あるき・み・ふれる歴史学レポート
「
理学部生物学科2年
友清 雄大
理学部生物学科2年
肥和野 康文
1.地名について
中十町小字
宮田 ミヤタ
檞原 クヌギバル
笹原 ササワラ
門ノ本 モンノモト
前田 マエダ
宿 シュク
古園 フルゾノ
小峠 コトウゲ
郷田 ゴウダ
(瀬戸 セト)
以上、地図上に掲載(赤字 区域は赤線で示してある)
レポート作成に当たって、「白川・菊池川 地域
なお、今回のレポート作成にあたっては、道路をオレンジ色、中十町の区域、町境
は紫色、川や池はみずいろ、小字の区域は赤色、小字よりもさらに小さい区域は桃色、共有林などの区域は黄緑色、尾根や山の名前は緑色、谷はみずいろ、学校や公民館などは茶色で示している。
1.宮田
宮田は、事前の我々の調査では、宮は神社やお守りなどの意味を示しているものであり、近くに神社があることから、我々は神社所有の田であると推測していた。
事実、ここはすぐ近くに存在する熊野神社(地図記載)が所有していた田であったらしい。このことは宮田の隣接地に、「宮の終道」(みやのしゅうみち)という地名が残っていることからもうなずける。なお宮田の中には2町8反8敏6歩という熊野神社の所有地が存在していた。なお宮田は中十町の中でも一番米が取れる一等地である。ちなみに取れる米は1反あたり9俵である。
2.檞原
檞原は事前調査において、読みが「クヌギバル」となっているにもかかわらず、漢字が「檞」(カシワ)になっていたことから、誤表記ではないかと推測した。そのうえで、原という漢字には「平らで広いところ、特に開拓していない所」とあったので檞を主とした森林である、または檞が多く生えており、村の生活においてよく利用したためにこの小字になったと推測した。
しかし、地元の方からから聞いた話によるとこれは誤表記ではなく、「檞」とかいて「クヌギ」と読むらしい。また、檞原一帯は特に椚(クヌギ)が生えていたというわけではなく、あまり米の取れない田や畑があるだけという土地だそうだ。檞原谷(地図記載)には無しの木田(地図記載)という文字通り木が生えていない土地があったらしく、ここからは檞原の地名の由来は読み取れないが、一方檞原谷の北側には「かし山」(地図記載)というところがあり、このことから檞原の地名はもともと「檞原(カシワバル)」であり、それが誤表記されて「クヌギバル」と呼ばれるようになり、それが正式名称となった可能性がある。
3.笹原
笹原は事前調査では、笹という漢字は「竹属の小型のものの名称」であり、原は上記と同じ意味なので、一帯に笹が茂っている山ではないかと推測した。
しかし実際に聞き取りをすると、別段笹が茂っているというわけではなく、石ころだらけの畑があるだけだという。ただし、「竹ノ平」という場所(地図記載)が笹原にあったということなので、もしかしたらこれが小字の由来になっているのかも知れない。
なお、近くに檜山という檜がとれる場所があり、そこから檜を切って運んでいたという話を聞くことが出来た。また、笹原の山は昔は家畜の食料にするための草を切り出す場所だったそうだが、今では果樹園になっているという話である。笹原には「開(ヒラキ)」(地図記載)という場所があり、地元の人によると田を開いた意味ではないかということである。なお、ここはあまり米が取れない田である。
4.門ノ本
門ノ本は事前調査では、門という漢字は「門、平安時代の区画帯の最小単位、物事が必ず通るところ」という意味があり、本は「居所、草木の生え際、利を生むもの、原料、塔や堂などの高い建築物などの数詞」という意味であった。
門ノ本は地元の人の話によると文字どおり“熊野神社のある場所”のことを表しているようだ。この一帯の田んぼでは米が良く取れるという。
5.前田
我々の事前調査では「前」は「日が向いている方向、家の正面」という意味であった。
前田は神社の前の田に面していることから前田と呼ばれるようになったと思われる。これについては、地元の方もそう推測していた。なお、前田は一等田ではなく、普通の田んぼということである。どうやら、宮田は神社が所有している田、前田は神社の近くにある田、ということであるようだ。なお神社のすぐ南には「堤じり」(地図記載)という場所があるという。これは地元の人によると堤の末端という意味であろうということだそうだ。なお宮田には「堤外」(ともそ)(地図記載)という地名がある。
6.宿
