人か、だから公役は一日が三千円、日当が。お互いの公共事業で高かりゃ自分が金ださにゃいかん、安けりゃそれだけ出た人が犠牲になりよる。まあ犠牲にならんような形の、無理せんような値段、それがまあ三千円くらいだろうということで、大体一人役が三千円、それの五人役。池の管理料はそれくらいですね。

じゃあ橋とかの名前も変わってないんですか?

  大体変わらんごたんですね。昔の川の橋の名は新しくあれしても、やっぱ昔の名前を取ることが多いごたんね、大きい川も。小さい川はナモナス・・・名が無い。どこどこの、こういうとこの渡りよる橋たいとかね。

集落・・小集落の名前は何ですか?

  集落の呼び名は・・・そう変わってないごたんですね。

このあたりの集落は釜蓋ですよね。

  うん、この集落は釜蓋。それから釜蓋のなかでわかるやすう、今はもう軒数が多くなっとるばって、昔は三軒とか五軒とか。まあそれを向かい釜蓋というていったり、それから中心がこのあたりでしょうな。そうすると、下のほうを下組、上のほうを上組とか、そういうやっぱり呼び名があったね。下組の人が来よるとか、上組の人が今日はどこに行きよるとか、そういう呼び方しっよた。

今は数字で一組とか二組とかって呼んでるんですか?

  そうね。今はもうそういう呼び方。今新しうなって大野城何丁目とか言うね。それが言いにくうてかえって覚えんね。僕たちはそういう言い方されるとどこの人かわからんね。昔の言い方のほうがいいね。

そうなんですか・・今新しい住宅が建ってるところは畑とか田んぼだったんですか?

  そうそう、それが新しい地番がついとるですね。

じゃあ、山とかは残ってるんですか?

  山は残っとります。もう大体上のほうは、そのー山麓地帯はご承知のような開発が進んでいたけんね。あの住宅になっとるようなところは分譲住宅で、上のほうのあれはまだ山で残っとる。大体上のほうはここでいうと私有林。大体海抜50mを高速がはしっとる。で、50mより上は高速で・・あの高速じゃない私有林、大野城私有林。

 

村の世話役はどういう風に回していったんですか?

  その当時で?今で?

えっと、その当時で・・・

  選挙たい。

それはどのくらいで選挙を行ってたんですか?

  一年改選じゃないかな。再選もありますね。だから長い人は長くするし、短い人は・・・ばって、その当時は忙しいからね。お互い生活がかかっとるからそんなに長くはしとらんじゃろ。

年行事は具体的にどういうのがあったんですか?村のお祭りとか・・・

  それはもうずっと昔から慣例の行事があってそれをやりよる中で、新しいそのあれができればそれを組み入れていくと。それからもう古くなったようなあれは、もうこれはやめとこうと、そういう風なあれで新陳代謝しよったんやないかな。で、そういうとは世話役の人がまとめてやりよったんじゃないかな。

たとえばどんなものがありましたか?

  古いものだったら大体お宮のもの、それから御観音様とか。それからあれありましたね、御荒神様といってね、あそこの家の角に石碑があるでしょう。あれは隣各組いっちょずつくらいあるもんね。あれは本当は道しるべやな、だからつくり神としてね、やっぱ百姓はお祭りしよったもんね。だから今でもおしめりがかかっとるでしょう。一年に一回はちゃんとおしめりかけて、お祭りをして、そして、それを隣組、隣組で当番を回す。今回は私の家がやる、次は下の家・・・そして、経費はやがもちじゃなかったかな。たいしたそのあれじゃない、まあ芋を煮たり野菜を煮て、握り飯、小豆飯をたいて、みんなにあれするくらいでたいした経費じゃなかったけん、やがもちやったろう。あと私たちが覚えているのは駄講っていってね、馬の講っていって、結局馬なんかはその家のおおきな財産やもんね。その馬が死んだら今度もう百姓が続かんようになる。だからみんながみんな金を持ち寄って講をつくった。

そういう講はいっぱいあったんですか?

いっぱいじゃなかったばって、一つか二つぐらいあったね。そしてみんなで助け合ってね・・・ほかにどういう行事があったかな。 御こもりかな、年に二回する氏神様のお祭り。それはもう区の人がみんな寄ってきてね。それからここでいうと上のほうにお大師様っていうのがある。それはお大師、様弘法大師の御日が四月二十一日になっとるから、その日が御大師様のお祭り。でから今日は七月の四日か。七日がお祭りと思うばって、今日はそこの神社のお祭りするでしょう、御薬師様っていうの。で、それも百姓の人がみんな集まってきてね、農林組合から酒と、肴と用意して、みんなで持ってきてそこの公園で食べよる、夕方は。

昔に比べてお祭りの数はやっぱり減ったんですか?

  減ったですね。やっぱ今はもうそういうその、飲み食いも面倒くさいでしょう。もう飲み食いはあるでしょう。だから昔はそういうそのなんかを利用して、ま、いわゆるその仕事を休む、そしておいしいものを食べる。それが楽しみだった。そしてなにかにかこつけて、やっぱ〜の日とか、〜の御日とか、まそういうあれを設けてしよったっちゃないかな。

 

じゃあ次に屋号について・・・

  屋号?屋号は私のところは農家部落でしょう、だから商売しよるあれじゃなですか。屋号はー持たんごたんですね。

じゃあ道しるべ・・さっき道しるべっておっしゃってたじゃないですか、そういう他に道しるべになるようなものはありましたか?木とか岩とか・・・

  別に地にこの辺はないごたんですね。それでその道しるべの一番やっぱ古いやつは、あなたたちがこう来よるときに、そこのゴルフ場があるでしょう。そのゴルフ場のすぐ下にこのくらいの石がたっとるでしょう。あれが一番やっぱ・・あれは大野城市の保存物で、立て札もたっとるですね。あれが大きな道しるべで、昔はそのゴルフ場に来るときの道が大きな道ですね、海のほうに通じる道、福岡市の方にもあれから行きよったでしょうや。だからあの道しるべは天保時代かなんかそれくらいに立った道しるべでしょう。・・・・・他にはないごたんですね。

じゃあ、道とか峠の名前はありますか?

