三加和町中吉地に関するレポート
調査者:鬼崎崇輔
貞嶋由希人
調査地:熊本県三加和町中吉地
協力してくださった方:坂梨さん(昭和11年1月28日生まれ)
坂梨さんの奥さん
大塚さん
○「吉地」の由来
・ 「吉地」はもともと「富貴の里」と呼ばれていた。なぜ「富貴」かというと、この土地は周りと比べて低い位置にあるので、雨が降ると良い土が流れ込んできて、肥沃な畑や田になったからだ。それで「良い土地」→「良い地」→「良し地」→「よしち」→「吉地」となった。ちなみに、和仁の旧名「春日之原」とあわせてここら一帯を「春(春日の春)富(富貴の富)」と言っていたようで、春富小学校という校名にその名残を見て取ることができる。
○中吉地について
・ 中吉地は「山森(やまもり)」と「遠野(とおつけ)」の二部落からなり、両部落は現在「山森」が25戸、「遠野」が16戸と戸数の減少が続いている。
○田・畑の話
・昔から中吉地一帯には水田があった。あぜ道の曲がりくねった田だったが、現在は圃場整備されている。以前は二毛作で麦を作っていたが、今は作っていない。また、昔は和紙作りも盛んで、楮の畑もいっぱいあった。
・稲に害虫がつかないように、今は植える前に薬を撒いている。しかし昔は「油さし」といって、田に張った水に油を浮かせ、その後、稲を箒で払って虫を油の浮いた水の中に落とす。そうすると、虫は油で呼吸できなくなるので、害虫を退治することができた。農薬などのおかげで現在は害虫の心配はほとんど無いが、今の悩みの種はジャンボタニシだそうだ。圃場整備の際に土を他所から持ってくることがあったが、その土に混じってやってきてしまったようだ。大きいので、一匹一匹手作業で駆除(つぶす)しているらしい。帰りにだいぶ田や畑を見て回ってみたが、いなかった。ちょっと見てみたかったのだが、これも地道な駆除の成果なのだろう。
・耕作方法として、今はトラクターを使っているが、その前は耕耘機という、二輪の、後ろからハンドルで操作しながら歩行する機械を使っていた。要は手押しトラクターである。九大の農学部では今でも使っているらしい。しかしその耕耘機を使い始めたのは昭和40年代で、その前はテイラーという耕耘機の前身のような道具を、さらにその前は牛や馬を使って田や畑を耕していた。牛や馬で耕すと1a耕すのにも一日以上かかったそうで、広々と広がる田畑をみて、気の遠くなるような作業だったろう、と思った。
○牛・馬の話
・基本的に雄牛のほうが気性が荒いので、農業用には雌牛を使い、雄牛は「山出し(山から材木等を運び出すこと)」に使っていた。気性が荒いとはいえ、飼ってしばらくたって馴れた雄牛はそうそう暴れることはないが、買ったばかりの馴れてない雄牛は暴れることもあった。坂梨さんも、お父さんと一緒に福岡の筑豊方面まで雄牛を買いに行かれたことがあるそうだが、その時お父さんは竹の先を少しとがらせたものに牛の鼻輪からのびる綱を巻きつけて、綱を引っ張っていらっしゃったらしい。牛が暴れて向かってきたときは、その竹で突くと牛も痛いのは嫌なのでおとなしくなるからだそうだ。
・牛を扱うときにかけていた掛け声を教えてもらった。
左に曲がらせるとき 「さっさし」
右に曲がらせるとき 「まいまい」
止めたいとき 「おうおう」
進ませたいとき 「はいはい」
牛の扱い方は、子は親の真似をして覚えた。もともと、親がすでに仕込んでいる牛を扱うので、すぐに扱えるようになった。父親が戦争の召集にかけられるなどして、いない子供には、隣のおじさんが扱い方を教えてくれるなど、隣近所で教えあい、助け合いながら生活をしていたそうだ。ちなみに、前述のように今はトラクターで耕すが、トラクターはそれぞれ動かし方が違うので、なかなか使い方を隣近所に教えてあげるといった手伝いはしづらくなっている、とおっしゃていた。しかし、村内の道路の舗装を皆でやるなど、助け合いの精神は健在である。
・牛や馬は、毎日洗うわけではなかった。だが、夏だけは毎日洗った(不衛生になるので)。「和仁川」で洗った。まずしばらくの間、牛・馬を川の流れにひたして、付いた汚れ(糞など)を落としやすくしてから、たわしでこすって洗ったそうだ。
・牛や馬のえさとなる草は、発酵すると牛や馬の体に悪いので、夏場は毎日山に行って草をとり、束ねて肩に背負って持ち帰ったり、田に生えた雑草をとって「ぶり」と呼ばれる籠に入れて(田に生えた雑草は短くて束ねられないから)持って帰えらなければいけなかった。朝にとるので、草が朝露に濡れている分とても重かった。冬場は貯めておいたわらを刻んでえさにしていた。このえさの草とり、わら刻みは子供がお手伝いとしてやっていたそうだが、坂梨さんは小学校三年生のとき、わらを刻んでいて誤って指を切って怪我をしてしまったそうで、今もその痕が指に残っているのを見せていただいた。
○燃料の話
