調査日2004年6月26日
調査員 福永洋平、宮地聡、廣川貴典
1.はじめに
今回私たちが調査した下岩は
2.行動記録
8:30 九大出発
10:40 滝本さん宅到着
11:00 田代さん来宅
15:30 滝本さん宅出発
15:50 光行寺、官軍墓地、腹切り坂見学
16:15 中畑さん宅到着
16:40
20:00 九大到着、解散
3.小字について
ここでは小字についての調査報告を行う。まず、小字に含まれる漢字の持つ意味についてわかったことを記す。
○
浦;実際の使用は河井ヶ浦、荒田ヶ浦。浦というからには水に関係する意味合いを持っているであろうと思っていたが、谷、渓谷の台地ということらしい。
○
町(チョウ);実際の使用は海道町、九須町。これらの小字に使われる町はマチではなくて、チョウと呼ぶ。長さの単位。広い大地ということ。
○
丸;昔から人々が集まっていた場所。
以上が漢字一語が持つ意味としてわかったことである。次ぎに、実際の小字の由来として挙げていただいたものを順に記す。
○
○
カゴノキ<楮ノ木>;和紙の多産地。和紙の原料が楮であった。中岩地区にあたる。
○
ニタンダ<二反田>;二反しか田がなかった。
○
ウシロダ<後田>;九須町を正面と見ることから、その後ろにある田のこと。
○
オオイケ、コイケ<大池、小池>;ため池が多かった。ため池については後述する。
○
フルミチ<古道>;昔からある道。豊前街道(全国歴史の道100選)が通っている。
○
カイドウチョ<海道町>;これについても「海」という漢字が当てられているのが疑問であったが、菊池川(
○
サカモト<坂本>;坂木というのは誤植のようだ。坂の上り口にあたることからか。
○
ムタダ<無多田>;多田では無いということか。ため池で潤うだけの田んぼしか無いということだった。
以上、事前に与えられていた小字についてわかったことを記した。では、今回の調査でわかった小字について記していく。
○
ニタンクボ<二田窪>;実際は
○
マツノキハラ<松ノ木原>;荒田ヶ浦と西原の間。
○カミコガ<上古閑>;海道町の北で大池の西。
○テラノモト<寺ノ本>;海道町の南。光行寺がある。光行寺については後述する。
○九須町についてみていくと、九須町はさらにマゴマル<孫丸>、オトマル<音丸>といったように細かく分けられている。その孫丸も上孫、中孫、下孫といったようにわけられていて、その中でもオック<奥区>やアカギシ<赤岸>といった分け方があるそうだ。つまり、小字九須町のうちに孫丸があり、その孫丸のうちに赤岸があるといったようになる。奥区についてはその正確な位置までは聞き取れなかった。
こうした区分は役場からの書類の配布などの際に便宜的に使われているそうだ。
4.田植えについて
田植えについて伺ったことをまとめる。まず、この地区の地形的特徴といえることであるが、中山間地帯であるため、日照時間が少なく温度格差が激しいので、米作りに時間がかかるそうだ。米作りに時間がかかるということは、すなわち労働時間が長くなるということである。話によると、普通の平野部に比べて20日ほど早く田植えをし、一週間ほど遅く収穫期をむかえるそうだ。実質一ヶ月あまり労働時間が長いということになる。しかも、その土地柄のせいで収量も他の地域に比べて一割ほど少ないということだった。例えば、有明海沿岸のように日当たりのよい地域で10俵とれるなら、こちらでは9俵にしかならないということだ。また、棚田が多いこともあり、水をいかにして確保するかということも問題であった。そこで昔使われていたのがため池であった。無多田のところで先述したように、ため池なしでは米作りができなかったのは明らかである。このため池のおかげで7〜8月の雨の少ない時期であっても、水に困ることはなかったそうだ。ちなみに、このため池を開けるかどうかの判断は行政区長さんに委ねられていたらしい。他にも眞府(マブ)と言われるトンネルのようなものもあった。これは土手を掘って、水を人工的に流すようにしたものであり、かなり昔から使われていたものだそうだ。実際に眞府の跡を見ることができた。そこはすでに土で塞がれていたが、それでも眞府を通って水が流れたであろう窪みも見て取ることができた。しかし、現在はコンクリ――土などでは水がしみこんでしまい十分に水が流れないらしい――で用水路を完備したため、水には困らなくなったそうで、ため池も使っていないとのことだった。電気による水のくみ上げも不要だそうだ。また、昔は田への水入れやらの作業に一ヶ月もの時間を要したらしく、それからやっと田植えにはいったそうだ。
