熊本県玉名郡三加和町山十町における
現地調査                  
                 
阿部 春加

内田 梨恵

内山 由貴

お世話になった方々

荒木 忠孝さん(昭和5年生まれ)
荒木 佳詞子さん(昭和9年生まれ)
荒木 和富さん(昭和35年生まれ)


 6月26日午前10時半過ぎ、雨の降りしきる中、私たちに大学院生の
本田佳奈さんを含めた4人の現地調査が始まった。
 私たちがバスを降りたのは山十町の隣の上十町の野中というところで、
今回訪問する山十町坂本よりもかなり南に離れていたため、雨の中を30分
ほど歩くことになった。
 緑小学校十町分校の横を通り、しばらく行くと左手の方にいちご畑を見つけた
(見つけた当初は何の畑かわからなかったのだが、後にお話をうかがった際に
判明)。その先には一面にたばこ畑が広がっていた。自然というものを肌に感
じつつ、4人で感嘆の声をあげた。
 道はそこで2つにわかれていて、「こっから坂本」と書いてある木の標識
があった。私たちは地図を広げて、左の道へ進んだ。そこで、驚くべきものに
遭遇してしまった。道路で大量に死んでいる、長さが20cm
はあろうかという、ミミズだった。私たちが普通よく目にするミミズとは違い、
太く、青黒く光っていた。
 さらに進んだところで、私たちはトタン屋根の何かを発見した。本田さんが、
それは「炭焼き釜」であることを教えてくれた。かなり大きいものだそうだ。
 だんだん坂本の集落が見えてきて、ワクワクしながら歩いていくと、今度は
「ここが坂本」という、先ほど見た木の標識と似た人型の標識を見つけた。隣
には、「構造改善農道記念碑」と書いてある碑と、「坂本城跡」とある、坂本城
についての説明を記した看板があった。
 坂本の集落の中を、地図を頼りに、今回話をうかがうお宅を探した。
なかなか見つからなかったが、やっとそれらしきお宅を発見し、喜び勇んで
チャイムを鳴らしたが、しーんとしている。どうも留守のようだ。私たちは落胆
してしまい、その方の小屋で雨宿りさせてもらうことにした。一向に雨は降り止
まない。
 そんなとき、雨の中に人の声がした。下を向いていた顔をあげると、そこに
元気なおばあちゃんの姿があった。そのおばあちゃんが、「準備して
待っとったとになかなか来んから探しとったんよ。道に迷っとるかしれんて。
そしたらこっちの方さん来たて聞いたもんやけん。」と言われた。
そのおばあちゃんが、私たちが今回訪問する家の方だったのだ。どうやら私
たちはお宅を間違っていたらしい。私たちはほっとして、そのおばあちゃんの後
に続いた。
 そして、ようやくお宅に到着した。家を見た私たちはびっくりしてしまった。
とても、いやそんな言葉では言い表せないほど素敵なお家なのだ。なんと、
自分が所有する山の木を材木として使った、全てが木で出来た家。聞けば、
テレビ局から取材を受けたこともあるそうだ。部屋に入ると、さらにその温
かみを感じた。手作りの木のテーブル、イスもあり、私たちはそこに案内
されて、それぞれ自己紹介をした。

 私たちが今回お邪魔したのは、荒木さんという方のお家だ。「手漉き
和紙保存会」に所属している忠孝さん、奥さんの佳詞子さん(私たちを迎えに来
てくださったおばあちゃん)、お二人の息子で、三加和町役場に勤務する和富
さんがお話をしてくださることになった。忠孝さんには、実際に和紙で作った
名刺をいただき、熊本国体のときの、和紙で作った賞状も見せてもらった。
この辺りでは、和紙作りが行われていて、三加和町の和紙には約400年もの
伝統があるそうだ。
 三加和町には大きな山持ちはおらず、昔からほとんど貧富の差はないそうだ。
そして、均等なくらいの土地を所有している。山林所有といっても、2haには満
たない程度で、木を材木にして金にしようということはまずないらしい。
そのため、材木用の杉・ヒノキを植えたりせず、雑木のままなので、山の
保水能力が高く、水がとても綺麗らしい。山の木々は、子供たちが分家する
際に、家を建てるための材木として使われることが多く、自分の財産、といった
意味合いが多い。また、「木炭研究会」というものがあるそう。