宿は我々の事前調査では「宿、宿場、宿駅」という意味であった。
地元の人に宿という地名の由来を聞いてみたところ、定かではないが、昔宿があったという話を聞いたことがある、といっていた。おそらくはこのことが語源なのだろう。なお宿は紙の生産が盛んであったらしい。普通はひとつの場所に紙漉きをする家が2〜3軒がある程度だそうだが、宿では集中してあったという。宿全体が紙生産を専門にした民家で構成されていたようだ。
7.古園
古園は我々の事前調査では古は「古い、使い古されたもの、他人が長年使ってから譲られたもので主に上司から譲られる場合がおおい」ということであった。園はそのまま「果樹や草花や野菜を栽培している土地、鳥や牛を飼う場所、ある行事を行う場所」という意味であった。
古園の地名の由来は地元の人にもよく分からないということだそうだ。また、古園は米がよく取れる土地でもあるそうだ。古園には「待出ノ迫」(まちいでのさこ)(地図記載)という地名があり、そこには、ため池があるそうである。なお、迫とは谷のことを指す。この土地の地形も谷である。
8.小峠
小峠は我々の事前調査では小は文字通り「小さい、若い」、峠は「峠、通行者が旅の安全を祈って道祖神に祈った場所」という意味であった。
地元の人は名前のとおり峠のことではないかと言っていた。小峠には国蔵(倉?)(こくぞう)山(地図記載)という山があり、竹の子や、雑木山として使っていたそうである。コクゾウ山の名前について、初め、地元の方は「虚無僧の“虚”と言う字に…」と言っておられたので、「国倉」という字は当て字である可能性が高い。
なお、雑木山のふもとには「ワクドミズ」という場所(地図記載)があり、川が一本流れ出ている。おそらく水が湧き出すという意味であろうということだ。
9.郷田
我々の事前調査では郷は「行政区の一、むらさと」という意味であった。
郷田の西側もまた米のよく取れる土地である。ため池からは郷田川が流れておりその一帯は灰塚(ハイツカ)(地図記載)と呼ばれている。この灰塚の名前の由来はここに塚があったことだいうことで、昔噴火により一面に灰が積もっていたそうだ。ちなみに現在は塚は無いそうである。
10.瀬戸
なお、事前に配られた小字表に書かれていないが、地元の方が小字と同様の扱をした地名として「瀬戸」(地図記載)というものがあった。瀬戸は門ノ本の一部であり、熊野神社の西側一帯がおおよその位置である。なお瀬戸の一部には宮の終道が含まれている。
地名についての補足
補足1
地名は所有者の田んぼごとに、「何々田」、というように名前がついている。それについてはかなりの数にのぼるので、さすがに全部は分からないということだそうだ。
補足2
「年ノ神」「宮下」という土地があるそうだが、場所は定かではないということだそうだ。
補足3
檞原の南西一帯は「焼屋敷」(やきやしき)(地図記載)と呼ばれている。
補足4
田について。
米がよく取れる田では、1反につき7〜8俵取れるという。8俵取れれば上作である。まれに9俵取れる田もあるそうだ。米があまり取れない田で収穫できる米の量は、米がよく取れる田んぼで収穫できる米の量の7割ぐらいであるそうだ。
補足
今回調査した地名は、今ではもう使われていないのだろうか?
現地の方に、この事についてお聞きしたところ、今でも使われている、との事であった。
2.地元の方に対する質問
我々が聞き取りに行った時対応してくださった地元の方は、今回手紙を出した池田さん以外にも何人かの地元の方々がいらっしゃり、それぞれ世代が別の様だったので分担して聞き取りをした。そのため、一部矛盾している箇所があり、我々二人で聞き取った内容を一つにまとめにくい、またはまとめられない箇所があった。そのため、そのような箇所は2つに分けて書いた。なお、分けて書いた場合は
◦質問
◦池田稔さん(60歳)への聞き取り
◦豆塚忠義さん(81歳)への聞き取り
という順番になっている。
質問
川について
河川工事の前は、梅雨時に一時間も雨が降ったら水害になり、毎年2〜3回は川があふれて大事になっていたそうである。59年頃におきた水害では分校が流され、宿のあたりの川筋でも6人が流されたという。この大水で流された親子もおり、一週間ぐらいかけて有明海まで探しに行ったそうである。河川工事の後は、水害は全くなくなったそうだ。
牛を歩かせるときの掛け声は?
どうやって手綱は操作しましたか。一本?二本?
牡牛は何といいますか?雌牛は?