  峠の名前・・・ここにはないばって、これからずーっといって、乙金のあたりはね、乙金から海のほうへ行く峠がある。あれがヌストバル。

それは普通に盗人という意味の?

  うん、盗人原。泥棒たい。泥棒がこの辺でとったものを担いでそこをこう越しよるね。だからそういう通称の盗人原。盗人原は正式の地名にありゃせんかな。(地図を見る)・・・・・のっとらんな。これはこの道をいうんですね、この辺を。ここはもうそれで通りよったですね、盗人原、盗人原で。それから今高速が通っているこの辺をヘイノクマち言いよったですね、通称ね。筒井の道のこの辺ね。どっか飛行場の道が通っとうですもんね・・・この辺かな。これは筒井分になるですもんね。筒井あたりで調査しなさったら、筒井の人間が、通称とか、それで、筒井あたりが割に古い名称をもっとるですもんね。チクマ、チクゴとか。氏神様の名前を取ってね。筒井あたりはわりとあるでしょう。うん、盗人原はのっとらんね。・・・ヘイノクマも昔からはないごたんですね。

この地図は瓦田と釜蓋と別れる前の地図なんですか、後なんですか?

  確かね、はっきりこう、何月何日に分かれたとかは記憶にないばって、多分二十四、五年前じゃなかすかね。だから境界線はまだ引いてないわけですね。

区域はまだ分けてないんですか?

  今のところはまだ分けてないけど、いずれはこれ分けないかん。というのは、そのー区費をもらったりするでしょう。そうすると瓦田分は瓦田でもらう、釜蓋分は釜蓋からもらう。そうしないと一軒一軒のあれが自然、瓦田にやるのか、釜蓋にやるのか、今の所その辺のあれで今度は瓦田にもらおうとか、釜蓋にもらおうとか、そういうふうなあれでしよるから、どれからどれまでとか決まっとらん。

じゃあ、今まで私たちが質問した中で思い出に残ってる場所とかありますか?

  んー別に思い出とかいうのはないね・・・ただ思い出に残るのはやっぱ、大きい水害にあってひどい目にあったとか、そういうことしか残らんごたんね。昔のあれんごと幽霊にあったとか、お化けがでたとかそういうのはなかごたんね(笑)それで、やっぱあの、今いうように水害やね。二十八水、三十八水・・・十年ごとに周期がくるけんね。それで瓦田と分かれたのが、確か大水のときやね、二十八水やったか三十八水やったか知らんけど、まだ僕たちが若いときじゃなかったかな。

分かれた原因はなんだったんですか?

  んーあのやっぱ、瓦田と釜蓋は耕作の内容が違うでしょう。こちらのほうが山つき、向こう側は平地、そしてさっき話しよったように、こっちは池がかり、あっちは川がかり。だからその池がかりは池を管理して水をもっとるでしょう。ま、とにかく水が問題です。瓦田の方は牛頸川とか御笠川とかああいう大きい河川を引いてきて水をとる。そのときに井関を築くために人夫を釜蓋から持っていく。そうするとこんだ釜蓋のほうから水をとるときに、瓦田からは加勢がこんわけですね。まあ、そういうふうなあれが主な原因じゃないかな。

それ以外に争いとかはなかったんですか?

  別になかごたんですね。ただ、小さい争いは、あのーあだ費を、区費をかけますね。そしてその、その時に瓦田のほうは重たいとか、釜蓋のほうは軽いとかそういう小さいせせりあいはしよったかと思います。ただ私たちは若かったしね、詳しくは知らんです。そしてそういうのがたまりたまって、大水なんかのときに、道でお互いあったときなんかに爆発して、瓦田のほうは金を持っていきよるとか、人夫をかりだしよるとか、ならそんならもう分かれるぞとかそんなことになったっちゃないかな。何もない平穏なときに仮にそういうことがあったっちゃ分かれんもんね。大体そういうのがずっと燻るんよ。そして燻って何かのときにバーンと爆発するんよ。そうせんと平常なあれで少々大きいことが爆発したって分かれにゃならんよ。小さいあれがたまりたまってね。

あだ費はどれくらいだったんですか?

  あだ費はここにいるしこの金がある。それを地が六、戸が四、そういう分け方。一戸一戸の家が四もつわけですね。土地が六を持つ。地六戸四ていうね。それが大体田舎のほうの税金の基準じゃないかな。今でもやっぱり地六戸四っていうのはいきとるですよ。例えばその消防の分担。金なんかを集むるでしょ。それでここの消防は二分団管轄で、瓦田と釜蓋と井ノ口と白木原、四個部落で一分団もっとるわけよ。それで全体的なそのあれは大野城の市が持つわけよ。ところが区にかえってくると、区は区なりのやっぱ夜警をしたり、昼でもそのいろいろ小さい活動があるでしょ。それは今度区が持つわけよ。それの分担費とか、消防の経常経費っていうのは地六戸四っていうの。それで地六戸四っていうのはずーっといきとるごたんね。

負担は重くなかったんですか?

  それはうえの金額が大きくなれば大きくなる。四分六分っていうでしょうが。半分じゃちいと重たいばって、ちいとんなら半分から負けてやろうかっていうのが四分六分っていう。

 

日照り・・・旱魃はひどくなかったんですか?

  ここ、旱魃はひどいですよ。そしてその頃はですね、やっぱさっき言いよったように、瓦田にご迷惑・・・瓦田は川がかりだから、水がどんどん来るわけよ。ここは限られた水を使うから、その長く雨が降らんかったら、池が乾くわけね。だからここは旱魃地帯。

記憶に残るくらいひどかった旱魃だった年とかは?

  それはやっぱあれやったかな、昭和十三年か十四年か、その頃やったね。そのときは確かこの辺の一体米がとれんかったって言っていい。最後の池の水を金で買ってね。一反いくらで。

水は多いときはとり放題ですよね。少なくなってきたらどういう風に規制するんですか?