坂本部落は、昔38戸、今は35戸ある。坂本の部落は大体3つに分
かれており、東からそれぞれカミグミ・ナカグミ・シモグミと呼ぶ(荒木さん
方はナカグミ)。それぞれのクミはコウジュウ(講中)というものを組織
しており、葬式などの共同作業のときに取り仕切る働きをする。しかし葬式の
場合、斎場ができたので、若い人は昔の葬式の段取りを知らないらしい。
<和富さん>:「葬式の最後のお別れの膳のことをオトキ(お斎)
というとです。オトキがなかごっなったとはここ2〜3年ですたいね。昔は
葬儀屋さんの斎場がなかったので、うちで誰か亡くなったら、コウジュウ、周り
十軒ばっかりの人達が葬式の準備から色々なことを全部してやらすとですたい。
そして土葬やったときは墓の穴掘りまでしよらした。土葬?火葬はですね、昔は
火葬してもまだ納骨堂がなかったとですよ。」<忠孝さん>:「だけん、
えらい穴ば掘りよらしたとです。堀りよっと、横から人骨が出てくっとです。」
 この作業を3つのクミ(講中)に分かれて行っていた。オトキは最低でも1
50人分ぐらいは作っていた。そして必ずお別れの膳ということで、みんなが食
べていた。
 その3つのクミは、太平洋戦争が始まった頃に隣組というものになり、昔
からあった講中の3クミがさらに細かく分かれ、6組になった。その組1
つずつを五人組(五人組とは名称であって、5軒のところもあれば7軒
のところもあったそうだ)と呼んでおり、それぞれの組に組長が1人
ずついた。今でもその隣組が残っていて、町役場からの配り物などはまず
五人組の組長に渡され、組長が自分の組の人に渡すということが行
われているそうだ。五人組の組長の上に坂本の区長がいるが、年行事
はいなかったらしい。

坂本には坂本日吉神社というお宮があり、3組全部の氏神様だそうだ。他にも
トシノカミ(歳の神・トシカミサン)、ヤマノカミ(山の神)、アミダサン
(阿弥陀如来)とある。歳の神は、現在ふれあい広場
のところにかくらがあるが、元々は坂本日吉神社のところに祭ってあった。
でも、一緒に祭るのはよくないということになって、坂本橋のところに新
しくかくらを作ったそうだ。その後、河川工事を行うため、そのかくらを移
さなければならなくなり、今の位置に移ったという話だ。また、タニガシラ
(谷頭)と呼ばれるところには、寺跡があるそうだ。
 <忠孝さん>:「荒木一族が守っとる神さんもおんなはっとですよ。
それがですね、荒木一族の氏神さんっちゅうかですねぇ、それが・・・山
伏っていうですかねぇ、ヤンボッサンってうちあたりは呼んどります。昔の話
ですたい、山伏が、タニガシラにあった家に一晩泊めてくれっちゅうて一泊
した。その山伏は金ばたくさん持っとったげな。ばってん、荒木の一族のうちの
不心得な人がその山伏を、えらい太か赤松(ヤンボッサンマツ、と呼
んでいるそうだ)があっとこに待ち伏せして、山伏を殺して金ば奪った。
そしてその人がお金を持って家に帰ってきたら、自在鉤ですたいね、それに山伏
の首が下がっとった。それでもう、大変だっちゅうことで、一生末代まで
荒木家全部で供養します、ってことになった。だけんですね、今でも
ヤンボッサンゴモてあるとですよ。ヤンボッサンゴモても言うしアラキゴモても
言う。日にちを決めて、荒木家のどっかの家に集まってお籠
もりすっとですよ。10月23日が命日ですたい。」

坂本には荒木という姓の家が10軒あるそうだ。坂本の部落自体に姓が荒木・
池田・松尾の3つしかなく、それは三加和町全体に言えることで(例えば、
山十町橋上には北原と竹下、といった具合)、名字を聞けば大体住んでいる部落
がわかるそうだ。
<和富さん>:「(坂本に)名字が3つしかなかとか改めて
思ったことはなかけん、こうやって(外部から)来なはったときに、あぁ、名字
は3つしかなかたい、と思う。(名字が3つしかないことは)当たり前、普通に
思っとるけんね。」
このように名字が少ないので、各々の家に屋号がついているのか、と尋
ねたところ、屋号はついていないそうだ。ただ、坂本の区長をしている家には
屋号があり、イガモト(イガワノモト・イガンモト、井川の元)という。その家
では出水が出ることから、そういう屋号がついているらしい。
 出水の話がでたので、この辺りでの水の話を伺った。終戦になる頃まで、坂本
には井戸(つるべ井戸)が2つしかなかったそうだ。あとは山からの水を
使っていて(水はとても良い)、水に苦労したことはないという。貯水池や堤
もなく、昔あった堤はカラヅツミといって今では干上がっているらしい。
<和富さん>:「米を植えたときも、旱魃がきても、田に水ばやるだけの十分
な水はあったとですよ。水がないところは田んぼの上流のところに必ず池
がある。旱魃で水が足らんごつなったときは堤の栓ば抜いて、下ん方に水ば供給
しよらした。」
 田植えのときに、今年も水が潤沢にありますように、という願いを込めて、
水の神様にサナボリの祝いというものをやっていたそうだ。若竹を切って、
それに塩と米といりことを神に包んだものをまいて、それをわらあみに2つ下
げて、井手頭に供えた。



