<三加和町>下大田黒現地調査

 

調査日:6月26日(土)

調査者:岩永優子、浦山絵里、北岡一沙

話者 :戸田知敏氏(昭和7年生まれ)黒原幸也氏(昭和2年生まれ)

    黒原吉広氏(昭和2年生まれ)

 

<大字> 

下大田黒

 

<小字> 

西原(ニシバル)・小次郎丸(コジロウマル)・栗山(クリヤマ)・東川(ヒガシカワ)・落合(オチアイ)・小屋敷(コヤシキ)・大原(オオハル)・桑ノ迫(クワンサコ)・通谷(トオリダニ)・岩ヶ上(イワンウエ)・今古閑(イマコガ)・嶽(タケ)・北ノ前(キタノマエ)・竹田(タケダ)・水原(ミズハラ)・松ヶ本(マツガモト)

 

<地名の中で、小字以外に皆さんが使っていた地名(通称)はありますか>

   白坂(シラサカ)

   高畑(タカバタケ)

    上ん山〈ウエンヤマ)

   ていじんめ・・・「なんとかの前ってことだと思う。」

   寺橋(テラバシ)・・「今の温泉らへん。昔、寺があった。」

   じゅう雀原(ジュウジャクバル)・・「小字の竹田の中に入っとう。」

 

  皆さん全員一生懸命思い出してくださって、どなたかが名前を思い出すたびに「ああ、言い

よった、言いよった」や「覚えとらんもんな、なかなか・・」、「(地名が)あがったら、わ     とばってんがね。」などといった言葉が飛び交っていました。

 

<むらの田や畑、井手にもそういう通称の地名はありますか>           

  大畑(ダイバタケ)・・「大きな畑があったから、大畑って言いよったんじゃなかとですかね」

   

   西ご井手(ニシゴイデ)

   東ご井手(ヒガシゴイデ)

 

<これらの通称の名前はいつごろまで使っていたんですか>  

  「戦後やね」

  「まだ田んぼがいっぱい残っとたころは言いよったばい」

  「うん。40年ぐらい前までかな。」

 

<それでは、若い人たちはその通称の名前は知らないんですか>

   「ああ、知らない知らない!」  (皆さん、口をそろえて)

   戸田氏:「こぎゃん名前は今全然使いよらんとだもん。」

 

<年行事(世話役)はいますか>

   年行事は小部落ごとで、熊野宮(一番大きい)、諏訪宮(一番古い)、平野宮などの神社にひとりいる。年行事になる人は、昔はかなりの権限を持っており、その部落では一番の力をもっていた。そのかわり、年行事は災害などがあったとき、すべての世話をせねばならず、責任も重大であった。

 

<家に屋号はついていましたか>

   屋号などはないが、ギャラリー蔵の戸田家はもともとは古酒屋で、かなり大きい家だった。ギャラリー蔵の蔵も、昔はお酒を保存するのに使っていたそうです。

 

<大木や古木、岩などについた名前はありますか>

   金平さん(こんぴらさん)・・石のほこら

   

<田んぼへの水はどこから引いていますか>

   今はポンプで水を引いているが、昔は川を区切って水を入れていた。川は和仁川で、モグラが穴を掘ってなかなか水が回ってこないという苦労もあったそうです。

 

<水をわけるうえで特別なルールはありましたか>

  「井手組合の人たちが世話をしよったね。」井手組合の人たちは川に関を作るときに、それぞれの田に水をどう流すかを決める役目をしていたそうです。

 

<雨乞いの経験などはありますか>

   雨乞いの経験は、戸田さんはほとんど覚えていないそうですが、黒原吉広さん、黒原幸也さんは記憶にあるそうです。

   黒原幸也氏:「私たちが小さかときは、お宮さんで、大きか太鼓使ってやりよったですね。」

   雨乞いに使っていた道具は、雨乞い太鼓(ぎゃん大きか)、お面(おんどん)、はちまき、鐘(平たくて、横から叩くやつ、チンカンチンカン音が鳴る)