  みんな寄ってきて、どうしますかってのを話し合い。この量をみんなにかけるのか、かけるしこないからかかったとこだけ金を出すのか。まあ、いわゆる買うわけですね。水が足らんときはずっと寄りごと寄りごとで池の土手で会合しよるよ。死活問題じゃからな。それから川の水を上の方から分けてもらったり。

分けてもらうのにもお金はいったんですか?

  いやそれはお金はあれせんね。お酒を持ってお礼に行くくらいのものかな。それは百姓同士の道義的な助け合いになるからね。だからこの部落はいつも頭下げて水もらいにいきよったね、酒下げて。

雨乞いとかしたんですか?

  雨乞いはねその十三年にありゃせんやったかな。龍を作ってね、そしてこの部落を回って、そこの四王寺山の一番頂上に鏡池っていう池があるよ。それが雨乞いの池で、そこまで担ぎ上げて、龍の頭を鏡池につけて戻ってくる。

台風の予防とか、そのほかの自然災害にはどう対処してえたんですか?

  台風の予防はあんまりないね。テレビ見て家のとつっぱりするくらいのもんで。自然災害ねぇ・・・まあ大体さっき言うように用心しようがないからね。大方はとつっぱりするくらいのもんで・・・まあ大水やろうな。でも大水って言ってもどこにあれするかわからんもんね。そげんやっぱ被害が出始めておろたゆるくらいのもんじゃないかな。火事もあんまり起きんね・・・昔は山火事はあったけど。いまは起こらんね。

 

じゃあ用水路とか田んぼのなかの生き物はどういうものいがいますか?

  今はおらんね。昔はイモリがおったしね。今カエルもおらんよ。蛇がおらんしね。もう大体生き物の住むあれが変わったね。それからトンボがおらんでしょ。全然ないことないばって、昔は盆前とかこうおったでしょ。あれがおらん。それから蝉がおらん。鳴いてないでしょう?もう今ごろはガ‐ガ鳴きよったですもんね。

いつごろからいなくなったとかわかりますか?

  そうですねー六年前くらいじゃないですか。そういうことを意識しておったら何年ごろからいつからかわかるでしょうが、そういうこと意識しとらんでしょ。だからいつからかわからんです。

じゃあ六年前から土地開発が始まったとかあったんですか?

  いやー六年前からじゃなくして、それこそ十五、六年前から土地開発はしてきたばってね。それの関係じゃろうか、それとも天候か。

天候もやっぱり昔とはちがいますか?

  天候の関係である程度やっぱこの・・例えばミミズがおらんようになるとモグラがおらんとか。カエルがおらんようになってくると蛇がおらんとか。そういうやっぱお互い関係してるからそういうあれじゃないですかな。まーそれもやっぱ開発が大きな原因でしょうな・・・開発して、自然な川がコンクリートになるでしょうが、そうするともう棲みにくくなるですもんね。だからそういう関係じゃないかなと思って。

昔はどんな生き物がいたんですか?

  昔はいっぱいおったですよ。川に入ればイモリはおるし、何とかガタとかいう大きいあれがおったし、川魚もおったもう今はおらん。

大体このあたりの用水路もコンクリートなんですよね。いつごろ変わったんですか?

  いつごろっていうか予算の関係で少しずつ進めていって、んー三十七、八年ごろかな、そのころからそろそろ始めてきたですね。そして今になると大方コンクリートじゃもん・・・・それが私は議員時代はずーっともう建設を担当しとったけんね。そういうその川のとか舗装とかそいうそのあれを請けよったですね。そのころの土木予算が三千万くらいしかもたんやった。今は三十億くらいもっとう。だからちょっとどうかっていえばすぐコンクリートにするでしょうが。むかしはちょっとのことくらいじゃせんかった。

田んぼの面積は昔と変わらないくらいあるんですか?

  面積はもうずーっと減ったですよ。面積が減ったから人口が多なりよる。だからもうずーっと区画整理したでしょうが。それでどんどん人間は多なる。そして金は入ってくる。

田んぼの中の生き物は変わらないんですか?

  かわらんね。合鴨がおったり、鯉を入れたりね。農業用にね、田んぼの草とらせるために鯉をいれるとがあるでしょうが、私のとこはそういうのはしてないです。そらま、筑後の方のほんな百姓じゃないと・・・この辺でそんなことしたっちゃ犬がきたり(笑)

川にいる生き物も変わったんですか?

  川にいる生き物で変化のあったとは・・・いま鮠(ハヤ)が昇ってきたですね。もともと公共下水道に、川をきれいになすでしょう。あれは下水道が流れて川が汚くなったから、鮠の棲むような川になしましょうっていうのがひとつのキャッチフレーズでね。そして今は公共下水道が入って、下水道が入らんようになったから鮠が戻って、それからあんたたちはわからんかもしれんばってカモツカっていってね、清流にしかおらん魚がちらほらみえようごたんね。それから鯉は今は色鯉が川におるでしょ。あれは観賞用を川に流しようとよ。だから川の水はきれいになったから川の魚は増えるでしょうな。

鳥とかはどうですか?

  鳥も少なくなったですね。すずめが少なくなった。前あの秋になってくると、うようよ河原手なんかにおったのがおらんくなった。私は百姓しよるからすずめは大敵じゃもんね。だから、すずめのおどしもあんまりせんでようなりよる。ところが、カラスが多なる。田んぼにはおらんけど家のものを食べたり、第一スイカを食べたり、トマトを食べたり、もう今もう野菜何でも食ぶる。動物愛護はわかるばって百姓は迷惑せんばじゃな。それから、渡り鳥、ヒヨドリとかムクドリとかああいうとがおらんようになったね。んー私は何が原因かはわからんばって、カエルがおらんようになった、蛇がおらんようになった。それから、今度野菜つくりよってね、小さい虫がおらんようになった。そして、そんなとがおらんようになって今度、ナメクジが多なった。なんかのやっぱ現象やろうね。それは私たちにはわからん。だから、今世の中やっぱどうかなっとるよ。そうして生き物の生態が変わって、民族が滅亡したり、動物が滅亡したりしよる、何世紀ごとに、今度は人間が終いになりよるとよ。

 

麦を作る田んぼは分けてあるんですか?