坂本には、坂本城跡があり、それを主体にして田んぼや川などの呼び名(しこ
名)があるそうだ。
   シロヤマ(城山)
     坂本城跡がある山の名前。
ヤシキ(屋敷)
     田んぼ・畑の名前。この辺りに実際屋敷があったのだろうと言
われている。
   ヤシキガワ(屋敷川)
     ヤシキの隣を流れる、シロヤマの谷川。
マエダ(前田)
     公民館のあたりで、ヤシキの前にある田んぼ。ヤシキの前にあるから
マエダ、というらしい。
   シロンヒラ(城ん平)
     見張り場があった山らしく、今でも火のかくらが残っている。城ん平
に立つと、集落が一望でき、橋上のあたりまで見渡せるそう。
   ナキダニ(泣き谷)
     ヤシキガワをのぼったところにある谷。坂本城に荷物を届けるために
人々        が泣き泣きこの谷をのぼっていた、という話からついた
名前。
   タルコロバカシ
     ナキダニの西にある谷。樽が転ぶほど急な谷、という意味。


 こんな調子で話を続けていると、佳詞子さんが「ご飯ば食べようか〜」と声
をかけてくれた。私たちは一応、昼ごはんを用意して来たのだが、佳詞子
さんが「食べていかんね!」とおっしゃって下さったので、お言葉に甘
えさせてもらい、お昼ご飯をごちそうになることにした。
 しょうがの漬物にひじきをたいたもの、「畑の肉」である大豆を
使ったおから、梅を煮たもの、次から次へとお惣菜が出てきた。また、
三加和町特産だという「掛け干し米」を炊いたご飯、ほくほくの肉じゃが。
とにかくみんな美味しかった。おかわりまでさせてもらった。昔から変わらない
食卓の風景。大人数で食事をとることの楽しさ。「美味しいです!」という私
たちに対して、「それは良かった。」と言うおばあちゃんの笑顔。そして、
この温かい空間がさらにごはんを美味しくしているのだろう。
 外では雨が降り続いている。まさに今この地方に大雨洪水警報が発令された。
役場に勤める和富さんは、役場に行かなければならないそうで、ここで私たちは
和富さんとお別れすることになった。



昼食後、しこ名の話を続けてもらった。
   ミヤノウラ・ミヤンウラ(宮の裏)
     坂本日吉神社の裏あたりの地名。
   ワサダ(早田)
     坂本の土地は肥えていて米がよくとれたそうだ。
   ジャータ
     田んぼの名前。由来はわからないが昔からそう呼んでいた。4〜5反
あり、ミヤノウラとジャータはほぼ同じ位置にある。
   ヒラキダ(開田)
     田んぼの名前。小字にもある。小字開田と坂本は谷を境界
にしている。
   コクドウサン(国土山)
     山の尾根の名前。塚や石のかくらがあり、今は笹が生えているそう。
   イモツカ
     コクドウサンの下のあたりで、昔の峠道。塚
はあったかもしれないが、わからないそうだ。
   ホンダン・ホンダニ(本谷)
     谷の名前。ホンダニと呼ばれる谷は2つある。
   ジャータダン(ジャータ谷)
     谷の名前。
   マツカダン(松塚谷)
     小字松塚にある谷。
   ツメヤマ
     小字詰ノ山にある田んぼの名前。
   イワトリザコ
     小字詰ノ山にある山の名前。1ha以上ある。
   ヒラミ
     小字詰ノ山にある山の名前。1ha以上ある。
   サトミチ
     立花町と三加和町の境界辺りの道の名前。
   フジワラ(藤原)
     立花町と三加和町の境界辺りの山の名前。
<忠孝さん>:「サトミチ、フジワラ辺りが草切場でした。自動車はなかけん牛
ばひっぱって、毎朝草切り行きよったっですよ。で、6把、片一方3把片一方
3把で6把、ウシグサて言うて牛に担がせて、それで堆肥作って、田んぼに使
いよった。」

