下吉地地区について
調査者 鶴園幸大
寺床幸雄
お話して下さった方 中村寿さん(79歳 大正14年生まれ)
大津伸一さん(58歳)ご夫妻
1.地区の範囲・中心(地図参照)
大津さんに尋ねたところ、この地区は、中ノ前・尾林・山添・古閑・亀ヶ浦・高塚・中ノ谷・塩井谷・柴尾で構成されているそうです。しかし、山間部の大浦については、下吉地なのか中吉地なのかよく分からないとのことでした。民家は主に村ノ前付近にあり、地区の中心であるといえます。それ以外は森林や農地が大部分を占めており、柴尾など、名前もあまり知られていない地域もあるそうです。
2.小字としこ名について
(1)小字について
・村ノ前(ムラノマエ)…「村」は昔は「牟良」と表記していたそうです。小字では「村ノ前」ですが、だいたいは「村」と呼ばれています。
・亀ヶ浦(カメノウラ)…漢字では「ヶ」が使われていますが、小字では「カメノウラ」ということになっています。それについて尋ねたところ、大津さんは「『カメノウラ』とも『カメガウラ』とも言うとですもんね。林道の名前は亀の浦林道ですが、私たちはだいたいカメガウラと言いますよ。」とおっしゃっていました。また、中村さんは「昔はだいたい『カメウラ』って呼んどったとですがねえ」とおっしゃっていました。「ガ」というのは、方言で「〜の」という意味があるため、どちらでも同じニュアンスになり、特に気にせずに両方使っているそうです。
(2)小字の由来について
由来については、中村さんもご存じないそうで、「小字は昔から変わっとらんとだろう。」とのことでした。ただ、「古閑」などは、荒地を開墾した土地という意味の「空閑地(クウカンチ)」→「古閑(コガ)」に由来すると考えられています。
(3)しこ名について(位置は地図参照)
・タケンシタ(竹下)…村ノ前の一部
・カンノンヤシキ(観音屋敷)…高塚の一部で、二城山の一番高い所(観音山と呼ばれる)から次のような言い伝えが残っています。
『昔、ここにお寺の屋敷があり、観音様が祭られていた。ある時、その像を泥棒が盗んだが、あまりの重さに途中であきらめ、ふもとの尾林に置いていった。』
現在、観音像は尾林に住んでいる方が個人で管理されているそうです。
・フルヤシキ(古屋敷)…中ノ谷の一部。昔は何軒か家があったそうです。
・ミタツバナ…亀ヶ浦の一部。堤(ダム)があったそうです。
(4)下吉地地区の昔の別名
この地区は、和仁川の川沿いであるために土地が肥沃で、昔から米や麦がとてもよく獲れる地域でした。そのため、昔はこの地区を「富貴の里」とも呼んでいたそうです。
3.地区に残る史跡・神社・伝説など
(1)体の七つの部分の神社
この地区の付近には、体の一部分にまつわる神様が祭られています。
・ 歯の神様…熊野神社(古閑)付近にある
・ 七郎神…塩井谷にある。腰から下の神様です。(地元では「七郎さん」と呼ばれて親しまれています。)テレビや新聞で話題になり、遠方からも参拝者がたくさん来るそうです。神社には、男性の性器をかたどった飾りなども置かれているそうです。毎月9日が月参りで、年に一度、4月の第一日曜日に祭りがあります。昔は4月9日でしたが、働き手が増えたため変更されたそうです。
この他、下吉地ではありませんが、耳の神様(東吉地)・命(心臓)の神様(中吉地)・胃の神様(野田)などもあるそうです。しかし、これらの神様は、それほど昔からではなく、最近になって言われるようになったものだそうです。七つの神様を巡るツアーもあり、ちょっとした観光スポットになっているそうです。
(2)佐太彦(サタヒコ)さん(地図参照)
村ノ前を通る旧道付近にあり、道案内の神様として親しまれているそうです。
(3)邊原(ヘバル)姓墓について(地図参照)
村ノ前にある墓で、次のような言い伝えがあります。
『秀吉の家臣佐々成政が和仁城(田中城)を攻めた時、坂本城(現在の山十町)に在城していた邊原氏は、和仁氏と共に和仁城に籠城した。しかし、邊原氏が裏切ったために和仁城は落城し、邊原氏は逃亡していた。その後、フラフラと出て来たが、裏切り者なので相手にされず、行き倒れになり死んだ。』
以上のような経緯から、墓は作られているが、裏切り者なので、名前ではなく「姓墓」にしたのではないか、と中村さんは考えているようです。また、「邊原」という字は、文献などでは「邊春」となっています。墓の文字は、中村さんは「邊原」と言われましたが、実物は確認できませんでした。
(4)大津山家稜(イエカド)の墓(地図参照)
墓は尾林にあり、家稜の死について次のような言い伝えがあります。
『現在の熊野神社の下に浄満寺というお寺があり、家稜は佐々成政に呼び出されて会合に行った。しかし、成政は初めから家稜をだまし討ちにするつもりで、家稜は暗殺されてしまった。』
そのたたりで、浄満寺跡付近で米を作ってもだめになってしまったそうです。しかし現在は普通に農業ができます。