 

<台風予防の神事(風切り)などはありましたか>

   黒原吉広氏:「年間に四回くらいでしたかね。」

   黒原幸也氏:「作願祭り(さくがんまつり)って言って、おやじたちのとき、川っぷちとかに立てよらしたござした。」

   戸田氏:「あれは水神さんの関係やったですかね。」

   黒原幸也氏:「私たちは直接は経験したことはないばってんが・・」

   戸田氏:「竹の上に紙を巻いて、立てよらしたと。」

 

<用水路の中にはどんな生き物がいましたか>

   フナ、ナマズ、鯉、ドジョウ、ギュウギュウ(まだらで人を刺す)、さえび(小さいえび)、どんこ(はぜの子供)、ウナギ、もくずがに(やま太郎がに)

 

   今はいない生き物は、ギュウギュウ、さえび、どんこ

 

<田の中にはどんな生き物がいましたか>

   おたまじゃくし(一番多い)、がめ、あぶらめ、みずすまし、ふなご(フナの子)、なまずご(なまずの子)

   大雨のとき、川から田んぼに大水が入ってくるときに、親魚が一緒に田んぼの中に入ってきて田の中に産卵していく。

   戸田氏:「今はおらんけどね。」

   黒原吉広氏:「農薬ば使うごとなってからですよね。おらんくなったのは・・」

 

<麦を作れる田と作れない田はありますか>

   「ああ、ほとんど作れるよ!」 (声をそろえて)

 

<むらの一等田はどこですか>

   今はない。今の三加和温泉の駐車場があるところが一等田だったそうです。(地図参照)

 

<むかし米は反当何俵でしたか>

   平均8俵。いい田は10俵。悪い田は4〜5俵。

   麦は反当5〜6俵。そばはほんの少し(自家用のみ)。

 

<むかしはどんな肥料を使いましたか>

   牛馬のたい肥。人糞(便所にためていた人糞を発酵させて肥料にする)

   今は化学肥料を使っている。

 

<灰は重要でしたか>

   灰は重要。灰をまくと、虫がつかない。かまどからとれる。

 

<稲の病気にはどんなものがありましたか>

   いもち、うんか、螟虫、

 

<害虫はどうやって駆除しましたか>

   石油をたらしていた。油を水の上を走らせることで、虫がつかず、稲にも害はない。

 

<共同作業はありましたか>

 ほとんどが共同作業で早乙女が来ることは無かった。てまがえと言っていた。

 

<田植えについて>

   水害のある平野では7月から田植えが行われていた。上の方の田から植えていった。田植えの後には1軒1軒「足洗い」という打ち上げがありとても楽しみだった。田植えは腰が痛かったのが思い出だということだ。

 

<飼っていた牛や馬について>

   飼っていたのは主に牛(子供が産める雌牛の方が多かった)で、馬は牛の10分の1程度しかいなかった。雄牛は「コッテ牛」と呼ぶ。えさは田んぼから運び、わらや畑、山の草を食べさせた。手綱は2本で、「ちょい、ちょい」と掛け声をかけて歩かせ、左へ歩かせる時は「さし」と言った。コッテ牛をおとなしくするために、竹をまきつけた。(ひもだと勝手に回ってしまう。)戸田氏:「馬は立って寝るけど、牛は反芻するけんべちゃべちゃした糞をして、その上に寝るけんがしょっちゅう汚れる。」

馬はよく糞詰まりになっていた。

 

<ガス・電気がきたのはいつ頃ですか>           

   この地区にガスがきたのは戦後で、昭和35、6年だった。その前は灯油をポンプでついて圧縮して使っていた。電気がきた頃の話は聞いてないが、大正末期にはきていたのだろう。それ以前はランプを使っていた。

 

