熊本県玉名郡三加和町中岩地区
2004年6月26日調査
●調査者
新田良太郎
松本征太郎
●聞き取りした方々
笠 只男さん 昭和8年生まれ
笠 帝子さん 昭和17年生まれ
横手 正成さん 昭和5年生まれ
●村の名前、地名・しこ名
ロクジゾウ(六地蔵)・・・小字尾畑の集落
ミヤノモト(宮ノ本)・・・小字楮ノ木(カゴノキ)・二反田の集落
ナメギ(那目木)・・・小字一升木(イチイギ)・漆尾の集落
小字漆尾のうちに、シャーレン
小字楮ノ木のうちに、フウジツ(※)、セト(瀬戸)、ツイドウ(ン)サカ(坂)
小字二反田のうちに、ゴンガサコ、ナガハタケ(長畑)
小字真那ヶ瀬戸のうちに、オオガワラ、ヤマシタ(山下)
小字尾畑のうちに、カジヤ(鍛冶屋)、デミセ(出店)、シチヤ(質屋)
・・・これらはかつてそこにあった家を指して呼んだ名
※フウジツ:昔の寺跡?
●用水、用水源
岩村川から
安ノ下堰:上岩地区 用水路で、尾畑で使用
楮ノ木堰:小字楮ノ木と一升木の境 用水路で、楮ノ木が使用
●集落
隣保班長(=世話役) ・・・6人:六地蔵、宮ノ本、那目木の3集落から2人ずつ
区長が隣保班長をまとめる
区長には相談役として評議員が6人つく。隣保班長と同様に3集落から2人ずつ出す。
家には特に屋号はない。また田んぼにも特定の名はないが、持ち主の名前をつけて呼ぶことはある。
昔は中岩の中に学校が2つあった。六地蔵と宮ノ本に一つずつあり、笠さんの家があった場所に宮ノ本の学校があった。
●農業
田んぼへの水は岩村川から引いていて、昔は上岩の安ノ下堰と、中岩の楮ノ木堰から用水路を引いていた。今は安ノ下にポンプを設置して汲みとっている。昭和30年代までは水争いがあった。「水げんか」とよび、勝手に水を取っている人がいると駆け寄って「なんしよっとったな」などと注意したりして、けんかになった。「米に生活がかかとったもんじゃけん、必死じゃった」ために多かったそうだ。水口へ言って一晩中守りながら寝ていた人がいたらしく、その人のことを皆覚えているようだった。ただ中岩では、人が殺されるような激しい争いはなく、けんか程度だった。けんかを避けるために、水を取る時間を農家ごとに決めて、見張り役を立てていた。川の水の量は普段は多かったと言ったので、それならどうして水不足になることが多かったのか聞くと、「川には水が十分流れていたが堰のつくりが悪く、堰から用水路に取れる水量が少なかった。同じ時期(田植え)に農家が集中して水を取ろうとするため、雨が少ないと水不足になることが多かった」という。今は機械化が進んで、水が不足するようなことはなくなった。昭和40年くらいから水揚げポンプが普及したり、それまで杭を打って作っていたような簡単な堰が、補助金を受けて水の漏れないような堰に増えてきたりして水は足りるようになった。圃場整備は平成12年から14年にかけて行なわれ、そのとき岩村川を村の西側に寄せるか、東側に寄せるかが問題になった。どちらか一方に移したほうが農地が増えたが、結局昔のまま、村の真ん中を通すこととなった。
渇水のときは近くの神社(阿蘇神社)で雨もらいが行なわれた。神社には水神さんが祭ってある。山の水神さんから水たねをもらってきて、お宮さんでかね太鼓をたたいて、お祭り気分でにぎわった。「雨もらいをしたあとには不思議と雨が降ったもんなあ。」と皆口をそろえて言った。「あんまり降らんけん、雨が降りそうになったころにもらいに行きよったのかもな?」というと、笑いながらうなずきあっていた。 台風予防の神事などは特になく、各自被害の出ないように雨戸を打ち付けるぐらいのことしかしていなかった。
岩村川には昔は生き物が多かった。ウナギ、ドジョウ、ハエ、エビ、ドンコなど何でもいた。学校から帰ってきて、かなり多くの量をとって食べていた。「昔はウナギ釣りやら、つけバリして行きよったけんなあ。」堰のところがよく釣れる。今はコイ、フナ、ドンコ、カマツカ、ガネ(方言:カニ)などがいるが、昔に比べてずっと少なくなった。ガネは今でも取れる。「海のガネと違うちから、うまかったい。」(川の)ガネは、ちょっと砂糖醤油につけて、湯がいて食べるという。岩村川上流の平山温泉が開発されたことと、生活排水(特に合成洗剤)によって川が汚れてしまった。「昔は灰で磨きよったばってん、今は洗剤で磨くもんじゃけん、汚うなってしまった。」今は合併浄化槽の設置が進んで、中岩の3分の2の家についている。