・ランプ用のプロパンガスを使用し始めたのが昭和29年ごろで、煮炊き用のガスが普及し始めたのが昭和45年ごろ。それまでは薪(たきもん、と言う)や麦わらを使っていた。麦わらは、火力が弱く、灰がたくさん出るので毎日かまどを掃除しなければいけないが、釜が傷まない。逆に、竹を燃料に使うと、火力は強いがすぐに釜が傷むから、竹は使うな、と親が言っていたそうだ。もし釜が傷んでしまった場合は、鋳掛屋と呼ばれる修理屋が各家庭へやって来て直してくれたが、その代金は安くはなかった。
・冬場は農閑期であり、また冬には蛇などが山にいないこともあって、薪取りが主な仕事だった。夏場に薪を取りに山へ入るときは、古くなった衣服をねじってひも状にしたものによもぎをなえ込んだものを、蚊よけとして持っていったそうだ。それに火をつけると一気には燃えず、じわじわとたくさん煙を出しながら燃えたので、蚊やブヨが寄ってこなかったらしい。また、薪の量は大量なので、薪小屋のある家も多かったそうだ。
・炭は自家生産していて、売りに出すこともあった。今も竹炭を作って売っている人はいるようだ。作った炭を掘りごたつの床下に入れ、温度調節をするためにその上に灰をかぶせ、さらにその上には火傷をしないように、すのこのような板を渡して床下暖房にしていた。コタツ布団をかぶせるから、布団内では暖かさが持続してとっても暖かかったそうだ。
○山の話
・草や薪用の木を切り出す、他の村との共有の山があった。互いに使う区画を取り決めて切り出しをしていたそうだ。
・山焼きは行われていなかった。周囲の山々が急斜面なので、焼いてしまうと大雨の時などに土砂崩れが起きるからだそうだ。
・山からは、ぜんまい、わらび、ふきなどの山菜がとれた。
○雨の話
・水害では、昭和62年の水害がひどかった。もっとも田は山の上のほうに作ってあるから、稲にはさほど被害はでなかった。稲というものは1日くらい水につかっても水がすぐ引けば大丈夫なようだ。しかし、製材所の材木が川(和仁川)に流れてしまって、流れをせき止め、水があふれて堤防が決壊するなどの被害がでたそうだ。
・逆に昭和40年ごろの日照りでは、雨乞いをしたことがあるそうだ。神社に太鼓や鐘や笛を並べて鳴らすという儀式だったらしい。やはり農業をする人にとっては水害よりも日照りのほうが心配なことのようだ。
○川(和仁川)の話
・フナ、はえ、うなぎ、なまずやかになどがとれた。今も魚はいるそうだが、浄化槽から出る水が川に流れるようになっているので、気分的に魚を釣る気にはなれないらしい。近頃蛍が増えたそうだ。
○車の話
・昭和40年ごろから車が普及し始めた。初期は三輪の車ですぐにひっくり返った、と坂梨さんはおっしゃっていた。車のおかげで話にならないくらい便利になった、ともおっしゃっていた。
○昔の若者の話
・やはり、隣村から自分の村の女の子目当てでやってくる男の子を撃退しようとして小競り合いをすることはあったそうだ。
・男同士で、夜は坂梨さんの家のすぐ隣にあるお宮に集まって語り合ったり、干し柿を盗んできて食べたりしていた。そのままお宮の中に泊まることもあったらしい。酒は高かったから飲むことはなかった。集まりに行かないと、仲間外れにされるから、とにかく行ったそうだ。
○神社の話
・坂梨さんのお宅の隣に「山森阿蘇神社」という神社がある。この神社の起源は古く、正治2年(西暦1200年)に坂梨さんの先祖の坂梨弥五助さんが阿蘇から神様を連れてこられたのが起源だそうだ。
・正月と1月の3、6日には神楽が行われた。2月4日、12月4日にも行われていた。今は子供神楽として受け継がれていて、その公演は新聞でも大きく取り上げられたことがある。その新聞をみせてもらった。
・祭りでみこしが村を周るときに歌われていたものを坂梨さんから頂いた。レポートに同封する。
○将来への思い
・村は人口がどんどん減っていってしまうのではという不安がある。また、実際にどんどん人口は減っていってしまっている。子供神楽の担い手もいなくなってしまうのではないか、と心配されていた。確かに農地を荒れさせないため、大切な伝統を守るため、町おこしのために、若い人に帰って来いと言いたい。しかし若者が帰ってきても仕事は少なく、都会以上の収入を保証することは大変難しい。そのため、声を大きくして、帰って来い、とは言いにくいそうだ。職の確保、町おこしのために大きな会社や工場ができてほしい、ともおっしゃっていたが、そこから公害が発生して大切な自然が壊されてしまうかもしれない。そういったジレンマもあるだろう。今、貴重な自然を守りながらも過疎化を食い止めるために「里作り」の話し合いが行われている。
○調査者感想
・今回の調査は大変な大雨のなかで行われた。僕らとしてもなかなか大変だったが、そんな僕らを歓迎して長時間調査に協力してくださった坂梨さん夫妻、大塚さんをはじめ、三加和町の方々に心から感謝したい。驚いたのは坂梨さん達が自分達の土地のことについてたくさんのことを知ってらっしゃったことだ。僕らを含め都会に住む人間は土地について何も知らない。それはその土地に愛着が無いからであろう。やはり何代にも渡って同じ土地に住み続けているからこそ愛着もわき、土地の将来について真剣に悩んだりするのだろう。そういう人達がいるから日本の自然や伝統は守られているのだと痛感した。『郷土を愛する心』、その大切さを学んだ。