  いやいや、そうじゃなくて自分で作るか作らないか。私は麦は作ってない。結局田植えの時期とね、麦刈ったあとはすぐ田植えないかんでしょ。だからその、田植えの時期と、麦の収穫時期とひっつくと忙しくなるわけですね。それがいやになって麦はつくらんようになった。そして、収穫しとってあとすいて、そして田植えないかんでしょ。その日にちがないから。大体、麦のほうが手取りは多いっていうね。ばって米のほうがやっぱ大事でしょ、主食だから。だから、頑張る人は植えよるでしょうね。そのかわり田植えが一週間ばかり遅れますね。

一等田とか、田んぼの等級はどうなってたんですか?

  田んぼの一番いいとは、やっぱ川の近辺、あれがいわゆる一等田やね。それで上に上がってくるほど等級が減ってくる。

何等田か決める基準は何かあるんですか?取れ高ですか?

  いや、それはお互いの経験でね、釜蓋でいう一等田はどこどこ、二等田はどこどこ、そういうそのあれを、お互い一等田は七俵、二等田は六俵半とかそういう決め方をするですよ、お互いの中でね。科学的なあれで決めよるわけじゃないね。お互いの経験によってあそこはようでくるからこのくらいじゃろう、あそこはこのくらいって百姓同士の中でね。

何等田まであったんですか?

  確か八等田までありゃせんやったかな。八等で・・・三俵半くらいかなあ。それは、私が今言いよるのは四斗ですよ。四斗俵の三俵。

お米の何斗蒔きとか、何升蒔きとかいうのは?

米ね・・・三升蒔きじゃろ。手で植えるあれが二升作っとけば二×三が六、六斗ばかり種つけとる。で、その種をあれする。今は田植え機でするでしょ。だから一箱が二合ニ尺か。それの、一反に何箱しよるかいな・・・二号一尺か二尺かの百箱・・・そして三俵かなあ種が。そのくらいかなあ一反。そして箱苗して植ゆるでしょ。

肥料はどういうのを使ってたんですか?

肥料は農協からね、便利になったですなあ。一発肥料ってある。一回入れればいい(笑)昔はまあ、やっぱ窒素リン酸化カリのね。あれを配合しよったもん。もう今は配合したやつやもんね。

灰とかは使っていましたか?

昔はやっぱよか肥料やったですね。灰はヤッコエってゆうてごみをこう集めて、そして焼いて、それをふるうて田んぼにふりよった。風呂の灰のごたーとは肥料になるしこたまらんもんね。こんにゃく作るときに灰汁に使うくらいのもんで。

稲の病気はありましたか?

ありますね。やっぱイモチが多いですな。葉にね、赤い斑点があれして、こっち側にもまた斑点があれして、これとこれとつながるわけよ。そしたらこの葉が黄色なっておててしまう。もう大体イモチが多いね。

予防はどんなことをしてたんですか?

もう今は消毒とかうるさいけんね。昔はしよったばって。ある程度のあれはいっちょんとれんこともないしね。専業のとこはそうは言ってられんけど。

害虫の駆除はどんなことをしてたんですか?

もう害虫はすずめ。だけんすずめのおどしはたてるけど、このごろはすずめがおらんくなったけんね。それ以外は小さい虫がおるばって、あんまり問題にならんね。昔は駆除しよったですよ。死活問題やけんね。例えば、あのーフジムシっていってね、稲が大きくなってくるとね、コノカような小さい虫がおるでしょ。それがあれすると、稲はもうべたべた倒れよったもんね。だからそれに農薬をふったり、うんと昔は、からし油、油を田んぼに浮かべてね、そして水で、足で蹴っていくとこれにフジムシつくわけよ。まあ、いわゆる原始的なやり方たいね。それで駆除しよったですね。私が小さい時は、朝、油を田んぼに張らないかんでしょうが、菜種油、食用油でね。それを田んぼに張らせるために、寒かりゃないかん。暑かったらこう張らんでしょうが。だから、朝寒いうちに、油張って、それを足でこっこっこっこ水でやりよったすですな。それからそのあとは、今度は根元に粉剤の消毒。

共同作業はしてましたか?

しよりましたよ。それはメイチュウやったごたんですね。共同で機械を買って隣組単位でやったりね。部落単位でやったり。

メイチュウって何ですか?

稲の芯の中に虫が入るわけ。そいつが稲の葉さきの方に卵産み付けて、孵化するですね。それが稲の芯に食い込む食い込むまでのうちに、何ちかの間に駆除せないかん。だから。共同防除やった。

共同作業のことを結とか加勢とか言いましたか?てまがえとか・・・

てまがえっていうのはね、私のところにあなたが加勢にくるでしょう、そうすると今度あなたのところに手間を戻さないかん、それがてまがえっていう。あとは、あっちは仕事が遅れとうからとかね、あるいはあっちは病人がいるから、それがため仕事が遅れとる、だからお加勢に行きますね。それは、加勢行こうかって。

田植えのあとの打ち上げ・・さなぼりはしていましたか?何か思いではありますか?

さなぼりはしよりましたですね。思いでは多いね。田植えで疲れきって、一番百姓であれして疲れとうのは田植えやんね。っ麦刈りして、田植えの準備して、そして田植えする。そしてようやく終わった。もう何よりも疲れとう一年中で。それにやっぱ、仕事を休んで、そして百姓でいうおご馳走を食ぶる。何よりの楽しみたい。さなぼりは結局内々やね、自分の家でやる。お加勢があっとればお加勢人と一緒に。田植えは雇うからね、私の家やったら二十人くらい。で、雇った人はもうお金あれすれば帰るからね。

牛や馬は飼っていましたか?