 次々と出てくる忠孝さんの昔話に、佳詞子さんも参加して下さった。
<佳詞子さん>:「今ん世の中じゃ想像つかんですね、(世の中は)変
わりましたねぇ。そりゃ女の仕事でん変わりましたよ。朝起きってからお茶釜
ば燃やさなんとですよ、マッチで。そしてご飯ばかまどですたいね、それも火
で炊いて、ご飯が出来たら(火から)おろして、今度はおつゆ鍋で。みんな燃
やすとやったですたいね。そすとお風呂は、ポンプ、ギッチョンギッチョン
ていうやつで、もう忘れもせんね、155〜156回
するといっぱいになっとですよ。五右衛門風呂ですたい。冬は下から上
がってくる井戸水が温かけん、汲んですぐ沸かした方がよかとです。でも夏
はですね、お昼ご飯食べてから(井戸水を)汲んどくと、焚き物が半分
でよかです。夏は下から上がってくる水は冷たかけん、昼から汲んどくと温
くなっとですよ。だけんもう昼ご飯食べて、ニッチュヨコイ(日中憩い)
ていうてから、暑かとき親たちは休みなはっとですたい。それば私は156回
ギッチョンギッチョンやって水ば入れよったですよ。そしてまた夕ご飯炊いてお
風呂も燃やす。もう今はチャッチャッチャッてすっと(一同笑う)、お風呂
もすぐ入らるるし、昼でん汗じっくりになってきたらシャーってシャワー
あびてよかでしょ?昔はほんなごて何しよったとやろかーって自分で思う。」

 正月の話
<忠孝さん>:「正月はですね、大晦日、31日にクヌギば切ってきて、
かまどんとこに燃やして、燃えっでしょうが、それに灰ば被せて埋めとって、
その火を(元日に)使った。マッチはあったけど、元日になってから何日かは
マッチは使わんとです。」
<佳詞子さん>:「1月1日は何でん休ませなんて。年度始まりじゃけん。まな
板も包丁も使っちゃいけないて。水もね、元日の水はワカミズ(若水)て言
うて、女はやっぱ汚らわしいちゅうて、やけん元日には男が井戸水ば汲
みよった。そして31日の晩はね、雑煮の野菜からなんからみんな野菜は
切っとかなんと。それはみんな丸く、円満ていうかね、まーるくていうか。昔
からの言い伝えがあっとでしょうね。」

 ここで、忠孝さんが昭和5年生まれ、佳詞子さんが昭和9年生
まれということを教えてもらった。お二人は年齢よりとても若く見えたので、私
たちが口々に「若いですね〜」と言うと、佳詞子さんが「美人だから」と言
われたので、みんな大笑い。
<佳詞子さん>:「さっきの話の続きばってん、まだ夜暗かとに起きって薪
ばくべなんもんだけん、あくる朝の(薪は)前ん日に必ず用意
しとったですもん。かまどん隣に焚き物置き場てあったとですもん。そこに(薪
を)持ってきてですね、置きよったですたい。そしてご飯がたぎってから今度
はおつゆ炊いてねー、もう今はご飯はこっち(炊飯器)でカチャンて出来
よっですよ。味噌んおつゆだけは作るけどねー。もう本当に結構な世の中
でねー、あんまり進みすぎたですね、日本も。人命が侵
されよっちゃなかですか。インスタントとかあんなもん食べて、地球温暖化
とかいうて。野菜でも前はみかんば植えた間にすいかば植えて。食
べきらんごとなりよったですよ。太かとがごろごろあったけん。今はもう
作ってもならないですね。家で食べる野菜は家で作りたいと思うけど、
なかなかならんですね。虫がたかるし。寒かとき寒か、暑かとき暑
かとよかけど今はめちゃくちゃでしょうが。」
 そして、いつでも何でもあるので、野菜などのシーズンがいつか、
わからないでしょう?と言われた。確かに一年中何
でもあるからわからないです、と答えると、とにかく、店に出ていて一年で
一番安いときが旬のものだと思えば間違いない、ということを教えてもらった。

 野菜の話が出たのでこの辺りの農産物について話を伺った。たけのこ、なす、
いちご、米などが多いそうだ。米については、もう今は専業農家が一軒
しかなく、また農業するのは年寄りばかりで若い人は外に出てしまうらしい。
このことは深刻な問題で、農業する人
がいなくなったらどうなってしまうのだろう、中国産韓国産ばかりで将来が
心配だ、と言われた。