雨乞いについてもお話を伺うことができた。ここでの雨乞いは雨が降らないときに彦岳に行って、酒盛りをしていたそうだ。やはり、水には困ることがあったらしく、この風習は40年ほど前まで続けられていたそうだ。太鼓などをたたき、その音で雨が呼ぶと考えられていて、雨乞いをすると不思議に雨が降ったもんですたいと少々懐かしそうに語ってくれた。また、田植えのときには手間替えとよばれる共同作業が行われている。これは常にメンバーが決まっているわけではなく、親戚や近隣でその度に声を掛けあって一緒に田植えをするものである。しかし、最近では手間替えとして労力ではなく、金が渡されることも多いという。そして、さなぼりであるが、これは現在も続いている儀式である。さなぼりとは田植えができたことを水神(スイジン)に感謝するもので、初田植え(ハッタウエ)のときに行い、秋の収穫を祈願するものだ。若竹を切り中に酒を入れ、塩、米を包み、1mくらいの竹に挟み、水源か井戸にさして供えた。 また、農具については中国が先生だとおっしゃっていた。話を伺った農具を記しておく。がん爪は手植えのときに使うもので、四本の稲が同時に耕せるようになっていた。千歯(センバ)は脱穀の際に使ったもので、今はもうないそうだ。まがは馬に引かせて田を耕すのに使ったということだった。
次にねずみ対策について記す。まず米の保存方法だが、米俵、カマス、斗袋(麻製)、トタン缶(ガンガンと呼ばれていた)と順に変遷している。それらに詰められた米はほとんどの人が農協に預け、そこでガスを使ってねずみをあぶりだしていたそうだ。また、個人で土倉に保存する人もいた。この土倉は温度を保つのに適していたらしい。さらに、稲の病気についてだが、まず、いもちとは穂首が枯れる(ほいもち)、葉が枯れる(はいもち)のことをいうそうだ。もんがれとは葉が軸からくされてしまうことをいい、ねぐされは根が腐れてしまい、稲を持ち上げると根ごとガボッと取れてしまう病気のことを言うそうだ。これらの対策としては、品種改良と農薬ということだった。また、川の毒流しといわれるのはゲランという農薬を流して稲を守ることだろうとおっしゃっていたが、これは同時に魚も殺してしまうことになるらしい。そして、今もっとも頭を悩ませているのはタニシだそうだ。このタニシは南米産のジャンボタニシで、食用として養殖したものの日本人の口に合わなかったため、放流したものが繁殖しているとのことだった。何よりもの弊害はタニシが稲の葉を食べてしまうことである。そのため、稲が弱いうちはタニシに食べられないように、水を張り過ぎないようにしているそうだ。こうすることで、タニシが泳がないようにしているのだ。しかし、稲が生長しタニシに食べられないほど強くなると、今度は水を張って、タニシを自由に泳がせるそうだ。そうすると、タニシは水草など余計な草を食べてくれるので、草取りの必要がなくなるというわけだ。その扱いは難しいが、タニシは害にもなるし、益にもなると語ってくれた。
反当については、昔といっても牛馬の排泄物を堆肥として使っていたころのことであるが、6俵ほどであったそうだ。このころの農業方法を循環型農法とよんでいらしたが、それは次のようなものだ。稲を収穫するときの藁をそのまま牛や馬のえさとして利用し、それで取れた堆肥を利用して稲を育てるというものだ。今後、この方法に戻るべきだともおっしゃっていた、確かにそれが自然な農法なのだろう。ところで、配合肥料を使う現在は反当につき8〜9俵とれるという。しかし、コンバインを使った収穫作業では藁がとれないため、循環型農法はできないのだ。藁はバラバラにきざまれてコンバインのなかにはいってしまう。また、現在、一俵当たり1万5,6千円で取引されていて、これは一町当たり126万ほどの収入が見込めることになるのだが、トラクター、田植え機、人件費といった費用がかかるため、減価償却によってほとんど利益が得られないということだった。だから、兼業にならざるを得ないということだ。専業農家から兼業農家に変わっていったこと、つまり農業のみで生活していけなくなったことが村の一番の変化だとも語ってくれた。全体の話を聞いてみて、兼業農家になったことで忙しくなり生活がいろいろと変化していったのではないかと感じた。
