三加和町下津田
調査者:池田麻美
金島奈央
6月26日竹下栄記さんに下津田についてインタビューしました。
Q:皆さんが使っていた地名は下津田以外にありましたか?
A:ここは上原(うえつわら)の本村と言っていたが、今は皆下津田と言っています。
Q:村の田んぼにそのような名前はありましたか?
A:田んぼの一枚一枚にそんな名前はありませんが、地名はいろいろありました。例えば
丸園とか坪井川とか・・・。
Q:昔、山の中に田んぼはありましたか?
A:昔はあったけど今はないです。
Q:井手にはどんな名前がありましたか?
A:土山の井手とか上の川とかです。
Q:用水は何という名前ですか?
A:丸園からの用水とか言っていた。
Q:池は何と言いますか?
A:竹田の堤とか芋塚の堤とかです。
Q:橋にはどんな名前がありますか?
A:橋はない。ため池なので・・・。
Q:そのような地名にいわれはありますか?
A:地名のいわれは聞いたことがありません。特にない。
Q:年行事について教えて下さい。
A:3月15日と10月15日にお宮の祭りがあったが後継者不足でなくなりました。今はその日に子供の相撲大会をしています。それから6月27日頃に虫の駆除などを祈願してお祓いをします。ちょうど田植えが終わったくらいの時期に分かれ道におふだを貼っていくのです。昔は用の済んだおふだを川に流していたが、今は汚染が問題になったので山に処分している。
Q:家に屋号はついていましたか?
A:昔は万屋さん、庄屋さん、酒屋さんなどにはあったが、一般の家にはなかです。
Q:大木、古木、岩、峠などに名前はありましたか?
A:名のあるものはなかですね。
Q:地域の範囲はどこからどこまでですか?
A:下屋から本田のガソリンスタンドの先まで。
Q:田んぼの水はどこからひいていますか?
A:全部池からひいている。
Q:50年前も同じでしたか?
A:50年前から変わってない。
Q:水の量は潤沢ですか?
A:ボーリングしているので十分あります。
Q:ボーリングとは何ですか?
A:地下を掘って機械で地下から水をくみ上げることです。
Q:水争いはありますか?
A:あります。4、5日前もありました。黙って人の水を使って口げんかになる事などよく
あります。そんな時は区長さんが仲裁に入ります。区長さんには全ての責任があります。粗大ごみ問題などもなかなかうまくいかず、区長さんは大変です。最近テレビなどでダイオキシンが騒がれているので住民は皆反対している。
Q:水を分ける上で何か特別なルールはありますか?
A:帳面に記入しています。例えば坪井川 7時から1時まで などと記入するのです。
部落の規約で堤から水をひいている。昔は堤に魚(コイとかフナとか)を放して収穫が
終わったら魚をとって食べていた。でも10年前からスーパーマーケットで魚を買う方が楽なのでその習慣はなくなりました。
Q:平成6年の旱魃の思い出はありますか?
A:その頃は機械がなかったので補助金でポンプを購入した。ボーリングができるようになってからは飢饉などもない。
Q:雨乞いの経験はありますか?
A:戦前に太鼓をたたいて雨乞いをしたという話は聞いたことがあるけど、実際に経験したことはない。
Q:台風予防の神事はありましたか?
A:台風の話は聞いたことがない。
Q:用水路の中にはどんな生き物がいましたか?
A:堤にフナやドジョウなどの魚がおりました。ホタルも昔はいろんな所にたくさんいてよく家の中にも入ってきていた。最近は家庭用洗剤で水が汚れてホタルも減ってしまった。
Q:田の中にはどんな生き物がいましたか?
A:昔はフナとかドジョウとかザリガニとかがいたが、今は農薬を使ったためにカエルしかいない。
Q:麦を作れる田と作れない田はありますか?
A:昔は麦を作れない田がありましたが今はどこでも作れます。でも麦の価格が暴落して今は誰も作ってない。一等は一万円、三等は三千円くらいだった。悪い麦でも昔は牛の飼料にできたけれど今は牛もいないので使い道がない。
Q:いつ頃まで牛がいたのですか?
A:私が20歳くらいまで。牛は全てトラクターに変わってしまった。
Q:村の一等田はどのへんですか?また昔は米反当何俵でしたか?
A:村の一等田はこの辺りです。一等田なら米は反当7、8俵、低いところなら3俵くらいだった。
Q:そばは何俵でしたか?麦は?