ごって牛をおとなしくするためにはどうしましたか?
右へはマイマイ、左はサシサシ、後ろはアトアト。前へ進めるには、ハイとかシイとか、
特に掛け声は無く、手綱を引っ張るだけも良かったそうだ。
手綱は二本あったそうだが、手綱だと、引っ張った方向に行き過ぎてしまうので、
号令だけで右、左に曲がれるように訓練したのだそうだ。
雄の牛はゴッテ牛と言って気が強く、おとなしくさせるには、とにかくしつけをきちんと
するしかない、と言っておられた。雌牛のことは、単にメ牛と呼んでいたそうだ。
馬は毎日洗いましたか。また、どこで洗っていましたか?
蹄鉄はしていましたか?
馬洗いはあるが、牛洗いがないのはなぜ?
馬は割と少なかったそうだ。蹄鉄は付けており、馬を洗うときは特に決まった場所は無く、近くの川で洗っていたそうである。ちなみに、牛を洗うと蚊が余計に刺すようになるので、普段は洗わないのだとか。夏場などは、たまに洗ってやったそうである。
この地区にガスが来たのはいつ頃ですか。電気が来たころの話を聞かれていますか?
ガスが来たのは30年ほど前(今が平成16年だから、昭和50年頃か)で、電気は昭和4〜5年頃に来たそうだ。石油コンロが先で、電気やガスが通る前は、石油ランプやカンテラを使っていたのだそうだ。毎晩、燃料を取り替えていたのだという。
薪はどうやって入手しましたか?
共有林(地図記載)や町有林(地図記載)、原野(地図記載)などの林で冬に取っていた。また牧草なども子供のころ、朝四時ごろおきて、町有林の山に登って取ってきていたそうだ。牧草はなかなかの収入だったという。町有林では、数年間だけ畑を作ることが出来たそうだ。
薪は、原野か自分の山で切っていたそうだ。原野は共同使用で、勝手に切っていっても良かったのだという。よそから入ってきた人でも、いくらかお金を払って“加入”をすれば、その後は自由に原野(共有林)を使ってよいことになっていたそうである。
村の共有の山はありましたか?
そこでどんな作業をしましたか?
木の切り出しは?
村の共有林があり、場所は熊野神社の東の山側である。町有林は、山中のアンテナ付近(地図記載)にあるそうだ。また、原野は共有林から県境に接する山中(地図参照)にある。原野及び町有林は基本的に手入れしないらしく、また、村の共有林も村共用で使う薪を取ったり、牛などを飼う試料を取る以外あまり作業をしていないという。
また、木の切り出しなどはめったに行っておらず、昔一度したそうだが、そのときは馬や牛で引っ張る「土引き」をしたそうだ。ちなみに、川流しは川が小さいため、論外だそうだ。
キンマは使っていないという。シュラは、一部の人が手製のそりを作って使っていたそうだが、一般的ではなかったそうだ。土引きは、「山出し」、「じだ引き」と呼ばれており、林道で上っていくところを使って、県道沿いまで運んでいたそうだ。
炭は焼きましたか?収入はよかったですか?
炭焼きはよくやったそうで、大変収入が良かったらしく、損をしたことはないと言っていた。当時は、主に商売用として炭を作っていたらしく、出来た炭を、自転車に乗せて売りに行っていたそうである。炭焼窯は良くある谷などの一定の場所ではなく、手ごろな木があれば、そのすぐ近くに炭焼き窯を作って焼いていたそうであり、窯は各所に点在していたそうである。なお、炭焼きは戦後が一番盛んであったという。
山を焼くことはありましたか?
何を作りましたか?何年間荒らしましたか?
焼畑はあまりしなかったそうだが、杉林を切ったあとに一度行ったそうである。このときは、地元の方曰く「下から火をつけたため、大変なことになった。普通は上から火をつけるものだ」そうだ。焼畑にした土地は、まず唐芋を植え、次の年に小豆、さらに次に麦、という順序で植えていくのだそうだ。唐芋は新しい土地でよく収穫できるそうであり、この順番でだんだんと畑をならして、その時期にふさわしい作物を植えるという。
そばは反当たり何俵ぐらいですか?
そばはあまり作っていなかったという。作っていても、せいぜい5〜6升で、自分たちで食べるためであったそうだ。
焼畑はなんと言う地名ですか?
焼畑は民有地でしたか?共有地でしたか?
焼畑をした土地は、共有地だったそうだ。
阿蘇のように草山を焼くことは?