中岩の一等田は六地蔵(小字尾畑)、二等田は宮ノ本(小字楮ノ木)、三等田はゴンガサコ(小字二反田)である。以前の米の収穫量は反当5〜7俵だったが、現在では反当7〜9俵作っている。陽の当たり方や土自体のよしあしなどで、反当収量が変わるが、「一番かんじんなところは技術」という言葉には実感がこもっていた。また圃場整備で表土が移動してしまった。「以前、土地を一生懸命肥やそうとする人とそうでなかった人がいたが、肥やした土も、別の場所に行っていたりする。一から肥やさなければならないようなところもあり、元のように収穫を上げるには10年かかる」と深刻な様子であった。かつては二毛作で麦も作っていて、反当4〜5俵取れた。「一生懸命、目のくぼんでまで作りよった。」粉にする小麦を全体の3割、はだか麦を7割作っていた。表の田では麦をどんどんと作っていたが、山のほうの田や湿気の多い田ではまったく作れなかった。今は岩村では作っているところはない。またソバも植えていて、反当1俵半程度取れていた。畑の隅に、自分の家で食べる分しか作っていなかったので、それほどたくさん作っていたわけではなかった。昔は肥料として、小屋で飼っている牛馬の牛糞、馬糞から作った堆肥が使われた。灰は、かまどで薪を燃やして出たのを、主に畑に利用することが多かった。田植えには女も加わって、朝暗いうちから始まる大変な仕事であった。稲は直播きするようなことはなかった。害虫には蛾などがいて、とって学校に出さなければならないこともあった。田に油を流して駆除することもあった。共同作業は「くやく(区役)」といい、道作りや田んぼの消毒などを行なったが、今は草刈を行なうぐらいしかしていない。田植えの後にはさなぼりをして、その後水の取り入れ口に竹筒からお神酒を注ぐ「かけぐり」が行なわれた。田植え歌や早乙女などはあったか聞くと、即座に「はやらなかった」と否定されたので、まったくなかったようだ。
10年ぐらい前、昭和の終わりごろまでは牛を飼っていた。馬を飼っているのはわずかであった。牛が機械の代わりで、農作業をする上で欠かせなかった。普通は各家に1頭で、雌牛を飼った。えさは道や河原の草を取ってきた。牛を歩かせるときのかけ声は「ハエ、ハエ」で、右に進ませるときは「マエ、マエ」、左へは「サシ、サシ」と言った。作業をするときは手綱は2本使い、歩かせるときは1本使うことが多い。雄牛はコッテ牛というが、雌牛は雌牛と言う。雌牛を飼うことが多く、仔を産ませて、競り市で売って現金収入となった。コッテ牛をおとなしくするためにはきんぬき(去勢)をした。馬洗いも牛洗いもあって、岩村川で洗った。夏の暑い日には自分も一緒になって水浴びをした。草は道のくろや、自分の田畑のくろから切ってきて、わらを混ぜることもあった。
●生活
岩地区にガスが来たのは昭和35年ごろで、それまではたきもん(たきぎ)だった。電気は、最初に来たのは大正9年だったが、すべての家庭に行きわたったのは昭和初期ぐらいであった。山の中の家に電気が通ったのはもっと遅かった。電気以前の明かりはカンテラを使っていた。村の共有の山はなかったので、山の持ち主と相談してまきを取ったり、何人かで共同購入することが多かった。上岩の山など、地元の山から切ってくるのがほとんどであった。木の切り出しはほとんど人力で行なっていた。しゅらは切った木を引きずるときに使われた。切った木に金具の輪をつけ綱をくくりつけて引っ張ることを路引きといった。きんま(木馬)というのは聞いたことがないという。中岩のあたりでは川に流して運ぶようなことはなかった。とにかく生活のための現金収入が必要だったので、大きい木は売ってお金にした。炭もよく自分で焼いていた。自家用と、売るための炭を焼き、自家用の炭は掘りごたつや、火鉢などに使った。山を焼いて、焼畑を作るようなことはしていなかった。稲作、麦作、養蚕で生活の大部分をまかなっていた。かご(楮:こうぞ)は畑のくろに作っている。「普段はかご(という)ったい。『かご切り』って言う。」今でも何軒か作って売っている。「昔から畑のくろに植わっとるもん。大事にしよったなあ。」と愛着があるようだった。山栗や、アケビ、しいの実などはよく山から取ってきた。しいは学校から帰ってよく生で食べた。カンネは葛湯にして病気の人に飲ませた。山の幸はほかにぜんまいやわらびなどがあったが、いずれも売ることはなく、自分の家で食べる分だけ取った。
