歩き・み・触れる歴史学
調査目的
→地名を調査しそれを記録して後世に残す。そのほか記録されずに忘れられつつある昔の村の姿・記憶を記録する。
村の名前、地名
→熊本県玉名郡三加和町平野(ただし合併前は神尾村)
昭和25年
使用している用水源と水量について
→和仁川より水を引く、水をせき止めて田に流し入れる。雨が降った時は部落の何か
で水のせき止めをはずしに行く。
今では機械でこのようなことを行っている。
昔の配水の慣行・約束事、昔の水の争いの有無について
→『争いはなか!部落で三人ずつで水の番をする。配水については大丈夫((笑))
和仁川は枯れたりはしない。和仁川は下流やけんねえ。』 平野は水に困ったことは一度もない。水の量は潤沢です。
田んぼ・畑の名称について
→『田んぼの名前はたくさんある。せんのうら、つる、しもづる、かみづるなど書き取れないぐらいある。』と安高さんは笑った。
稲について
→稲の病気には自然に稲が枯れる“もんがれ”“はがれ”“いもち”と言うものがある。
→これらの稲の病気を防ぐものとして、農薬(乳剤とせんざい)の散布
飼っていた家畜について
→飼っていていたのは牛です。馬は村に一頭いるかいないかくらい。餌は山から持ってきた草を与えていた。牛を歩かせたり、鋤を引かせたりするときの掛け声は『はい』『おい』『はいはい』であった。移動するときの手綱は二本。声を出し、手綱を引いて左右にうまく移動していた。
ガスがきたのは?
→ガスが来たのは昭和40年ごろ。
→ガスが来てから暮らしぶりが変わったそうです。
ガスが来る前はどうしていましたか?
→それまでは山から取ってきた枯薪を燃やして火を使っていた。夏は暑いので 冬にまとめて1年分の薪を採りに行っていた。家の庭に枯薪を積んでいた。
火は料理の時や五右衛門風呂に使っていた。五右衛門風呂は横に触れるととても熱く、下にすのこのような丸い板を敷いていた。
電気が来たのは?
→電気が来たのは昭和20年頃。電気が来るまでに苦労したのは“ろうそく”だったそうである。ここでひとつ昔のろうそくについての話をしようと思う。昔ろうそくは買うものではなく、手作りであった。平たい皿に油を入れておき、細く切った布切れにその油をしみこませ、火をともす。少しずつ布切れの先が燃えて火が油に近づくため常に布切れをつたう火の動きに注意を払う必要があった。おかげで不注意による火災が多かった。
薪について
→家の近くの山から取ってくる。山にはそれぞれ持ち主がいて、言うまでも無く許可なしに木の実を取ったり、木を伐採することは禁ぜられていた。しかし、枯れた木の葉や枝は誰でも自由に取ることが許されていた。山焼きはしなかった。山を切り、新たに畑を作ったりはした。その畑では芋などの作物を栽培した。その時の条件として山の持ち主でないものがその山 を開拓して畑を作った場合は三年間はタダで貸してもらえることになる。
山で取れる木の実について
→山桃(とてもうまい)、ひのきの実、野ぶどう、うべ またはあけびと言
う。(形は芋に似ている。中に黒い種が入っており、甘くておいしい。)
一言 →『昔、山の近くに住んでいる人は花粉症なんて誰もならんかった。今の人は弱いな。基本的に昔の人は強かった、何でも。』
酒について
→三加和町には地酒がある。それほど水がきれいって事。
魚について
→海魚は買いに行く。川魚は10月末にはあゆ(塩焼き)、かに(刺身)、はえ、泉鯛(まるで鯛)がとれる。
⇒安高さんは、泉鯛を釣っては友人に本物の鯛だと偽って食べさせていたそうです。(笑)
それくらい泉鯛と鯛は、見た目も味も似ているそうです。
お菓子について
→干し柿など
※干し柿の作り方・・・@ちぎる A皮をむく Bひもにつるす(20個ずつ)
C2〜3カ月干す D食す
お米について⇒ 5俵管・10俵管に入れて一年間保存
・
『缶かんにはフタがあるけ害虫は来んよ!
・
ねずみはイモ好きなので、イモに薬を入れて毒殺する。
・
ねずみについての思い出⇒『昔の家はねずみがはってはって大変だった。』
⇒ねずみの天敵が青大将!!
