6月26日、時折激しい雨が降る中、熊本県の
〔小字について〕
小字の由来については詳しいことは分からないが、室町時代に京都から左大臣藤原経教
の九男が中和仁に来て、京都にあった地名をそのまま付けたということだけは分かっている。
〔農業について〕
農業の機械化が進んだ現在、農作業は主に若い人達に任せているという。機械の導入によって昔なら数人がかりでやっていたものを、今はひとつの機械が短時間でやってしまうのだ。中和仁の農業では主な順に稲作、竹の子、ミカン、を作っていて、中和仁で取れたお米には神原さん達も自信を持っておられた、水が他の土地とは違うので美味しいと話していた、頂いたおにぎりは確かにモチモチとした食感でとても美味しかった。
また、中和仁の竹の子は品評会でも評判がいいそうだ。そして、
農業と肥料は切っても切り離せない関係であるが、昔は肥料として牛糞だけでなく人糞も使用し、昭和に入ってからは硫酸アンモニアなどの化学肥料も使用したという。人糞は竹の芽を出すためにも使われ、春と秋の二回竹林にまくのだ。また、灰や大豆の搾りかすも使われ、灰は固まらない内に早く苗の種を蒔いた上からまき、大豆の搾りかすは田んぼにまかれた。
〔焼畑について〕
焼畑をするかどうか尋ねたところ、しないそうだ。田中さん談:「南米のごつ、どんどん燃やしたらいちいち金が掛かる、ハハハハ…」
〔農作業について〕
農作業において人手を要する場合、中和仁では親戚同士で手伝い合う、これを
『てまがえ』と言う。近くの者を借りるからだろうか…。しかし、どうしても『てまがえ』が出来ない家が「早乙女(さおとめ)」を雇っていた。
〔牛・馬について〕
昔の農家にとって欠かせないのが、馬や牛であった。中和仁では主に牛を使っていたそうで、雄牛を(コッテ牛)・雌牛はそのまま(めうし)とそれぞれ呼んだ。牛には前足のみに草履(ぞうり)のようなものをはめて歩かせるのだ、そうしないと牛が痛がって足を止めるからだ。農作業の後、馬は水が好きで川に自ら入って行くが、牛は水で洗うのを嫌う為、ワラなどで叩いて川に入れて洗ったそうだ。馬には蹄鉄をはめた。
また、牛を動かす際のかけ声もあり、右に行かせる時は『まい』を繰り返し、左に行かせる時には『さし』又は『さっし』というかけ声をかけた。エサは冬においては(稲わら+精米した後の米ぬか+小麦を引いたカス+米くず+小麦くず)を食べさせ、夏は草を食べさせ、それが無いときは稲わらを食べさせていた。また、昔は雌牛一匹を買う際に10円の補助金が出ていた、しかし、よい牛を買う場合それでは足りないので自腹をきっていた。
〔田んぼへの水引に関して〕
中和仁はすぐ近くに川があり様々な場所から水を引いている。水の分け方としては、上の田んぼの水口に近いところから水を引くのだそうで、水車(みずぐるま)と呼ばれる器具で引いていた。昔は夜も寝ずに水を引く家もあったという(他人に水を取られない為でもある)。伊藤さん(78歳)によると、水を引くに当たっての争い(水争い)も古い昔はやっぱりあったらしい。中和仁でも昭和14年と42年に干ばつに襲われ、昭和42年の干ばつでは田んぼ用の川水をポンプでミカン山にくみ上げたことから争いが起きた。しかし、川の水は慣習として水田のためにあると考えるのが常識であるものの、規則ではないのでミカン畑に水を引いても悪くはないという。
干ばつが起きた際には雨乞いがあり、神事を行った後に仮装をして、水争いで喧嘩していた人達も一緒になって踊ったりするなどとても楽しいものであったという。実際、
昭和14年の干ばつの時に中和仁では雨乞いを行った。
また、こんな興味深い話も聞けた…それは、干ばつによって田んぼにヒビが入り、稲がしおれてしまう、そこに水を流し込むと稲がみるみる元の様に真っ直ぐになるのだという。
〔山の幸と産品〕
