熊本県玉名郡三加和町西吉地上吉地地区

調査者:岸 豊

    佐藤 勇太

 

 

インタビュー内容

 

インタビューは四人の方に協力してもらった。まず、米澤英憲さん。昭和15年生まれで西吉地地区の区長である。米澤さんはもともと三加和町の人ではないらしく、定年後奥さんの実家のある三加和町に越してきたということである。次にその奥さん。さらにその奥さんの母親である三串フデ子さん。大正5年生まれ。最後に慶永武福さん。大正9年生まれ。この人は少年時代を三加和町で過ごし、その後三十年ほど別の土地にいたが再び三加和町に帰ってきたそうである。

 

まずは5000分の一の地図を広げて、西吉地地区の小字の由来について訪ねた。しかし、これは地元の人でもよく知らないことのようで簾置きという知名に関してだけ米澤さんが調べていた。それによると「室町時代に巖中和正という人が下向の折に、この地で休息を取り簾を置き忘れたのでこの地名になった。」ということである。この由来には皆さんが感心していた。

 

田んぼへの水はどこから引いていましたか?

  田んぼへの水は和仁川ではなく、六四郎川から引いていたということである。六四郎川とはちょうど米澤さん宅の裏を流れている小さな川のことである。このことはとても意外だったが、その理由を聞いたら納得した。和仁川はがけが高いために水をくみ上げるのが難しいということである。そこで、福田橋の下に木でできた枠を取り付け、和仁川の西にある六四郎川から、東にある河原田と呼ばれる水田へ枠を伝い水を引いていたということである。

 

水争いや、水を分ける上での特別なルールはありましたか?

水の流れは百姓の命なので、支流一本でもうるさかったそうである。

 

旱魃の思い出は?雨乞いの経験はありますか?

昭和三十年ごろにひどい旱魃があったということである。このとき、米澤さんの奥さんなどは「ひょうたん年かい、あま年かい」といいながら、なべを打ち鳴らしたり、うちわを持って踊ったりした記憶があるということだ。ひょうたん年とは日照りの多い年のことで、あま年は雨の多い年のことである。また、なべを打ち鳴らす行為には空気を振動させて、雨を降らせる狙いがあったそうだ。そのほかに、男の人が女装をして踊ったりもしていたそうだ。これには特に意味はなく、ただ似やがっていただけではないだろうかということである。さらに、雨乞いの最中に落雷が起きたこともあったそうだ。それ以降雨乞いは中止になったという

 

 

昔はどんな生き物がいましたか?

  フナやナマズは昔も今も変わらずにいるということである。ギュウギュウやセギンチョといった魚が最近見られなくなったらしい。この原因として、吉永さんは昔に比べ川の流れがよどんでしまったことをあげた。これはおそらく上流部での木の伐採などが関係していると考えられる。また、逆に最近は昔は見られなかったいのししが出没するようになって困っているということだ。

 

麦は作っていましたか?

以前は作っていたが、昭和三十年あたりから作らなくなったそうだ。その理由として次の言葉をいただいた。「麦は俵に入れてみらんとわからん。」つまり、麦は実際に収穫が終わるまでそのとその収穫量がわからないということである。

 

昔はどんな肥料を使っていましたか?

昔は、一の谷という共有原野から草を刈ってきて、それを灰にして田にまいていたそうである。

 

害虫はどうやって駆除していましたか?

害虫の駆除には石油を使ったということである。苗が植わった田んぼに石油をまいて、笹箒のようなもので苗をはたき苗についた害虫を落としたそうである。すると、石油の中に落ちた害虫は飛べなくなって、容易に駆除されたそうである。また、三串さんは穂が実った田んぼで害虫を駆除する際、稲穂をはたいてしまい友達とともに大変しかられたという失敗談を聞かせてくれた。また、ホリドールという害虫駆除剤のせいで障害を負った友人がいるということを痛ましい顔つきできかせてくれた。

 

さなぶりはありましたか?

最近では田植えは機械化により家族単位で行われるようになったが、昔は地域住民を挙げての作業だったので、さなぼりは必ず行われていたそうである。さなぼりでは田植えだごが楽しみだったと、と吉永さんは思い出を語ってくれた。田植えだごとは、メリケン粉で団子を作り細かく切って、黒砂糖をかけたものだそうだ。

 

家畜は飼っていましたか?