<入り会い山はありましたか>

   入り会い山は無く、山を焼くこともなかった。お宮さんの山や神殿など、神様にまつわる共有物はあった。

 

<山の木の実にはどんな物がありましたか>

木の実には、どんぐり・しいの実・山いちご・山ぶどう・うべ・アケビなどがあり、栗には商品価値があった。

 

<炭は焼きましたか>

炭は家庭で自家用のため焼いていた。

 

<かごは取りましたか>

   畑の周辺で取れた。和紙の原料となり、江戸末期に朝鮮半島から渡って来た朝鮮人に和紙のすき方を教えてもらっていた。

 

<川の毒流しはありましたか>

   げらんという木の皮を川に流す、毒流しがあった。

 

<食べ物について>

   ごっ玉(あめ玉)・せんぺい・そうだ饅頭・のべだごなどのお菓子があった。

戸田氏:「あんこをまぶしてよう食べよった。」

黒原吉広氏:「おいしかったー!」

干し柿はへたをとって、皮をむいて、20個ずつ吊り下げた。1さげ2さげと数え、畑に1本は柿の木が植えられていたので、結構多く作り、それを町の人々が買いに来ていた。食べられる野草には、よもぎ・せり・のびる・あかざ・ぎしぎし・耳なば(きくらげのような物)・などがあり、ぎしぎしは塩をかけ、おやつとして食べていた。食べられない野草には、どくだみがあり、干しておできなど、皮膚病の薬として使っていた。

 

<野稲は反当何俵でしたか>

もち米のような物を少し。

 

<米はどういう風に保存しましたか>

   米は俵(後にかます)に入れて、自家用の俵以外は農協の倉庫の中などで保存していた。自家用の米俵は庭のどまの下の方やネズミに食べられないように小屋の2階に置いていた。

 

<力石はありましたか>

明治時代ぐらいにあっていた。重い石を抱えてよその家に持っていき、どこの青年が持ってきたかということで、力自慢をしていた。

 

<戦後の食糧難。若者や消防団が犬をつかまえてすき焼きやなべにしたことはありましたか>

田舎だったので、それほど食糧難はなかった。犬や蛇をおもしろがって殺して焼いて食べたりすることはあった。戦時中にいなごや蜂の子は食べた。習慣的に食べていたのではなく、よそから聞いて、いなごを油で炒めて食べた。けっこうおいしかったそうだ。

 

<「よばい」の話は聞きますか>

「下っぱだったけん、ぞうり虫みたいに先輩の後をついて行ったとよ。話で聞くと、行ってガラガラっと戸を開けたら、家の人に気づかるうけん、おしっこをかけて、戸がスルスルっと開くようにするとです。前から女性に「今夜は来るぞ!」って言うてあると、女性も騒がんわけたい。だまーって行くとびっくりしてから騒ぐけん、親父さんたちも目ば覚まして、大騒ぎになるわけたい。やけん、ちゃんと昼間のうちに合図があるわけたい。で、受け入れられたらその人たちは結婚することもあるだろうし、それから入れ替わり立ち代り男性が代われば、ちょっとあれは身持ちが悪いってなるったい。」と、みなさん盛り上がって話をされた。

 

<よばいを見つかって怒られたことはありますか>

黒原吉広氏:「経験が無いけんねぇ。話だけで、昭和の初めくらいやろか。戦後もありよったかもしれん。」

 

<よその村から来る青年とけんかをしたことはありますか>

よくあった。縄張りを守るため。特に、女性なんかによばいに来たら大変だから。

 

<じょうもんさん・みちわけざけ・まつぼりごという言葉を聞いたことはありますか>

まつぼりというのは、内緒でとっておくことをいった。例えば、奥さんがお金をだんなさんに内緒でとっておく、へそくりみたいなものをまつぼりと言った。

 

<もやい風呂はありましたか>

もちろんありました。

 

