三加和町和仁についての調査
調査日:6月26日
調査者:松尾梨世
松山枝里子
協力していただいた方:福原宗茂さん(昭和9年生)
上原武馬さん(大正2年生)
小山忠さん(昭和14年生)
【一日の行動記録】
8時半六本松を出発、高速を通り、三加和町に向かった。大雨が心配されたが途中で小
雨に変わり、11時頃無事に三加和町に到着。春富小学校前でバスを降り、今回お世話
になった福原さん宅へ向かった。地図を見て福原という名字が多いと感じたが、後で聞
いた話によると、田舎の方は昔から地域内の狭い範囲で結婚することが多かったため、
周りはほとんど親戚なのだそうだ。途中田中城跡を通り、11時半に福原さん宅に着いた。
福原さんの奥さんが玄関先まで出迎えてくださり、お宅へお邪魔させていただき、お昼ま
でご馳走になった。その後区長の福原さん、今年91歳になられる上原さん、高校の校長
先生をしていらっしゃった小山さんにお話を伺った。話の内容は以下に記す。帰りはこれで
もかというほどの大雨に見舞われ困っていたところ、小山さんが集合場所まで車で送って
くださったため、濡れずにバスに乗り込むことができた。4時ごろにバスに乗り、渋滞に巻
き込まれつつ行きと同じように高速を通って7時に六本松に到着。
【小字】
赤四郎(アカシロウ)
日明前(ヒアケマエ)
小田浦(オダウラ)
田中(タナカ)
古城(フルシロ)
馬場田(ババダ)
楢原(ナラハラ)
宮ノ前(ミヤノマエ)
坂口(サカグチ)
後田(ウシロダ)
金敷原(カナシキバル)
拝松(ハイマツ)
水上(ミズカミ)
年ノ神(トシノカミ)
太郎丸(タロウマル)
前田(マエダ)
和仁渕(ワニブチ)
【集落】
太郎丸
中組
坂口
馬場田
田中
小田(東と西)
赤四郎
和仁区に区長が一人、8つの集落にそれぞれ下区長が一人ずついる。
【小字にまつわる話】
☆日明前…日明前は戦の激しかったところで、ここを流れる川は戦で血が流れたという
ことで血波川(場所は地図に記す)と名づけられた。
☆古城…田中城(舞鶴城ともいう)があったことから古城と呼ばれる。また、和仁川沿い
の地域は、横穴式古墳が点在していること、高い位置に6体か7体の岩を彫っ
て作られた地蔵(いわんぞさん)があることから縄文・弥生時代は湖だったと言
われている。
☆楢原…楢原には神田(じんでん)、神主田(しゃにんだ)、毘沙門田(びしゃもんでん)が
ある。これらの水田は飢饉の時に米を納めるのを免除され、地域を救った。
またこの近くに経防(きょうぼう)という場所がある。ここは昔人身御供を捧げる代
わりにお経を埋めた場所である。
☆宮ノ前…ここにはお宮(和仁神社)があるためこう呼ばれる。
☆金敷原…金敷原の由来には2つの説がある。1つはここに宝が埋まっているためとい
う説。ここには昔古墳があって、素焼きの器(図参照)がよく出土されるそう
だ。
もう1つは「悲しき春(原?)」から金敷原となったという説。豊臣秀吉の時代、
結婚したばかりの夫婦がおり、夫が戦のため朝鮮出兵に行かねばならなく
なった。妻はこの地で夫を待ち続けたが夫は帰ってこなかった。このことに2
番目の説は由来する。
☆拝松…ここに拝み松があったことからこう呼ばれる。今の松は4代目の松で、金敷原
句会の方々によって植えられた。3代目の松は雷が落ちたため切られたそうだ。
☆和仁渕…ここには大きく深い渕がある。この渕は戦時中ニョショウ(女将?)が戦に負け
身を投げ、その遺体は菊池川まで流れたという。雨の時には吉地から和仁
渕まで火の玉が上り、それを叩き落した青年は死んでしまったという伝説があ
る。今でもここには大きい岩の上に石の祠が祀られている。火の玉といえば、
小山さんも親戚が亡くなられた時に火の玉を見たことがあるそうだ。
【農業とそれにまつわる行事について】
☆稲作…一等田では6〜7俵とれるが、山あいの田(山田)では日照不足のため4〜5俵
しかとれないそうだ。この土地でとれたお米は美味しく、福岡の寿司屋で使われ
るほどである。私たちがいただいたご飯もとても美味しかった。
用水路には昔フナやナマズ、ウナギなどがいたそうだが、今はコンクリートで整
備されたため魚が隠れる場所がなくなり、魚はいなくなってしまった。
それから、昔は田んぼにヒル(ビルともいう)がいて、田植えの時には本当にい
やだったとおっしゃっていた。また、田んぼでフナが産卵することもあったそうだ。
水取り口にも魚がいっぱいいたらしい。
共同作業はテマガエと呼ばれ、「今日は○○さんちの田んぼを加勢しよう」という
感じで行われていた。川の上流にある上和仁・中和仁の田んぼは田植えが早く
終わるため、小遣い稼ぎによく手伝いに来ていたそうだ。早乙女はないとおっしゃ
っていた。特別な歌もないそうだ。
