熊本県玉名郡三加和町野田区
荒木法行
河内健俊
古賀伸広
野田の小字について
野田区には小字が21個あるが、その名の由来がわかったのは約半分しかなく、現地の方にもわからないらしい。
由来のわかった小字
小字名 |
その由来 |
屋敷 |
野田にある家屋の大半があるため。 |
前田 |
屋敷の前方(川側)にある田の集まり。 |
後田 |
屋敷の後方(山側)にある田の集まり。 |
向田 |
屋敷から見て川の向かい側にある場所。今はもうない。 |
上ノ原 |
少し高いところにあり、広い原が続いている。 |
岡 |
岡のようなところ。 |
大坪 |
野田の小字の中で一番面積が広い。 |
西岳 |
太田黒区にある岳という小字をはさんで東と西に分かれている。西側が西岳、東側が西岳。 |
東岳 |
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平原 |
山の中だが、その中でも傾斜は緩やかである。 |
西原 |
野田区の中で西側にあり、傾斜が緩やかなところ。 |
由来のわからない小字
池ノ元、佃、桑ノ迫、上の段、杉谷、灰毛鶴、茶ノ木平、大平、大浦、山添。
右の写真は、野田区を上空から撮影したもの。実物をさらにデジカメで撮影したものなので、フラッシュの光が跳ね返って屋敷のあたりが白くなっている。
野田区の方々にQ&A
Q1、 田んぼの水はどこから引いていますか。川ですか、池ですか。川であれば、なんという井堤ですか(なんという井手ですか)。50年前も、同じでしたか。水の量は潤沢ですか。水争いはありますか。水を分ける上で特別のルールはありますか。
A1、 前田近くの川と桑ノ迫にある堤から。特に呼び名は無く、昔から変わらないらしい。基盤整備の前までは「水争い」があり、ルールとしては、早い者勝ち。ただ、川からか堤からかによって2つのグループに分かれており、問題が起こると各グループで対処していた。
Q2、 旱魃の時の思い出は?平成6年の旱魃は?雨乞いとかの経験はありますか。どんなことをしましたか。
A2、 平成6年以前の旱魃の際に、町からの支援でポンプを買ったため、平成6年に困ることは無かった。ただ、平成6年の水不足の際に、近くの山の地下水がおいしいと評判になり、毎日人が水を汲みにくるようになったらしい。ただし、野田の人は飲んでいないそうだ。雨乞いは大正以前には行われていたそうだが、経験のある人はいなかった。
Q3、 台風予防の神事(風切り)などはありましたか。
Q3、 なし。
Q4、 用水路の中にはどんな生き物がいましたか。昔も今も変わりませんか。
Q4、 昔は魚が何10種類もいたが、汚水や農薬で減少した。ホタルの数も同じように減少している。しかし、最近生物が再び増えてきたので、町の生活が改善されたとも言える。
Q5、 田の中にはどんな生き物?川には?
A5、 ゲンゴロウ、タガネ、タニシ、ジャンボタニシ、カエルなど。中でもジャンボタニシが増殖してきた。また、S40にシラサギが始めてやってきた。生態系に変化が起きているらしい。
Q6、 麦を作れる田と作れない田はありますか。らの一等田はどこで、昔(化学肥料の導入以前で)米は反当俵でしたか。悪い田は反当俵?麦は何俵?そばは?
A6、 前田のところで反当7〜8俵、今なら8〜9俵ほどで、悪田は減反で消えていった。減反のところに麦をつくっていたりしたが、長雨で収穫できずに腐らせるためつくらなくなった。そばは昔から作っていない。
Q7、 何斗蒔きとか、何升蒔きといった田はありましたか。あったとすれば田植えをせずに直蒔き(実蒔き)だったのですか。
A7、 保湿が悪い田に多めに蒔くくらいで、細かく決まってはいない。実蒔きをすることはなかった。
Q8、 むかしはどんな肥料を使いましたか、いまは?灰は重要でしたか。どうやって駆除しましたか。
A8、 昔は堆肥を使っており、今は科学肥料である。灰はカマドのものを使ったりしたが、そこまで重要視されていなかった。
Q9、 稲の病気にはどんなことが。害虫はどうやって駆除しましたか。
A9、 白様枯れや潜虫浸枯れなどがあり、害虫駆除には油(菜種)をさしていた。
Q10、 共同作業はありましたか。ゆいといいましたか。かせい・てまがえといいましたか。麦は作っていましたか。田植えはいつでしたか。ゆいでしたか、お手伝いの早乙女はきましたか。あるいは早乙女に行きましたか。
A10、 共同作業はあり、A1で述べたグループで行い、「てまがえ」と呼んでいた。むぎはA6で述べたとおりであった。田植えは、昔は6月下旬〜7月上旬で、今は6月上旬〜6月中旬。早乙女はいなかった。
Q11、 さなぶり(さなぼり・田植えのあとの打ち上げ会)はありましたか。思い出は?