<盆踊りや祭りは楽しみでしたか?祭りはいつですか>

お宮の祭りが10月15日にあった。3月15日は天神さんの祭りだった。その時にはよそから親戚や知り合いの人たちが来た。

 

<恋愛結婚は多かったですか>

少なかった。見合いが多かった。

戸田氏:「よばいに来た人たちのことは知らんばってん、やっぱ世間が厳しかったけん。手つないで歩くなんてとてもできんかった。」

 

<農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか>

自作農が2割ぐらい。あとは小作。

 

<村に格差のようなものはありましたか>

地主と小作で格差はあった。格差があったから、お宮関係や道づくりなど、共同作業で経費が必要な時に「だんとう割り」というものがあって、財産が多いところが多く出し、少ないところは少しだけ出すようになっていた。

 

<神社の祭りの参加・運営は平等でしたか>

参加は平等だった。運営は村の年行事という人たちが取り仕切って行っていた。年行事は昔は選挙のようなもので選ばれていた。権限を持っていた。災害などの時は年行事さんが先頭に立って救済にあたっていた。

 

<戦争はこの村にどのような影響を与えましたか>

未亡人が増えた。田畑が荒れて、よそから加勢に来たりしていた。働き手があるところに集約した。軍人恩給の組合は今でも存在する。

 

<村は変わってきましたか>

「あぁ、変わってきたよ。子供たちがいなくなった。もうここの20数戸の家の中で、子供がおるのは何軒やろう3軒ぐらいしかなかろうね。」と皆さん少し寂しそうに語られた。

 

<ネズミ対策は>

米は俵にいれて蔵の二階に上げネズミが来ないようにしていた。

   またすぎの葉をネズミのつたってくる道上に置いてネズミが通るのを妨害していた。だいたいどの家でも杉の葉を使っていた。                                                                                  

 

<米作りの楽しみは何ですか>

   「はぁ米作りはやっぱり、何俵取れたかっちゅう取れ高の競争が一番の楽しみやったね。」

 

<米作りの苦しみは>

   「苦しみは・・昔から言うように、米って言う字は、八十八っちゅう字を重ねて出来とるでしょ?要するに八十八もの手間がかかるっていうことなんよ。特に田植えはきつかったよ。             

  田の草取りを何回も何回もせないかんやったけんね。後からごろごろ押す除草機ができたけどその前は暑いなか腰を曲げて手で一本一本取りよったけん腰の痛かったよ。それから集めた草を穴に押し込んで土をかぶせて蒸らして草を枯らしよったね。そうすっとよく稲はピュッとたっとるけんそれでよう目ばやられよったねぇ。目を突きよったよ。」

 

<昔の暖房はどのようなものですか>

炭を使っていた。そのずっと昔は家でも薪を焚いていた。囲炉裏で焚いて、夜はそれを灰の中に埋めておいて、朝その火を掘り起こして使っていた。

 

<車社会になる前の道はどういう道でしたか>

   リヤカーや車力、また牛に引かせるときに通る道があった。戦時中はリヤカーだった。その前は両側に鉄輪がはめてある一本の輪で引いていた。それは肩にかけて引っ張る人力車のようなものだった。また牛に引かせるために、牛の両側に車輪を二つとめて引っ張る牛車みたいなものもあった。そういうのが通れば良かったので道は2mもなかった。1m50cmくらいの道があれば十分だった。山のほうでは、人が物をかついでいた。

 

<村にはどのような物資が入り外からはどんな人がきましたか>

   戦後は干物などを売る物売りさんが来ていた。いりこを売る人が多かった。

 

<魚売りさんは>

   一週間に何回か来ていた。この辺から玉名のほうまで仕入れにいっていた。こっちからも芋やだいこんなどがたくさんできた時は町のほうまで売りにいった。

 