害虫駆除には「油さし」というものをし、杉の葉で作った穂ではらっていた。飢饉の
際は水争いがあったそうだ。また、稲作ではないが、焼畑は行われていなかった
そうである。
☆家畜…牛や馬を飼っていた。戦前は馬が特に飼われており、農耕に用いたり、糞をたい
肥に使ったり、市に出したりしていた。また、いい馬は軍馬にされた。馬はすぐに
駆け出してしまうため、馬も飼い主も怪我をすることが多かったそうだ。馬を止め
る時には「どうどう」という掛け声を使うとおっしゃっていた。手綱の操作方法は、
右に曲がる時は右の手綱を引っ張り、左に曲がる時は左を引っ張ればいいそう
だ。また、病気予防として、「馬つくれ」といって、獣医さんが、馬の胴体にぬれタ
オルをあて、その上から焼きごてを当てるということをやっていた。お灸みたいな
ものらしい。
牛については、雄牛はコッテ牛と呼ばれていたそうだ。牛も馬も、糞は畑のたい
肥として使われていた。たい肥にするには、馬や牛の足元にわらを敷いておけば
いいそそうだ。えさは毎日、早朝に草を刈って食べさせていた。木の切り出しにも
馬や牛は使われていた。
☆行事…地域の行事はほとんどが農業にまつわるものであるようだ。田植え後に宮祭り
があり、輪くぐりなどをする。収穫後には秋祭りがある。御神さんが1年ごとに家
々をまわり、収穫の成功を祝うのだそうだ。また、願立てごもりと願成就というも
のもある。願立てごもりは夏の田植え後に行い、願成就は秋に行う。これらは
前述の、御神さんが来た家で行われ、皆で料理を持ち寄り、お酒を飲んで慰労
会をするそうだ。
戦前には雨乞いも行われていた。男は赤べこを着て、鐘や太鼓をたたき、踊り
を踊っていたという。できるだけ空に近くなるよう、山の頂上で行っていたそうだ。
この太鼓や、真鍮でできた鐘は区の財産であったが、戦争で小学校が授業で
ならす鐘を国に渡さなければならなかったため、代わりにこの太鼓を小学校に
納めることとなった。ところがやはり小学生が扱うために破けてしまったそうだ。
田中城の祭りもあり、今年で20回目?だそうだ。
☆小作制度…和仁の小作制度は、地主が農民に土地を貸し与えるもので、地主と農民
の差ははっきりとしていたらしい。しかし農民は小作農だけでなく自作農も
ちゃんといて、和仁では東のほうに自作農が多く、西のほうに小作農が多
かったらしい。東吉地も小作農が多かったそうだ。小山さんが前に住んで
た家の裏は庄屋さんの家だったそうで、12月31日には米が夜中まで運び
込まれていたことをよく覚えているそうだ。
【食べ物】
昔は食糧難で、山へ行って自分で何か食べるものを探すのが当たり前だったようだ。山
みそ(ブルーベリーみたいな外見で、食べたら口が黒くなる)、あけび、うべ、山桃、グミ、
桑の実、野いちご(田植えいちごとも言われる)、かやの根、びわ、すいかんぽ(ぎしぎし
ともいう)、つばな(中の柔らかい部分を食べる。育ったら蛍を取るかごにする)など、山に
は様々なものがあったそうで、懐かしそうに話していらっしゃった。今でもこれらの植物が
ないか探してみるけれど、なかなか見つからないともおっしゃっていた。すいかんぽは、昔
は貴重品であった塩を家から内緒で持って食べに行くのだが、親に見つかることもあった
そうだ。しかし、野いちごやびわ、梅などのせいで疫痢や赤痢になり、死んでしまう子供が
多かったそうだ。そのため「梅雨時の生ものは食べるな」と言われていた。
また、魚といえば干物が主で、塩ものでないのは無塩(ぶえん)と呼ばれる。ただ、正月
には大牟田や瀬高から魚売りがやってきて、さしみを食べたりしたそうだ。
それから、犬を捕まえてすき焼きにして食べていた。犬の肉は体を温めるので胃の薬と
されていたそうだ。昔は飼い犬に首輪をつけたりせず野放し状態だったので、犬を捕まえ
るのは簡単だったらしい。
米の保存については、俵で保存するか、缶に入れていた。缶には○俵入りとかいう種類
があるようだ。木を組んで作られた入れ物もあった。ねずみ対策には猫を飼っていた。し
かし今の猫はねずみに見向きもしないし、今のネズミは小さいためゴキブリホイホイにで
も捕まってしまうそうだ。
【生活について】
☆電気…電気が三加和町に来たのは上原さんが小学生の時で、大正7・8年のことだっ
たそうだ。電気が来る前はランプを使っていて、各家庭には何台も置いてあっ
た。子供たちは学校から家に帰ったら真っ黒になったランプを掃除しなければ
いけなかったという。また、薪は自分の家の山からとってきていたそうだ。ちな
みにガスは戦後にプロパンガスがやってきたが、都市ガスはまだきていないら
しい。
☆風呂…お風呂は石風呂という石でできたお風呂を使っていたが、これは屋根はある