 牛の話
 飼育団地というものはないが、牛を飼っている人がいらっしゃるそうだ。40
0〜500頭ぐらい飼っていて、その光景は「別世界のごたっとこさん」
らしい。肉牛(肥育牛)で、太らせて屠殺場に出すもの。ホルスタインが主で、
赤牛も何匹かいるが、ホルスタインの方が肉質がいいそうだ。
 畜産をするとその糞尿にハエが相当たかり、公害にまでなるので、糞尿を処理
して堆肥を作る施設を個人で1億かけて作った人がいるそうだ。堆肥は2トン
車1台でバラ積みして7千円ぐらい。
 また、坂本農免道路を行くと、三加和町の公園があり、その手前に外部から来
ている養鶏場がある。その鶏は卵を産むブロイラーらしい。

 早乙女の話
 早乙女とは呼ばずに、テマガエと呼んでいたそうだ。佳詞子さんはテマガエの
専門だったらしい。今はもうないということだ。

 お二人の出会いの話
お二人はお見合いですか?という質問に、佳詞子さんが、「お見合いです。
もう縁ですよ。ちょっとそれがそれが」と言って大笑いなさったので、私
たちはもう興味津々で「聞きたいです〜!」と身を乗り出した。
<佳詞子さん>:「もうデートにも行かんで(佳詞子さん大笑い)。不思議
なごたる。そして来年辺り(結婚して)50年じゃないかな、(結婚したのが)
昭和31年の3月5日です。必ず息子たちや孫たちが結婚記念日ていうて色々
してやるよ。ありがたいことですたいね。」
 お二人は一度もお会いしたことはなかったのですか?と聞くと、本当に
一度見合いの席で会ったきりなのだそうだ。佳詞子さんは上和仁のご出身。忠孝
さんは小学校4年生くらいのときにお母様を亡くされ、義理のお母さんに育
てられたそうだ。その義理のお母さんが中和仁のご出身で、その弟さんが忠孝
さんと佳詞子さんを見合いさせようと、忠孝さんを連れてきたのがきっかけで、
めでたく結婚なさった。「ほんなこてよう決まったね。」と言う佳詞子さんに、
忠孝さんが「そりゃーやっぱ俺が美男子やけん」と答え、みんな笑ったが、特に
佳詞子さんが大爆笑して、お二人の仲の良さがよく伝わってきた。
<佳詞子さん>:「あくる年が猿の年やけん今年のうちに決
めとかなんていうて、もうそのおじさんの毎日来てからですね、だけん決
まったばってん、今好きで好きで一緒になったっちゃすぐ別れる人は別れる、
離婚する人はするばってん、もうなーんも知らんでデート1回もなし、そして
50年の来る。そりゃ色々あったけどね(と言って大笑い)。
でもじいちゃんはよかった、ほんなごてよかった。」
 その時代は結婚するのはほとんどお見合いで、恋愛結婚
はあまりなかったそうだ。結婚式は家で行っていた。お見合いして、きわめ酒
があり、行き初めというものが
あった。結婚する前に相手方の家に行くことをいう。そして結納、最後に結婚式
とい
う段取りだったそうだ。