米作りの苦楽についても伺ってみた。まず、米作りで一番うれしいのはやはり豊作でお金がたくさんてにはいったときだそうだ。逆につらいときは、水害、台風、害虫などで稲がやられてしまったときだそうだ。うち、台風に関しては打つ手がなくただ神頼みだとおっしゃっていた。畑であれば、ビニルハウスをたおすなどといった対応が少なからずあるらしいが、この地区には畑はほとんどないそうで、私たちもビニルハウスをみることはなかった。また、害虫は中国から黄砂にのってやってくるらしい。こうした災害は今年は豊作ばいっと思っていたときにくると本当に辛いと語ってくれた。例えば、大丈夫だろうとふんで農薬をふるのを止めた一週間後くらいに害虫にやられるなど、「あーしもた」っと悔しい思いをされたこともしばしばあったそうだ。
また、今年は国際年で米年にあったるということだった。米の発祥の地は中国であり、長粒米は戦時中に食したもので、唐米とも呼ばれていたそうだ。そして、短粒米は日本米の特徴とのことだった。
米作りについて伺ってみて、その大変さと、いかに利益を生まないかということが感じられた。その話の中で興味深い話を伺ったのでそれについて記しておくことにする。
EUの自給率は90〜160%なのに対して、日本の自給率は40%程度しかなく、食糧や木材といったもののほとんどは輸入に頼っている。それでも我々が不自由なく暮らしていけるのは、工業が盛んだったため、外国が日本を見捨てることなく輸出を続けたからであった。しかし、工業国としての日本も人件費の高さなどでふるわなくなっているうえ、隣国の中国が経済成長期を迎えている。とくに中国とは賃金の格差が問題で、人件費の安い中国に今後とも欧米諸国が目をつけていくのはあきらかだ。こうした状況の中で我々は改めて自給率の低さについて考えてみる必要があるのではないか。自給率が低いということはつまり、輸入ができなくなれば通常の生活ができないということであり、それはもはや起こりえないことではなくなったようで、我々は今後の動向を非常に案じている。にもかかわらず、政府の農業政策は減反へとむかっていて、相変わらずの農業軽視である。しかし、我々は河川改修や補助工事をおこなって農業生産の向上を図っている。というようなことを語ってくれた。その話は非常に説得力があって、第一線で仕事をしているとこうも世の中に開明的になれるのかと思った。なにより話に実感がこもっていたのだ。確かに私たちの周りには外国産のものや、外国製のものであふれているが、あまりにもその状況に慣れすぎてしまい、それが当然と捉えることの危険さを認識できなくなってしまったのではないかと考えさせられた。
ちなみに完全に余談であるが、世界で一番おいしい米はカリフォルニア米でカリフォルニア米はハイブリッド米だそうだ。
5.馬、牛について
話を伺ってなによりも感じたのは牛も馬も非常に大事に扱っていたということだ。自分より先に馬を洗ってやり、えさを与えてから自分も飯を食べたそうだ。さらに、牛も馬も毎日洗っていたそうだ。滝本さんは六ッ枝だの川で洗っていたとのことだった。また、馬は塩湯に入れてマッサージをしてやったりするし、正月6日には若宮という馬の神様が祀られている神社に馬も連れて行ったりしていたそうだ。自分ばかり若宮に行くのは気が引けるので、馬も連れて行ったとも話してくれた。若宮は山鹿にあるものが一番有名であるが、下岩にも西原と池入の間あたりにある。また、牛についても雄牛はコッテ牛とよび、雌牛はメスと呼んだらしいのだが、コッテ牛が暴れないようにどうしていたかと尋ねたところ、とにかくかわいがってなつかせたと語ってくれた。そうすると、牛はいう事をきいたそうで、牛は人間のことがよくわかるものだともおっしゃっていた。