川の毒流しについて聞くと、あまりなじみのなかったことだったのか少し口ごもった。「何かをちょっと川に流して魚を浮かせて取った話は聞きよった。」5,60年前までの話であり、それほど詳しくは知らないようだった。しかしだんだんと、ゲランという毒薬を流して魚を浮かせたという話を思い出したようだった。何のためにそんなことが行なわれたのか聞くと、「毒ば流しとるけ、そんな死んだ魚を食べたら人間も死んでしまう。イタズラ。悪さして毒流しとった。」ということだった。
干し柿はよく作っていて、それも売ってお金にすることがあった。渋柿を取ってつるした。「干して並べとったら、どうしてか一かけ、二かけ少なくなりよった。わっかもん(若者)が取って食べよったっちゃろう。誰が取ったかわからなかった。」干し柿は「かけ(一かけ、二かけ)」で数える。今は昔ほどたくさん作ることはないが、正月に飾ったりするために、いくらか作っている。勝ち栗は自分の家で作ることはほとんどなく、店で買って来ることが多かった。
食べられる野草としてはのびる(野蒜)やぎしぎしがあった。ぎしぎしは、学校から帰ってきてから、ポケットの中に塩を入れて、新芽をとって塩をつけて食べていた。「新芽をもう取ってしまっとったなら、葉ば取って食いよった」そうだ。また桑の実やたらの芽、ふつ(ヨモギ)なども取っていた。
米は、昔は俵に入れて保存していた。4斗入りの俵に、60キロの米を入れた。俵は自分たちで作っていた。兵糧米(自家用の米)を俵に入れて一年間保存していた。ここで自家用の米と、売る米(販米)の話題になった。以前は農協に割り当てられた量の米を供出し、兵糧米が余ったときには一俵でも個人で売ってしまっていたのだという。「ヤミ米ったい」と少し照れるような感じで笑っていた。現在では自由に農家が米を個人販売でき、農協に出す米と自分で売る米の割合は6対4ぐらいである。
種籾は昔はカマスに入れて保存していた。カマスはムシロの両端をしばって袋のようにしたもので、袋にしないときは、ムシロとして、何かを干すときに敷くのに使った。その袋のことを、普段は肥後弁で「まっがい(まっがり)」と言っていた。今は袋に入れて、ネズミの来ないような場所においている。ネズミ対策は、俵と俵の間に杉の枝に差し込んだ。「あれがちくちくするけん、ネズミが入りきらん」ということで行なわれていたという。
米作りの楽しみは、自分の今年の兵糧米ができて、自分の生活費ができたことで、苦しみは、米があまり取れなかった年だった。「少なかった年には、『ああ、今年は正月には何も買われん』て言いよった。少なかったらケンカもあるけん。」苦しかったときのことも懐かしそうに思い出していた。
昔の暖房は、たきぎや炭、火鉢など、火で暖を取っていた。布団で寝るときは湯たんぽを持っていった。
車社会になる前の道は、今の道と、位置はほとんど変わっていない。ただ昔は道幅が狭く、でこぼこしていた。
薬は年に一回、富山から薬売りが売りに来て、それで買っていた。岩村川上流の平山温泉(山鹿市内)に泊まりにくる途中で、村に立ち寄った。「今はもうそんなことしよらんばってん、昔はよう泊まりに来んなはった。それを頼りにしていた。どうでもいかん時は村のお医者さんに行きよった」「子どもんとき嬉しかったもんなあ。風船ば持って、『風船のおじさん来んなはった』って言って。」
鍋ソソクリと呼ばれる人もよく来ていた。鍋や傘をいっぱい積んで、泊り込みで修理した。またそれとは別に人から物をもらって生計を立てて生きている人を指して「かんじん」と言った。「お宮の中に泊まったり、橋の下におんなはったもんなあ。だけん好かんて言いよった。」ほかに外部からは、大牟田方面から魚売りが、海の魚の干物を売りに来ていた。
正月にはお坊さんが観経に来てくれた。お坊さんには米やお餅をあげた。お坊さんの衣を着て杖をつき、「チンチン」と鳴らしながら家々を回っていた。目が見えない人だったか聞くと、よくは分からないがおそらく見えないわけではなかったらしい。「自分たちも生活かかっとるけん、田舎さ回っとったっちゃろな」と考えていた。精神修行の意味もあったようだ。
病気にかかったときは、富山の薬売りから買った薬を飲むか、となり地区の津田にある医者に行って治療を受けた。