<鍋そそくりなどは>

   よく鍋の修理に来ていた。「鍋がほげるでしょ?そしたらこっちがわに土を置いて、反対側にも土を置いて、ここにこう穴をほがしておいて、銅を溶かしてその穴から流し込むったい。 そうすっとその割れたところの間をずっと通っていって両側にべたっとくっつくと。そういうふうにして修理ばしよったね。」

 

<箕を直したり箕を売りにくる人はいましたか>

   そういう人はいなかった。茶碗の入れ物とかを竹で編むがらんざさという人が来ていた。      

お宮に泊まって物を作ったりするような人はあまりいなかった

 

<かまどのお経を上げる目の見えないお坊さんはいましたか>

   そういう人はこの辺にはいなかった。でも話を聞いたところでは、この少し先のほうには琵琶法師がいたそうだ。また「かんじん」といって村八分にあったり生活に困って、橋の下で物もらいをしている人がたまにいた。今でいうホームレスのようなひとたちである。橋の下をてんてんとしている人たちは時々見かけた。

 

<やんぶし、薬売りは>

   やまぶしや薬売りはよく来ていた。炒り薬を売っていた。楽隊のように、アコーディオンを弾いたりしている人もいた。

 

<昔は病気になった時どこで診てもらいましたか>

   昔は漢方医がいた。その後は村に一人ずつくらい医者がいてそこに連れて行っていた。また流行性の病気(赤痢や疫痢など)になった人は避病院や離病院に入れて隔離した。

 

<米は麦と混ぜたりしましたか>

   していた。米は地主へ供出し、自分の手元に残ったものもお金に代えないといけないから自分たちの食べるものは、もうほとんどが麦とか粟とかだった。米のめしといったら盆正月だけだった。また神様には米をお供えしていたのだが、子供のころにそれをとって食べたこともある。あとは葬式とか祝い事や祭りの時くらいしか白い米は食べられなかった。

 

<自給できるおかずとできないおかずは>

   野菜類はだいたい自給できた。自給できなかったのは、魚や肉類だ。でも魚も普通のものはだいたい川でとれた。海の魚やこんぶなどは干物にしたものを買っていた。だしに使うものとしていりこもあったが、いりこを買えるのは、よっぽど余裕のある家だけだった。

 

<結婚前の若者たちが集まる宿はありましたか>

   公民館(青年クラブ)があった。男女ではなく男ばかりだった。

 

<そこではどういうことをしていたんですか>

   「そうですねぇ。よくあそこに泊まってましたね。やっぱ男ばかりやったけん色気話の多かったですね。それから「さんぐう」というのがあって、よその方のものばとってくっとです。つるされとるのを勝手にとってくるとです。それも、1つ2つちぎって持ってくるとじゃなくて、さげものごと取ってきて、みんなで食べっとですよ。ぶどう畑があればぶどうを取り、スイカ畑からスイカを取り、持ち帰って戦利品を食べるとですよ。」

 

<見つかったら怒られますよね>

「見つかったら怒られるうさ。あんどんがしたっちゃろって言われるぐらいでね。あんまりとがめだてて、今みたいに裁判したり、そげんことはなかったね。スイカの太かとを1個持っていったり、柿をちぎったりするぐらいじゃね。やっぱり直接見られたら火のでるごと怒られたけどね、分からん時はしょうないけん、大目に見とったとよ。饅頭とかも外にさげちゃあとば取って。冬は冷蔵庫の無かったけん、饅頭やら外にさげちゃあのばね。それが若かもんの1つの楽しみやったもんね。」

 

<規律は厳しくなかったですか>

全然厳しくはなかった。スリルを楽しむような感じだった。だから、取ってくると言っても、牛を盗んだりするようなことはなく、食べ物を取ってきて食べるぐらいだった。

 

<上級生からの制裁とかはありましたか>

制裁というのは無かったが、上級生が管理していた。きちんと面倒みてくれていた。しかし、下の者が色々言うと、上の者にやられるから、従順に従っていた。そして、色々な知恵を授かっていた。