A:そばは作ってなかった。昔は麦と米を混ぜて食べていたが今は職種が増えて農家が副業となり、裕福になったので麦は作っていません。最近では嫁はたいてい都会の方からもらうが、その時に相手の両親に農業をさせないという前提で結婚を許してもらうので若い嫁は専業主婦かパートなどをしています。
Q:何斗蒔きとか何升蒔きという田はありましたか?あったとすれば田植えをせずに直播だったのですか?
A:苗を作る時に種をばらまくことはあったが、直播ではない。
Q:昔はどんな肥料を使っていましたか?今ではどうなっていますか?
A:昔は牛の堆肥や人糞を使っていた。昔のトイレは汲み取り式だったので・・・。
終戦後から化学肥料に変わり始め、今では全て化学肥料となった。有機肥料は価格が高くて使えません。虫の駆除に合鴨を使っているところがあると聞いたことがあるが、ここでは使ってない。
Q:灰は重要でしたか?どうやって作りますか?
A:昔は雑草を燃やして作り、保存していた。
Q:稲の病気にはどんなものがありましたか?
A:穂首もちとか萎縮病とかがあった。萎縮病は田が縮んで太らない病気。気温の変化で稲が縮むんですよ。萎縮病対策として田の水を落として温度を保っていた。
Q:害虫はどうやって駆除していますか?
A:害虫は黄砂と一緒に飛んで来るのでその量は年毎に違うけど、だいたい年に2、3回消毒している。
Q:共同作業はありましたか?ゆいはありましたか?
A:昔は共同作業がありました。皆で農業をし、早く終わったところから終わっていないところを手伝いに行っていた。それをかせいに行くと行っていた。今は要請がない限りかせいには行かないと村の規約で決まっている。機械化が進み、かせいは必要なくなった。ゆいとは言ってない。
Q:田植えはいつ頃ですか?
A:6月10日から26日頃。だから27日あたりに祈願を行うのです。
Q:お手伝いの早乙女はいましたか?
A:早乙女(嫁入り前の若い娘が手伝いに来ること)はない。阿蘇にはいると聞いたことがありますけど。
Q:さなぶりはありましたか?
A:30年前まであった。今はそれぞれの家族で祝っている。
Q:田植え歌、もみすり歌はありましたか?
A:田植え歌をあしあらいと言っていた。もみすり歌は機械がくるまではあったが実際はきつくて歌なんか歌えない。
Q:飼っていたのは牛ですか?馬ですか?
A:牛です。馬は走ったり、暴れたりするし、足が弱いので使えんとですよ。
Q:牛のえさはどこから運んだのですか?
A:わらがえさ。その辺の青草を切って食べさせたりもした。
Q:牛を歩かせたり鋤をひかせたりする時のかけ声は?
A:進む時は”はいはい”、止まる時は”おー”、左に曲がる時は”さしさし”、右に曲がる時は
“まいまい”、と言っていた。
Q:どうやって手綱を操作しましたか?
A:鼻に二本の手綱をつけていた。根性のある牛もいたが、”おー”と言って撫でてやると大人しくなった。鋤の使い方の上手下手を競う牛の鋤大会もあった。
Q:雄牛と雌牛は何と言いましたか?
A:雄牛はゴッテ牛、雌牛はメスと言った。
Q:牛は毎日洗いましたか?
A:川に連れて行ってはけ(くしのようなもの)で撫でやりました。牛も喜んでいた。牛は品評会などもあり、大切にされていた。
Q:草切山はありましたか?
A:草切山はありませんでした。自分の持ち山の草を切っていた。
Q:この地区にガスがきたのはいつ頃ですか?
A:昭和40年くらい。
Q:電気がきた頃の話を聞かれていますか?
A:私が子供の頃には電気はきていたが、戦時中はランプの時もあった。その時も金持ちの家はひいていたと思う。
Q:薪はどうやって入手しましたか?
A:自分の山から取ってきた。
Q:入り会い山はありましたか?
A:なかです。全部個人所有。
Q:木の切り出しはありましたか?
A:あった。切った木は牛に引かせていた。この事をどびき(路引き)と言う。
Q:炭は焼きましたか?収入は良かったですか?焼いたとすれば自家生産ですか、ヤキコでしたか?
A:炭は焼きよったですよ。ここでは炭を売っていた人はあまりおらんよ。町に売りに行っていた。自家生産をしていて、冬の間に焼いて一晩おいてから床下に直していた。炭が原因で火事になったこともあった。
Q:山を焼くことはありましたか?