A11、 さなぶりは今もある。竹筒にお酒を入れて川沿いに立てることで、川の神に対してお礼の意を示したりする。
Q12、 田植え歌は?もみすり歌は?茶山歌は?地域の民謡は?(もしもあったら)歌っていただくことはできますか(テープに録音する)。
A12、 もみすり歌だけが昔あったらしいが、はっきりとおぼえていらっしゃる方はいなかった。
Q13、 飼っていたのは牛ですか、馬ですか。
A13、 牛が主体。馬も4,5匹いたが後にはいなくなる。馬から牛への変化があった。昭和10年にはすでに牛しかいなかったらしい。昭和45年からは機会が導入され、牛の数も減ってきた。
Q14、 えさはどこから運んだのですか?
A14、 刈り取った後に残るわらや道端の草を食べさせることが多く、特別に持ってくることはあまりしなかった。
Q15、 牛を歩かせたり、鋤をひかせるときのかけ声は?右へは?左へは?
A15、 止まれは「おうおう」、バックは「おうらおうら」、右へ行くのは「まいまい」、左に行くのは「さしさし」だった
Q16、 どうやって手綱は操作しましたか。一本?二本?
A16、 通常は一本網であり、牛が興奮しているときは二本網だった。
Q17、 雄牛はなんといいますか?雌牛は?(*ゴッテ牛、ウノ牛ということが多い)
A17、 雄牛は「こって牛」、雌牛は「めうし」と呼んでいた。
Q18、 ごって牛をおとなしくするためにはどうしましたか。
A18、 こって牛は気性が荒く、危ないのであまり使わなかった。こって牛が生まれたときは早めに売り払った。農作業用にはめうしを用い、また繁殖用にもめうしを用いていた。
Q19、 馬は毎日洗いましたか。どこで(地図記入)。
A19、 牛は、使っているときに汚れたら洗っていた。夏はよく徳大石のあたりで洗っていた。
Q20、 蹉跌はしていましたか。馬の病気にはどんなものが?
A20、 三加和町に一箇所だけ蹉跌場があった。野田には無かった。牛は爪を切るだけで病気対策ができる。爪切り場は各集落にあり、野田は公民館のところにあった。
Q21、 馬洗いはあるが、牛洗いがないのはなぜ?
A21、 牛洗い場は特に指定をしていなかった。時には牛を馬洗い場で洗ったりもしていた。
Q22、 草切山(草切場)はありましたか(地図記入)。
A22、 草切場は特に無かった。
Q23、 この地区にガスがきたのはいつ頃ですか電気がきた頃の話を聞かれていますか。それ以前にはどうしていましたか。
A23、 プロパンガスは昭和34年ごろに一気に入ってきて、昭和40年には一般に広く普及した。都市ガスはない。電気は大正時代に入ってきたらしいが、電気をつける人とつけない人との間で論争があったらしい。電気代がもったいない、火事になるのではないか、というのが反対派の意見だった。ガスが来る以前は釜戸を、電気が来る以前はランプやカンテラを用いていた。
Q24、 薪はどうやって入手しましたか?(地図記入)
A24、 薪は山へ行ってとってきた。場所は特定していたわけではない。
Q25、 入り会い山(むらの共有の山、村山)はありましたか。どこに?(地図記入)
そこでどんな作業をしましたか。
A25、 入り会い山はあった。上ノ原とナニシの2箇所。まとまった地域ごとにも共有地はあった。これらはすべて現在では残っていない。そこでは根払い、つまり下草切りを行っていた。
Q26、 木の切り出しは・木馬(きんま)・しゅら(ずら)・路引き(どびき・ろびき)・川流しはありましたか?
A26、 牛や馬を使って、木馬や路引き(どびき)をおこなっていた。その作業をするための専門の牛もいた。
Q27、 炭は焼きましたか、収入はよかったですか。焼いたとすれば自家生産ですか、ヤキコでしたか。
A27、 炭火焼はあった。基本的に自家製のみを作っていたので、使い方は作った人がそれぞれ決めていた。そのため収入に関して詳細は不明である。
Q28、 山を焼くこと(八女地方ではハライ、ハレイ、背振地方ではキイノ・切り野、切山、琉摩地方ではコバ=焼畑)はありましたか。
何を作りましたか、何年間荒らしましたか。
ソバは反当何俵ぐらいですか?野稲は半当何俵ぐらい?