また、手綱は鼻ぐり(鼻の付けね辺りか)から二本つけられていて、山を引くときはそのうち一本を使っていたという。蹄鉄についても伺ってみたが、蹄鉄は農耕馬にはせず、馬車馬にだけするものだそうだ。その蹄鉄場は腹切り坂のところにあったらしい。蹄鉄は一度すれば一生ものだと思っていたのだが、月に一度は蹄鉄を付け替えていたということだった。それは馬も爪がのびるからである。蹄鉄をしていない馬は自分で土をかくなどして爪を削るそうだが、そのかわりに蹄鉄をはずして爪を切ってあげるそうだ。また、一度蹄鉄をするともう蹄鉄なしでは、足が痛くて馬は歩かなくなるそうだ。そして、牛馬を扱うにあたっておもしろい掛け声を教えてもらった。まず「お」は止まれを意味して、「さし」が左に行けということらしい。右に行けという掛け声は「まい」だそうだ。
馬のえさとしては麦や麦ぬか、大豆などであって、牛のえさは牧草、センカンフスマ(麦粕)などであった。牧草は半乾きの状態で牛に与えていたとういうことだった。馬の病気についても語っていただいた。まず、足のはれというのは足に血が溜まることらしい。せん痛とは腹痛のことで、それは腹にガスが溜まることで、そういう時は腰をお湯でぬくめてあげていたらしい。そして、年に一度牛馬のお医者さんがみえていたということだった。
話を伺っていて興味深かったのは、田植えに関連することであるが、維持費などを含めると馬のほうが機械よりもお金がかかっていたということだ。そもそも馬を一頭買うのには140万以上かかるらしく、その後の世話も大変だったようだ。やはり生き物を相手にするわけだから、心配ごとは機械よりも多かったとも話してくれた。そういったこともあって、20年ほど前から機械へと変わっていったそうだ。そして、水田を機械で耕すようになってからは食用牛を飼っていたということだった。
6.自然について
先述したように下岩は豊前街道が通っているが、これは往還つまり昔の国道で、参勤交代に使われていた。その豊前街道の脇にはハゼが植えられていて、ハゼは蝋の原料となるので製蝋所ができ、産業として確立されていたそうだ。また、草井手もさまざまな場所にあったそうだ。草井手とは、草、竹、丸太、砂で関を作ったものであるが、坂本井手、六ッ井手、桑ノ木田井手などがあり、河井ヶ浦には35井手とよばれる井出がある。谷川が流れているところでは今もこの草井手を使っているところもあるそうだ。また、尾笹と小笹(尾笹の北に位置する)を流れる川も草井手で関をしていたということで、かなり大掛かりなものだったらしく1〜2日かかって関をしたらしい。その尾笹の関のところには水車があって、麦や米をひくのに使われていたようだ。水車は他にもあり、水を田にあげるためにも使われていたそうだ。
共有林は下岩の南の下原と古道の間あたりにあるそうだが、これは5反ほどの大きさのものであって、境界線管理のための下草切りや倒木を防ぐための間伐をおこなって維持しているが、下草切りは成木になったらしなくてよくなるそうだ。この共有林の管理は三組6人の夫婦が交代しながら自費でおこなっているとのことだった。草切場についても個人で所有するということは稀なことで、特定の場所というものも決まっておらず、畑の牧草などを取っていたらしい。しいて言えばということで主な場所をあげてもらったのだが、それでも下岩の南西部の永ノ原、下原、西原、松ノ木原を含み
川流しについても伺ってみたが、それについて思い当たることとして二つの答えが返ってきた。まず、筏を作って流し、木を乗せて川をくだるというもので、次に、川がうまく流れなくなったときに川に引っかかった木材を取り除くこと、というものだった。