(5)赤池について(地図参照)
和仁川の途中(東吉地)にあり、次のような言い伝えがあります。
『田中城の戦いのとき、14〜15歳の勇敢な姫がいた。戦いで敗れそうになったとき、姫は和仁川に身を投げ、川のよどみになっているところが血で赤く染まったためにそこを赤池と呼ぶようになった。』
大津さんも、子供の頃は遊びに行ったりしていたそうですが、「赤くはなかったですが、少し不気味な感じのあったですねぇ」と語っていました。現在は川が整備されたため、面影はあまり残っていないとのことです。
(6)早馬さんの話
『昔は、伝令を伝えるための早馬さんが走っていた。ある時、早馬さんがこの村の尾林(場所は地図参照)を通ったとき、何者かによって斬られてしまった。そのため、この場所にはたたりがある。』実際に、「あそこには家を建てても、みんなつぶれてしまうとですよ。」と大津さんが話していました。
(7)大津山氏と津山氏について
現在でもこの地区には、大津山・津山という姓の方が住んでおり、何か関係があるのか尋ねてみると、中村さんが次のように話してくださいました。
「昔、大津山という豪族がおって、津山も昔は大津山氏の一族だったとですよ。しかし、津山氏の先祖が、自分が大津山氏の正統の家系であると示すために、「大」の字ば細川氏に返上したとです。」
そのほかにも、津山氏について、「秀吉が九州征伐ばしたときに、津山氏は秀吉に協力したっですよ。だけんその恩賞に『ぶんぶく茶釜』という茶釜ばもろうたとです。今は、その茶釜は藤崎宮に奉納してあっですね。」と教えてくれました。
(8)二城山について(地図参照)
名前の由来について、「二城というのは、城の基礎ば2つ作ったとですね。たしか坂上氏だったと思いますが、それを大津山氏が自分の領地に勝手に城ば作っているということで攻めて、城はできんかったとです。城の基礎はしっかりとできとりますよ。」と中村さんは話していました。また、大津さんは、「だいたいは南関の土地と言われますね。山頂からは海も見えるとですよ。南関の側が絶壁になっとって、いまはハンググライダーどん飛ばしよるですね。堂さん(神社)もあって、正月は出店も出よったから、歩いて登っとったですよ。」と懐かしそうに話していました。
4.昔の農業の様子
(1)牛・馬について
・昔は、農業に牛も馬も使っていたそうです。牛のほうが馬よりもかなり多く、馬は2〜3割ぐらいだったそうです。中村さんの家でも先々代までは馬を飼っていて、その後は牛だけになったそうです。「戦国時代は、軍馬にも使っとったとでしょう。」とのことでした。
・牛の呼び方は、オスは「コッテ牛」と呼んでおり、メスは特に呼び方はなかったそうです。また、大津さんが、「昔は背中の太か者ばみたら『コッテ牛のごちゃんごしとる(コッテ牛のようだ)』と言うとったとですね。」と笑いながら教えてくれました。
・牛の使い方について
牛は、すきを引かせたりするのに使っていたそうです。牛の動かし方について尋ねると、中村さんが、「動かし方は人によっていろいろと違うけんね。手綱ば両側につけとるけん、手綱さばきだけでする人もおりました。『それっ』とか『はっ』って気合ばかければ動き出して、止まれは『オウッ』ち言いよった(どっと笑った)。それで手綱で腹ばパッてするとですたい。あと、左は『サッサ』、右は『マイ』って言いよったですよ。私はそぎゃんとは使いよらんだったですが(またどっと笑った)。私どんはだいたい手綱だけで動かしよったから。」と懐かしそうに教えてくれました。「それで言う事を聞いたんですか。」と尋ねると、「言う事を聞かんともおったばってんが、だいたい慣れた牛はよう言う事ば聞きよった。」と言っていました。
・「コッテ牛をおとなしくさせるために何かしていましたか。」と尋ねると、大津さんは、「金抜き(去勢)しよったたい。」と話し、中村さんは、「あ、金抜きはしよった。すれば中性になっておとなしくなる。人間でも同じことよ(またどっと笑った)。オスの気の荒かやつは、そぎゃんせんと危なかったからですね。」
・馬の使い方について
中村さんは、「馬には『まが』ば引かせよった。『まぐわ』がなまった言葉ですたい。田に水を入れたあとにかくための道具のことですよ。先のほうは鉄で、柄は木でできとった。馬は速かでパッカパッカ行くもんだけん、広か田はだいたい馬でかきよったですよ。」と教えてくれました。
・牛・馬の繁殖について
種牛と呼ばれる体型の良い牛を、繁殖のためにとっておいたそうです。その牛には農業はさせていなかったそうです。その牛を連れて回って繁殖をしていたそうです。馬も同じような感じで、繁殖専門の馬に乗って村を回ってくる人もいたそうです。
(2)米と麦について
・昔から二毛作で麦も作っていたそうです。麦は、はだか麦と粉をひく小麦の二種類を作っており、だいたいどこでも作られていました。麦は主食の一部でもあったそうです。