終戦前は馬を、終戦後は牛を飼っていたそうである。馬は戦争中は軍馬に挑発されると高く売れるから飼っていたそうである。戦後、馬から牛に変わったのは牛は運動させる必要がないからだそうだ。また、馬も牛も和仁川で体を洗ってやるととても喜んだそうである。

牛をあるかせる時の掛声は?

右に行くときは、マイマイ。左に行くときは、サシサシ。止めるときは、ダーダーと、いったそうである。

 

草きり場はありましたか?

西吉地の北西部にある一の谷というところが草きり場であったそうだ。またここは村の共有地でもあった。後に共同作業に言った人で分割したということだ。

 

・入り会い山はありましたか? どこに?

一の谷(地名は地図参照)のところにあった。

 

・そこでどんな作業をしましたか。

草刈りや野焼きをした。後に共同作業に出ていた人で、

原野の所有権を分けた。

自分の欲しい所に旗を立て、その後に大きさを調整した。

 

・木の切り出しは、木馬・しゅら・路引き・川流しはありましたか。

木は他の所から切ってきていた。

木を切っても切らなくても切り出しだった。

 

・炭は焼きましたか。収入はよかったですか。

 焼いたとすれば、自家生産でしたか、ヤキコでしたか。

昭和30〜40年代までは焼いていたが、ガス化で炭は必要なくなったので

焼かなくなった。

 

・かごは取りましたか?

この地域ではかごのことを「こうぞ」と言って、

終戦後まではこうぞを買いに来る「こうぞ買いさん」がたくさんいた。

 

・商品価値のあった山のもの・山の幸はどんなもの?

お茶や杉、たけのこが少しと渋柿の木があった。

渋柿の木は、ゴルフクラブのウッドに使われていて、昔はたくさん

あったけど今は少なくなってしまった。

 

・米はどういうふうに保存していましたか。

はん米、ひょうろう米は?種籾は?

すべてせこ、わくの中に種籾のままとっていたか、大きな缶(5俵、10俵)に

玄米でとっていた。

 

・ネズミ対策はやっていましたか?

今は袋に入れて、大きな米用の冷蔵庫で保存している。

昔はドラム缶に入れて保存していたが、ネズミは

入って来なかった。

 

・米作りの楽しみ、苦しみは?

やっぱり、人手が足りなかったのが苦しかった。

働く人を雇うのが大変で、子供の頃は小学校でも田植え休みや

稲刈り休みがあった。

水田の稲に付いた虫を取るときには、田んぼの水面に

油を垂らして、表面に油の膜を作り、竹のさおで稲の穂の部分を

ガサガサと探って、虫を水面に落としていた。

羽に油が付いたら浮かんでこなくなるから。

田植えが終わった後は、田植えだごを作って食べさせて

もらっていた。

田植えだごはメリケン粉でだんごを作り、細く切って、

黒砂糖をかけて食べた。

草刈り、草抜きも大変だった。がんづめ(除草機)で草の根を

浮かせていた。

とにかく草抜きの時期は暑かったので、昼の作業は

とても嫌だった。

 

↑田中城から見た田園風景

 

・昔の暖房は?

こたつや火鉢、切りごたつ、湯たんぽがあった。

冬はとても寒かった。夜は湯たんぽを使って、その次の朝には

その湯たんぽの水で顔を洗っていた。

 

 

 

・車社会になる前の道はどんな道でしたか?

現在車の通っている道が昔の道でもあった。

川沿いに通っている道と山の中を通る道があり、昔は

鉄道が通る計画もあった。鉄道計画はなくなったが、

その跡地に道路ができた。

 

↑和仁川沿いの風景。川沿いは綺麗に整備されていた。

当日は大雨だったため、水量が多かった。

 

・むらにはどのような物資がはいり、外からはどんな人が来ましたか。

行商人は?魚売りはどこから?

箕ソソクリ、鍋ソソクリなどは?

日用品がよく入ってきた。行商人や魚売りは

「買わんかのも(柳川の方言?)」と言いながら

南関やせた、大牟田から来た。

 

・川原やお寺の境内に野宿しながら箕を直したり、

 箕を売りに来る人を見た事がありますか。

  箕は自分達で作っていたし、昔はあまりいいかっぱは

  なかったので、箕売りを見た事はない。

 

 

・かまどのお経を上げる目の見えないお坊さん

 (「ザトウさん」)は?