定期的に山焼きをすることはなかったという。
かご(こうぞ)は取りましたか?
カゴとコウゾは同じものであり、取っていたという。今付近は和紙生産地で南東か和紙を生産していたという。紙の原料としてそこらじゅうに生えており、よく畑などの土手でかごを取っていたという。栽培していたというよりは、最初に植えたものが、自生したものだという。毎年畑で切ったかごは、売っていたという。また、あらかじめ家で蒸して、川でさらしてから売ったこともあるという。大量に取っていたらしいが、儲けは不明だそうだ。
基本的に各部落に2,3軒くらい紙漉きをする家があったそうだが、特に「宿」は、全体が紙漉きを生業としていたという。他にも、紙漉きを専門にしている所が2箇所ほどあったそうで、中十町の外であるが、地図に記しておく。
ちょま(お・からむし)、いらくさは取りましたか?
「いらぐさ」(いらくさのこと)は、山から切り分けて取っていたという。酢に漬けて、ぺラッとなったところで、皮を取っていたという。また、「お」(麻)は昔は作っていたところもあったという。これは削らなくて良いので楽だったという。
山栗は?カンネ(葛根)は?山の木の実にはどんなものが?
他に商品価値のあった山のもの、山の幸は?
葛根も取ったらしく、たたいて汁を絞っていたらしい。栗は原野にあったので拾っていたという。当時は粒が小さく、とてもおいしかったという。昔はいたるところにあったそうだが、今はないそうだ。また、ほかの山の幸としては、ヤマモモ(学校帰りに食べていたそうだ)、椎の実などを拾って食べたこともあるという。「うべ」(アケビ)など子供のころ手下を連れて取りに行ったという。ほかに商品価値のあるものとしては、竹の子、きのこ(しめじ)などであり、最近はそれも少ないという。また、山芋も取ったが、これはあまりお金にはならず、自分たちの食事にもちいたという。
狩りはウサギや鳥がメインで、昔は今ほど猪がおらず、あまりとっていなかったという。
川にはどんな魚が?川の毒流しはありましたか?
川には、何でもいたという。なまず、うなぎ、ハゼ、メダカ、ハエ(オイカワ)などなど。うなぎは太かったらしい。また、どういう名前の魚かは覚えていらっしゃらなかったが、「ギュウギュウ」と呼んでいた魚もいたらしい。昔は先輩に川や池などに連れて行かれて、投げられたり、最も深いところに連れて行かれたらしい。そして必死になってもがいて、泳ぎを習得したという。これは伝統であったらしく、先輩や後輩などの縦の関係は強かったらしい。雨の中も高学年は行水をしたり、川を渡るのに何メートル流されるかを競ったらしい。川には、子供の縄張りのようなもの、どちらかというと暗黙の了解のようなもので各地域で魚を取る場所が決められていたらしい。中十町は、地図の川を赤線で区切られた内部であったらしい。ただし、川を挟んでの地域の争いは無かったという。昔は子供の数も多く、遊ぶのは同じ集落の子供とのみであったそうで、まとまったところ(部落)は団結心が強かったらしい。今は子供の数も少なく、十町全体が一つになっているという。
川の毒流しは誰かが何回かやったことがあるという。また、そうして取れた魚を食べたこともあるという。効果は、公民館(地図)付近から流して役場(地図)まであったという。40〜50年前にやっていたそうだ。方法は、まずゲラン(白根)という木の根っこを水につけてふやかし、これを石でたたくと白い汁が出るので、これを流すのだそうだ。ゲラン2、3本で茶碗一杯分ほどの汁が取れ、本川を避けるために山の谷に流していたという。川の毒流しをすると、馬鹿にされたという。ホントは禁じられていたが、内緒でする人も多かったという。また、今回聞き取りをした人は、近くの建物から電気を引っ張って川の中で放電させて魚を捕まえたこともあるそうだ。ウナギなどや、他にも小魚が取れたそうである。なお、毒流しをしても、そのうちまた下流から魚が戻ってくるので、問題ないそうだ。ちなみにゲランの汁は、野菜の害虫駆除にも使われていたそうである。
お菓子は?干し柿の作り方、かちぐりの作り方、数え方を教えてください。
お菓子はめったに無く、唐芋や、アイスキャンデーであったそうだ。アイスキャンデーは一週間に一度、学校帰りにチリンチリンという音を鳴らして自転車で来たという。当時のアイスキャンデーは今よりも硬く、おいしかったという。また、のどが渇いたときなどは、アイスキャンデーを入れている箱の底にたまった溶けたものを飲ませてくれたという。また、ほかにはお菓子としては黒砂糖があったらしい。よくお使いなどのご褒美としてもらったらしい。
干し柿は一般的な作り方をしており、皮をむいて、紐に通し、干していたという。干すときは時々柿をもんでいたそうだ。数え方としては「ひと掛け」(20個)や「ひとさげ」(10個)などがあったという。勝ちぐりは作らなかったという。
食べられる野草?