夜這いの話
<忠孝さん>:「夜這いは昔ありよったげな。私が母の時代ですたいね。明治生
まれの
人じゃろね。明治40年代から大正くらいまでじゃろか。それが、時期的に言
うと夜
這いっちゅうのはですね、夏です。夏でないと、冬は全部締め
切ってしまうけん。」
<佳詞子さん>:「昔は女の人はパンツもはめとらんけんね。」
<忠孝さん>:「ま、仮にあの人にって、夜這いに行く、あのー、アイラブユー
しに行
こうかな(みんな大笑い)て行くと、先客のおったとかなんとかて(笑い)。
面白い話
ば聞きよったっですよ。実際そがんとがあったかなんかはわからんとですよ。
面白お
かしく話す人がおったけんそがんとば聞きよった。」
 夜這いには突然行ったりするわけではなく、それなりにお互い意思
があったのですか?
<佳詞子さん>:「やっぱほら、全然知らん人とはね、そがんこと(夜這い)
はなかろうけど。その当時は就職して(町を)出るとかそぎゃん人
もなかったし、一家に三男四男て、昔はね八人十人て子供がおったから、
だから若い人たちがおったでしょうけん、だけんやっぱその夜這
いのありよったっでしょうたいね。」
 昼間のうちに目配せとか、何か合図とかするのですか?
<佳詞子さん>:「そういうことはなかったかしれんですね。なくて、やっぱ夜
とっさに行きよったっじゃろたいね。思いたったら会いたくて会いたくて(大笑
い)。」
 他の部落に若い人が夜こっそりと行くことはありましたか?
<忠孝さん>:「夜遊びっていうとはありよったですね。ばってん、行っても話
したりなんたりて、そんくらいですね。」
<佳詞子さん>:「隣部落に遊びに行くとか、今の若い人たちはなかですね。
まだこの辺でも嫁さんもらわん男のてれーっとしっとっとのおるもん、やっぱ。
男は弁当持って見つけてさらくなら(お嫁さんが)おろうて思うけど、嫁
さんもらわんですもん。うちの息子(和富さん)と同級生のまだもらわん人
のおる、その上もおる。」
この辺りで遊びに行くっていったらどこに行くのですか?
<佳詞子さん>:「今はもう遊びに行くっていったら山鹿でしょうね。運動会
あがりに飲んで、さあ行こうか、ボーリングしに行こうか、飲み行
こうかちゅうたらやっぱほとんど山鹿、山鹿市内。」
<忠孝さん>:「まぁ春富の一部はやっぱ大牟田にまで行くです。春富辺りは
大牟田が多かろう。うちあたりはもうとんと縁がなかですね。やっぱ行
くならほとんど山鹿。山鹿か菊池。」
<佳詞子さん>:「もうばってんやっぱ今活気がないっちゅうか、あんまり昔
のごと飲み行く人もおらんごたっですね。もう年食ったせいかな。」
<忠孝さん>:「もう今ちょっと遊びに行ったって、宮崎さん行ったり鹿児島、
福岡さん行ったり、北九州さん行ったり、車で行って帰ってくる、車の時代
だけん。昔のごつてくてく歩いて行った時代じゃなかもんやけん。」
<佳詞子さん>:「今ん若か人たちはじいちゃんたちが時代のごつ飲
まんですね。飲む人は飲むけど、やっぱ車の多かけん。体こわすごつ飲む人は少
なかごた。昔は家で飲みよったけんですね。私はその後片付けばして、長襦袢
まで洗うて(笑い)、4つも5つも干してやったごつがあっですよ。片一方は
嘔吐しよる、片一方は咳出しよる(笑い)、大変だった。ねー女の人は大変
だった。私たちはやっぱ大変大変で一生終わるごたっですね。やけど今は極楽
ですなぁ。」



ここから、少し趣向を変えて、私たちがお二人に昔の様子について色々質問
することにした。

 電気はいつきましたか?
 坂本の部落に電気がきたのは対象15年ぐらいで、それまではランプを
使っていたそうだ。

炭は焼きましたか?何を作りましたか?収入はよかったですか?
<忠孝さん>:「紙漉きも炭焼きもだいぶんしたですよ、たばこも作
りよりました。」

 伝統工芸の手漉き和紙保存会に所属する忠孝さん。この地方では和紙作りが行
われている。三加和の和紙には約400年の伝統があるそうで、その保存のために
「手漉き和紙の館」が平成10年にオープンしている。「かみすきや(紙漉き
屋)」を「かむすきや」と発音。こうぞで紙作りをする。こうぞは「かじ」
「かご」と呼ばれている。
 たばこ作りは忠孝さんは民営になってすぐにやめてしまったが、今でも何人か
作っている人がいるそうだ。たばこの値は専売になった時はよかったという。
忠孝さんがたばこを作っていた頃はたばこ耕作者も多く、活気があったため「葉
たばこ品評会」が行われていた。色・質・肉付きなどを審査し、三加和町山鹿
などの郡県の順で審査が進められた。昭和39年、忠孝さんの作ったたばこが
熊本県の「優等の一席」に選ばれた。優等が10点選ばれた中で一席になった。
 たばこの葉の種類は黄色種が多く、在来種やだるま葉(葉がうすめ)
もある。見た目はきれいな葉だが、触ると葉のやにがべたべたと手
について黒くなる。しかし水で洗うとさっと落ちる。今でもたばこ乾燥室がま
3つ残っており、葉たばこは乾燥して選別し収納庫に収める。佳詞子さんが嫁に
来た頃は乾燥する時にはおがくずを燃やして温度を上げていて、始終見
ていないとすぐ2度位温度があがるので夜も眠れなかった。温度も湿度もすべて
手作業で管理していたが今では機械で自動的に管理
ができるようになったのでずいぶん楽になったらしい。
昔はがんばれ、がんばれで農業を勧めていたが、今ではおさえられ、
おさえられで農業をする若い人がいない。また農家は大変であるため農家
にお嫁さんがなかなか来ないのが悩みなのだそう。