山の幸として竹の子、山桃、うべ、アケビ、しいの実、ウサギ、山鳥、山芋、ワラビ、ゼンマイ、フキ、タラの芽(天ぷらが最高に旨いらしい)、アワ、コキビなどが挙がったが我々の世代には名前さえ初めて聞くものもあった。
中和仁では昔、紙も作っていてコウゾと呼ばれる木の皮をたたいて、それを材料にして紙を作っていた。現在、こうぞを使った紙の製造は行っていないが町の保存会が伝統を伝えていて、卒業証書にその紙を使用する学校もある。味噌や醤油も昔は家で作っていたし、草履や蚊帳の材料になる麻も作っていた。
〔アワ・コキビ・ソバについて〕
アワとコキビは上で挙げたが、これらは畑が荒れないようにする為に栽培するのだという。収穫時期は八月上旬である。
ソバは昔は作っていたかもしれないが、現在では見られないとのこと。
〔川について〕
川は昔から子供達の遊び場であると共に様々な生き物の生息場所でもあった。
中和仁を流れる川には、ハエやフナ、川エビ、ドジョウ、ドンコ(ハゼに似たもの)、
しいつきドンコ(吸盤をもつ。 吸い付き→しいつき)、ナマズ(白身で旨い!らしい…)、ギュウギュ(ナマズに似ている。針を持ち、釣り上げる時にギュギュという音を出すのでこの名が付いた。)、セイギン(体色は七色をしている。フナに似ている。)、
ワクドウ(カエルの巨大なやつ)など多くの生物が棲む。また、数が少なくはなっているものの蛍がいるほど水がきれいなのだ。魚は大牟田などから売りに来ていたが、地元の川魚を食べることが多かったそうだ。
〔炭や燃料に関わることについて〕
中和仁では現在炭焼は阪本という地区で保存会が行っているだけだという。
というのも昭和25,26年頃からのガスの普及によって燃料としての炭の価値の下降や安い中国産の炭が輸入されて炭自体の値段が下がったからだ。炭焼が行われていた昔、一窯で3千円、15sが400円(←30年前)の収入が得られた。
昭和30年位までは薪を使い、マッチを使用していた。油分の多い竹をこさいで火をつけるなどのちょっとした工夫もあった。中和仁に電気が通ったのは大正の初期でかなり昔になる。三方共マッチを使用するより前のことを知らないそうで、マッチがそんなに昔から使われているとは驚きであった。
伊藤さんの祖父は漁師で、油の多い竹をこさいで火を付けていたという。
〔戦争について〕
神原さん達の年代は丁度私達の祖父母の世代であり、戦争を経験し伝えることが出来る最後の世代といっても良いだろう。今回、戦争に関する本では我々が知ることの出来ない真の戦争体験談を聞かせていただいた。
太平洋戦争当時、空襲を受けたのは和仁地区も例外ではなく、直径3メートル程の爆弾の落ちた穴があった。ある時、敵の飛行機が落とした補助タンクを爆弾と間違え大騒動にもなったそうだ。またある時は、日本軍飛行機二機がアメリカ軍の飛行機に追われて白い光を放つと同時に、二機の日本軍機は二手に別れ、一機は近くの山に墜落した。その翌日、飛行機の操縦士の遺体が発見された、そのときの状況を田中さんが語った、「その日はチンポ出して池で泳ぎよったですたい、したら、山で死骸ば見つけて、その人は佐賀県の石塚さん言う人で、すごい量のウジがわいていて、ほんのこてあぎゃんしてるの見てビックリしたすよ」。
戦争時、やはり食料の確保には困り、作物は国の為に出さなければならくて、お米だけのご飯は出ず、麦飯や芋などを食べていた。“ギシギシ”と呼ばれる作物の茎を食べたり秋はよその家の柿などを取って食べた。また、犬や猫の肉も食べることがあった、犬は食べると体が温まると言われていて、食べ方はよく餌を与えて太らしてから電気のプラグをつないで殺し、臭みを取るために水炊きして、すき焼き・唐揚げにして食べた。猫は袋に入れて、叩きつけて殺していた。その他、アオダイショウなどもぶつ切りにして食べた。鶏の肉は上等な食べ物で、牛肉など全く食べることは無かった。そのように神原さん達は語った。戦争当時は飽食の時代といわれる現在の日本と違って、食べ物に相当な苦労があったようだ、食に対する考えを改める必要がある。…中国では今も犬の肉を食べると聞くが、どんな味なのか一度食べてみたい気もする。