生物についてみていくと、田んぼの中にはタニシ、ヒル、そして水害時にはフナがあがってくるそうだ。ちなみにこうして、田んぼに上がってくる魚のことをあがり魚(ウオ)とよんでいるそうだ。また、川にはハヤ(ハエ)、フナ、コイ、ドンコ、うなぎ、なまず、ドジョウ、メダカ、テナガ海老などが生息しているとのことだった。さらに、岩村川は川底が砂で、川の水がきれいだから蛍の幼虫のえさであるカワウソ(通称ほうじゃ)が生息しやすいようで、蛍が見られるということだった。また、下岩の南部にある腹切り坂にも連れて行っていただいたのだが、天候の関係で車でその登り始めと登り終わりに連れて行ってもらうだけになってしまって、実際に登ることはできなかった。それでも車でかなり山を登ったことから、腹切り坂が相当な標高差があることが実感できた。また、坂道の途中には片側が大きな穴があいたようになっているところもあるそうだ。ここを登っている際に腹を切ったという逸話がいくつか残っているのも納得できる。いつか実際に登ってみたいと思う。
7.生活について
和紙については秀吉の朝鮮征伐の際に朝鮮の紙職人を連れて帰ったことが起源であるが、
次に食について伺ったことを記す。野草は食べられないものはないそうで、特に新芽の野草がいいとのことだった。泊まっていくなら食べさせてくれるとのことだったが、またの機会にということで。そのときに挙げてもらった野草を記しておく。椿の花、ヨモギ、つくし、ぎしぎし、あざみ、せり、などであった。また、食糧難のころはかぼちゃの茎、いなごの油揚げ、野草を食べたそうで、から芋を食べられればいいほうだったという。から芋は春に生産量がおおく、食糧難後は金になったとも話してくれた。また、永ノ原は柿(渋柿)が植えられていて、そこに住んでらっしゃる中畑さんにお話を伺うことができた。中畑さんは滝本さんのいとこにあたるとのことだった。まず干し柿についてだが、干し柿の作り方は最初にへたを残して皮をむき、そして、へたに紐を巻きつけて、干すのだ。このときの紐の巻き付け方が特殊だった。かた結びや蝶結びのようにするのではなく、へたに巻きつけるようにして結びつけるのだった。巻いただけであったのにかなり丈夫で、ほどけることはないようだった。実際に結び方を教えてもらいながらやってみたのだが、紐を上下させる仕方が難しくてなかなかできなかった。5個で一提げといった数え方をするそうだ。10個にすると提げたときに地面についてしまうからちょうどきりのよい5個ぐらいなのだ。また、勝ち栗については詳しくはわからなかったが、栗は勝負事や祝い事などでの勝ちの象徴的な意味あいを持っているとのことだった。現在の栗を保存している様子をみせていただいたが、栗は離れになっている外の冷凍庫の中に凍らせてあった。その際甘皮を残して保存するそうだ。永ノ原は先述した腹切り坂の終わりのところを通り過ぎたところにあって、標高が高くなっていて柿以外にもさまざまな植物が植えられていた。私たちはそれを実際にみることができ、例えば栗、ハゼ、茶、から芋などがあった。それらはひとつの植物が土地面積を広く取っているというわけではなくて、次々にいろいろなものが植えられているといった感じであった。また、他に聞いた話であるが、米と麦を混ぜて食べる場合の割合は10:1だそうだ。この場合の麦は大麦で、特にはだか麦とよぶらしいが、小麦については特に呼び方はないとのことだった。さらに、薬草についてだが、どくだみなどを薬にしていて、よもぎは傷の塗り薬などとしても使われる万能薬になるそうだ。なによりも自然の恵みで体を正すのが一番と語ってくれた。また、越中富士の反魂丹(ハンゴンタン)のような置き薬があったそうだが、薬売りはいなかったらしい。その置き薬は
住まいについてわかったことを記しておく。昔から井戸は多かったらしく、それに集まるようにして集落ができたようだ。また、共同風呂というものはなかったらしいが、風呂は石風呂から、桶風呂、五右衛門風呂へと変わっていき今に至るとのことだった。夏にはたらいで行水もしていたそうだ。そして、薪で風呂をたくのが、学校から帰ってきてからの仕事だったということであった。その薪は冬場に薪割りをしておえん(縁側)の下においてあったそうだ。また、ガスを使うようになった(あげ炊事)のは25年ほど前で、それまでは土間だったという。電気については永ノ原、六ッ枝は少し遅かったそうで、九須町は滝本さんが物心つく前から電気がきていそうで、子供のころはランプも併用して使うこともあったそうだ。また、電気を供給していたのは山鹿電力と熊本電力だったが、山鹿電力は電圧が弱かったためよく停電になっていたそうだ。その後、二つが合併して九州電力になり、金のかかる水力発電から火力発電へと変わっていったとのことだった。ちなみに