食べられない野草は?
食べられる野草は、ふき、せり、など一般的なものであったそうだ。タンポポの根や、ギシギシ、山苺、木苺、イゲの芽、「すかんぽ」(スイバ)などである。イゲの芽は、芽の先を取って皮をむいて食べたという。また、食べられないものは、「ぬいちご」(蛇苺)などであり、ほとんど食べられると言われなかったものは食べなかったという。これはおそらく昔からずーっと続いているだろうといっていた。
米はどういう風に保存しましたか?
飯米、兵糧米は?たねもみは?ねずみ対策は?
米の保存法は、子供の時までは、干してから俵に入れていたという。雨の日などは、家で俵のための藁を編んでいたという。それが「かます」(藁で編んだ袋)になり、麻袋になったという。また、兵糧米はねずみなどの対策として、杉の葉を置き、保存している建物に猫の入り込む穴(道)をあけていたという。当時は猫はよくねずみを取っており、貴重な存在だったという。
米作りの楽しみ、苦しみは?
米作りでは、楽しみよりも苦しみの方が多かったという。当時は棚田が多く水利関係で苦労したという。「水ゲンカ」などもして、田植えの時期は感情的になり、暴力事件もあったという。上の棚田の水を落としたりもしたという。どちらかというと肉体的により、精神的に苦労したらしい。また、昔は孟宗竹を取ってきて、川に刺して水を貯め、田んぼに取り入れていたという。そしてこれは水害があるたびに作り直していたという。とにかく水関係が一番苦労したという。水関係以外で苦労したことといえば、消毒だそうだ。
楽しかったことは収穫の量が多かったときなどだそうだ。少しでも多ければうれしかったという。逆に少しでも少ないとあまりよくなかったという。
米作りでは、田の草取りが大変だったそうだ。7月の炎天下に田んぼで一日中草取りをして、休憩は、日中に1,2時間休むだけだったという。また、養蚕も行っており、春、夏、秋、農業の合間に桑の手入れをしていたそうだ。戦争の前までは養蚕が盛んに行われていたが、戦時中から、桑の栽培が、唐芋、里芋、馬鈴薯などの作物の栽培に変わっていったという。蚕は、各家庭の部屋(近年は屋外)で飼っており、よく飼う家では、座敷から土間まで、全て蚕の住処になっていたそうだ。5月ごろ、蚕の生まれる時期が一番しんどくて(繭になるまで1ヶ月かかる)、その間に麦を収穫して、桑の手入れをして、蚕やって田植えの準備、と非常に忙しく、5月6月は暇無しだそうである。また、田植えをするまでには、水を張ったりして4〜5日かかるので、田植えは、6月20〜30日ごろまでかかっていたそうだ。
昔の暖房は?
昔の暖房はコタツ、火鉢などで、炭や薪であったそうだ。かまどで炊いた時の残り火をコタツで使ったという。
車社会になる前の道はどの道でしたか?
車社会になる前の道路はあちこちがけ崩れが起こって、学校に行くときなども崩れていたという。でこぼこで、小学生が歩いているとみずたまりなどを車が走って水がはねていたという。
山へ入るときの道は、別段決まっているわけではなく、歩けるところを通っていただけだそうだ。
村にはどのような物資が入り、外からはどんな人が来ましたか?行商人は?魚売りはどこから?箕ソソクリ、鍋ソソクリなどは?
村には、魚屋や、鶏の毛を取ったものなどを売りに自転車で来ていたそうだ。魚屋は「中島」(←これは上手く聞き取れなかった)から来たといっていたそうだ。ちなみに刺身などは食べていなかったという。
また、昔は赤身鯨が安かったらしく、カレーなどに入れたり、赤身のステーキなどをしたそうだ。また雨の降る日などはお酒を飲んでいて、そのときの肴も赤身鯨であったそうだ。ウサギを自分で殺して食べたこともあるという。昔はそれ以外の楽しみはあまり無かったという。
箕ソソクリ・鍋ソソクリは多かったらしく、川のところにいたという。
行商人は、食べ物や魚、薬売りなど。魚は塩サバ、塩イワシなどを売っており、薬売りは富山の方から来ていたそうだ。なお、魚売りはいても、肉売りはいなかったという。
品物によっては専属的な特約があり、相互のつながりができていたそうである。塩や味噌などの商品は、薩摩屋(現在、青田商店)という店で売られていたそうだ。
川原やお宮の境内に野宿しながら箕を直したり、箕を売りに来る人を見たことはありますか?