焼畑はなんという地名ですか?(地図に記入)
焼畑は民有地ですか、共有地ですか、国有林ですか?
阿蘇のように草山を焼くことは?
A28、 焼畑はまったく存在しなかった。ソバも作っていなかった。野稲は少しあった。草山を焼くことはなかった。
Q29、 かご(楮・こうぞ・かじともいう、*それぞれはちがうというひともいる)はとりましたか。
A29、 畑のまわりのケイハンに、楮を植えていた。それを加工して売っていた。
Q30、 ちょま(苧麻・お・からむし)・いらくさは取りましたか。どこから?
A30、 ちょま=朝をとっていたが、どこで取っていたのかは分からない。
Q31、 山栗は?カンネ(葛根)は?山の木の実にはどんなものが?
ほか商品価値のあった山のもの・山の幸はどんなもの?
A31、 山栗はいまでもあちこちにある。栗のサイズは小さい。カンネは根を掘って加工してアクを取ってからクスという真っ白な片栗粉として食べており、栄養のもととされてきた。山の木の実はシイノミ、ヤマモモ、アケビ、ウベ、ドングリを食べていた。ほかには山芋、竹の皮、ふしの実、ぜんまい、わらびを採ってきて売りに出していた。
Q32、 川にはどんな魚が。川の毒流しはありましたか?
A32、 昔はほとんどの川魚が揃っていたらしい。今はだいぶ少なくなっている。毒流しは、「げらん」という毒薬を使って行っていた。毒のほかにも電気を使ったりして川魚をつかまえていた。
Q33、 おかしは?干し柿の作り方、勝ちぐりの作り方・数え方(干し柿は「連」か)をおしえてください。
A33、 干し柿は作っていた。ひとさげ、ふたさげと数える。かちぶりはこの地域ではつくっていないが芋あめはつくっていた。
Q34、 食べられる野草は?食べられない野草は?
A34、 野草はよく食べるわけではなかったが、食べられる野草の種類は多かった。スカンポ、ススノキ、カヤノメ、ツバナ、セリ、フツ、ヨモギ、ノビル、スメリといった野草を食べていた。逆に食べられない野草についてはよく分からなかった。
Q35、 米はどういう風に保存しましたか?はん米・ひょうろう米(飯米・兵糧米)は?種籾は?
A35、 半俵という俵に包んで、そして大きなブリキ製の缶の中にまとめて入れて保存していた。貯蔵庫もあった。また、種籾は収穫時に米とは別に保存する。家で食べるための兵糧米もあった。
Q36、 ネズミ対策は?
A36、 ネズミ捕りを用意したり、猫を飼ったりしていた。
Q37、 米作りの楽しみ、苦しみは?
A37、 楽しみは、さなもりや収穫祭、苦しみは、草を取ることや消毒作業だった。
Q38、 昔の暖房は?
A38、 掘りごたつやいろり、オンドルなどがあった。いろりは火鉢の代わりとして用いていた。
Q39、 車社会になる前の道はどの道でしたか?
A39、 昔の道は狭くてでこぼこしていたが、道路の場所自体は昔も今も変わらない。河川近くの道は道路整備によって広くなった。
Q40、 むらにはどのような物資がはいり、外からはどんな人がきましたか?行商人は?魚売りはどこから?箕ソソクリ・鍋ソソクリなどは?
A40、 詳しい物資については分からないが、自転車の荷台にいろいろな物を載せた人がやって来たらしい。箕ソソクリは年に数回、鍋ソソクリは月に一回、隣町からやってきたそうだ。
Q41、 川原やお宮の境内に野宿しながら箕を直したり、箕を売りにくる人を見たことはありますか?その人はなんと呼ばれ,どちらの方から来たと考えられていましたか。
A41、 サンカと呼ばれていた人がそういう仕事をしていたらしいが、どこから来た人なのかは定かではない。
Q42、 カマドのお経を上げる目の見えないお坊さん(「ザトウ」さん)は?
A42、 いなかった。
Q43、 やんぶし、薬売りは?
A43、 やんぶしは存在しなかったが、薬売りは富山からきていた。
Q44、 むかしは病気になったときはどこでみてもらいましたか。
A44、 集落内に病院があったため、そこで診てもらっていた。
Q45、 米は麦と混ぜたりしましたか。何対何ぐらい?
A45、 基本的には混ぜていた。戦後の頃など最悪のときには、米:麦=3:7であった。
Q46、 自給できるおかずと自給できないおかずは?