 

<これから村はどうなっていくのでしょう〉>

  (ここで雰囲気が少し暗くなって)

   「やっぱ少子高齢化っていうのはついて回るやろうね。ただ一番将来的に心配されるのは、ここでは働く場所が少ないもんだから、高校や大学を卒業した後、外に働き口を求めて出て行ってしまう。そこで結婚すれば、やっぱりこちらにですね、両親がおるからって、帰ってこれんくなりますよね。過疎になってしまいよっとですよ。だからどげんでしょう、あと30年もしたら・・。元気なおじいちゃん、おばあちゃんたちが、自分たちでむらを活性化しているところは、自分たちで野菜を出したり、あるいは山からいろんな木の実を採ったりして、頑張りよる地域もあるけで、この辺はそういう風に行っていろいろするとか、作って野菜を出すとかいう仕事はほとんどやってないけん、だんだん縮小するっていうか、疲弊していくばっかりやもんなぁ。もう専業農家も60戸のうち2戸しかない。そして、その専業農家も子供たちが農業後継者として頑張りよるところはないですもんね。ほかの道で、将来は生計を立てるようなところが多いから、ほとんどここは農業的にはもう・・・。だから、今国が政策をとってるみたいに大企業というか、企業が農業をやるという形になっていくのかなぁ。農協が下請けをして。まぁ田畑も少ないけん、企業が入る価値があるかも分からんばってん。」

 

<それは大田黒だけでなく、ここら辺すべてそうなのですか>

   「いや、この神尾地区は、特にどちらかというとそういう農業後継者の人が少ないねぇ。玉名、大牟田、荒尾、山鹿、菊地の方さ、ばぁっと(若者が)出てしまうもんやけん。そうすっと山間部の奥地のほうはまだ若い人がけっこう残っとる。小学校も入学してくるのが、10人おらん状況になってきて、これから増える見込みもないけんが、複式学級になっていくんやろうね。そうっすと、一番過疎が進んどるのがこの神尾地区やね。三加和の合併もあるかもしれんね。」

   (三加和の合併・・野田、上大田黒、下大田黒の合併のこと)

    

 

<戦争のとき兵隊として戦場に行かれましたか>

   黒原幸也氏:「けっこうある。わたしは大東亜戦争のときは台湾からフィリピン、中国をぐるっと回って帰ってきたよ。ここでも戦争でなくなった人の墓地は特別にあつめてあるねぇ。」

 

<戦争中都会から疎開などはありましたか>

   この辺にまとまってきたことはない。親戚を頼ってきたことはあった。

「おもしろいのはね、戦時中にそげんして来とったけど、戦後疎開してきたこともあったね。アメリカが駐留してから、女子供にいたずらしたり、強姦したりするからといってね。結局、鬼畜米兵って言って、アメリカ人を鬼だといわせた時代があってね。自分たちも中国やらでそういうことをしてきとるけん、それで日本人もアメリカ人にそういうことをされるだろうと思って、女子供を山に逃げさせたりしよったね。でも一月くらいしてアメリカはそげんことせんよってなって帰っていったよ。」

 

 

 

 

 《感想》

 

私たちは、今回の調査で三人の方々から、田んぼの話、青年クラブの話、村のしきたりの話、

少子化の話など、昔から現代にわたって、たくさんのお話を聞かせてもらいました。その中で、

私がお話を聞き、三人の方の表情を見て感じたことは、むらに電気や機械が入ってきて、生活

がゆたかになることが、最もよいことであるとは限らないのではないかということです。むか

しの農業が体力的にかなりきついものであったことは、皆さん口々におっしゃっていましたが、

そのあとのさなぶりの話やお祭りの話、青年クラブでの話しなどをしている皆さんの表情を見

ていると、物の少ない時代の方が、村の中での絆も強く、生活も楽しかったのではないかと思

いました。

 最後に、市も大田黒で大変親切にしてくださった戸田知敏さん、黒原吉広さん、黒原幸也さ

ん、戸田さんの奥さん、どうもありがとうございました。私たちも始めての土地でかなり緊張

して、調査に伺ったのですが、資料まで準備していただいて、私たちの下手なインタビューに

一生懸命答えてくださって、本当にありがとうございました。とてもいい経験ができ、充実し

た一日を過ごせました。        岩永 優子

 