箕は、器用な人は自分で作っていたそうであるが、箕ソソクリという、箕を修理する人々がいたそうだ。彼らは一種の遊牧民で、竹のある土地を渡り歩いて、そこに生えている竹を使って、箕を作って売ったり、修理したりしていたという。川原(地図参照)や神社の境内に住んでいたそうだ。彼らは、阿蘇の海岸付近から来た人々らしい。悪さをするわけではないのだが、怖がられていたらしい。服装や見た目、その他、風呂に入っていないなど、少々異様な感じがあったそうである。多少差別の目で見られた。
カマドのお経を上げる目の見えないお坊さん(「ザトウ」さん)は?
やんぶし、薬売りなどは?
カマドのお経を上げる目の見えないお坊さん「ザトウ」さんなどは見かけなかったという。ただし、「物貰いお坊さん」はいたという。白装束のような格好で、修行をする人だそうだ(お坊さんなのかどうかは不明)玄関前でチリンチリンといって、黙って手を合わせ、米をもらうと黙って入れて帰る人は多かったという。クスリ売りもいなかったという。
ザトウさんというものは見かけなかったそうだが、琵琶法師はよく来ていたそうである。また、”かどづけ”といって、四国の十箇所参りの格好で各家に来て、お祈りをしていく人もいたそうだ。中には、それの偽者もおり、物貰いや、乞食などもよく見かけたという。
薬売りは、富山の辺りから来ていたそうである。
病気になるとどこで診てもらいましたか?
病気になると普通に対処していたそうだ。どうしてもというときはふつうの病院に行ったという。ただし、そこで診てもらうために、年に1度薪を2羽ほどお礼のように持って行ったという。時にはそのお礼で混雑することもあり、このお礼をしないと絶対に診てくれなかったそうだ。また、見てもらう側としても、村にいてもらおうという気持ちがあったという。
別の方に聞いた話では、「この人に診せて死んだら、思い残すことはない」というくらいの名医がいて、みな、その人に診てもらっていたそうである。
米は麦と混ぜたりしましたか?何対何ぐらい?
米と麦を混ぜて、さらにそれに唐芋を混ぜていたという。比としては米と麦:唐芋=5:5ぐらいであったという。唐芋はぶつ切りにされていたらしく、子供のころはこの唐芋がいやで、よく残したりしたそうだが、そうすると次のご飯の時には細切にされており、とにかく残さないようにということだったそうだ。また、いつも高菜漬けと油揚の炒め物ばかりの昼食だったという。卵は当時は風邪を引いたときぐらいしか食べられなかったという。
ちなみに電気が通るようになったのは45年ほど前、ガスが30〜40年前だったという。
ご飯は、麦ごはんの方が多かったそうだ。米:麦=2:8くらいの割合で、これはまだ良い方なのだそうである。アワなどの雑穀や、麦、米を混ぜていたそうだ。コメは、基本的に地主の下へ…。盆、正月の米のめしが楽しみだったという。
また、米をお金に換えに行って、そのお金で2晩くらい飲みに行ったこともあるそうだ。
自給できるおかずは?自給できないおかずは?
自給自足できるものは、主に野菜、漬物、竹の子、ジャガイモなどであった。
自給自足できないものは、魚や肉などであったという。ただし、肉の中でも鶏肉はまあ自給自足できたという。村の祭りなどで、鶏飯として食べたという。村祭りでは上さん(座本)のところに集まり、上さん(家?)の周りを回ったらしい。
今は鶏ではなく、どじょうを使うという。
結婚前の若者たちの集まる宿、青年クラブはありましたか?
男だけですか?そこでは何をしていましたか?規律は厳しかったですか?上級生からの制裁とかありましたか?
力石は?干し柿を盗んだりスイカをとったりは?