普段食べる米には麦を混ぜていた。むしろ麦のほうが多かった。6対4か、7対3くらいの割合で麦のほうが多かったようだ。ムギにも2種類あって、麦をついて押した、おし麦を食べられるのはお金のある人だった。もう一つはついただけのひらかし麦で、混ぜるのは大体こちらであった。麦飯だけでなく、粟飯、こきび飯なども多かった。米飯を食べれるのは盆と正月くらいだった。「お客さんが来たときは米と麦をよせて炊きよらしたけんが、お客さんのほうには米をやって、我が家のほうは麦飯を食いよったもんな」と笑って言った。おかずはほとんど自給でまかなっていた。大豆を自分の家の畑で作り、豆腐、味噌、しょうゆなど何でも作った。こんにゃくも家で作って、買うことはほとんどなかった。自給できないおかずは何だったか聞くと、すぐには思いつかないようで、ずっと考えてから、盆や正月、お客さんが来るときしか買い物に出かけなかったと言った。
青年クラブが2ヶ月に1回程度あり、公民館に集まって青年団の人が映画を見せたり、芝居を見せたりした。20歳から25歳の人が参加していて男だけでなく女もいた。規律は特に厳しくなかったようだ。また上級生からの制裁などもなかった。力比べや腕相撲などでよく遊んだ。遊びで干し柿やすいかを盗むことはしょっちゅうあった。
昔は犬を取って食べることはあったようだ。美味しかったらしい。焼いて食べることはなく、外で火を燃やして炊いて食べた。青年団に、2,3人(犬の)料理の上手な人がいた。「犬がおねしょの薬になるって書いてあるばってん、そがんことは知らんね」と答えてくれた。食べる犬は「飼い犬はちょっとできんけん」、野犬を猟師の人が鉄砲で撃ってつかまえた。
「夜ばい」がこの地区でもあったのを知っていた。いま7,80代の人までがやっていて、昭和30年ごろまであった。笠さんたちよりも上の世代までの話だったようで、あまりなじみのある言葉ではなさそうだった。お祭りのときなどに青年団の何人かが集まって「祭りのごとなりよるけん、あそこのうちさ行こうかち言ってから」一人ずつ夜ばいを決行したが、たいていは失敗に終わることが多かった。よその村から来る青年とけんかをしたことがあるのも、そのくらいの世代の人たちまでのようだった。よその村から遊びにくるわっかもんも結構多かった。「昔は養蚕しにわっかもんが一ヵ所に集められたでしょう。そうすると女の子も寄っとったけん、集まっているところをねらって遊びに来る男もおった。」そういう青年と、村の青年がけんかすることが多かった。
「もやい風呂」というのはあったが、一ヵ所に共同の風呂があったわけではなく、毎日一軒ずつ持ち回りの当番が決められていて、その家の風呂に入りに行った。
中岩ではかつて10月15日に秋祭りが行なわれていた。神楽を出したりして、盛り上がったが、今は行なわれていない。盆踊りは昔はなかったが、今は逆にある。ただ、三加和町の共同でやっているので、中岩で単独で行なっているのではないそうである。
昔は恋愛結婚はあることはあったが、多くはなかった。その場合親の反対を押し切って結婚することが多かった。
農地改革前の小作制度について聞くと、苦しかったときのことを思い出すように話してくれた。小作料がとても高く、反当6俵ほども取られた。村のほとんどの農家は小作農で、地主、大百姓は村に数軒だった。村どうしのあいだに格差のようなものはなく、神社の祭りの参加や運営も平等だった。
戦争は村に影響を与えたのか聞くと、意外にも、そんなには影響はなかった、変わっていないという答えが返ってきた。しかし地区から出征して戦死した人もいるようであった。そのため未亡人になった人も何人かいたようだ。
●これから
今中岩では、村おこしのための活動の計画に、昨年平成15年の8月から取り組んでいるという。他地域の例にもれず、中岩も高齢化が進んでいる。「わっかもんがむこう(都市部)に家を建てて戻ってこんけん減って行くんですったい」と残念そうに話していた。若者が流出しないような里作りをしようと、区長である笠さんを中心に話し合いを進めている。たとえば近年行なわれていなかった秋祭りを復活させようとしていたり、岩村川の堤防に花を植えようとしたりしている。そのことを語ってくれた笠さん夫妻や、老人会長の横手さんの熱心な語り方が印象的だった。