・ 米は、どこの田でもとてもよく収穫できるそうです。最初に述べたように、下吉地は土地が肥沃なため、「富貴の里」と呼ばれるほどでした。
(3)水について
・水田の水は、だいたい川からひいています。また、部落の上に溜池もあります。
・干ばつについて尋ねると、中村さんは、「干ばつのときは問題がありよったねぇ。水ば右にやるか左にやるかとかでね。分水点を見張っている人もおったですよ。」と教えてくれました。現在では基盤整備がされているため、問題はないそうです。
・雨乞いは、中村さんが子供の頃に1回だけ体験したそうです。「太鼓や鐘をたたいてね。仮装行列のごとあった。祭りのようなものでしたよ。空気ばかき乱してどがんかすっと雨の降るからと言ってね。」と笑いながら懐かしそうに話していました。木の車に太鼓を乗せて、たたいて村中を回ったそうです。また、昭和6年の満州事変の凱旋祝いとも重なったため、とてもにぎわったとのことでした。
(4)電気・ガスについて
・電気やガスのくる前は、灯油とカーバイトを主に使っていたそうです。灯油は石油ランプに、カーバイトは何にでも使っていたそうです。
・電気は、地区の中心部の村ノ前あたりには大正12〜13年頃にはきたそうです。しかし、中村さんの家は少し山をのぼったところにあるため、昭和40年頃にやっと電気がきた、ということです。
・ガスは、昭和40年頃にきたそうです。時期は、どこでもあまり変わらないそうです。
(5)風呂について
昔は五右衛門風呂でした。岩清水からきれいな水が出ていたため、竹で水をひいていたそうです。風呂の水汲み・たきつけは子供の仕事と決まっていたそうです。薪は山にたくさんあったため、それを取ってきて使っていたそうです。
(6)若者の暮らしについて
・青年クラブはこの地区にはなかったそうです。しかし、同年代の友人の家に集まって、縄を作ったりしていました。中村さんは、「バクチも知らんだったから、特別な遊びは何もせんかった。年の上下はごっちゃたい。厳しくされることもありましたが。」と懐かしそうに語っていました。
・中村さんの若い頃には、「青年篭り」というものがあったそうです。「昔は田んぼにどじょうがおったけん、そればすくって、ふとか釜にでどじょう汁ば作っとですよ。飯も炊いて、お宮に篭っていました。バケツにどじょう汁ば入れて食べとったですね。」と中村さんは教えてくれました。
(7)よばいの話
・よばいは、昭和初期にはけっこうたくさんあっていたそうです。「親が気づいて追い出さなかったのか。」と尋ねると、大津さんは、「親も、よか男ならば追い出しはせんかった。むしろ、よばいの来んければ、うちの娘は大丈夫だろうかと心配しとったんじゃなかかね。」と楽しそうに話していました。
・「じょうもんさん」という言葉は使っていなかったそうです。きれいな女の人のことは、「べっぴんさん」とか「よかおなご」と言っていたそうです。
・「まつぼりご」は、「よばいの時にできた子供」の意味では使わず、「親に内緒で家の米を盗んで売りに行く子供」の意味で使っていたそうです。昔は米を俵に入れていたので、竹を俵に指して中の米を抜き出して売りに行っていたそうです。小遣いなどは少なかったので、それを小遣いの足しにしていたそうです。また、このようなことを「まつぼる」と言い、へそくりのことを「まつぼり」と言っていたそうです。よばいの時にできる子供の呼び名については、話の流れで聞くことはできませんでした。しかし、よばいが一般的に行われていたことや、親もそれを認めていたことなどを考えると、よばいの時にできた子供を隠す必要はなかったのでは、と考えられます。
(7)村の生き物
・昔は、田んぼにどじょうがたくさんいたそうです。また、川には「ドンコ」と呼ばれる魚もいたそうです。これは、熱帯魚か外来魚のような姿をしている魚で、石に吸い付いている「石持ちドンコ」という魚もいるそうです。しかし、現在では全然見られないそうです。
・ タニシも、昔よりはだいぶ減ったそうです。そのため、蛍も昔ほど多くはいないそうですが、最近では少しずつ増えてきているそうです。これは、初期の農薬が強すぎたためで、最近では小さな生き物が再び増え始めているとのことでした。
感想
今回の調査で、中村さんや大津さん夫妻から様々な話を聞くことが出来た。これらのことは、普段の生活の中では知ることはできないし、もしかしたら自分の祖父母からも聞くことができないかもしれない。そのような貴重な体験が出来たので、この講義を受けて現地調査に参加して本当によかったと思った。
また、今回の調査に協力して頂き、普段聞くことの出来ない貴重な話を聞かせてくださった上に昼食までご馳走してくださった中村さん・大津さん夫妻には本当に感謝しています。ありがとうございました。