結婚前の若者達が集まるところとしては、「青年クラブ」があったという。夜に公民館の倉庫に行き、飲んだり騒いだりしたそうだ。また、学校の分校にも「青年学校」というものがあり、こちらは酒も飲まずにまじめな活動をやったらしい。「村芝居」をしに行ったという。
男も女も多くて楽しかったという。あまり規律は厳しくは無く、上級生からの制裁も無かったらしい。ただし、上級生の命令は絶対だったそうで、縦のつながりは強かったがいざこざはなかったそうだ。ただし、よこしまな者は制裁を受けたかもしれないという。上級生の命令でカイや干し柿を盗りにいったこともあるという。スイカについては、スイカ泥棒は昔は多く、聞き取りをさせていただいている人もとったことがあったという。真っ暗な夜中に盗りに行ったという。そのとき免許証を落とされたらしい。しかし、商業用に作っていたものではなく、警察沙汰になったことも無いという。当時はお小遣いなども無く、誰が取ったかも分かっていたので、大目に見られたという。仕方の無いことは大目に見られたという。ただし、それ以外はきつく怒られたという。これは暗黙の了解であったそうだ。先輩には色々と教えてもらったそうだ。
力石については、山の中で大きな石を持ち上げて力自慢のようなことをしていたという話だ。干し柿を盗んだりは大いにやった。昔からやっており、時代を問わず行っていたようだ。
戦後の食糧難。若者や消防団が犬を捕まえてすき焼きや鍋にしたことは?犬はおねしょの薬だと聞いたことはありますか?
犬はどうしたら捕まりますか?
犬を消防団などで捕まえたり、食べたことは無いそうだが、おねしょの薬になることは知っていた。海などで冷えたときはいいらしい。また犬の捕まえ方も知っており、それは野犬を捕まえるというものであった。捕まえた犬はその場で食べるらしい。
明治、大正ごろは普通に食べていたそうである。また、戦後の食糧難のときも食べていたという。
「よばい」の話は聞きますか。よその村から来る青年とけんかをしたりは?
「よばい」はしたことはないが、聞いたことはあるそうだ。北の山を越えたところにきれいな人がいるので行ったという話を聞いたという。男にはこういう話は口コミで広がるらしい。少し前まであったという。また、男の人からだけではなく、女の人から「よばい」に来ることもあったという。そのときの合図は川に石を3回ほど投げるのだそうだ。夜這いをするときにはばれないように下駄を持って室内に入るという。また目撃したこともあるそうだ。そのときは1人や3人だったらしい。罪の意識は無いという。また、よその者が夜這いに来ることもあったかもしれないが、けんかをしたことはないという。
別の方に聞いた話では、よその村から来る青年とケンカする事もよくあったそうだ。
また、こちらからも、よく遊びに行ったり来たりしていたという。交流範囲は、隣の部落ぐらいまでだったそうだ。
じょうもんさん、みちわけざけ、まつぼりご、という言葉を聞いたことがありますか?
「じょうもんさん」と「みちわけざけ」は聞いたことがあるという。「じょうもんさん」の意味は上物や嬢者で、地主や学校の先生の娘など、上流家庭の娘さんのことを指しているそうだ。「みちわけざけ」の意味は決め酒、つまり結納の意味だそうだ。また女性の下半身のことも言うらしい。「まつぼりご」については、まつぼり、というのはヘソクリのことで、色々なものを、山の中など色々な場所にこっそり隠していたらしい。
もやい風呂(共同風呂)はありましたか?
風呂は各家庭で入っていた。もやい風呂も無かったが、「もらい風呂」といって、個人個人の家の風呂に行ったり来たりしていたという。
これは、お隣との交流の一環であったらしい。お互いの繋がりは強かったという。
また、明治ごろまでは村八分があって、いまでもそのような意識はあるという。
村の集まりに全然来ない人などが、その対象だったらしい。
盆踊りや祭りは楽しみでしたか?祭りはいつ?