A:山を共同で焼くことはあったが、今はない。野焼きと言う。阿蘇あたりでは残っとるばってんが。
Q:山を焼いて何を作りましたか?何年間荒らしましたか?
A:何かを作ったことはなかった。牛の飼料にしていた。荒らしたことはなかった。
焼いた方が早いけれど危ないので今は草刈り機で刈っている。
Q:そばは反当何俵くらいですか?野稲は反当何俵くらいですか?
A:そばは作ってない。野稲は反当2、3俵でもち米にしたりする。野稲はあまり長くはもたない。
Q:焼畑は何という地名ですか?焼畑は民有地ですか、共有地ですか、国有林ですか?
A:焼畑に地名はなかです。だいたいは民有地。
Q:阿蘇のように草山を焼くことはありますか?
A:ちょっとした草山は昔焼いたりしていた。今はしてない。
Q:かごは取りましたか?
A:取っていた。障子の原料となる。
Q:ちょま・いらくさは取りましたか?
A:麻は作っていた。服の原料となっていた。裏にもあるですたい。
Q:山栗やカンネはありましたか?山の木の実にはどんなものがありましたか?
A:栗は枯れてしまったが、栗畑はある。カンネは野にあるやろ。山の木の実はドングリやカシの実がある。ドングリパンやドングリ粉を作っていた。
Q:他に商品価値のあった山のもの・山の幸はどんなものがありましたか?
A:竹の子や栗があった。
Q:川にはどんな魚がいましたか?川の毒流しはありましたか?
A:川にはコイやウナギがいた。川の毒流しはしていた。ゲランの木の樹液を川に流して、死んで浮いてきた魚をとって食べていた。今はしてない。
Q:おかしはどんなものがありましたか?干し柿、勝ち栗の作り方を教えてください。
A:おかしはからいも(さつまいも)やさとうきび。干し柿は柿の皮をむいてどっかにさげておけば自然とできる。食料が少ない時は干してある柿がよく盗まれていた。勝ち栗はなかった。
Q:食べられる野草は何ですか?
A:七草、のび、せりとか。
Q:食べられない野草は?
A:七草、のび、せり以外。ばってん、その気になればなんでも食える。
Q:米はどのように保存しましたか?はん米、ひょうろう米はどうしていましたか?種籾はどうしていましたか?
A:昔は米をもみせこというものに入れてもみごと保存していた。食べるときにもみを取っていた。今はがんがんというものに入れて保存している。はん米、ひょうろう米は俵に入れて保存していた。
Q:ネズミ対策はどうしていましたか?
A:袋に入れてネズミが来ないようにはりにつるした。昔はかますという網の袋に入れて天井からつるした。
Q:米作りの楽しみ、苦しみはありましたか?
A:楽しみはなかですね。苦しみはあった。やっぱり重労働だからきつかけんな。
生きるためには仕方ない。
Q:昔の暖房はどんなものでしたか?
A:炭のこたつだった。(ほりごたつ)
Q:車社会になる前の道はどの道でしたか?
A:草がおい茂っているじゃり道だった。
Q:村にはどのような物資が入り、外からどんな人が来ましたか?行商人は?魚売りはどこから?箕ソソクリ・鍋ソソクリなどは?
A:物資は入って来んかった。行商人や魚売りは町から来ていた。いかけ屋さん
(鍋を修理する人)は来ていた。外から来る人はほとんどおらんかったけど、都会に出ていた人が帰ってくることはあった。
Q:川原やお宮の境内に野宿しながら箕を直したり、箕を売りに来る人を見たことがありますか?
A:それはないけど、かごを作って売っている人はおらしたよ。
Q:カマドのお経をあげる目の見えないお坊さんはいましたか?
A:実際に見たことはないが、琵琶法師がいた。
Q:やんぶし、薬売りは来ましたか?
A:やんぶしは托鉢の格好をして来ていた。富山の薬売りが一年毎に薬交換に来ていた。今は農協あたりにあるかもしれん。
Q:昔は病気になったときはどこで診てもらいましたか?
A:町医者に診てもらっていた。上田医院があったけど、今はなくなってしまった。車で
すぐのところにあった。
Q:米は麦と混ぜたりしましたか?何対何くらいですか?