  私のところは馬飼っとりました。一頭、農作業の馬。馬はある程度老いたら代えよったもんね。だからばくろうさんがおるわけよ。馬を代ゆるときの仲買人たい。ばころうが大概なったら来よったもんね。年取ったからっていうのも一つあるばって、やっぱ一つの馬じゃ飽くわけね。それからばくろうっていうのが、ちいと馬が良うなったら、追い銭をするわけね。そいでちょっと程度の悪い馬持ってっていくらかやってそのまま帰る。悪い馬がおったら引き取っとってそしていくらか金もらう、そしてよか馬やる。それがばくろうの仕事たい。

えさは何だったんですか?

  えさは小麦のかすとか、ぬかとかね。やっぱ自家用じゃ足らんから買いよったね。

馬を連れて行くときの扱いはどうしてたんですか?

  うん。それは馬使いの上手下手が(笑)馬はやっぱ鋤、鍬引いたりだいぶ百姓の加勢しとる。ちゃんと口綱つかまえて、引いていくんよ。ところが、ちいともう吾がくたびれたら、馬だけあれして口綱なーごとっとって、馬車に乗ってこう・・で、左行くことをサシサシっていう、右に行くことをヘイヘイ。止まれっていうことを、ドウ。手綱も大体馬がしっとるね。サシサシヘイヘイは。手綱は大体一本ですね。たすく時は二本。牛は一本、牛はこう、左さ行くこきは綱を打つわけね。馬はこう打ったらびっくりするけ、綱二本持って、左側の綱を引っ張る。

このあたりには牛もいたんですよね?雄牛とか雌牛はなんて呼んでたんですか?

  大体このあたりは雌牛が多かったですね。雌牛はウノ、雄牛はコッテ。

馬は毎日洗ってたんですか?どういうところで洗ってたんですか?

  馬は毎日は洗わん。で、あのー近くに馬洗い場っていう川があって、まあ馬洗い場って人がつけた、馬洗うから人がつけたとじゃろ。

馬の病気っていうのはどういうものだったんですか?

 あの、獣医さん。獣医さんがおってね・・ええ・・あれは何て言いよったかなあ。はくらく米ち言いよったかなあ。獣医さんに一年間のね、病気にかかってもかからんでも、あ、重い病気にかかりゃあ別だが、だいたい普通のちょっとした病気はそのはくらく米・・たしか一年に米何俵かやりようごとあったねえ。

馬の病気はやっぱりり仙痛が多いですか?

 仙痛が主やね。仙痛・・それから、ま、怪我なんかは滅多になかったばってんね。

足を悪くしたりとかはないんですか?

 あんまりなかったねえ。足を悪くするっちゃあ結局藪ん中に入って竹を踏んだりね、

 それから、なんか物を引っ掛けてちょっと足を怪我する。あんまりなかったね、足の怪我は。まあやっぱし仙痛。

馬の種類は?道産子とかですか?

 この辺でおいとうのはノルマンっていいよったねえ。

重種ですか?

 うん。あなたよくおわかりだねえ。

はい。私乗馬をしているんですよ。

ああそうね。サラブとかアラブとかは荒いけねえ。そして細いでしょうが。使いならんもんねえ。ノルマン、それから北海道産のペルシュロン。なんか北海道産がよかったねえ、馬は。ペルシュロンが。

馬洗いはあったけど、牛を洗う場所っていうのはなかったんですか?

 牛はあんまり洗わんやったねえ。牛は水につけたら爪がやおくなって。

拭いたりぐらいは?

 そうそうそう。

草切場っていうのはありました?草切山とか。

 草切山っていうのはなかったねえ。私たちは昔は馬草場っていうのがあったけどね。

それはいつ頃・・だいぶ前から使ってたんですか?

 大正・・昭和の初めごろまでは馬草場っていうのがあったっちゃないかな。馬草場っていうのは馬に食わするのとね、それから堆肥を作るために肥料がなかったから堆肥を作るためにいわゆる馬草場の、それはもうちゃんと入会権のあってね、あの・・その山でもこれからこっちは釜蓋の、これからこっちは乙金の、熊本の牧草地帯と一緒よ。

・馬草場の場所を地図を広げて聞いた・・

水城と釜蓋の入会い圏と音金と釜蓋の入会い圏があること、音金と釜蓋が入会い圏の

問題で訴訟を起こし釜蓋が敗訴した時の記念碑があることを教えていただいた。

この地区にガスがきたのはいつ頃ですか?

 四十年近くになってじゃないかな?三十五・六年から四十年の間じゃないかな?

電気がきたころの話を伝え聞いたりしていますか?

 電気がきたときの話は聞かないですね。この電灯線がね。三層モーターはなかったから。

 三層をこの辺で引いた時は、あれは誰やったかいな、県知事がここら辺に来たがねえ。 

 農村電化のモデル地区で。三層を引いて共同作業場をそこに作って。そういうことをした。

ガスとか電気がないときの暮らしはどんな風でしたか?

 千歯、それから足踏みでそれからモーターで脱穀機になっていってね。

農業以外の日常生活は?

 そりゃもう薪しかないね。それはもう薪は大事なものでそこら辺の真草場か、百姓言葉で言う

 野山かでとったね。

真草場で草を切ってくるときにはどういう風な作業をしていたんですか?

 私は真草場に草切に行く時の事は知らん。ただあったっていうことだけは知っとる。

真草場はいつ頃まで活用していたんですか?

 大正年代じゃないかな?

その後はもう馬とかを使わなくなったっていうことですか?

 そうやねえ、馬の食べる草じゃなくって馬草場って言うのは肥料。肥料がなかったから堆肥作りのために草切があったんやろうと思う。

化学肥料とかになってきたから真草場が要らなくなってきたと・・・

 そうそうそう。

木を切り出したりとかはしなかったんですか?

 それはありました。薪がいるから。

そのときはどういう方法で木を持ってきたんですか?

 竹棒に結わえてそしてだいだい棒に繋いで二把ずつ馬車の所まで担ぎ下ろしてあるいはすだで下ろしたり。そういうことをしてました。

この辺は川で流したりとかは?三笠川のほうは?