のだが家屋の外にあったそうだ。そのため西南戦争のときには、お風呂に入
っていたときに近くで争いが始まり、驚いて家に入ったという経験をした人もい
る。お湯が相当沸きにくかったらしく、昼ごはんを食べた後すぐに沸かさないと、
夕方までに沸かなかったらしい。子供のときは、風呂を沸かすのが一番いやな
仕事だったそうだ。後に五右衛門風呂に変わったのだが、これはとても沸きや
すかったそうだ。
☆水…昔は井戸は共同が多かったらしい。地形が複雑なため上水道が今でも通ってい
ないので、地下30〜50メートルまで地面を掘りそこから湧き出た水を使ってい
るそうだ。
☆医者…昔から村には1〜2人のお医者さんがいて、福原さんの奥さんも昔「棺おけを
作っておきなさい」と言われるほどひどい病気にかかったことがあったが、中和
仁に住む津川さんというお医者さんに助けられたという。
また、平野には日本赤十字発祥といわれる博愛舎があった。これは西南戦争
のときに政府軍と鹿児島軍の両方を治療しようということで始まったらしい。
☆自然…官山といって、国が所有する山があったが、この山からは太い木などは切り出
してはいけなかったらしい。しかし、草などは刈ってよかった。
また、和仁には東と西に共有林があったが戦後にすべてわけてしまった。西の
共有林は牧草地として使われ、屋根の材料とされていたカヤなどが生えたりし
ていたそうだ。屋根は戦後には瓦に変わったらしい。共有林の木は個人で勝
手に切り出してはいけなかったそうだが、こっそりと切り出していたらしい。木
を切り出すことは山出しと呼ばれていて、牛や馬を使って行っていたそうだ。
焼畑というのは行っていなかった。
また、堤防整備などで魚の住む場所がなくなり、魚がいなくなってしまった。福
原さんの奥さんは川原がないのが寂しいとおっしゃっていた。
☆道具…昔使われていた道具には、箕(み)・千歯こき・ぶりこ(大豆をうつ道具)・糸車・
ハタなどがあった。嫁入り前には着物を自分で染めたり織ったりするため、ハ
タを所有していたのだそうだ。また、昔は箕ソソクリ・鍋ソソクリという穴が開い
たりして壊れた道具を修理する人々がいて、川端に小屋を建て住んでいたそ
うだ。しかし、一ヶ所に定住するわけではなく、集落を順にまわっていっていた
そうだ。
☆若年層について…小さいころは自分たちで刀を作って兵隊ごっこをよくしていたそう
だ。場所は金敷原で、学校から帰ったらすぐに向かっていたという。
また、戦時色が強かったころには青年団や処女会というものが結
成されてお宮に若者だけで泊り込んだりしていたらしい。それから、
キツネがスイカを盗みに来るため、そのための夜番も若者がしたり、
人の家のブドウ畑に入りブドウを盗んでから、それを若者に配った
りしていたらしい。
☆暖房…昔は暖房といったら掘りごたつかいろりだったらしく、福原さんのお宅でも掘り
ごたつを使っていたらしい。掘りごたつは中に炭火をいれて使うもので、その
ため福原さん宅では猫が座布団をコタツの中に入れてしまい、その座布団が
燃えて火事になってしまい、裏の池から水を汲んできて必死に消火活動を行
った経験があるそうだ。
【戦争について】
この地域では空爆はなかった。ただ、近くの大牟田や久留米では空爆があり、空が赤
く見えることはあったそうだ。昔、飛行機の空中戦で近くに飛行機が落ちたことがあった
らしい。飛行機は空中分解し、兵隊は落下傘で降りてきた。それを目撃した人々は米兵
が落ちたのだろうと手を叩きながら走っていったのだが、落ちたのは日本兵だった、と
いうお話も聞いた。食糧はすべて出さねばならず、学校の校庭もいも畑にするために耕
されたのだそうだ。
戦争未亡人の方は多かったそうだが、今は少なくなってきている。
【感想】
まったく知らないお家にお邪魔するということで最初はすごく緊張していましたが、皆さ
んがとても親切にしてくださったためリラックスしてお話を伺うことができました。色々な
お話を聞き、昔の暮らしについての理解をふかめることができました。特に印象的だっ
たのは、私たちは兄弟が少ないのですが、小山さんは兄弟が多く、その何人かを赤痢
で亡くしていらっしゃるというお話で、大変驚きました。現代の生活では決して学べない
ようなお話を聞くことができ、「教師は教壇にだけいるのではない」という言葉を身を持っ
て体験することができました。お昼時に伺ったにも関わらず、快く迎えてくださっただけ
ではなく、お昼ご飯まで準備していただいたり、大雨の中バスまで向かわなければなら
ない私たちをお車で送ってくださったりと、協力していただいた皆さんには本当にお世
話になりました。この場を借りて深くお礼申し上げます。この貴重な経験を無駄にしな
いよう、次の世代に伝えて行きたいと思います。