A:米:麦=6:4くらいだった。麦ばかり食べている人もいた。米と一緒にからいもをたいて食べていた。学校の弁当に麦が混ぜてあると恥ずかしいので弁当には混ぜられなかった。その分家での食事は麦の割合が多くなってしまっていた。
Q:自給できるおかずとできないおかずは?
A:自給できるおかずは、漬物や肉で自給できないおかずは魚など。
Q:結婚前の若者達が集まる宿・青年クラブはありましたか?男だけですか?そこでは何をしていましたか?規律は厳しかったですか?上級生からの制裁はありましたか?
A:昔は青年クラブがあった。今は公民館で行われている。ほとんど男ばかりが集まっていた。そこではフォークダンス、相撲、運動会の話し合いがされていた。
今は子供がいないので思うようにできない。今年の小学一年生はたったの六人だった。青年クラブの規律はとても厳しかった。こづかい千円持って来いなどという制裁はあった。
Q:力石はありましたか?干し柿を盗んだり、すいかを盗ったりしましたか?
A:公民館に力石があったが、今はない。力石は50〜100キロくらい。これを持ち上げて力自慢をしよったりしたったいな。力のない者は柿を盗って来させられていた。柿を盗ってこなければ力のある者から制裁があった。すいかを盗むことは多かったですかね。周りの人も若者だからと大目に見ていた。若者にとって腕力は全てだった。部落内の団結力はあった。平野あたりの者と出会うと即けんかをしていた。
Q:戦後の食料難に若者や消防団が犬を捕まえてすき焼きやナベにしたことはありますか?犬はおねしょの薬だと聞いたことはありますか?
A:からいもの茎を食べて飢えをしのいだりしていた。犬を捕まえて食べていた。私も犬とは知らずにだまされて食べてしまったことがあった。犬はおねしょの薬だと聞いたことはない。
Q:犬はどうしたら捕まりますか?
A:犬にちょっとえさをやって、そこを捕らえる。。
Q:「よばい」の話を聞きますか?よその村からくる青年とけんかをしたりしましたか?
A:;若いころ女のとこに遊びに行ったりしていた。親がうるさいので親にばれんようこっそ
り逢い引きしていた。もし見つかったら逃げた。手をつなぐこともできんかった。女
の人と話すだけで変なうわさがたっていた。女好きとか言われた。現代の人はそんな
事なかろうけど・・・。よその村から来る青年とはよくけんかをしていた。女関係の
事などのなわばり争い。やきもち焼いたりして・・・。
Q:こういう言葉を聞いたことがありますかーじょうもんさん、みちわけざけ、まつぼりご
もやい風呂(共同風呂)―
A:じょうもんさん、みちわけざけは聞いたことない。もやい風呂はあった。昔はごえもん
風呂と言ってた。
Q:盆踊りや祭りは楽しみでしたか?祭りはいつ頃ですか?
A:若者にとっては盆踊りや祭りは楽しみだった。祭りは8月13日頃。
Q:恋愛結婚は多かったですか?
A:お見合い結婚ばっかり。恋愛はこそっとしていた。
Q:農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか?
A:庄屋さんが村の個人に田を払い下げていた。改革前に庄屋のとこで米を作ってた人が一
番もうけとる。
Q:村に格差のようなものはありましたか?
A:格差はあった。田を抵当に入れる人もいた。庄屋はやはり強かった。
Q:昔神社の祭りの参加・運営は平等でしたか?
A:部落の人は全員参加していた。相撲大会などしていた。朝から仕事を休んで遊んでいた。
もしその時仕事をしたら罰金が課せられていた。村八分にすることもあった。村八分
とはその人とは口をきかず、かせいにも行かなかった。庄屋さんがその人を許すまで
続いていた。当時は権力があれば威張ってよかった。
Q:戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?戦争未亡人や靖国の母はいましたか?
A:あまり戦争の影響は受けていない。未亡人(靖国の母)はおられますよ。自分が小学一年
生の頃におやじが巡査役として釜山に行った。お袋は無事を祈って靖国神社に参拝に
行ってた。
Q:村は変わってきましたか?これからどうなっていくのでしょうか?
A:若者が減っているけど田の買い手もいない。どんどん減反し一丁四反となってしまった。
農業の収入は減っているのに機械費は必要なので厳しい。しかもこっちが売りすぎる
と今度は他の人が困ってしまうので大変だ。
以上でインタビューを終了します。丁寧に答えて頂きありがとうございました。