夜寝てた時に天井から落ちてきた!(と、熱く語ってくださった。)
・薬として使われる植物
↑血止め草・・・この草で傷の部位をおさえると血が止まる。春から秋にかけて,大きな木の下とか建物の北側などやや湿った土地を覆い尽くすように生育している。茎は地を這って広がっていく。名前の由来は,民間療法で止血に使われたからだそうです。
↑アロエ・・・やけどや傷に塗ると治る。糖尿病の予防や改善をする効果があり、がんを未然に防ぐのが効果があるそうです。 舐めてみた感想は苦かった・・。
↑ドクダミ・・・山地の低湿地や庭などに生えるドクダミ科の多年草。ジュウヤク(十薬)とも呼ばれ、十種類もの効能があると言われている。主な効能は、殺菌、毒下し、毛細血管の強化など。お茶にして飲むと利尿、便通及び高血圧予防になる。
↑げんのしょうこ(現の証拠)・・・「げんのしょうこ」は「現の証拠」で、下痢の時
に用いると すぐに効果が現れるところから由来している。とって干してゆがいた汁を飲
んだら、お腹をこわした時に効く。また同じ意味で「たちまち草」の別名がある。
山地・野原・道端などに、ごく普通に野生している多年草で、茎は地面を這うようにの
び、7〜9月に白色または紅紫色の花をつける。
・船着場について
→昔、車がなかった時、杉の丸太(または米)を山から切り出して船で運搬していた。
↑これは当時の様子を示した絵である。現在では、船着場はなくなってしまっている。
・当時の結婚について
→安高さん(六十四歳)の五歳上ぐらいの人たちは皆お見合い結婚。
・お見合い結婚について
⇒仲立ちさんといわれる仲介人を通して、男女が知り合う。
⇒両親の許しが一番大事だったそうである。
⇒女性側の父親は、素行をものすごく気にする。
⇒今も昔も父親の娘を思う気持ちは変わらないようだ。
⇒ちなみに安高さんは恋愛結婚だそうです。
・戦争が村に与えた影響
⇒戦争後はソーセージなどの肉文化が入ってきた。
⇒徴兵はあったものの直接戦争の影響は村には無かったようだ。
⇒戦争のために未亡人になった人を村全体で支えたそうである。
(私たちは当時の人のぬくもりを垣間見ることができました。
・安高さんの戦争体験記
⇒空襲の合図の鐘が鳴ると草むらや木の陰に隠れなければならなかった。
⇒鐘のなる速さで危険さが分かる。
⇒牛を連れて作業をしているときに鐘が鳴り牛を連れて逃げなければならかったことはたいへんだったそうだ。
・三加和町平野の今後について
⇒来年より合併し玉名市となる。これにより役所関係が遠くなるそうである。(安高さん
は苦々しい顔をした)
・このたびお世話になった福山安高さんのプロフィール
⇒昭和14年12月13日生まれ
⇒自宅でカラオケ道場を開いている。
⇒ちなみにあまりにすばらしいカラオケ器具が揃っていたので調査員の私たちも思わず歌ってしまいました。
この看板は平野に悠然とたたずんで
いた。
私たちがインタビューしている間も道場は多くのお客さんでにぎわっていた。
みなさん大変楽しそうでした。
☆今回の調査の感想☆
第一にこのたび調査に協力してくれた皆様本当にありがとうございました。私たちは、この調査を通して古史や人のやさしさを知ることができました。何より歴史のつながりを実感できたことが一番の収穫でした。これは教室でただ椅子に座って勉強しているだけでは知ることの出来ないものばかりでした。貴重な体験ができたと思います。ただ残念だったのは大雨という天候です。この悪天候のせいであまり景色が見え現在の生活がどんなに便利で、豊かなものであるかを実感しました。そして、昔の人の生活の知恵にもとても驚かされました。実際に熊本に行って話を聞き後継者不足のことなかったし、移動にも色々と苦労しました。
私たちはこの調査に全力で取り組むことができた上、調査の目的をしっかり果たせたと自負しています。これにて調査報告を終わりますが私たちはこの調査、この授業で学んだことを胸に刻み後世に語り継ぐ役割を少しでも果たすことができれば幸いだと思っています。
今回の調査で村の歴史についての様々な話を聞き、地名や田んぼの名前には様々な由来があり、人と田んぼ、川といった自然には深いつながりがあるのだということが分かりました。私は、ガスや電気が来たとき話、それ以前の生活の話を通してこの数十年間の生活の大きな変化を知り、現在の生活の便利さ、豊かさを実感しました。そして昔の人の生活の知恵にもとても驚かされました。訪ねたお宅の方々が温かく迎えてくれたことに感謝します。そしてこのような機会を与えて頂いたことに感謝します。
最後にこの調査に協力しくださった方々、本当にありがとうございました。
調査員
中 健太郎
広瀬 貴章