  お坊さんかどうかは分からないけど、たまに行き倒れに

  なった人が居たことがあった。

  三串さんの以前の家の裏に行き倒れになった人のお墓がある。

  (場所は地図参照)

 

・やんぶし・薬売りはいましたか?

  薬売りは昔はよく見かけたけど、最近はあまり来ていない。

  昔は富山から来ていた。今では農協から来ているが、

  最近近所に来ているのを見た。

 

・むかしは病気になった時はどこで診てもらいましたか。

  昔も、地域の医者がちゃんといた。和仁や東吉地の方に

  医者がいたらしい。三串さんの昔の家のあたりには

  歯医者があった。

 

 

・米は麦と混ぜたりしていましたか。

  混ぜていたが、麦は少なかった。あわやいもが多かった。

  米は収穫しても、ほとんどを外に出して(売って?)

  いたので、自分たちが食べる分は少なかった。

  昔のご飯は、あわやからいも、かぼちゃの量の

方が米の量よりも多かった。

  今では考えられないことだと思う。

 

・干し柿を盗んだり、すいかを盗ったりはしましたか?

  どちらもいたずらでやった事はあるけど、

  食べ物に困ってやったというわけではない。

 

・戦後の食糧難で、若者や消防団が犬を捕まえて

 すき焼きや鍋にしたことは?

  すいかや干し柿と同じで、いたずらや興味本位で

  食べた事はある。

  昔は、この辺りでは食べ物に不自由はしておらず、

  そういったげてものを食べる必要はなかった。

 

・昔のおやつ、お菓子にはどんなものがありましたか。

  田植えの手伝いの時に食べさせてもらう田植えだご、

  ソーダまんじゅうや盆まんじゅうはよく作っていた。

  いもなどもおやつにしていた。

  昔の子供たちはまんじゅうしか無かったからか良く

  まんじゅうを食べていたけれど、今の子供たちは

  ちっとも食べない。

 

・むらに格差のようなものはありましたか。

  むらの中には差別はなかった。

 

・戦争はこの村にどのような影響を与えましたか。

  戦災はなく、この村は被害は受けていない方だった。

  飛行機が一機近くの山に落ちただけだった。

 

・若者クラブや、それにまつわる生活について。

  上吉地は、いろいろな所から人が集まってきている

  ので、村の決まりやしきたりはほとんどなかった。

  青年クラブもなく、「夜ばい」をすることもなかった。

  この辺りは開けていた方だと思う。

  他の地区にはしきたりは残っていて、

  この辺りには共同風呂はなかったが、山川のあたりには

  共同風呂はあった。

 

  昔は、何かと行事が多く、飲む事も多かったが、

  吉永さんが居ない間に集まることも無くなっていたらしく、

  帰ってきた吉永さんの呼びかけで年に一度、正月に

  飲み会をするらしい。

 

 

 

 

 

 

 

○感想

昔の人々の生活について聞く、という機会が今までになかったので、

とても良い勉強になった。

協力していただいた方々も、終始懐かしむような表情でお話してくれて、

時に先方でどんどん話が盛り上がって行くこともあったけれど、

その時間を少しでも気持ちの面で共有できた事は大きかったと思う。

特に心に残ったのは田植えの時の話で、水田に石油を注ぐという事は

考えも付かなかったので、昔の人たちは知恵という便利な道具を

今の人よりたくさん持っていたんだな、と感じた。

あと、饅頭の話のところで、私の祖母も「最近の子はちっとも食べんねぇ」

と同じような事をこぼしていたので、懐かしく感じた。

どしゃ降りの中で、生き返りにはとても苦慮したけれど、なかなか出来ない

貴重な体験をしたと思う。

 

今回の体験で、調査にご協力いただいた永沢さんご夫妻、吉永さん、三串さんの

他にも、食事に立ち寄った居酒屋のご主人の方には米沢さん宅まで送って

いただいたりと、大変お世話になりました。お世話になった方々には、

感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。

 

参考資料:三加和町ホームページ(画像)