 木を流そうとしたらやっぱり相当な水量がなからないかん。この辺は地形的に山で切った木を川で流す事はなかったね。やっぱり日本の川でもそげんないでしょう。筑後川もたぶん流しとらんでしょう。

木馬(きんま)は?

 はい。木馬。すだっていうのが正解じゃないかな。木馬っていうのはね、山専門に出す人、ずっと道に

 枕を引いてねそしてずっと下ろしてくるわけ。木馬の一番端にワイヤーを巻いてそれを大きな木に巻きつけてじわじわじわじわとね、それが木馬って言うっちゃないかなと思う。それで馬で出すのはすだ。

 すだっていうのが名前があたっとるっちゃないかな。私たちはしだっていいよった。ところどころの方言があるからね。すだ、しだ、大体一緒じゃないかね。木馬木馬って言うのはちょっと離れとるね。

路引きっていうのは馬に引かせるのとはまた違うんですか?

 ろびき?・・・どうびき。どうびきはそれはまたちょっと違う。どうびきは木にカンを打ち込んで馬に引かせよった。

どの方法が一番多かったんですか?

 そりゃすだのほうが多い。どうびきって言うのは木が大きい。閑やらはもっとたが捨てたもんねえ。

・ここで奥さんがアイスを持ってきてくださり西瓜の話になる・・

炭を焼いて売ったりとかはしてたんですか?

 いやしてない。自家用は焼きよった。簡単な焼き方で。

この辺にはヤキコをしていた人はいたんですか?

 いやおらん。私は小国に山をもっとるから切ったときあたりは向こうで雇うんですよ。それをヤキコってゆうっちゃろうね。私たちは地ごしらえっていうのね、植える土地を作る事を。その人たちを雇うて地ごしらえしてもらいようですよ。一年いくらで契約して。

山を焼いたりはしたんですか?

 私は人に頼んでしてもらいようけど、この辺の人は自分でしよったんやないかなあ。余計山をもたんから。その代わり山火事を起こしよった。職人は山火事起こさんもん。

山を焼く事を特別な呼び方はありました?

 根ごしらえっていうっちゃろうねえ。造林する時の地をこしらえること。根ごしらえか地ごしらえ。

入会い山と自分の持ってる山は違うんですか?

 それは違うね。入会い山がもういらんくなって木を植えたら今でも釜蓋と音金と瓦田は今でもそこら辺の入り混じった所は入会い圏の複雑な要素をもっとるもんね。時々裁判になりよる。

野稲はありましたか?

 いやない。これは陸稲っていうね。大体全国的に陸稲っていったほうが通用する。

山のものを取って食べたりはしましたか?

 山芋くらい。

商品価値のある山のものは?

 やっぱり山芋。(笑)

山のものは食べたりはあまりしなかったんですか?

 うん。

昔の川にはどんな魚がいましたか?

 やっぱりコイ、カワズ、ウナギ・・そんなもんじゃろう。それで食べられるのはコイかウナギか。ばってんこの辺にはおらんですもんね。百姓の合間で採りに行って自家用で食べるくらいのもんで。

川の毒流しはないですか?

 ない。毒流しっていうのは平地のほうでは禁止されとることだからあんまりせんっちゃないね?話は聞くけどあんまりおらんごとあるねえ。

昔ながらのお菓子というのはありましたか?

 まあ、干し柿の焼酎漬けくらいのもんじゃろう。

栗とかは?

 栗もやけど、虫が入るでしょう?

干し柿は連と数えましたか?

 いや、一個二個。軒先にちょこっとしかないから。

食べられる野草は?

 私たちは女じゃないけん知らんけど、野草で食べられるのはワラビ、フキ。そんなもんじゃないかね。

 それ以外はあんまり食べんごとあるなあ。

米はどのように保存していましたか?

 籾ありに加工して食べるしこだけ擂りよったね。今月分だけ籾の皮むいて精米しよった。それでも虫がつくもんね。それに暑さにさらしたらおいしゅうない。

種籾は?

 種籾は昔はうちでとりよった。今は品種統一で農協でとるけど昔は種類がいろいろでね。

ネズミ対策は?

 昔は猫いらずといってネズミ捕りの薬。箱に入れとって白い粉でネズミがかかったら死ぬやつがあった。

 後は猫がとっちゃる。それで猫はあのころやっぱり大事やったもんねえ。今の猫はなんもせんで食うばっかりやけど。昔はやっぱり役に立ちよったもん。

米作りの楽しみは?

 やっぱりたのしいことがなからな作られんねえ。一生懸命で全身全霊をかけて米を作ってできた喜び。そしてそれを今年は良かった今年は悪かった。喜んだり反省したり。

苦しい時は?

 今頃の一番暑い時に草とらないかん事。(笑)

昔の暖房は?

 火鉢やろう。火鉢で自家用の炭を焼く。焼ききるのと焼ききらんのではだいぶあったかさが違う。それはやっぱり山持ったところでないとできん。

山のない家はどうしていたんですか?薪を買ったんですか?

 やっぱ震えよんなったかねえ。こうやって・・・。

ええ〜!?

・驚きながらも笑いが起こる・・

 (少し真剣になって)やっぱ山のないところは可哀想なもんやったよ。焚くもんがないからな。小さとを焼きよんなあ。山のあるとこはぼんぼん火が燃えよるもん。そんくらい違う。それでやっぱ山は大事なもんよ。

舗装される前の道はどんな道でしたか?

 それはやっぱりがたがた道。

その頃でも道の整備とかはしてたんですか?

 よく地域の人でね。自分が通る道は自分で整備しよったね。

村の外から来る行商人はいたんですか?

 物売りね?それはあったね。来る顔はきまっとったなあ。

どんなものが来るんですか?

 生魚を海から獲って来るし。あるいは干し物売りがきたりね。反物売りもきよったろうね。

魚売りはここで言ったら福岡のほうから?

 そう。福岡のほうから。

鍋ソソクリっていうのは?

 おったよ。それから蝙蝠傘の修繕とか。昔はやっぱり何でもなおして使いよったから。

修繕に来る日は決まってたんですか?