 

 最初に下大田黒の区長さんに、調査協力の手紙を出した時は、返事が来るのだろうかと不安でしたが、3名の昔の事に詳しい方を紹介していただけて、うれしく思い、どんな話が聞けるのだろうかと、楽しみにしていました。

待ち合わせの30分前、戸田さんのギャラリーを訪問しました。そこには、ハンセン病患者の描いた絵画が数十点あり、知敏さんの奥さんに色々と説明をしていただけました。作品は、絵を描いた方の心の声が届いてきそうな、すばらしいものばかりで、思いがけず、良い体験をすることができました。

3名の、お話をしていただく方々を目の前にして、私たちは緊張していましたが、皆さんの、とても親切な人柄に触れるにつれ、私たちの緊張も解け、楽しくお話をすることができました。わざわざ資料も用意していただいたようで、分かり易く、下大田黒に限らない昔の事も知ることができました。

最後には、お菓子やお茶をいただきながら、色々な話をすることができ、本当に楽しかったです。このレポートができたのも、先生をはじめ、下大田黒の皆さんのおかげだと思っています。ありがとうございました。         浦山 絵里

 

 

 今回熊本に調査しにいくということで、いろいろな準備はしていましたが、実際は自分は具体的にこうしよう、という考えもないまま当日を迎えることになってしまいました。天候はめったにないような大雨で、正直行きのバスではあまり乗り気ではなかったのです。でも現地に着いてその気持ちは180度転換しました。ほんの隣の県なのに自分の住む所とはぜんぜん違う雰囲気にとてもわくわくしました。今回,歴史のお話を伺う前に戸田さんのギャラリーでハンセン病の患者の方の書かれた絵画を鑑賞し、戸田さんの奥様にそのことについてお話を伺うことができました。絵のなかに現れている患者の方々の悲しみに、国と人々の無知によって引き起こされた罪の重さを痛感しました。貴重なお話を聞くことができてよかったです。大田黒のお話を伺った時は調査ということを忘れてしまうほど本当に楽しい時間を過ごすことができました。戸田さん、黒原さんのお話はおもしろくて興味深いものばかりでした。みなさんがお話されながら、昔を懐かしんでいらっしゃる様子が印象的でした。また、変わってきた村のこと、これからの村のことなど少子化問題や労働力不足の話になったときの皆さんの寂しげな表情も忘れられません。初めてそのような問題をみじかなこととして感じたような気がします。たった一日ではほんの少ししか知ることはできなかったけど、学べたことは一杯あります。この講義をとって良かったなと思います。お話してくださった戸田さんと戸田さんの奥様、黒原幸也さん、黒原正広さん本当に有難うございました。山鹿羊羹とってもおいしかったです。

 

                            北岡一沙

《一日の流れ》

  8:15  六本松集合

  8:30  六本松出発

  10:30 大田黒梶原でバス下車

  11:00 小屋敷のギャラリー蔵を確認後、三河温泉隣お土産屋『緑彩館』にて昼食。

        郷土料理(だんご汁)をいただく。

  12:30 ギャラリー蔵へ。ハンセン病患者の絵画展を鑑賞。戸田さんの奥さんに話を聞  

        く。

  13:00 戸田さん宅にてインタビュー開始

  15:00 インタビュー終了。お茶をいただきつつ、雑談。

  16:00 戸田さん宅を出発

  16:30 緑彩館でバス乗車

  18:30 六本松到着。解散