山を焼くことはありましたか。
 焼畑・ハレヤキはあった。杉を切ったあと焼いて里芋やそばを植えていた。1
年目には里芋が1番よくとれたので新しく耕した畑には必ず里芋を植えていた。里
いもを収穫したあとにそばを蒔いていた。「いもばりゃうち」という言い方
があり「いも畑」という意味の方言で、「いもばりゃうちに行く」で「いも畑
を耕しに行く」となる。ほかにあずき(ささげ)も作っていて
ささげだごじゅるは今では高級品になっているそうだ。山では唐いもも
作っていた。くわで土を耕して、その溝に1つずつ並べていって作っていく。今
でも唐いも作りは盛んに行われている。坂本にある38軒がそれぞれ個人の山林
(山・竹山・畑)を持っていたが、全員均等というわけではなく、多少の差
はあった。農地解放で田を没収されたのは地主だけで、坂本に地主は1件のみ。

「カシノキ山」は樫木が多く焼畑には向いていなかったが、所有者がよその人
だったので坂本の人々が焼畑を行った。今では竹山となっており、昔は下の方
に畑がありみかんも作っていた(ツジノヒラと呼ばれていた)。
 イチコク;茶畑を開墾してみかんを植えていた。下の方から動力で水を上
げていたが今は田になっていておいしい米がとれるそうだ。
 井手;田と田の落差を考えて水を入れていたので電気も人の手も全く使
わなくてよい。山下井手は8反くらい。今の人たちは井手の役割をあまり知
らないため電気を使って動力で水を上げようとする人も多い。
平成168月から基盤整備が始まり宅地は20年くらいは無理でしょうという話だ。

川にはどんな魚がいましたか。川の毒流しはありましたか。
 川にはウナギやハエ(魚のハヤのこと)、ヤマソなどがいた。小学校に
通っていた頃(昭和10年代)、夏休みになると釣りのはりを100本くらい作って、
竹で作った竿にくしではりをさげて川につけておくと、ウナギなどが2030
ほどかかっていた。
川の毒流しはゲランという根物を薬屋で根っこで買って行っていた。

カンネ(葛根)はありましたか。
 あった。カンネの根を掘って葛を作っていた。カンネの根はとても大
きくたんぱく質がたまっていてこれをイノシシが掘る。他にもたけのこや里
いもなど何でも掘って食べてしまう。イノシシはたくさんいる。タヌキも昔
はいたが今は減ってしまって見かけない。

雄牛は何といいますか。雌牛は何といいますか。
 雄牛はコッテ牛、雌牛はそのまま雌牛という。牛を右へ動かす時は
マイマイ、左へ動かす時はサシサシといっていた。

ネズミ対策はどうしていますか。
 45年前からはノート位の大きさの「ぺったんこ」を使っている。昔は麦
などで作ったネズミが好むお菓子のような、食べるとのどが渇いて死んでしまう
物を売っていた。

戦中、戦後の話
 戦時中、学校に行くとカンテラ(下に油を入れて芯が出ていて、それに火
をつける)の明かりで字を書いていた。佳詞子さんは当時小学校3,4年生
くらいで防空頭巾をかぶって学校に通っていた。運動場から門まで唐いもを
作っており、お弁当はだんごが主だったが、村長さんの孫や先生の子供は卵焼
きを持ってきたりしていた。家では麦(ひらかし麦)が多く唐いもと混ぜて炊
いていた。佳詞子さんは昭和9年生まれで新制中学の第1期生だそうだ。

戦後の食糧難、犬を食べたことはありますか。
戦後の食料難でも犬を食べたことはなかったが、食べた人もいたようだ。赤犬
がおいしいって言っていたが料理するときに泡が出るので泡を取って煮
るとおいしいといわれていた。好きな人が何人か集まって食べていたようで、物
のない時代だったのでそれでもおいしく思えたのだろう。
昭和4043年頃の間にひどい水害があり、死者も出て山崩れがあり、分校が流
されるほどの被害がでた。暑いなか、死体がなかなか見つからず警察、消防で1
週間ほどかけて探し、最後に自衛隊がようやく見つけ出した。それほど被害が大
きかった。