 いいや。決まってない。

来た時に?

 そう来た時に。それで、見た目で値段が違うかな。大きいものは余計取られるし小さいものは安いし。

目で見て値段が決まる。

蓑を売りに着たりとかは?野宿をして・・

 野宿しとったのかしとらんのかは知らんけど、来よったよ。・・・蓑を売りに来るような人は野宿は

 しとらんやろうなあ。竹細工なんかでして行く人は日にちが長いし包丁1本もっとけば商売になる。

そういう人は野宿しよったかもしれん。蓑は持ってきたり我うちへとり帰ったりせないかんき行き来が 

あるでしょう?

蓑を売りに来る人たちの呼び名はあったんですか?

 それは○○さんてよんどったでしょうな。

どちらのほうからきていたんですか?

 この辺じゃ蓑売りさんは築港の方から。畳表の。

かまどのお経をあげる目の見えないお坊さんって・・

 ザトウさん。庭に大きなかまどがあったの。どこの家も。それを拝むわけ。なんていうかなあ。かまどのお神様。

それをするのは目の見えない人って決まってたんですか?

 そげなことはないばってん、そげな人が多かったちゃろうね。お経あげてもらって米あげよった。

 それから薬売り。越中富山のはんこんたん。

病気になったときはお医者さんに診てもらったんですか?

 そう。それで昔は今と違ってその時その時じゃなくて盆正月払いじゃなかったかな。代金は。

米は麦と混ぜたりしましたか?

 うんと食糧難の時はどうがやしっていって同量じゃないかな。そのくらい米がなかったから。大根やら芋やらそんなといれて。確かどうがやしっていう言葉聞いた事あるもんね。

普段は混ぜないんですか?

 いや、普段も混ぜるよ。そうねえ・・・一升に二合か三合くらいじゃないかな。

自給できるおかずは?

 野菜。魚は買うことが多かったね。

果物とかは? 

 ずっとつくっとた。

昔は果物専門農家はなかったんですか?

 なかったね。もう大体この辺は何でも兼業。規模が小さいでしょうが。

地域の若者が集まるような場所はあったんですか?

 昔はクラブって言いよった。今の公民館。

男だけですか?

 うん。それはやっぱりひとつの自警団かな。

どれくらい集まってたんですか?

 多くて十人やろうね。

規律は厳しくて上下関係とかはあったんですか?

 そりゃあるよ。そのなかで教育は先輩から受けよったねえ。

何歳から何歳くらいまでの人がいるんですか?

 十六歳から二十五歳まで。二十五歳が青年の最高年齢やった。

月に何回かとかで集まるんですか?

 もう毎日に集まりよった。そこに寝泊りしよった。(家の裏手の今は公園になっている方を示しながら)

騒いだりとかしてたんですか?

 ああするよ。歌うとうたりとか。月に一回例会っていって飲み会、定例会しよったからね。そして冬になれば武道の寒稽古。夏になれば相撲の稽古。それで先輩から若い者はだいぶんきたわれとるよな。

力石は?

 力石はね、話に聞くには各区にひとつづつあったんじゃないかな。私のとこは二つあったもんね。一つが百三十斤、あと百八十斤。百八十斤はあんまりかたぎきるもんのおらんかったけど、百三十まではかたぎよったっちゃないかな。丸い石のね。

干し柿を盗んだり西瓜をとったことはありますか?

 そりゃしよるよ。若いもんがそれだけ集まっておるとだから晩に腹のへったなら。(笑)柿とりいったり。帰りはマムシから食いつかれて帰ってきようごとある。(笑)

ばれたりとかしないんですか?

 ばれてもたいした事はないもんねえ。それが普通と思うとうから。

犬は食べていたんですか?

 昔は食べとったか分からんが終戦後は少し食べたねえ。

すきやきとか鍋とかなんですか?

 すきやきやろうねえ。

体が温まるって聞いた事がありますか?

 なんか話は聞いた事あるねえ。

犬を食べるために捕まえた事はありますか?

 捕まえた事はないばってんちょうど殺しようとに出くわしててつどうたことはある。

その犬は野良犬とかなんですか? 

 野良犬。ここらへんは進駐軍がおったろうが。春日原に。米軍が。炊事場によって来ようとを捕まえて殺しよった。満州におった時にも食うとうねえ。炊事場で殺したやつを兵隊みんな食うとろうけん、だいぶん食うとろう。しらんだけたい。

よばいの話は聞きますか?

 話は聞きよったけどあんまりないねえ。

他の地域の青年とけんかしたりは?

 それはないっちゃないかねえ。ただあの青年団の運動会で勝った負けたのでけんかするねえ。

 幹部はそれの仲裁たい。

じょうもんさんという言葉は聞いた事がありますか?

 じょうもんさんはべっぴんたい。きれいな人。

まつぼりごとは?

 家のものを盗んで売るわけ。親が小遣い銭をやらんときに米を盗んで売るのがまつぼり。

誰に売るんですか?

 そういうのを専門に買う人がおる。安う買いなる。助け合い運動なん。(笑)

共同のお風呂はありました?

 うん。もやい風呂。家のちょっと上のほうにね。組合管理で。

広いんですか?

 結局一間たいな。毎日当番で管理する。

盆祭りなんかは楽しみにしてましたか?

 とにかく祭りなんかは仕事休んでいい事が楽しみやったな。それとなんかおご馳走の食べられること。

 それしか楽しみがないとじゃ。今のようにいったっちゃ同じことじゃとかで行ったり行かんかったりじゃなくて大宰府で祭りがあるときも歩いていったりしよったねえ。

恋愛結婚は多かったですか?

 恋愛はめずらしいごとあったねえ。

お見合いは地域の人で見つけるんですか?

 地域の人じゃなくして親戚とか知人が多いでしよう。そういう人の紹介。

農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか?