祭りは12月1日(今は12月の第1日曜日)にあり、お宮で神楽などがあったそうだ。店があり、子供のころはとても楽しかったという。部落で、おでん、焼き肉、豚足を焼いたり、綿菓子などがあったという。
現在は「ほたる祭り」があり、尻相撲やビールを出したりしているそうだ。
日本村づくり推進会で、熊本優勝をし、全国でも2位になり、総理大臣賞をもらったこともあるという。
12月1日の祭りは熊野神社であり、神楽では榊、シデ、ショケン、二人舞、四人舞、剣弓(ケンキュウ)、弓(ユミ)、歌舞(ウタマイ)などの演目があるという。戦争に行ったり、伝える後継者がいなかったりしたことがあり一時途絶えていたが、昭和59年に本格的に復活したという。神社には神主さんがおり、掃除は部落で行っているという。10月1日例大祭、9月お彼岸、3月4日春祭り、6月30日大払い(ちの輪くぐり)などの行事があるという。現在第一日曜日に12月1日に行われるはずの祭りをしてるが、現在は仕事が多いので、何につけても第何土曜、第何日曜という場合が多いらしい。また、近くの神社については、サルタヒコ神、八剣神社(熊野神社の境内にある。)では、例大祭が行われていたが、立ち消えになってしまったそうである。また、ぐどん神というカシの木の御神木があり、何の神様かはわからないが、おそらく農業神ではないか、と話してくださった。各家まわりで祭祀を行っていたそうだが、これも立ち消えになったそうだ。同じくカシの木の御神木で山の神というのがあり、こちらは、正月の16日に各家まわりの例大祭が行われているそうである。菅原道真を祭った天満宮には三宝荒神が合祀されており、10月6日の例大祭は宿と瀬戸の共同行事で、一年に一回、各家の持ち回りで行われるのだそうだ。また、菅原道真神社では、12月1日に例大祭、6月30日ごろには大ばらいという行事が行われるそうだ。いくつかの神社の写真を見せていただいたが、三方が吹き抜けで一隅の壁に祭壇が設けられているという、特徴的なものであった。
盆踊りは
恋愛結婚は多かったですか?
見合い結婚が一番多いという。8割から9割が見合い結婚だという。今はほとんど恋愛結婚だそうだ。部落内での見合いはあまり無く、外から見合いにやってくる場合が多かったそうだ。また、血族結婚の部落もあったという。
農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか。
村に格差のようなものはありましたか。
昔神社の祭りの参加、運営は平等でしたか。
農地改革前の小作制度はあったらしく、小作人と地主は雲泥の差であり、小作料として1反に何俵(7俵のうち4俵など)を出さされて、こうして地主は太っていったという。小作人はどんどん貧乏になっていったそうだ。遠まわしに脅しがあったりしたという。地主本人は「よみゃとどん」といって、通常自分は田畑を耕さないものだったらしい。村というより部落単位でのまとまり意識はあったそうだが、部落内でも個人差があり、とにかく土地を持っている人が強かったそうだ。ただし、祭りは平等であったという。戦後の農地解放で差は縮まり、今は逆に土地の多い人のほうが管理が行き届かなくて大変で、加えて現在は人手がおらず、逆に耕してくれるように頼んでいるという。1年田が荒れると元に戻すのに3〜4年かかるという。
戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?戦争未亡人や靖国の母は?
戦争未亡人はいた。当時はお金ももらえず大変苦労していらっしゃったらしい。戦争前は養蚕が盛んだったらしいが、戦争中から食料中心の生産へと移って行ったという。植えたものは主に唐芋、サトイモ、馬鈴薯などで、米ではないらしい。これは2〜3年続いたという。当時は21歳で成人だったそうだが、14歳から軍隊に入っていったそうだ。当時は食料も米も無く、朝から晩まで食事は唐芋だったらしい。戦後は互いに助け合っていたという。食料もなく5〜6人を育てていたという。当時は都市部から人が、衣類など
と食料を変えてくれと来ていたらしい。この部落では二十数名の人が戦死したという。一番若い人は19歳だったという。戦争中は米、塩、砂糖、醤油がすべてなかったという。靖国の母もたくさんいたそうである。
村は変わってきましたか。これからどうなっていくのでしょうか?
住んでいるとあまり変化の実感は無いというが、外から帰ってきた人のほうが村の変化に敏感なのではないかとおっしゃっていた。
鍛冶屋にせよ何にせよ、後継者がいないのが問題だそうで、村にあった鍛冶屋は跡継ぎがいなくなって廃業になったそうである。ちょっとした農具でも隣の町まで買いに行かなければならないので不便になった、とおっしゃっていた。若い人が村に住んでいても、出稼ぎで村の外へ行って、村へは夜寝るのに帰って来るぐらいのものなので、村の行事などについてはほとんど知らない状態だという。後10年もして、いま田んぼを守っている人達がいなくなると、もうだめになってしまうだろうなあ、と言っていた。
聞き取りをさせていただいた地元の方
池田稔さん(60歳)
昭和18年12月17日生まれ
豆塚忠義さん(81歳)
大正12年3月30日生まれ
以上。