薬売り
 いれ薬屋としてJAとあみどさん。JAは三ヶ月に1度くらいまわってくるが、
あみどさんは佐賀から不定期にやってくるとのこと。

神祭りはありますか。
 年の神祭り・山の神祭り・氏神祭りがあり、それが村の3大祭りで今
でもずっと続いている。年の神祭りは9月18日、氏神祭りは日吉神社の秋祭
りで、広場に紅白の提灯を下げてとてもきれい。その広場で神楽があり、30〜5
0代くらいの人たちが神楽を舞う。年の神祭りでは昔は両
はしにきねがついているしょっしょぎねで餅をついていた。調子に合わせて
踊って(だご)餠をつき、もちとり粉がなかったので自分たちで粉を作って出来
たての餅を手でつかんでしょうがじょうゆをつけて食べていた。

わっかもん宿はありましたか。
 今の坂本公民館がわっかもん宿だった。中に入れたのは男だけで、騒いだり
本格的に手造りで酒を造ったりしていた(焼酎やどぶろくなど)。酒官員(酒
を調べる役人)が来ると必死で逃げて酒を隠していた。酒は度数が強く、お宮
のいちばん水が冷たい所で冷やしていた。

干し柿の作り方、数え方を教えてください。
 つるし柿といい、軒下に吊るしていた。20個で1さげ。数え方は「連」

干し柿を盗んだりしましたか。
<忠孝さん>: 10代の悪か時、夜中の寝静まった頃に竿を持って取りに
行って食べよった。軒下に柿を吊るしてあるけん若者の夜遊びの夜食
になっとった。
<佳詞子さん>:つるこじょけ(竹で編んだかご)の中にまんじゅうを作って入
れとって、ねまらんごつ涼しか所に吊るしておくと朝には半分くらいに
減っとった。ばってん、とられとっても誰も騒がんで、笑うて済んどった。
<忠孝さん>:まぁ、昔の若い衆の、何というか、娯楽
のようなもんでしたねぇ。

戦後この辺りでとれ高のいい田はどこでしたか。
 やっぱりマエダですね、坂本はだいたいこの辺りでは土地がいい。ワサダも
上等。戦時中は化学肥料もなく、草木を堆肥にしていたので1反に6俵できれば
上出来だった。役場や小学校付近では10俵〜12俵はとれる(1俵は60・、
今の農協などの1袋は30・。10・は升目にしたら7升である)。今でも山
の方では6俵くらいの出来だがそのかわり水も冷たくいい米ができるそうだ。
田植え歌はありましたか。
 田植え歌はなかったが、雨乞い歌があった。子供の頃、お宮でお年寄りが雨乞
いをしているのを見たことがある。太鼓と鐘とをたたいてひょうたんを握って股
にはさんで踊っていた。「ひょうたんどすこい、あまどすこい」と歌っていた。
踊って下平へ行って太鼓をたたいてまた雨乞いをしていた。下平には大きな太鼓
があって、日吉神社で踊っていた。
 田植えの時期にお宮へ行ってみんなで豊作を願うがんたて(願をたて
る)を行う。
昔は田植えが終わっていない家へは手伝いに行ったりしていたが、今では
部落中で田植えが終わったあとにがんたてを行うようになった。今年
のがんたては6月27日に行われる。そして秋の彼岸に ひがんごも・
がんじょうじごもがある。「がんじょうじごも」は願が成じる
ことからきている。無事に米が収穫できたことへの感謝を表す行事で、
がんたてへのお礼の意味がある。昔は余興としてこの頃に雨乞いをしていた。



気がつくと、そろそろ取材を終えなければならない時間になっていた。しこ名を
記入した地図をたたみ、帰り支度を始める私たちに、佳詞子さんが、「車で
(野中まで)送っていってやるけんギリギリまでおらんね」と言って下
さった。お言葉に甘えて、送ってもらうことにした。そこで、お茶と、メロン
を漬けたものをいただいた。少し雑談をした後、最中をお土産にいただき、私
たちは帰ることにした。
 おうちを出るときには、みなさんに「また来んね!」という言葉をもらった。
高校2年生になるお孫さんも、玄関ギリギリまで来て、車に乗り込む私たちに
手を振ってくれた。
 車で10分ほど走り、野中に到着した。バスが来るまで、車の中で待
たせてもらった。車の中でも運転してくださった佳詞子さんが楽しいお話
をして下さり、バスを待つ時間はあっという間に過ぎた。佳詞子さんの優しい
笑顔に見送ってもらいながら、バスの中に乗り込んだ。

 取材時間は約4時間。本当にあっという間に過ぎた一日だった。話
をうかがって得た情報はとても貴重なものであったが、何より、荒木家
のみなさんのもらったほっこりとしたあたたかなものはずっと忘
れることはないだろう。
 私たち4人は、また荒木家のみなさんにお会いできることを楽
しみにしながら、とても名残惜しく、今回の現地調査を終えた。