 そうねえ。それぞれの家によってよかった事と悪かった事とあるっちゃないかな。農地改革で見よって一番可哀想と思うのは地主やな。一反が千円足らずの保証金で全部田んぼをとられてそれで解放しとろうがねえ。

集落と集落の間に格差はありましたか?

 ま、それはそう大差はないばってん、やっぱりその集落はその集落で特色を持ってるんじゃないかな。今の農地改革でも取って取り上げた地域と恩情のある地域とある程度のこっとうでしょうなあ。そういう事のひとつの土台として人間の感情が地域の土台として伝わる。そうするとよく働く地域、働かん地域、そういうものがおのずとわかるったいねえ。働く地域の人は余裕もって暮らして働かん地域の人は今でも貧乏しよる。そういうもんたいねえ。

戦争はどういう影響があったんですか?

 自分達は出とるほうだからな。満州に行った。帰って着ての話を聞くくらいのもんでね、それぞれ苦労しとうごとあるね。いちばんやぱっり苦労したのは食糧難じゃろうねえ。物資がなかったからね。農具は悪いし着物はないし。

戦争未亡人の方はいらっしゃいますか?

 いらっしゃる。靖国の母はもう亡くならっしゃった。2人ぐらいね。

平田さん自身つらかったこととか特別な思いはありますか?

 私たちの考えでは靖国神社参拝反対とかはわからん事は無いばってん、さびしいなと思う。というのはやっぱりその小さい時から軍事教育を受けながら育っとでしょう。お前達は国のために役に立てと。そしてまた時期になったら国のために死ぬと。そういうような教育を受けて来とるから先人はみなそれを思うて死んどるっちゃけん、ところが今になって靖国神社反対と。それはさびしい気分。それで戦犯と一緒に合蔡する事がどうのこうの。それも考えられん事は無い。それならその人たちだけは別にすればいい。私もまたそういうふうに思って死んでも悔いは無かったっちゃけん。それをいざ死んでみると国民から喜ばれんような靖国神社にまつられて。そんなばかな話があるか、と思うよ。

地域のお話を色々伺ってきたんですけれどもここ何十年かの間にどんどん開発が進んできたり、環境も

変わってくるなかでこれからどうなっていくと考えられますか?

 今のままでは自然消滅になっていきやせんかなと思うよ。昭和の三十七・八年ごろに九大に大野城市の都市診断をかけたことがある。そのときに生徒が何人か来てずっと調査したよ。高速ができる前にね。

 それの調査報告が福岡市の南側でね、大きい都市が北に発展したためしがないと。そしてましてやインター(大宰府インター)ができると、その頃はまだここらへんは農地やったからね、ここは工場地帯になると、大きい工場は水が無いから来ないと、小さい町工場的なもので発展するだろうと。今度は農業は福岡市の建物と建物の間で軟弱野菜を作りよう、朝は市場に出さんもん。引き倒してから洗ったら商売人が買いに来るわけ。うちあたりは今まで福岡市に車で運だしよった。けど今度はそういった役割を大野城がするんじゃないかとそういうような診断を受けたことがある。土地はそういうようになったよ、実際は。ところが人間の精神が追いつかんわけ。昔からずっと勤農の精神があるわけ。そしたら土地成金になって惰農の精神が出たわけ。だから精神的な変化があって今の大野城市の農業が今のような状況になっとる。だから九大の診断はまちごうてなかったと、でも人間の精神がついていききらんやったと思う。そういう精神を育てないかんばってんもう育たんなあ。それでこの辺も自然消滅するよ。人間は堕落するものが一番悪い。だから九大に土地診断かけた市町村はあんまり無いばってんええ事をしたなあと思う。

質問は以上で終わりですが何か質問になかったことで話してくださることはありますか?

 今さっき言ったように昔の人の苦労を考えんとね、そりゃそれはやっぱ相当な苦労をしとんなる。それの百分の一でもいいからね今のものが苦労するだけの根性をもっとかんとね、日本はつぶれていくなあと思うけどね。子供の教育にしてもね、さっきの集会所(青年クラブ)の話でもそうだけど年配の人が若いものの教育をする、地域の教育をしよるけ。学問的な教育じゃないとよ。それでやっぱり立派な青年が育っとるわけ。子供でも一緒。他の人の子でも小言いったら今は親が怒るでしょうが。昔は人の子でもいいよった。それで昔はある程度の教育がなされとった、昔は学問はしとらんよ。今の人はみんな学問をしてる。ところが学問をしてる人が必ず良い人かっていやそうじゃないと私は思う。昔の人は学問はしとらんがなんも特別に悪いことはもっとらん。その辺が問題じゃないかなと私は思う。やっぱりこれから先は子供の教育。子供の教育をして行かんと日本は仕舞える。

ありがとうございました。最後にお生まれの年をお聞きしても良いですか?

 大正十二年十一月七日。もう八十歳。

・ここで取材は終わったがその後西瓜をいただきながら、昔の伝統を受け継いで譲っていくことを真剣に考えるとは大事だとおっしゃりご自身も地域の歴史を調べて歩いてくことが面白いと語ってくださいました。・・

 

〜取材を終えて〜

 直接平田さんにお話を伺う事で、本だけでは学べない生の歴史に触れる事ができ、大変貴重な経験になりました。物質的に豊かな暮らししか知らない私たちにはやはり不便であったり食料が無かった時代の事はなかなか実感がわかないもので、いかに先人が苦労して今の生活を築きあげたかを改めて考えさせられました。また、物や情報が豊かな時代でも人間の心は貧しくなっているという、普段からよく耳にする言葉も平田さんの口から実感を伴ってお聞きする事で、今までより耳が痛い思いがしました。今は少し歩けば大抵のものは手に入り、誰とも話をしなくても一日過ごせます。昔は、顔なじみの商人が家に物を売りに来たり、修繕に来たり、公民館に集まったり、共同の風呂に入ったりと、不便であった分人と人とのつながりが大切にされていたのではないかと思います。今回の調査で知る事がで来た昔の暮らし、平田さんのお話を忘れる事なく、また後世の人に伝えながら、私たちの現在の生活、人との関わり方や生き方を考えていきたいです。