ほかにも、草履は自分で作ったとのことだった。その草履は足中(アシナカ)というもので、土踏まずまでのものだったという。また、つのんばとも呼んだそうだ。草履に用いる藁はもち米から作るそうで、もち米は柔らかくて草履に向いていたそうだ。また、座頭さんは
そして、3.の小字についてのところでも述べたように孫丸のなかでも上組や下組といったようにわかれているが、その各々に社があり上組の菅原神社、下組の菅原神社といったふうになっているということだった。この菅原神社は文字通り菅原道真の流れをくむもので、天満宮とも呼ばれるらしい。この菅原神社は数多くあって、上古閑や永ノ原の社も菅原神社と呼ばれているとのことだった。また、同じ九須町の音丸の社は権現神社とよばれているとのことだった。神社の中では阿蘇神社のながれが最も重要視されていて、岩のなかには2つあるそうだ。そして、祭りについては10月15日に玉名郡祭が行われるそうだ。このときに菅原神社、権現神社で神楽を舞うらしい。神楽には4種類あるとのことだが、下岩では肥後神楽を採用しているそうだ。しかし、その神楽の後継者が不足しているとおっしゃっていた。また、朝からどんどやをするそうで、どんどやは竹を組みおこない、その竹の割れる音が非常に大きいことから、はしらかしどんどやともいわれるらしい。「はしらかし」が破裂するという意味なのだそうだ。このどんどやについて興味深かったことだが、男神を祭っている菅原神社からどんどやをして、それが終わってから権現神社へと移るということも教えてくれた。この慣習はまだ残っているようだ。他にも、ざまつりといわれる組を中心とした親戚の集まりで分かれて行う祭りもあるそうだ。
また、出産などのお祝い事や、約束が成立したときなどにかわす酒のことを特にきわめ酒と呼ぶらしい。話を聞いていると昔はとにかく飲み方がおおかったようだが、今は忙しくて飲み方は減っているそうだ。その他にも、力石というものがあったそうだ。これは滝本さんも体験していないほどかなり昔のことだそうだが、ある種の力自慢のようなもので、石を持ち上げて力比べをしたらしい。決まった石があって、その石を持ち上げると、すごい力のある奴だとして名がしれたということだった。けんかもよく、というか一年中あったらしく、主に野芝居や祭りのときに他の村とけんかをしていたそうだ。しかし、けんかといっても遊び半分のようなものであったらしく、何らかの因縁のようなものがあったというわけではなかったようだ。たいていは村と村との境界でけんかをしていたという。ときには菊池川を挟んで石の投げあいをしたそうだ。これもかなり昔の話しだそうだが、夜這いもおこなわれていたようだ。こちらも遊び半分の話題作りのようなものだったらしく、そのいざこざが後に残ったりはしなかったそうだ。それどころか、夜這いがばれて逃げ出したりする際に玄関に猫を積む(=置いておく:ごまかしのため。)といったようなユニークなこともあったらしい。また、やはり見合い結婚がほとんどであったとのことだった。そして、青年クラブとは今の公民館のようなものであったらしく、若者が集まって話をしていたそうだが、今ではあまりないとのことだった。
8.歴史について