A46、 肉はうさぎや鶏の肉が食べられ、川魚も獲れていたし、野菜も作れたが、海が近くにないため、海産物が自給できなかった。
Q47、 結婚前の若者たちの集まる宿(わかっもん宿・若者宿・青年宿)・青年クラブはありましたか。男だけですか?そこでは何をしていましたか。規律は厳しかったですか。上級生からの制裁とかありましたか---力石は?干し柿を盗んだり、すいかをとったりは?
A47、 二階建ての家屋があった。子供達がそこで卓球、雑談、縄結いなどをしていた。また、そこが学校となったりもした。規律は厳しく、上級生の制裁もあった。
力石はあったし、俵を使った力比べもあった。干し柿を盗んだりすいかをとったりすることも時にはあった。
Q48、 戦後の食糧難のとき、若者や消防団が犬をつかまえてすき焼きや鍋にしたことは?犬はおねしょの薬だと聞いたことがありますか(体がぬくもる)。
A48、 犬はよく食べていたが、食べるのは赤犬だけだった。おねしょの薬という話は聞いていない。男女ともによく食べていた。
Q49、 犬はどうしたらつかまりますか。
A49、 保健所が野犬狩りをするため、そのとき捕まえた野犬をもらって食べることが多かったようだ。
Q50、 「よばい」のはなしは聞きますか。よその村からくる青年とけんかをしたりは?
A50、 戦前は「よばい」が盛んだったらしい。「豆泥棒」とも呼ばれていた。「よばい」をきっかけに夫婦になるものも多かったらしい。けんかはそんなになかったようだ。
Q51、 こういう言葉を聞いたことはありますか―じょうもんさん、みちわけざけ、まつぼりご
A51、 「じょうもんさん」は、お利口さんという意味らしい。それ以外は分からない。
Q52、 もやい風呂(協同風呂)はありましたか。
A52、 3、4件くらいで風呂の湯を1件分沸かして、その風呂をみんなで共用することはあったが、協同風呂といったものを作ったりはしていなかった。
Q53、 盆踊りや祭りは楽しみでしたか?祭りはいつ?
A53、 楽しみにしていた。神楽は昔11月26日だったが、今は10月15日に行われている。
Q54、 恋愛結婚は多かったですか?
A54、 恋愛は主に村のもの同士で、「見合い」は親戚のつてで行われた。どちらも盛んだった。
Q55、 農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか。
A55、 地主が野田の辺りにあまりいなかったので、農地改革前も改革後も人々の生活に変化は無かった。住民がみんな耕作していた。
Q56、 むらに格差のようなものはありましたか。
A56、 格差は無かったが、お金が必要な時にひとによって金を出す率を変える段当割りはあった。
Q57、 むかし神社の祭りの参加、運営は平等でしたか。
A57、 平等だった。特に問題が起きたことは無かった。
Q58、 戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?戦争未亡人や靖国の母は?
A58、 若者の多くが徴兵され、その結果深刻な人手不足が起こった。戦争で家族を失った人たちには戦後、国から遺族年金を渡されたが、失ったものはあまりにも大きすぎる。
Q59、 むらは変わってきましたか。これからどうなっていくのでしょうか。
A59、 今後町村合併が行われ三加和町全体が大きく変化することとなり、野田区も大田黒区と合併し、『日だまりの里』となることが決定している。農業に関しては、生産調整によって田には戻らない荒れ地もできており、耕作面積はこれから少なくなっていく。また、現在30名ほどいる耕作者もあと5,6年で半分にまでなると予測される。
その他の聞き取り
小字ではないが、野田区の皆さんが使っていた地名に,「石原」というものがある。「石原」は、基盤整備がされる前に毎年水に土がさらわれ石が見えてきたのでこう呼ばれていた。前田と佃の間にある河川の辺りのことを指す。また、川には徳大石という大きな岩があり、夏には子供たちが泳いで遊んだりしていた。別に一本だけ生えているわけでもないのに一本杉と呼ばれている杉もあった。
野田の年間行事
体育祭 野田の人々が総出で行う。今年で19回目となる。
納涼祭 もぐら打ち、どんど(鬼火たき)、ちのわくぐり、御願成就など
平成2年の水害
平成2年7月2日に豪雨が降り、川の水が氾濫し、田んぼに重大な被害が出た。当時、細かく360枚ほどに分かれていた田が、水でぼろぼろになってしまった。この後基盤整備が行われ、田の一枚辺りの面積は洪水が起こる前の10倍の大きさくらいとされた。また田と田の間に仕切りをつけたり、川に堤防が築かれたりするなど、水害対策が全面的になされた。
今回の取材に協力してくれた野田区長の平大和さん、そして野田区のみなさん、ありがとうございました。