〔青年団について〕
現在では14,15人ほどしかいない。やはり、若い人々が街へと出て行くからであろう。
〔夜這いについて〕
ある意味、調査の中で一番盛り上がった話題でもあった“夜這い”の話。話者の一人
にはお姉さんがいて、よく男性が夜這いに来ていたそうだ。夜中、こそっと襖を開けて
部屋に入り女性の体に触るのだ。女性の親にバレた場合、追い返されたそうだ。夜這いは双方の同意のもとではないけれど、夜這いを受け入れ待ってる女性もいたことは確からしい。夜這いはイコール強姦ではないという。神原さん・伊藤さん・田中さん、三方とも嬉しそうに話していたが、夜這いの経験は無いと話す。だが、やけに話が具体的で詳しかった(笑)。
〔米のとれ具合〕
昔は通常4〜7俵、多いときで8俵程の収穫があった。小作料は2俵で、農地改革によって小作制度は廃止された。現在は肥料の改良によって反当10俵はとれる。
〔遊びについて〕
三方の子供の時の遊びは、“パチ”と呼ばれていたメンコ遊び・ビー玉・ベーゴマ・
お手玉・かくれんぼ、など現在と違って屋外での遊びがメインであった。また、戦時中には遊び感覚で松の木をゴムの木の様に削って、汁を取りそれを燃料として兵士にあげていた。松の根を掘りあげて、それを蒸して“松香油”と呼ばれる油を取っていた、その油もまた兵士にあげていた。
現在はゲートボールを楽しんでいて、「こっちゃ行けこっちゃ行け」というのを先に書いた牛を動かす掛け声の名残で、『さっしさっし』という人も居るとか…。
〔遠足〕
遠足は、西山と道現(共に中和仁の小字)の間にある‘大石’という山のてっぺんに行っていたという。
〔田に住む生物・ジャンボタニシ〕
話をいろいろ聞く中で、ジャンボタニシの名前が出た。タニシの大きいバージョンだろうと推測できるが、この生き物は様々な特徴を持つ。まず、ジャンボタニシは田んぼや用水路に住み、夏の暑い日は土の中にもぐる。田んぼでは雑草やたれ落ちた稲の葉っぱを食べる、体の表面の殻は柔らかい。ジャンボタニシの卵は色がピンク色で、水につかると死ぬので稲の10〜15cm程のところに産み付けられる。
〔祭り・集会について〕
和仁地区には、上・中・下合わせて260戸あり、祭りや集まりがしばしば行われる。
一月:正月、四月:花見、九月:宮籠り、12月:忘年会の計四回行われる。地区の集まりは地区の人々との出会いの場であると田中さんは話した。ちなみに、宮籠りとは
お宮の神様が神様同士の集まりに行くので、その間の留守を守る行事である。
〔史跡について〕
中和仁には幾つもの史跡があり、十一人の塔や鬼丸眼鏡橋、鬼丸城跡・大平城跡・
西山の観音堂など多く存在するが、当日大雨であったので十一人の塔と鬼丸眼鏡橋
の二つだけを訪れた。十一人の塔は村の住人11人が村を治める人の元へ殺されることを承知の上で直訴しに行った際、無礼を働いたとして処刑された、彼らは‘義民’と賞され、塔はその供養の為のものであり、現地に行くとお墓が沢山茂みの中にあった。
〔言葉〕
“まつぼりご”の意味を聞いてみると、年配の夫婦に念願の子供ができ、その子供
のことを“まつぼりご”というのだそうだ。
以上、今回の調査は約4時間にわたって行った、初めのうちは緊張もあって上手く質問をすることが出来なかったが、途中からは出していただいたお酒を少し飲みながら、楽しく話を交わすことが出来た、御三方のおもてなしには本当に感謝したい。雨の中での現地調査ではあったが、貴重な話も沢山聞けたし、思っていた以上に三方とも親切で、本当に行って良かった。これから大学で学んでいく上で今回の調査を糧にしていきたい。
神原さん・伊藤さん・田中さんご協力本当に有難うございました。
調査者:花田 努、奈須 健悟