まずは戦争について聞いてみた。私たちはすぐに第二次世界大戦を思い浮かべてしまったのだが、下岩で影響が大きかったのは西南戦争だそうだ。下岩にある光行寺は熊本藩細川氏の参勤交代のときの休憩場として利用されていた。ここで腹切り坂を上下する一行が労を癒したり、ご機嫌伺いの庄屋などから民情を聞いたりしていたそうだ。ちなみに光行寺には細川の家紋である「九曜の紋」が彫ってある瓦があるのだが、それも実際に見ることができた。そういったいきさつもあって、西南戦争のときは官軍が利用し、光行寺のすぐ横には官軍墓地があった。この官軍墓地のなかには大尉と彫ってある墓もあって、かなり地位の高い人が供養されているようであった。戦争自体に話をうつすと、下岩では官軍と賊軍の間で激しい攻防があったようで、特に永ノ原は戦いが激しかったようで、20軒ほどあった家が3軒にまで減ってしまうほど、そのほとんどが焼き打ちにあったそうだ。そういうわけで、坂本、六ッ枝には庶民のための避難壕が作られていたそうである。他にも山壕に逃げたりもしていたので、農作業ができないということもあったという。また、その戦争の跡として永ノ原の菅原神社からはたくさんの鉄砲の弾がでてきたそうだ。私たちもその一部を見せてもらったのだが、予想以上に数が多くて始めはそれが何かわからなかった。鉄砲の弾は白っぽくなっていたがその原形はしっかりと保たれていた。そういったものが次々に見つかるらしく、大砲の弾の破片も見せていただいた。こちらは黒く、一見すると陶器の破片のようで、よく見るとわずかながらアーチがかっていた。こうしたものをありありと見たのは初めてだったので、一同感動した。こうして実物を見ると戦争が起こったのだということを実感を伴って理解することができた。そして、永ノ原が全滅したため、人々は永ノ原から寺ノ本や上古閑へと移住したそうだ。
また、下岩では人権問題にかかわるような格差や差別といったものはなかったそうで、資力者がリーダー的役割を果たしながら、話し合いで村政を営んでいたとのことだった。しかし、その風潮もここ20年で変わってきていて、話し合いが行われる回数も減ってきているということだった。次に小作制度についてだが、岩では1反、2反で地主が貸付していたそうで、そのうち6俵中4俵という割合で地主のものになり、管理費などの税金は地主の負担となっていたそうだ。そして、小作人の納入時には地主が招待する会席があったということだった。
また、第二次世界大戦時のことについても伺ってみた。これは田代さんの話であるが、田代さんが中学になってから戦争が始まったそうだ。田代さんは鹿本中学(旧姓中学)の最後の卒業生で、現在の高校にあたる中学時代がもっとも戦争が激しかったとのことだった。学徒出陣としては三井染料へ火薬を作りにいく人が多かったそうだが、田代さんは学校が旋盤工場になったので、そこでキー17戦闘機の部品を作っていたそうだ。また、一番印象に残っている話として語ってくれたのはグラマン戦闘機から機関掃射をうけたことだった。実際は1キロほど離れた貨物列車を攻撃したものだったそうだが、ものすごい爆撃音がしたらしく、操縦士の顔も見えたと語ってくれた。滝本さんも戦争のため小学校6年までは勉強できなかったとのことだった。もっと戦争についてお話を聞きたかったのだが時間の都合上無理で、非常に残念である。
9.おわりに
今回なによりも悔やまれるのは天候であった、あいにくの雨というにはあまりにも激しい豪雨であったため、実際に現地を見るのが駆け足になってしまい断念したものもあった。そんななかでも、丁寧に質問に応対していただいたばかりか実際に現地にまで連れて行ってくださった滝本さん、田代さんには感謝の気持ちでいっぱいだ。それに、質問内容についても事前に調べていてくれたとのことだった。ありがとうございました。また、サラダとゆで卵をご馳走していただき、お土産としてお菓子をくださった滝本さんの奥さん、そして時間がなかったため十分に話を聞けず残念だったが、こちらもお土産としていきなり団子を下さった中畑のおばあちゃんもありがとうございました。今回調査をしてみて、もちろん歴史学的なことでも普段聞けない話をきくことができ、また実際に目にすることができたということは非常に勉強になったが、それ以上に初対面の私たちにここまでよくしてくださった皆様に人の温かみというものを感じることができとても実り多きものになった。
今回協力していただいた方々
滝本三男さん(昭和11年のお生まれ)
田代寛治さん(昭和5年のお生まれ)
中畑トミヨさん(大正10年のお生まれ)